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「幼馴染は家族のようなものだ」と仰いましたので、ご家族として迎え入れて差し上げました ~お義母様が、とても張り切っておられます~

作者: 更田遅筋
掲載日:2026/10/21

「四十分です」


 隣の席から低い声がした。


 ルシアン様が、懐中時計の蓋を閉じるところだった。婚約者の弟君で、十九歳。私より一つ上で、婚約者より一つ下。今夜は兄君の代わりに私を劇場まで送ってくださって、そのまま隣の席に座っておられる。本来は兄君の席だ。


「幕が上がって、四十分です。兄は来ません」


「……ご存じでしたの」


「出がけに、男爵家から使いが来ていましたので」


「それなら、最初に教えてくださればよかったのに」


「兄が来るほうに賭けていました」


 ルシアン様は時計を胸の隠しにしまった。


「四十分で、負けを認めました」


 男爵家というのは、ミレイユ様のお宅だ。開演の間際に届いた婚約者の手紙には、ミレイユが熱を出したので見舞ってから行く、とあった。行く、とあったので、私は待った。そのあいだに、舞台の上の恋人たちは二回出会って、一回別れている。


 ジュリアン様は幕が下りるまで来なかった。ルシアン様もそれきり口を開かず、最後まで舞台を見ておられた。帰りの馬車で一度だけ、「主役の声がよく通っていましたね」と仰った。私の感想もそれで、思わず笑ってしまった。


 翌日、ジュリアン様が伯爵家にいらした。


「昨夜は悪かった。埋め合わせに、次は桟敷を取るよ。一番いい席を」


 ボーモン侯爵家の嫡男で、二十歳。金の髪の、よく笑う方。父と侯爵が決めた婚約で、ヴァラン伯爵家の川港とボーモン家の街道をつなぐための約束だった。嫌だと思ったことはない。最初の一年は、この方が笑うと私も嬉しかった。


 二年目から、ミレイユ様の名前を聞く日が増えた。今年に入ってからは、聞かない週のほうが珍しい。


 春の私の誕生日の晩餐もそうだった。前菜のあとで男爵家の使いが来て、ジュリアン様は「すぐ戻る」と言い残して、魚料理を待たずに席を立った。空いた席の向こうで、ルシアン様が黙々と魚の骨を取っておられたのを覚えている。下げに来た給仕には「兄の分は、厨房の皆さんで」と。


 桟敷より、来てくださるほうが嬉しいのですけれど。そう、少しだけ口にした。


「ミレイユは幼いころに母親を亡くしているんだ。男爵家は内証が苦しくて、頼れる者がいない。熱を出して心細がっているのを、放っておけと言うのか」


 言い分としては立派で、私には返す言葉がなかった。


 ジュリアン様は、困った子どもを見るような顔で首を振った。


「セシル。ミレイユは家族のようなものだ。君が嫉妬するのはおかしい」


「……そうなのですね」


 家族のようなもの、と言われてしまうと、こちらに言えることはあまりない。家族に嫉妬する婚約者は、たしかにおかしい気がする。おかしいのは、私の方なのだろうか。


 その日の午後、ボーモン侯爵家へ伺った。お義母様に呼ばれていたのだ。来週の家族の晩餐の席次を、一緒に決める約束になっている。婚約者として席次を任されるのはこれが最初で、昨夜の劇場でも、本当はそのことばかり考えていた。


 お義母様――侯爵夫人のエレオノール様は、刺繍の間で大きな枠に向かっておられた。


 枠に張ってあるのはボーモン家の家系図で、三代前から少しずつ縫い足してきたものだという。ジュリアン様とルシアン様の名前が、金の糸で一番下に並んでいる。その下は、まだ白い。


「劇場のことは、ルシアンから聞いたわ」


 お義母様は針を動かしたまま仰った。


「ジュリアンは、何と言ったの」


 言われたとおりを申し上げた。家族のようなものだ。君が嫉妬するのはおかしい。


 針が止まった。


「……家族のようなもの、と言ったのね。あの子が、自分の口で」


「はい」


 お義母様は針を布に刺して、こちらへ向き直られた。


「私が注意するたびに、あの子はそう言ってきたの。母上は考えすぎです、ミレイユは家族のようなものですから、って。主人に相談すれば、若い者のことだと言われる。家族だと言い張る者を引き離す理由が、私には見つからなかった」


