「幼馴染は家族のようなものだ」と仰いましたので、ご家族として迎え入れて差し上げました ~お義母様が、とても張り切っておられます~
「四十分です」
隣の席から低い声がした。
ルシアン様が、懐中時計の蓋を閉じるところだった。婚約者の弟君で、十九歳。私より一つ上で、婚約者より一つ下。今夜は兄君の代わりに私を劇場まで送ってくださって、そのまま隣の席に座っておられる。本来は兄君の席だ。
「幕が上がって、四十分です。兄は来ません」
「……ご存じでしたの」
「出がけに、男爵家から使いが来ていましたので」
「それなら、最初に教えてくださればよかったのに」
「兄が来るほうに賭けていました」
ルシアン様は時計を胸の隠しにしまった。
「四十分で、負けを認めました」
男爵家というのは、ミレイユ様のお宅だ。開演の間際に届いた婚約者の手紙には、ミレイユが熱を出したので見舞ってから行く、とあった。行く、とあったので、私は待った。そのあいだに、舞台の上の恋人たちは二回出会って、一回別れている。
ジュリアン様は幕が下りるまで来なかった。ルシアン様もそれきり口を開かず、最後まで舞台を見ておられた。帰りの馬車で一度だけ、「主役の声がよく通っていましたね」と仰った。私の感想もそれで、思わず笑ってしまった。
翌日、ジュリアン様が伯爵家にいらした。
「昨夜は悪かった。埋め合わせに、次は桟敷を取るよ。一番いい席を」
ボーモン侯爵家の嫡男で、二十歳。金の髪の、よく笑う方。父と侯爵が決めた婚約で、ヴァラン伯爵家の川港とボーモン家の街道をつなぐための約束だった。嫌だと思ったことはない。最初の一年は、この方が笑うと私も嬉しかった。
二年目から、ミレイユ様の名前を聞く日が増えた。今年に入ってからは、聞かない週のほうが珍しい。
春の私の誕生日の晩餐もそうだった。前菜のあとで男爵家の使いが来て、ジュリアン様は「すぐ戻る」と言い残して、魚料理を待たずに席を立った。空いた席の向こうで、ルシアン様が黙々と魚の骨を取っておられたのを覚えている。下げに来た給仕には「兄の分は、厨房の皆さんで」と。
桟敷より、来てくださるほうが嬉しいのですけれど。そう、少しだけ口にした。
「ミレイユは幼いころに母親を亡くしているんだ。男爵家は内証が苦しくて、頼れる者がいない。熱を出して心細がっているのを、放っておけと言うのか」
言い分としては立派で、私には返す言葉がなかった。
ジュリアン様は、困った子どもを見るような顔で首を振った。
「セシル。ミレイユは家族のようなものだ。君が嫉妬するのはおかしい」
「……そうなのですね」
家族のようなもの、と言われてしまうと、こちらに言えることはあまりない。家族に嫉妬する婚約者は、たしかにおかしい気がする。おかしいのは、私の方なのだろうか。
その日の午後、ボーモン侯爵家へ伺った。お義母様に呼ばれていたのだ。来週の家族の晩餐の席次を、一緒に決める約束になっている。婚約者として席次を任されるのはこれが最初で、昨夜の劇場でも、本当はそのことばかり考えていた。
お義母様――侯爵夫人のエレオノール様は、刺繍の間で大きな枠に向かっておられた。
枠に張ってあるのはボーモン家の家系図で、三代前から少しずつ縫い足してきたものだという。ジュリアン様とルシアン様の名前が、金の糸で一番下に並んでいる。その下は、まだ白い。
「劇場のことは、ルシアンから聞いたわ」
お義母様は針を動かしたまま仰った。
「ジュリアンは、何と言ったの」
言われたとおりを申し上げた。家族のようなものだ。君が嫉妬するのはおかしい。
針が止まった。
「……家族のようなもの、と言ったのね。あの子が、自分の口で」
「はい」
お義母様は針を布に刺して、こちらへ向き直られた。
「私が注意するたびに、あの子はそう言ってきたの。母上は考えすぎです、ミレイユは家族のようなものですから、って。主人に相談すれば、若い者のことだと言われる。家族だと言い張る者を引き離す理由が、私には見つからなかった」
