竜の芽吹き。物語の始まり。
第二話
竜の眼が開く夜
世界は、その夜、静かだった。
山裾に広がる龍族の集落は、いつもと変わらぬ姿をしていたが、
不思議なほど音がなかった。
風は穏やかで、石造りの家々に灯る明かりも揺れない。
まるで集落そのものが、息を潜めているかのようだった。
その中心に建つ一軒の家。
厚い石壁と高い天井を持つ、リヴァイアス家の住まいで、
ひとつの命が、今まさに生まれようとしていた。
産声は、泣き声というより、吐息に近かった。
爆ぜる炎でも、雷鳴でもない。
深く、長く、世界に溶けていくような呼吸。
その瞬間、家の外で見張りについていた龍族たちは、
理由も分からぬまま背筋を正した。
「……今の、感じたか」
誰かが小さく呟く。
返事はなかったが、否定もなかった。
家の中では、
エリシア・リヴァイアスが赤子を胸に抱いていた。
細い身体。
長い耳。
翠の髪が額に張りついている。
疲労は確かにあったが、
その翠の瞳に浮かんでいたのは、不安ではなかった。
「……この子」
掠れた声で呟き、赤子を見下ろす。
赤子の瞳は閉じられている。
それでも、閉じた瞼の奥に、
澄んだ水色の気配が宿っていることを、彼女は感じ取っていた。
「泣かないのではないわ」
静かに言う。
「世界を……感じているの」
少し離れた場所で、
ヴァルド・リヴァイアスが立っていた。
水龍の系譜に連なる龍族の戦士。
この集落を束ねる一族の長。
屈強な身体には幾多の戦の痕が刻まれているが、
今はただ、その大きな手がわずかに震えていた。
「……静かすぎる」
低い声が、室内に落ちる。
エリシアは頷いた。
魔力ではない。
血の力でもない。
水が大地を巡り、
森を育て、
命を循環させる、その理そのもの。
「……リオンだ」
ヴァルドは名を告げた。
「この子の名は、リオン」
赤子の胸が、ゆっくりと上下する。
そのとき――
外から、はっきりとした声が届いた。
「レオンだ!」
「成人の儀、完了した!」
扉が開き、夜気が流れ込む。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
レオン・リヴァイアス。
今しがた、龍族としての成人を迎えたばかりの男。
背は高く、肩幅は広い。
身体には傷があるが、どれも致命には至っていない。
――それは、負けてこなかった証だった。
「父、母」
一礼し、そして赤子へと視線を落とす。
その表情が、わずかに柔らぐ。
「……弟か」
レオンは膝をつき、そっと赤子の手を包み込んだ。
小さな指が、反射的に握り返す。
「……強くなるな、こいつ」
断言するように、静かに言う。
村の誰もが知っていた。
この若さで、すでに村最強。
次代を担う存在。
だからこそ、その言葉に、異を唱える者はいなかった。
ヴァルドは黙って頷き、
エリシアは小さく微笑んだ。
「ええ」
「この子は、竜の血を引き、
森に見守られている」
その夜、誰にも知られぬまま、
ひとつの視線が下界を掠めた。
神界の彼方。
龍神は、ほんの一瞬だけ、その命を見つめる。
祝福ではない。
救済でもない。
ただ、選択。
「……生き残れ」
それだけを残し、視線は去った。
赤子はまだ何も知らない。
期待も、誇りも、やがて訪れる炎の夜も。
ただ、水色の瞳を閉じたまま、
世界の中心で、静かに息をしていた。