 卓の上の紙が一枚、私の前に滑ってきた。来週の晩餐の席次表だった。長い卓の絵に、名前を書き入れる欄が並んでいる。ミレイユ様のお名前も、卓の一番端、お義母様の隣の欄に、もうお義母様の字で書いてあった。


「でも、あなたにまでそう言ったのなら、話は別よ。私にだけなら、母と息子の話。婚約者にまで言ったのなら、家と家の話です」


 お義母様が、ペンを差し出した。


「ミレイユさんのお名前の横に、何と書きましょうか。あなたが決めてちょうだい」


 名前の横は空いている。客人なら「客」、親戚なら続き柄を書く欄だ。


 何と書けばいいのかは、知っていた。昨日、ジュリアン様が教えてくださったのだから。


「ジュリアン様が、そう仰いましたので」


 私は欄に二文字を書き入れた。ペン先が少し震えたのは、一画目だけだった。


 家族。


 お義母様は席次表を取り上げて、しばらく私の字を眺めておられた。それから、にっこりなさった。


「では、そのとおりにいたしましょう」


 棚の引き出しから銀の糸の束が出てきて、針に通されていく。何を縫うおつもりなのか、私はまだ知らない。ただ、お義母様のあんなに楽しそうなお顔を、私はそれまで見たことがなかった。


◆


 ――ジュリアン・ド・ボーモンが最初に違和感を覚えたのは、翌週の家族の晩餐だった。


 母がミレイユを招いたと聞いて、ジュリアンは素直に嬉しかった。母はこれまでミレイユにどこか冷たく、会えば挨拶はするがそれ以上のことはしなかった。その母が、自分から晩餐に呼んだのだ。ようやく分かってくれたと思った。


 食堂に入ると、ミレイユはもう母の隣に座っていた。


 長い卓の、父の側の端がジュリアンの席で、隣にはセシルが座る。ミレイユの席は反対の端だった。声を張らなければ届かない。


「バスティアン」


 白髪の執事が、席次表を手にしてすぐにやって来た。


「ミレイユの席が遠い。こちらへ移してくれ」


「恐れながら、ご家族の席でございます」


 差し出された席次表の、ミレイユの名前の横に「家族」とある。母の字ではない。几帳面な、右上がりの字。


 隣でセシルが、ナプキンを膝に広げていた。


「ご家族は、奥様のお隣と決まっております。ジュリアン様のお隣は、ご婚約者様のお席でございますので」


「それは、そうだが」


「ご家族でございますので」


 バスティアンは一礼して下がっていった。


 卓の向こうでは、母がミレイユにスープの匙の持ち方を直している。家族なのだから、侯爵家の作法を覚えていただかないと。ミレイユの笑顔がだんだん固くなっていくのが、遠目にも分かった。


 父は黙ってスープを飲んでいる。父はいつも黙っている。


 弟のルシアンが一度、懐中時計を出した。何を測っているのか、ジュリアンは訊いたことがない。


 食後、母が刺繍の間に皆を呼んだ。


 枠には家系図が張られていた。ジュリアンとルシアンの名前が並ぶきょうだいの段の端に、新しい銀の糸で、名前が一つ増えている。


 ミレイユ・ラフォン。


 その下に、小さな字で続きがあった。


 ――娘のようなもの


「母上、これは」


「家族のようなもの、なのでしょう?」


 母は出来栄えを確かめるように、銀の糸を指でなぞった。


「本当は娘と縫いたかったのだけれど、それでは男爵がお困りでしょう。だから、のようなもの、まできちんと縫っておいたわ。三日かかったのよ。『の』の丸いところが難しくて」