卓の上の紙が一枚、私の前に滑ってきた。来週の晩餐の席次表だった。長い卓の絵に、名前を書き入れる欄が並んでいる。ミレイユ様のお名前も、卓の一番端、お義母様の隣の欄に、もうお義母様の字で書いてあった。
「でも、あなたにまでそう言ったのなら、話は別よ。私にだけなら、母と息子の話。婚約者にまで言ったのなら、家と家の話です」
お義母様が、ペンを差し出した。
「ミレイユさんのお名前の横に、何と書きましょうか。あなたが決めてちょうだい」
名前の横は空いている。客人なら「客」、親戚なら続き柄を書く欄だ。
何と書けばいいのかは、知っていた。昨日、ジュリアン様が教えてくださったのだから。
「ジュリアン様が、そう仰いましたので」
私は欄に二文字を書き入れた。ペン先が少し震えたのは、一画目だけだった。
家族。
お義母様は席次表を取り上げて、しばらく私の字を眺めておられた。それから、にっこりなさった。
「では、そのとおりにいたしましょう」
棚の引き出しから銀の糸の束が出てきて、針に通されていく。何を縫うおつもりなのか、私はまだ知らない。ただ、お義母様のあんなに楽しそうなお顔を、私はそれまで見たことがなかった。
◆
――ジュリアン・ド・ボーモンが最初に違和感を覚えたのは、翌週の家族の晩餐だった。
母がミレイユを招いたと聞いて、ジュリアンは素直に嬉しかった。母はこれまでミレイユにどこか冷たく、会えば挨拶はするがそれ以上のことはしなかった。その母が、自分から晩餐に呼んだのだ。ようやく分かってくれたと思った。
食堂に入ると、ミレイユはもう母の隣に座っていた。
長い卓の、父の側の端がジュリアンの席で、隣にはセシルが座る。ミレイユの席は反対の端だった。声を張らなければ届かない。
「バスティアン」
白髪の執事が、席次表を手にしてすぐにやって来た。
「ミレイユの席が遠い。こちらへ移してくれ」
「恐れながら、ご家族の席でございます」
差し出された席次表の、ミレイユの名前の横に「家族」とある。母の字ではない。几帳面な、右上がりの字。
隣でセシルが、ナプキンを膝に広げていた。
「ご家族は、奥様のお隣と決まっております。ジュリアン様のお隣は、ご婚約者様のお席でございますので」
「それは、そうだが」
「ご家族でございますので」
バスティアンは一礼して下がっていった。
卓の向こうでは、母がミレイユにスープの匙の持ち方を直している。家族なのだから、侯爵家の作法を覚えていただかないと。ミレイユの笑顔がだんだん固くなっていくのが、遠目にも分かった。
父は黙ってスープを飲んでいる。父はいつも黙っている。
弟のルシアンが一度、懐中時計を出した。何を測っているのか、ジュリアンは訊いたことがない。
食後、母が刺繍の間に皆を呼んだ。
枠には家系図が張られていた。ジュリアンとルシアンの名前が並ぶきょうだいの段の端に、新しい銀の糸で、名前が一つ増えている。
ミレイユ・ラフォン。
その下に、小さな字で続きがあった。
――娘のようなもの
「母上、これは」
「家族のようなもの、なのでしょう?」
母は出来栄えを確かめるように、銀の糸を指でなぞった。
「本当は娘と縫いたかったのだけれど、それでは男爵がお困りでしょう。だから、のようなもの、まできちんと縫っておいたわ。三日かかったのよ。『の』の丸いところが難しくて」
ミレイユは家系図の前から動かなかった。
ジュリアンは何か言おうとして、言葉に詰まった。母は、自分の言ったとおりのことをしただけだ。間違いを指させるところが、どこにもない。
帰りがけ、玄関でミレイユに袖を引かれた。
「……ねえ。話が違うわ」
「何がだ」
「家族なんて言うからよ」
それだけ言って、ミレイユは男爵家の馬車に乗り込んだ。
セシルを伯爵家の馬車まで送りながら、ジュリアンは訊いた。
「席次表の字は、君か」
「はい」
「なぜ、あんなことを書いた」
「ジュリアン様が、そう仰いましたので」
