一分間
──カチ、カチ
静かな部屋にキーボードの音だけが響く。画面の右下にあるタイマーは、まもなく1分を迎えるところだった。
電子の海に打ち出された文字を数えてみる。ぴったり、38文字。
「やっぱり、このくらいになっちゃうな」
僕は苦笑いしながら、少し冷めたコーヒーをすすった。
世間では1分間に100文字だの、200文字だの、速さばかりがもてはやされる。ビジネス書を開けば「タイピング速度を2倍にする方法」なんて見出しが躍っている。
でも、僕が書きたいのは報告書でも、誰かを急かすメールでもない。小説だ。
38文字。原稿用紙でいえば、たったの2行にも満たない。でも、その38文字を決めるために、僕の頭の中では何百もの言葉が生まれては消えている。
「彼女は悲しそうに微笑んだ」これじゃあ安っぽい。
「彼女の唇の両端が、頼りなく上を向いた。それはまるで、今にも消えてしまいそうな三日月のようだった」これなら、彼女の寂しさが伝わるだろうか。
そんな風に推敲を重ねていると、どうしても1分間に38文字が限界になる。
──ピロンッ
机の上のスマホが鳴った。画面には、同じように小説家を目指す友人からのメッセージ。『調子はどう? 俺は今日、1時間で4000字書いたよ!』
4000字。僕のペースなら、1時間ぶっ続けで叩いても2300字程度だ。そもそも、1時間も集中力が続くわけがない。
一瞬、焦りのようなものが胸をよぎる。
僕はスマホを伏せ、再び画面のカーソルに目を戻した。ゆっくりと深呼吸をする。僕の38文字には、僕が迷った時間が詰まっている。
主人公の涙の理由を考えた時間、雨の匂いを思い出そうとした時間、一番ぴったりな「青」を辞書で探した時間。
速さなんて、関係ない。
この38文字のなかに、ひとつの世界が確かに息づいているなら、それでいい。
──カチ
僕は次の1分間に向けて、新しい1文字をそっと打ち込んだ。