 ミレイユは家系図の前から動かなかった。


 ジュリアンは何か言おうとして、言葉に詰まった。母は、自分の言ったとおりのことをしただけだ。間違いを指させるところが、どこにもない。


 帰りがけ、玄関でミレイユに袖を引かれた。


「……ねえ。話が違うわ」


「何がだ」


「家族なんて言うからよ」


 それだけ言って、ミレイユは男爵家の馬車に乗り込んだ。


 セシルを伯爵家の馬車まで送りながら、ジュリアンは訊いた。


「席次表の字は、君か」


「はい」


「なぜ、あんなことを書いた」


「ジュリアン様が、そう仰いましたので」


 セシルは、いつもの穏やかな顔でこちらを見上げた。責めている顔ではない。少なくとも、ジュリアンにはそう見えた。


「家族のようなもの、と。ですから、家族と書きました。……違いましたでしょうか」


 違う、とは言えなかった。言えば、先週自分が言ったことを、今日取り消すことになる。


「いや。違わない」


 セシルは「よかった」と言って、馬車に乗った。


 ミレイユの言う「話が違う」とは、何のことなのか。その夜、ジュリアンはなかなか寝つけなかった。


 次の週、母は画家を呼んだ。


 家族の肖像画を描かせるのだという。ボーモン家では十年ごとに描かせていて、前の一枚はジュリアンが十二のときのものだ。まだ十年経っていません、と言うと、母は「家族が増えたのだから」と答えた。


 大広間の窓辺に、椅子が三脚並べられた。真ん中に父、右に母、左にミレイユ。ジュリアンとルシアンはその後ろに立つ。


 画家は絵筆を口にくわえたまま、両手の指で四角を作り、その四角の中から五人を眺めた。


「兄上様。妹君の肩に、手を」


「……妹ではない」


「失礼いたしました。妹君のような方の肩に、手を」


 ミレイユの肩に手を置いた途端、その肩がこわばったのが掌に伝わってきた。ジュリアンの手も、落ち着く場所を探している。幼いころから何度も触れてきた肩が、兄の手として置くと、知らない人のもののように硬い。


「もう少し、自然に。ご兄妹らしく」


 日が傾くまで座らされた。途中でミレイユが「少し休ませてください」と言うと、母は「家族の肖像は、皆そうして描かれてきたのよ」と返した。父は一度も動かなかった。父はいつも動かない。


 ルシアンが懐中時計を出しかけて、画家に睨まれた。


 最後に、画家が満足そうに絵筆を下ろした。


「よく似ておいでですね、ご兄妹」


「似ていない」


「いえ、似ておいでです。困ったときのお顔が」


 ミレイユが横を向いた。


 仕上がった肖像画は、大広間の階段の上に掛けられた。来月の夜会の客が、最初に目にする場所だ。


 掛けられた日の午後、ジュリアンが刺繍の間を覗くと、ミレイユが母の隣で針を持っていた。


 白い布に、自分の名前を縫わされているのだった。家族の娘なら、自分の名前くらい自分で縫えないと。母がそう言ったらしい。ミレイユの針目は大きく、ところどころ糸が浮いている。母はそれを一目ずつ指でたどり、浮いたところに来ると、黙って鋏で切った。切られた糸を、ミレイユはもう一度通した。


「ジュリアン。あなたもいらっしゃい。妹の手習いを見てあげなさい」


 入れば、兄として隣に座ることになる。


「……仕事が残っていますので」


 扉を閉める前に、ミレイユがこちらを見た気がした。


 その次の週、男爵がジュリアンを訪ねてきた。


 ラフォン男爵は小柄な人で、ジュリアンの前に座るなり額の汗をハンカチで拭いた。秋の半ばの、涼しい日だった。


「ジュリアン様。このたびは、まことに、まことにありがとう存じます」


「……何の話でしょう」


「侯爵夫人が、ミレイユの縁談をお世話くださいまして」


 懐から出てきたのは、釣書の束だった。


「ご家族として、良いお相手を探してくださると。持参金も家族のことだからと侯爵家でご用意くださって、お相手からは支度金まで。うちのような家には、もったいないお話ばかりで」


 一番上の釣書には、北の国境のロシュ伯爵、とあった。三十歳。


「ミレイユは、まだ十九です。こんな、急に」


「ええ、ですから、ありがたいのです。ジュリアン様も、ミレイユのことは家族のようなものだと、いつも仰ってくださっていたと伺いました。家族のようなものでしたら、兄上様のようなものでございましょう。兄上様にも、喜んでいただけると」