セシルは、いつもの穏やかな顔でこちらを見上げた。責めている顔ではない。少なくとも、ジュリアンにはそう見えた。
「家族のようなもの、と。ですから、家族と書きました。……違いましたでしょうか」
違う、とは言えなかった。言えば、先週自分が言ったことを、今日取り消すことになる。
「いや。違わない」
セシルは「よかった」と言って、馬車に乗った。
ミレイユの言う「話が違う」とは、何のことなのか。その夜、ジュリアンはなかなか寝つけなかった。
次の週、母は画家を呼んだ。
家族の肖像画を描かせるのだという。ボーモン家では十年ごとに描かせていて、前の一枚はジュリアンが十二のときのものだ。まだ十年経っていません、と言うと、母は「家族が増えたのだから」と答えた。
大広間の窓辺に、椅子が三脚並べられた。真ん中に父、右に母、左にミレイユ。ジュリアンとルシアンはその後ろに立つ。
画家は絵筆を口にくわえたまま、両手の指で四角を作り、その四角の中から五人を眺めた。
「兄上様。妹君の肩に、手を」
「……妹ではない」
「失礼いたしました。妹君のような方の肩に、手を」
ミレイユの肩に手を置いた途端、その肩がこわばったのが掌に伝わってきた。ジュリアンの手も、落ち着く場所を探している。幼いころから何度も触れてきた肩が、兄の手として置くと、知らない人のもののように硬い。
「もう少し、自然に。ご兄妹らしく」
日が傾くまで座らされた。途中でミレイユが「少し休ませてください」と言うと、母は「家族の肖像は、皆そうして描かれてきたのよ」と返した。父は一度も動かなかった。父はいつも動かない。
ルシアンが懐中時計を出しかけて、画家に睨まれた。
最後に、画家が満足そうに絵筆を下ろした。
「よく似ておいでですね、ご兄妹」
「似ていない」
「いえ、似ておいでです。困ったときのお顔が」
ミレイユが横を向いた。
仕上がった肖像画は、大広間の階段の上に掛けられた。来月の夜会の客が、最初に目にする場所だ。
掛けられた日の午後、ジュリアンが刺繍の間を覗くと、ミレイユが母の隣で針を持っていた。
白い布に、自分の名前を縫わされているのだった。家族の娘なら、自分の名前くらい自分で縫えないと。母がそう言ったらしい。ミレイユの針目は大きく、ところどころ糸が浮いている。母はそれを一目ずつ指でたどり、浮いたところに来ると、黙って鋏で切った。切られた糸を、ミレイユはもう一度通した。
「ジュリアン。あなたもいらっしゃい。妹の手習いを見てあげなさい」
入れば、兄として隣に座ることになる。
「……仕事が残っていますので」
扉を閉める前に、ミレイユがこちらを見た気がした。
その次の週、男爵がジュリアンを訪ねてきた。
ラフォン男爵は小柄な人で、ジュリアンの前に座るなり額の汗をハンカチで拭いた。秋の半ばの、涼しい日だった。
「ジュリアン様。このたびは、まことに、まことにありがとう存じます」
「……何の話でしょう」
「侯爵夫人が、ミレイユの縁談をお世話くださいまして」
懐から出てきたのは、釣書の束だった。
「ご家族として、良いお相手を探してくださると。持参金も家族のことだからと侯爵家でご用意くださって、お相手からは支度金まで。うちのような家には、もったいないお話ばかりで」
一番上の釣書には、北の国境のロシュ伯爵、とあった。三十歳。
「ミレイユは、まだ十九です。こんな、急に」
「ええ、ですから、ありがたいのです。ジュリアン様も、ミレイユのことは家族のようなものだと、いつも仰ってくださっていたと伺いました。家族のようなものでしたら、兄上様のようなものでございましょう。兄上様にも、喜んでいただけると」
男爵はまた汗を拭いて、嬉しそうに笑った。
ジュリアンは釣書を置いて、母の部屋へ向かった。
「母上。ミレイユに縁談など、まだ早すぎます」
「あら。家族の縁談を家族が探すのは、当たり前でしょう」
母は家系図の枠に向かったまま答えた。
