ハーン戦記 アケラ河畔の戦い
アケリア王国王子ハーン=マッセリアがアケリア城を取り戻し、新王に即位してから、一ヶ月。負けたデュラウス王国の第一王子、トマス=ヴァウスは、弟、ステルス=ヴァウスを殺された報復にと、兵をアケリアに再び差し向けた。その数四万。
「いよいよ来たわね、デュラウス王国の軍勢が……」
ハーンの小さい時からの遊び友達だった、マリア=クラウディウスが、真剣な表情でそう言った。漆黒の髪、黒い瞳は彼女が、アケリア王国の主要民族である、イクソニア人であることを表わしている。ちょっと切れ長の瞳が魅力的な女性だ。
「セギ公国からの援軍はもちろん来るでしょうなぁ」
そう言ったのはかつての黒髪も白くなった、老将ガイナ=ヴァッサール。
セギ公カイル=オーランは、ハーンの幼なじみ。ハーンの妹、エレナを妻に娶っている。つまりは姻戚関係だ。ハーンはマリア、カイル、エレナとは子供の頃からよく遊んでいた。もちろんそれを懐かしむ余裕も今は無い。
(アケリア城奪回の時……僕はモディール神の啓示を受けた。そして妖精の助けもあって見事アケリア城を取り戻すことに成功した……セギの騒動の時も、アケリア城奪回のときも、僕は賭けに成功してきた……そして今回もまた人生の賭けだ)
セギの騒動とはセギ公国の大臣オルティズ=ナルビクがデュラウス王国と通じて、セギ公国を乗っ取ろうとした事件だ。
人生はギャンブルの連続だという人もいる。ハーンはこの戦いの後も人生の賭けを行うことになるだろう。
さて。
ハーンは2万の軍勢を率いてアケリア城から、アケラ川の南岸に陣を敷いた。
神暦一五一四年、五月。コンティエント大陸南部、かつての大アケリア王国のあった地域の再統一のための戦いが始まろうとしていた。そもそも、デュラウス王国とは民族も宗教も違う。詳しく書くと長くなるので端折るが、このコンティエント大陸ではハーン神(ハーン王の名前の由来)を信仰する、イクソニア人と、レダ神を信仰するマダール人の争いが絶えなかった。実はこの事はコンティエント大陸に限らず、東のユーエン大陸でも似たようなことが起こっているのだが……。
神暦一四〇〇年ごろから、かつて、コンティエント大陸南部全域を支配していた大アケリア王国が力を弱め、群雄割拠の時代となっている。民族紛争、宗教紛争も激しさを増していた。
☆
ハーンは悩んでいた。兵力では負けている。という事だ。あちらはアケラ川北岸に陣を敷いている。そして問題なのが、あちらはアケラ川の水運を取り仕切る、オルボア党が見方についているということ。こちらも何か策を講じなければならない。
「ブハラ騎兵……」
「は?」
ハーンの言葉にガイナが聞き返す。
ブハラ騎兵とはアケラ川から北にある、ブハラ砂漠の狩猟民族の事を指している。
「ブハラ騎兵が味方に付けられれば、ということだよ、ガイナ将軍」
「なるほど、しかしあやつらは状況次第でどこの勢力にも付く奴等ですから……」
「余が説得に行くよ」
ハーンの言葉にガイナは顔色を変えた。
「それはなりませぬ! 陛下が自ら出るようなことではありませんぞ。もし陛下に何かあれば……」
「動くべき時に動かなかったら、神はこちらに味方しないよ、ガイナ将軍。余……いや僕は今こそ動くべきだと思っている。渡河の準備をしておいて、将軍。その戦いの隙にブハラ騎兵にデュラウスの本陣を突いてもらう。いいね?」
ハーンはきっぱり言ってのけた。これも人生の賭けだ。神が味方しようとしまいとハーンは行動しようと思っていた。
「私も……行く!」
マリアがハーンに随行を申し出る。
「マリア……うん、分かった、昔からそうだったね、マリアは」
少数精鋭の騎兵を率いて、ハーンはマリアと夜陰に紛れてアケラ川を渡った。
☆
精悍そうな顔つきの髭を生やしたブハラ族の族長がハーンの目の前に座っている。