 男爵はまた汗を拭いて、嬉しそうに笑った。


 ジュリアンは釣書を置いて、母の部屋へ向かった。


「母上。ミレイユに縁談など、まだ早すぎます」


「あら。家族の縁談を家族が探すのは、当たり前でしょう」


 母は家系図の枠に向かったまま答えた。


「あなたは兄のようなものなのだから、喜んであげなさい。ロシュ伯は、よい方よ。熊のように大きくて、熊のように優しいの。北は遠いけれど」


「遠すぎます」


「家族が遠くへ嫁ぐのは、寂しいものね」


 母が、糸を切った。


「でも、家族とはそういうものよ」


 違う、と言いかけた。ミレイユは家族ではない、と。


 言えば、自分がずっと言ってきたことの反対になる。それを今ここで口にしたら、何を認めることになるのか。そこまで考えて、ジュリアンは考えるのをやめた。


 来月の秋の夜会までに、何とかすればいい。


 何とかする方法を持ってきたのは、ミレイユだった。


 夜会の数日前、男爵家の庭の四阿で、ミレイユはジュリアンを待っていた。顔色は悪かったが、熱はなかった。


「北の伯爵なんて、雪しかないところよ」


 ジュリアンの顔を見る前に、ミレイユはそう言った。


「お父様は、借金の半分が消えるって喜んでいるわ。断れるわけがないでしょう」


「母上には、私から話す」


「話して、何て言うの。家族じゃありません、って?」


 ジュリアンは黙った。


 ミレイユの手が、膝の上で手袋を握りしめている。


「……ずっと、待ってたのよ。あなたがいつか、セシル様との婚約を解いてくれると思って。だから、家族みたいなものって言われても黙ってた。そう言っておけば、誰も文句を言えないから」


 そんなふうに思われていたのか、とは思わなかった。思わなかった自分に、ジュリアンは驚いた。


「夜会の最初の一曲を、私と踊って」


「最初の一曲は、婚約者と踊るものだ」


「だからよ。婚約者じゃない人と踊れば、皆分かるわ。分かれば、セシル様のほうから身を引くでしょう。あの方は、そういう方よ。あなたは何も言わなくていい。踊るだけでいいの」


 何も言わなくていい。


 ジュリアンは頷いた。踊るだけなら、自分の口から何かを取り消さずに済む。母にも、父にも、セシルにも。


◆


 ボーモン侯爵家の秋の夜会には、二百人が招かれていた。


 始まる前、控えの間で、ミレイユ様と二人きりになった。


 鏡の前で髪飾りを直していたら、後ろから声をかけられたのだ。


「家族、と書いたのはあなたなのね」


 鏡の中で、ミレイユ様が私を見ていた。晩餐の席次表を、どこかで見たのだろう。


「はい」


「意地の悪い方」


「ジュリアン様が、そう仰いましたので」


「あの人が言ったことなら、何でもそのとおりにするの?」


 正直に答えた。


「三年、そうしてまいりました。それに先日、おかしいのは私の方だと言われましたので」


 ミレイユ様は何か言い返そうとして、口を閉じた。鏡の中の顔が、一瞬ひどく幼く見えた。熱を出すたびにジュリアン様を呼んでいたのは、この顔なのだと思う。


「……あなたのそういうところ、嫌いよ」


「存じております」


 ミレイユ様は手袋を引き直しかけて、やめた。それきり何も言わずに、控えの間を出ていった。


 招待状を書いたのはお義母様で、名簿に後からロシュ伯の名前が足されていたことを、私は当日になって知った。


 ロシュ伯は、本当に熊のように大きな方だった。お義母様への挨拶を済ませると、広間の隅にミレイユ様を見つけて、大きな体を精一杯小さくして会釈をなさった。ミレイユ様は扇の陰に顔を隠した。


 階段の上の肖像画の前では、来る客が皆、足を止めていく。


 私もルシアン様と並んで見上げた。侯爵ご夫妻の左にミレイユ様が座り、その肩にジュリアン様の手が載っている。兄の手というより、置き場所に困った手に見えた。


「三時間でした」


 ルシアン様が、時計を出さずに仰った。


「描かれているあいだ、兄は一度も妹の顔を見ませんでした。……妹のような方の顔を」


 絵の中のルシアン様は、ジュリアン様の後ろで、時計の鎖が気になって仕方がないような顔をしている。私は俯いて、笑いをこらえた。


 広間の向こうで、ジュリアン様とミレイユ様が小声で何か話しておられた。


 最初の曲が始まる前に、ジュリアン様が広間の中央へ出ていらした。


 婚約者のいる殿方が最初の一曲を誰と踊るか、皆が見ている。私は手を出す支度をした。


 ジュリアン様は、私の前を通り過ぎた。


 ミレイユ様の前で止まって、手を差し出す。


 広間が、静かになった。


 その静けさの中で、どこかの伯爵夫人がよく通る声で仰った。


「まあ。ご兄妹で最初の一曲を。仲がよろしいのね」


 あちこちで扇が開いた。


 ご兄妹。お義母様がこの一か月、お茶会のたびに「娘のようなものができましたの」と話して回っていらしたことを、私はあとで知った。社交界では、ミレイユ様はもうボーモン家の娘のようなものになっていた。