「あなたは兄のようなものなのだから、喜んであげなさい。ロシュ伯は、よい方よ。熊のように大きくて、熊のように優しいの。北は遠いけれど」
「遠すぎます」
「家族が遠くへ嫁ぐのは、寂しいものね」
母が、糸を切った。
「でも、家族とはそういうものよ」
違う、と言いかけた。ミレイユは家族ではない、と。
言えば、自分がずっと言ってきたことの反対になる。それを今ここで口にしたら、何を認めることになるのか。そこまで考えて、ジュリアンは考えるのをやめた。
来月の秋の夜会までに、何とかすればいい。
何とかする方法を持ってきたのは、ミレイユだった。
夜会の数日前、男爵家の庭の四阿で、ミレイユはジュリアンを待っていた。顔色は悪かったが、熱はなかった。
「北の伯爵なんて、雪しかないところよ」
ジュリアンの顔を見る前に、ミレイユはそう言った。
「お父様は、借金の半分が消えるって喜んでいるわ。断れるわけがないでしょう」
「母上には、私から話す」
「話して、何て言うの。家族じゃありません、って?」
ジュリアンは黙った。
ミレイユの手が、膝の上で手袋を握りしめている。
「……ずっと、待ってたのよ。あなたがいつか、セシル様との婚約を解いてくれると思って。だから、家族みたいなものって言われても黙ってた。そう言っておけば、誰も文句を言えないから」
そんなふうに思われていたのか、とは思わなかった。思わなかった自分に、ジュリアンは驚いた。
「夜会の最初の一曲を、私と踊って」
「最初の一曲は、婚約者と踊るものだ」
「だからよ。婚約者じゃない人と踊れば、皆分かるわ。分かれば、セシル様のほうから身を引くでしょう。あの方は、そういう方よ。あなたは何も言わなくていい。踊るだけでいいの」
何も言わなくていい。
ジュリアンは頷いた。踊るだけなら、自分の口から何かを取り消さずに済む。母にも、父にも、セシルにも。
◆
ボーモン侯爵家の秋の夜会には、二百人が招かれていた。
始まる前、控えの間で、ミレイユ様と二人きりになった。
鏡の前で髪飾りを直していたら、後ろから声をかけられたのだ。
「家族、と書いたのはあなたなのね」
鏡の中で、ミレイユ様が私を見ていた。晩餐の席次表を、どこかで見たのだろう。
「はい」
「意地の悪い方」
「ジュリアン様が、そう仰いましたので」
「あの人が言ったことなら、何でもそのとおりにするの?」
正直に答えた。
「三年、そうしてまいりました。それに先日、おかしいのは私の方だと言われましたので」
ミレイユ様は何か言い返そうとして、口を閉じた。鏡の中の顔が、一瞬ひどく幼く見えた。熱を出すたびにジュリアン様を呼んでいたのは、この顔なのだと思う。
「……あなたのそういうところ、嫌いよ」
「存じております」
ミレイユ様は手袋を引き直しかけて、やめた。それきり何も言わずに、控えの間を出ていった。
招待状を書いたのはお義母様で、名簿に後からロシュ伯の名前が足されていたことを、私は当日になって知った。
ロシュ伯は、本当に熊のように大きな方だった。お義母様への挨拶を済ませると、広間の隅にミレイユ様を見つけて、大きな体を精一杯小さくして会釈をなさった。ミレイユ様は扇の陰に顔を隠した。
階段の上の肖像画の前では、来る客が皆、足を止めていく。
私もルシアン様と並んで見上げた。侯爵ご夫妻の左にミレイユ様が座り、その肩にジュリアン様の手が載っている。兄の手というより、置き場所に困った手に見えた。
「三時間でした」
ルシアン様が、時計を出さずに仰った。
「描かれているあいだ、兄は一度も妹の顔を見ませんでした。……妹のような方の顔を」
絵の中のルシアン様は、ジュリアン様の後ろで、時計の鎖が気になって仕方がないような顔をしている。私は俯いて、笑いをこらえた。
広間の向こうで、ジュリアン様とミレイユ様が小声で何か話しておられた。
最初の曲が始まる前に、ジュリアン様が広間の中央へ出ていらした。