バルバル=カレード。
疾風の如く移動するブハラ騎兵はこの男によって、率いられている。
「まさか、アケリア王自ら来るとは思わなかったな」
バルバルは苦笑しながら言った。
「で、援軍に来て欲しいとの事だったな、しかし、ここでお主の首を斬ってデュラウスのトマスに贈ってもいいのだぞ?」
その言葉にマリアが激高した。
「貴様っ……」
「まあ待って」
ハーンはマリアをなだめる。
「明日一日だけでいい、兵を貸して欲しいんだ」
ハーンがそう懇願する。
「一日だけ? 本当にそれでいいのか?」
バルバルは怪訝な顔でハーンに尋ねた。
「それだけの時間があればデュラウスを破れる」
ほう、とバルバルは感心した。
(アケリア王ハーンか、なかなか腹が据わった男よ)
「面白い」
バルバルはハーンに味方することに決めた。
「デュラウスからも使者が来ておってな、我々の味方をしてくれと。しかしトマス自らはさすがに来なかったな。そこがお主と彼奴の差だな。分かった。おぬしに味方しよう。とりあえず、今夜はここで休むといい」
ハーンは使者を一人、アケラ川南岸の本陣に送る。明日正午を以って渡河作戦を始めよ、と。
「本当にここで寝るの?」
マリアの質問にハーンは頷いた。
☆
ブハラ族の村で。
夜明け間近。マリアは眠れないでいた。そこに起きてきたハーンがやってきた。
「マリア、眠れないのかい?」
「うん……色々不安で……」
戦を控えた身としては当然だろう。ハーンは四時間くらいは寝ていたのだが。
「……大丈夫。戦には必ず勝つよ」
それでも。
マリアにとってハーンに何かあることが一番心配だった。ハーンはマリアにとって本当に大きな存在なのだ。
「男の人って……こういう状態になると本当に強いのね。私も慣れたつもりだったけど……」
「マリア……君の人生を僕に賭けてみないかい……?」
ハーンが言い出したことにマリアは驚いた。
「それって……」
「この戦が終わったら僕と結婚してほしい」
顔が赤らむのがマリアには自分でも分かった。
「私なんて身分の人が……畏れ多いです」
「そんなの関係ないよ。どうせ一度はアケリア王家は滅んだも同じなんだし」
マリアの目から涙が溢れてくる。マリアもハーンが好きだった。しかし、その気持ちを抑えていたのだ。
「勝つよ、必ず。だから僕と一緒になろう?」
ハーンはマリアを優しく抱き寄せてキスをした。
結婚も人生の賭け。戦も人生の賭け。
その夜。
ハーンとマリアは初めて一つになった。
☆
戦端は既に開かれていた。もちろん兵力に勝り、オルボア党がついている、デュラウス王国軍が有利だ。しかし。
「見事にがら空きだな……」
バルバルが呟く。
ハーンも勝ったと思った。
デュラウスの本陣は見事にがら空き。優勢と見たトマスは本陣の守りを手薄にしてしまったのだ。
その後の展開は……。
本陣が襲われたと知ったトマスは愚かにも逆にアケリア王国本陣を取ろうとした。しかし、ハーンに手抜かりはない。あらかじめ本陣に長弓兵を配備していたのだ。一斉射撃によって、次々と倒れていくデュラウス兵。さらに本陣を取られたせいで士気はがた落ちしていた。あとは一方的な殺戮だ。
トマスの運が良かったのは、オルボア党がついていたこと。船に乗って、川を遡り、本国に落ち延びていった。
これが有名なアケラ川の会戦の顛末である。
☆
それから、一月が過ぎ……。
アケリア王宮では華やかな結婚式が開かれていた。もちろんマリアとハーンの結婚式だ。
マリアの心は満たされていた。ハーンの心ももちろん満たされていた。
これからも彼らの前には様々な苦難が待ち受けているだろう。この話はアケリア再統一史のほんの一幕にすぎない。ハーンの孫、ジェミニ=マッセリアによるパクス=アケリアーナの訪れまで……。