 ロシュ伯が、ゆっくりと近づいてきた。二人の前に立ち、大きな体を折って深く頭を下げる。


「ジュリアン殿。お噂はかねがね。ミレイユ嬢の兄上のような方と伺っております。この先、義兄上とお呼びしてもよろしいでしょうか」


 ジュリアン様の手が、ミレイユ様の手から離れた。


「……違う」


「は」


「ミレイユは妹ではない! 家族などではない!」


 今度こそ、広間が静まり返った。楽団の弓が途中で止まる。


 その中を、お義母様がゆっくりと歩いていらした。息子の前で立ち止まって、首を傾ける。


「では、なんですの?」


 ジュリアン様は答えなかった。


 答えれば、ミレイユ様と過ごしてきた日々が何だったのかを、二百人の前で言うことになる。私との約束が消えた日のことも、全部。


「十秒です」


 いつの間にか、ルシアン様が私の隣にいた。懐中時計の蓋が開いている。


「兄が、何も言えなかった時間です」


 ロシュ伯が、大きな手で頭を掻いた。それからミレイユ様のほうを向いて、困ったように笑った。


「家族でないのでしたら、なおさら、私がいただいても構いませんな」


 ミレイユ様はロシュ伯を見上げ、それからジュリアン様を見た。


 ジュリアン様は、まだ黙っている。


 ミレイユ様は扇を閉じて、ロシュ伯の差し出した腕に手を置いた。泣きそうにも、ほっとしたようにも見える顔をしていた。


 楽団が、思い出したように最初の曲を始めた。


 その一曲を、私はルシアン様と踊った。ルシアン様は踊りがあまりお上手ではなく、何度か私の足を踏みかけては寸前で止まり、そのたびに「失礼」と小さく仰った。私は数えなかった。数えるのは、この方の役目だから。


 夜会が終わりかけたころ、露台でお義母様に呼び止められた。


 手すりにもたれて、暗い庭を見ておられる。この一か月の楽しそうなお顔ではなかった。


「やりすぎたかしら」


 私は、少し考えてから答えた。


「家族、と書いたのは私です、お義母様」


 お義母様が、こちらを向いた。


「ですから、半分は私の分です」


 しばらく、お義母様は何も仰らなかった。


「……あの子が今夜言わなければ、あなたは来年も再来年も、劇場で四十分待っていたわ」


「はい」


「それだけは、嫌だったの」


 手すりから体を起こすと、もういつものお顔に戻っておられた。


「さ、戻りましょう。ロシュ伯に、北の熊の話を伺わなくては」


◆


 侯爵――お義父様に書斎へ呼ばれたのは、夜会の三日後だ。


 伯爵家の父と私を前にして、お義父様は窓の外を見たまま、短く仰った。


「三年前に、私が言うべきだった」


 お義母様が隣で、黙って頷いておられた。


 ジュリアン様は、東の領地の端にある代官所へ、見習いとして二年行くことになった。嫡男の座はルシアン様に移る。自分の言葉の責任を三年取らず、二百人の前でも取れなかった者に、家は預けられない。