婚約者のいる殿方が最初の一曲を誰と踊るか、皆が見ている。私は手を出す支度をした。
ジュリアン様は、私の前を通り過ぎた。
ミレイユ様の前で止まって、手を差し出す。
広間が、静かになった。
その静けさの中で、どこかの伯爵夫人がよく通る声で仰った。
「まあ。ご兄妹で最初の一曲を。仲がよろしいのね」
あちこちで扇が開いた。
ご兄妹。お義母様がこの一か月、お茶会のたびに「娘のようなものができましたの」と話して回っていらしたことを、私はあとで知った。社交界では、ミレイユ様はもうボーモン家の娘のようなものになっていた。
ロシュ伯が、ゆっくりと近づいてきた。二人の前に立ち、大きな体を折って深く頭を下げる。
「ジュリアン殿。お噂はかねがね。ミレイユ嬢の兄上のような方と伺っております。この先、義兄上とお呼びしてもよろしいでしょうか」
ジュリアン様の手が、ミレイユ様の手から離れた。
「……違う」
「は」
「ミレイユは妹ではない! 家族などではない!」
今度こそ、広間が静まり返った。楽団の弓が途中で止まる。
その中を、お義母様がゆっくりと歩いていらした。息子の前で立ち止まって、首を傾ける。
「では、なんですの?」
ジュリアン様は答えなかった。
答えれば、ミレイユ様と過ごしてきた日々が何だったのかを、二百人の前で言うことになる。私との約束が消えた日のことも、全部。
「十秒です」
いつの間にか、ルシアン様が私の隣にいた。懐中時計の蓋が開いている。
「兄が、何も言えなかった時間です」
ロシュ伯が、大きな手で頭を掻いた。それからミレイユ様のほうを向いて、困ったように笑った。
「家族でないのでしたら、なおさら、私がいただいても構いませんな」
ミレイユ様はロシュ伯を見上げ、それからジュリアン様を見た。
ジュリアン様は、まだ黙っている。
ミレイユ様は扇を閉じて、ロシュ伯の差し出した腕に手を置いた。泣きそうにも、ほっとしたようにも見える顔をしていた。
楽団が、思い出したように最初の曲を始めた。
その一曲を、私はルシアン様と踊った。ルシアン様は踊りがあまりお上手ではなく、何度か私の足を踏みかけては寸前で止まり、そのたびに「失礼」と小さく仰った。私は数えなかった。数えるのは、この方の役目だから。
夜会が終わりかけたころ、露台でお義母様に呼び止められた。
手すりにもたれて、暗い庭を見ておられる。この一か月の楽しそうなお顔ではなかった。
「やりすぎたかしら」
私は、少し考えてから答えた。
「家族、と書いたのは私です、お義母様」
お義母様が、こちらを向いた。
「ですから、半分は私の分です」
しばらく、お義母様は何も仰らなかった。
「……あの子が今夜言わなければ、あなたは来年も再来年も、劇場で四十分待っていたわ」
「はい」
「それだけは、嫌だったの」
手すりから体を起こすと、もういつものお顔に戻っておられた。
「さ、戻りましょう。ロシュ伯に、北の熊の話を伺わなくては」
◆
侯爵――お義父様に書斎へ呼ばれたのは、夜会の三日後だ。
伯爵家の父と私を前にして、お義父様は窓の外を見たまま、短く仰った。
「三年前に、私が言うべきだった」
お義母様が隣で、黙って頷いておられた。
ジュリアン様は、東の領地の端にある代官所へ、見習いとして二年行くことになった。嫡男の座はルシアン様に移る。自分の言葉の責任を三年取らず、二百人の前でも取れなかった者に、家は預けられない。
両家の婚約は家同士の約束で、まだ残っている。残った約束をどうするか、お義父様は私にお訊きになった。
すぐには答えられなかった。
書斎を出ると、廊下の窓辺にルシアン様が立っておられた。手に懐中時計がある。
「劇場で、四十分と申し上げました」
「はい」
「婚約の日から、ずっと測っていました。十一時間と少しになります」
「……毎回、測っていらしたの?」
「私が居合わせた日だけです」
居合わせた日。春の誕生日の晩餐も、たぶんその中に入っている。
「あなたが兄を待っておられた時間です」
