運命の子。選ばれし兄。
第二話
水の色をした日常
世界は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
あの夜から、いくつもの月が巡った。
リオン・リヴァイアは、まだ言葉を持たない。
だが、世界の音を覚える速度だけは、他の子よりも少し早かった。
石畳を踏む、重たい足音。
鱗が擦れる、乾いた音。
尾が地を打つ、低い振動。
龍族の集落では、それらが当たり前の朝の音だった。
家々は石で造られている。
それは文化というより、必要に近い。
龍族の身体は重く、力も強い。
木造の家は、彼らにとっては脆すぎた。
朝になると、戦士たちは外に出る。
青や灰の鱗が朝日に照らされ、鈍く光る。
角の形は一人ひとり異なり、
それぞれの系譜や年齢を静かに示していた。
水龍の系譜の角は、波を打つような曲線を描く。
鋭さよりも、流れを思わせる形。
争いより、受け止めることを選んできた血だ。
リオンは、母の腕に抱かれながら、その光景を眺めていた。
泣くことはほとんどなく、
ただ、じっと目で追っている。
「……よく見ているわね」
エリシア・リヴァイアスが、小さく微笑んだ。
翠の髪が風に揺れ、長い耳がわずかに動く。
「怖くはないのか」
隣で、ヴァルド・リヴァイアスが低く問う。
二メートルを超える巨体。
全身を覆う濃い青の鱗。
片眼には、古い傷が残っている。
だが、その声は穏やかだった。
「怖がる必要がないと、分かっているのよ」
エリシアはそう言って、リオンの背を軽く撫でる。
赤子の体は、ほんのりと水色を帯びていた。
鱗はまだ薄いが、確かに水龍の色をしている。
ヴァルドは、その色から一瞬だけ視線を外した。
「……珍しいな」
誇りでも警戒でもない。
ただ、事実を確認するような声だった。
水龍の系譜でも、
ここまで淡く澄んだ色を持つ者は少ない。
まして、エルフの血を引いた子では、ほとんど例がなかった。
「期待しすぎないで」
エリシアは静かに言った。
「この子は、この子の速さで育つわ」
ヴァルドは答えなかった。
だが、その隻眼は、再び我が子へと戻る。
集落の外れでは、戦士たちが訓練をしていた。
武器を持つ者もいれば、素手の者もいる。
龍族にとって戦いは特別な行為ではない。
生きるための、技術の一つだった。
その輪の中心に、ひときわ目を引く存在がいる。
レオン・リヴァイアス。
成人の儀を終えて間もない青年。
だが、その動きに迷いはなかった。
人の肌に、ところどころ浮かぶ翠の鱗。
父譲りの角と尾。
翠と濃い青が並ぶ、異なる色の瞳。
相手が何人いようと、動きは変わらない。
一歩踏み込み、
受け止め、流し、崩す。
力はある。
だが、力に振り回されていない。
「……やはり、次元が違うな」
見ていた戦士の一人が、思わず漏らす。
誰も否定しなかった。
この村で、レオンに正面から勝てる者はいない。
それは噂ではなく、事実だった。
訓練が終わると、レオンは輪を抜け、
家の方角を見る。
赤子を抱いた母と、その隣に立つ父。
その腕の中で、リオンは眠っていた。
「……弟」
レオンは小さく呟く。
守るべきものだと、
言葉にするほどの考えはない。
ただ、そう感じているだけだった。
そのとき、年長の龍族が、ふと呟く。
「……水の色が、濃い」
誰に向けたとも分からない声。
だが、ヴァルドはそれを聞き逃さなかった。
「そうかもしれん」
短く返す。
それ以上は語らない。
リオンはまだ、何も知らない。
血の意味も、期待も、世界の重さも。
ただ静かに息をし、
水色の体で、今日という一日を生きていた。
そして、誰も気づかぬ場所で、
世界は、わずかに軋み始めていた。