 両家の婚約は家同士の約束で、まだ残っている。残った約束をどうするか、お義父様は私にお訊きになった。


 すぐには答えられなかった。


 書斎を出ると、廊下の窓辺にルシアン様が立っておられた。手に懐中時計がある。


「劇場で、四十分と申し上げました」


「はい」


「婚約の日から、ずっと測っていました。十一時間と少しになります」


「……毎回、測っていらしたの?」


「私が居合わせた日だけです」


 居合わせた日。春の誕生日の晩餐も、たぶんその中に入っている。


「あなたが兄を待っておられた時間です」


 ルシアン様は、時計を私の手のひらに載せた。古い銀の時計で、蓋の縁が擦れて光っている。


「次は、測らなくていいようにします」


 十一時間と少し。私自身は数えていなかった。数えていなかったものを、隣で数えていた人がいた。


「……主役の声が、よく通っていましたね」


 そう言うと、ルシアン様は一瞬きょとんとして、それから初めて声を出して笑った。


 笑いが収まるのを待って、私は時計の蓋を閉じ、お返しした。お預かりするには、まだ少し早い気がした。


 翌日、もう一度お義父様の書斎を訪ねて、約束はこのまま残してください、と申し上げた。相手の名前の欄は、書き直していただくことになる。お義父様は、それにも「そうか」とだけお答えになった。扉の外で聞いておられたらしいお義母様が、出てきた私の手に、刺繍糸の束を一つ握らせた。金の糸だった。


 ジュリアン様が東へ発つ前の日、伯爵家にいらした。


 約束の時刻ちょうどだった。婚約してから、たぶん初めてのことだ。


 客間で、ジュリアン様は座らずに頭を下げた。


「すまなかった」


「何に対して、でございますか」


 意地の悪い訊き方だったかもしれない。ジュリアン様はしばらく黙って、顔を上げないまま答えた。


「ミレイユは家族だと、自分に言い聞かせていた。そう言っておけば、誰も何も言えなかった。母上も、君も。……言えなくなっていたのは、私も同じだった」


 存じておりました、と言えたら、少しは格好がついたのだと思う。けれど、私は知らなかった。


「おかしいのは自分の方だと、ずっと思っておりました。席次表に家族と書いたとき、ペン先が震えました。震えたのは、一画目だけでした」


 ジュリアン様が、顔を上げた。


 何か言いかけて、やめて、もう一度頭を下げて、帰っていかれた。


 玄関まで見送ったのは、兄君に付き添ってきていたルシアン様だ。戻ってきたルシアン様の手には、時計があった。


「兄は、今日は時間どおりでした」


「はい」


「……遅すぎますね」


 ルシアン様が蓋を閉じた。私は笑った。笑ってよかったのかどうかは、いまだに決めかねている。


 ミレイユ様は、冬の初めに北へ嫁いでいった。ロシュ伯から届いた最初の手紙には、雪の中で熊を見てミレイユが喜んでいた、とあったそうだ。お義母様は、その手紙を何度も読み返しては笑っておられた。最後に、ミレイユ様ご本人の字で一行だけ添えてある。


 ――雪は、思ったより悪くありません。


 見せていただいたその一行は、右に傾いた、急いで書いたような字だった。


 春になって、刺繍の間に呼ばれた。


 途中で通った大広間の肖像画は、画家がもう一度呼ばれて描き直されていた。ミレイユ様の座っていた椅子には、いまは大きな花瓶が置いてある。ジュリアン様の手は、その花瓶の縁に載っている。手だけは、どうしても消せなかったのだそうだ。


 家系図の枠は、新しく張り直してあった。ミレイユ様の名前は銀の糸ごと丁寧にほどかれ、ルシアン様の名前の隣、夫婦を結ぶ二重線の先に、まだ何も縫われていない白い場所がある。


「あなたの名前には、のようなもの、はつけませんからね」


 お義母様は、針を私に差し出した。


「ご自分でどうぞ。あの金の糸で」


 書斎の前で握らされた金の糸は、あれからずっと私の裁縫箱に入っている。針に通して、二重線の先の白い場所に、一針目を刺した。


 私の針目は大きく、ところどころ糸が浮いた。お義母様はそれを一目ずつ指でたどって、浮いたところに来ても、鋏は持たなかった。


「そのうち揃うわ。家族の名前は、皆そうして縫われてきたのよ」


 最後の一針を通して、顔を上げたときに気づいた。一番下の段、ジュリアン様の名前のすぐ下に、小さな字が縫い足されている。


 灰色の糸で、こうあった。


 ――(反省中)


「二年経ったら、ほどいてあげるわ」


 お義母様は、針を布に刺した。


「たぶんね」


(了)

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― 新着の感想 ―
なんかミレーユがそれなりに幸せになりそうでムカつく
お義母様がお茶目で可愛かったぁ! ジュリアンが何したいのかさっぱり分からないね。モテていたかったんですかね。アホだなぁ。ルシアンのいちいち時間をはかるなはウザいけど、初期からイライラしてたんだなぁと!…
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