ルシアン様は、時計を私の手のひらに載せた。古い銀の時計で、蓋の縁が擦れて光っている。
「次は、測らなくていいようにします」
十一時間と少し。私自身は数えていなかった。数えていなかったものを、隣で数えていた人がいた。
「……主役の声が、よく通っていましたね」
そう言うと、ルシアン様は一瞬きょとんとして、それから初めて声を出して笑った。
笑いが収まるのを待って、私は時計の蓋を閉じ、お返しした。お預かりするには、まだ少し早い気がした。
翌日、もう一度お義父様の書斎を訪ねて、約束はこのまま残してください、と申し上げた。相手の名前の欄は、書き直していただくことになる。お義父様は、それにも「そうか」とだけお答えになった。扉の外で聞いておられたらしいお義母様が、出てきた私の手に、刺繍糸の束を一つ握らせた。金の糸だった。
ジュリアン様が東へ発つ前の日、伯爵家にいらした。
約束の時刻ちょうどだった。婚約してから、たぶん初めてのことだ。
客間で、ジュリアン様は座らずに頭を下げた。
「すまなかった」
「何に対して、でございますか」
意地の悪い訊き方だったかもしれない。ジュリアン様はしばらく黙って、顔を上げないまま答えた。
「ミレイユは家族だと、自分に言い聞かせていた。そう言っておけば、誰も何も言えなかった。母上も、君も。……言えなくなっていたのは、私も同じだった」
存じておりました、と言えたら、少しは格好がついたのだと思う。けれど、私は知らなかった。
「おかしいのは自分の方だと、ずっと思っておりました。席次表に家族と書いたとき、ペン先が震えました。震えたのは、一画目だけでした」
ジュリアン様が、顔を上げた。
何か言いかけて、やめて、もう一度頭を下げて、帰っていかれた。
玄関まで見送ったのは、兄君に付き添ってきていたルシアン様だ。戻ってきたルシアン様の手には、時計があった。
「兄は、今日は時間どおりでした」
「はい」
「……遅すぎますね」
ルシアン様が蓋を閉じた。私は笑った。笑ってよかったのかどうかは、いまだに決めかねている。
ミレイユ様は、冬の初めに北へ嫁いでいった。ロシュ伯から届いた最初の手紙には、雪の中で熊を見てミレイユが喜んでいた、とあったそうだ。お義母様は、その手紙を何度も読み返しては笑っておられた。最後に、ミレイユ様ご本人の字で一行だけ添えてある。
――雪は、思ったより悪くありません。
見せていただいたその一行は、右に傾いた、急いで書いたような字だった。
春になって、刺繍の間に呼ばれた。
途中で通った大広間の肖像画は、画家がもう一度呼ばれて描き直されていた。ミレイユ様の座っていた椅子には、いまは大きな花瓶が置いてある。ジュリアン様の手は、その花瓶の縁に載っている。手だけは、どうしても消せなかったのだそうだ。
家系図の枠は、新しく張り直してあった。ミレイユ様の名前は銀の糸ごと丁寧にほどかれ、ルシアン様の名前の隣、夫婦を結ぶ二重線の先に、まだ何も縫われていない白い場所がある。
「あなたの名前には、のようなもの、はつけませんからね」
お義母様は、針を私に差し出した。
「ご自分でどうぞ。あの金の糸で」
書斎の前で握らされた金の糸は、あれからずっと私の裁縫箱に入っている。針に通して、二重線の先の白い場所に、一針目を刺した。
私の針目は大きく、ところどころ糸が浮いた。お義母様はそれを一目ずつ指でたどって、浮いたところに来ても、鋏は持たなかった。
「そのうち揃うわ。家族の名前は、皆そうして縫われてきたのよ」
最後の一針を通して、顔を上げたときに気づいた。一番下の段、ジュリアン様の名前のすぐ下に、小さな字が縫い足されている。
灰色の糸で、こうあった。
――(反省中)
「二年経ったら、ほどいてあげるわ」
お義母様は、針を布に刺した。
「たぶんね」
(了)
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