七話目 森の呼吸、そして命の響き
原蓮翠です。
自分が書ける最大限の表現力を詰め込みました。
みてくれると幸いです。
夜明けは、音ではなく、光と空気の質感の変化によって訪れた。
深い海の底にいるような藍色の闇に、東の空から、ごく微かな乳白色が滲み始める。それはまるで、巨大な和紙の上に落とされた一滴の墨が、ゆっくりと、そして確実にその領域を広げていく様に似ていた。その光の侵食と呼応するように、部屋を満たしていたひんやりと静的な空気が、生命の予兆とも言うべき微かな対流を始めた。窓の外の森が、永い眠りから覚め、その巨大な肺で最初の呼吸を始めたかのように。
僕は、畳の上に敷かれた布団の中で、その気配のほぼ全てを肌で感じていた。眠りは浅かった。しかし、それは決して不快なものではなく、むしろ意識のすぐ裏側で、まだ見ぬ森の響きへの期待。それが、静かな興奮となって途切れることなく続いていたからだ。この身体が、この魂が、夜の間もずっと、森の心臓の鼓動に耳を澄ませていたかのようだった。
ゆっくりと身体を起こし、障子窓を細く開ける。流れ込んできたのは、昨日よりもさらに密度を増した、湿った土と植物の匂いだった。それは単なる香りではない。この土地が何億年もかけて醸成してきた、生命そのもののエキスとでも言うべき、濃密な気配。僕はその空気を、身体の隅々まで行き渡らせるように、深く、静かに吸い込んだ。まるで、肺が、緑色に染まっていくような錯覚。
旅館の老婆が用意してくれた、素朴だが、どこか懐かしく、そして温かい朝食をいただく。焼き魚、出汁の効いた味噌汁、つやつやと輝く白米。その一つ一つが、僕の身体に確かな熱とエネルギーを供給してくれた。食事を終え、昨夜のうちにパッキングし直しておいたリュックを背負う。そのずっしりとした重みが、今日という一日の意味を、改めて僕に告げていた。これは、単なるハイキングではない。僕の物語が、僕の世界が、新しい響きを求めて踏み出す、最初の一歩なのだ。
帳場で、老婆に身振り手振りで「行ってきます」と告げると、彼女は「気をつけて」とでも言うように、深く刻まれた皺をさらに深くして、優しく微笑んでくれた。その笑顔に背中を押されるように、僕は宿の古びた引き戸を開け、外の世界へと足を踏み出した。
森の入り口は、宿から歩いてすぐの場所にあった。そこには、人間の世界と、遥かに壮大であり、巨大で、遥かに永い時間が流れる世界とを隔てるかのように、一本の注連縄が張られた鳥居が、静かに佇んでいた。それは、ここから先が聖域であることを示す、厳かな結界。僕は一度立ち止まり、軽く頭を下げた。これから足を踏み入れるこの場所への、そして、この星が奏でる音楽への、深い敬意を込めて。
鳥居をくぐった瞬間、空気が再び変わった。それは、水の中に足を踏み入れた時のように、肌で感じられる明確な変化だった。気温が、数度下がったように感じる。そして、これまで僕の周りを包んでいた「満たされた静寂」が、さらに純度を増し、まるで音響効果を計算し尽くされたコンサートホールのような、完璧な響きの空間へと変貌したのだ。
一歩、また一歩と、苔むした石畳の遊歩道を進んでいく。僕の足音だけが、この荘厳な静寂の中に、異物のように響いているように感じられた。だが、それも数分歩くうちに、森の響きの中に溶け込み、吸収されていく。まるで僕という存在が、この巨大な生命体の、些細な一部になっていくプロセスのようだ。
見上げれば、幾重にも重なった木々の枝葉が、空を緑色の天蓋となって覆っていた。そこから差し込む太陽の光は、直接的な光線ではなく、無数の葉に濾過され、乱反射を繰り返すことで、まるで緑色のオーロラのように、空間全体を幻想的に満たしている。光にさえ、響きがある。そう、直感的に感じた。それは、きめ細かく、そして優しく肌を震わせる、高周波の振動。生命を育む、暖かな波動だ。
僕は、視覚から入ってくる情報と同じくらい、足の裏から伝わってくる感覚に集中していた。スニーカーの薄いソールを通して、湿った土の柔らかさ、その下に隠れた木の根の硬さ、落ち葉が堆積した絨毯のような弾力が、克明に伝わってくる。地面は、決して平坦な一枚岩ではない。それは、無数の生命の営みが絡み合い、呼吸し、脈打つ、生きた皮膚なのだ。その皮膚の下を、絶え間なく流れる地下水の気配さえ、感じられるような気がした。
しばらく歩くと、道の脇を、清らかな水の流れが寄り添うように現れた。そのせせらぎは、僕が今まで感じてきたどんな水の響きとも違っていた。それは、ただ流れているのではない。苔むした岩を舐め、小さな窪みで渦を巻き、植物の根を洗い、そしてまた合流する。その一つ一つの動きが、それぞれ固有の微細な振動を生み出し、それらが複雑に絡み合うことで、一つの豊かなハーモニーを奏でている。僕は思わずその流れのそばに屈み込み、指先を浸してみた。突き刺すような冷たさ。その冷たさそのものが、この森の純粋さを凝縮した、一つの「音」のように感じられた。
この森では、全てのものが音楽だった。風が枝葉を揺らす音、光が苔を照らす音、水が岩を洗う音、そして、僕自身の心臓が鼓動する音。それら全てが、誰に聴かせるでもなく、ただそこに存在している。ありのままの姿で、完璧な調和を保ちながら。
僕は、この旅に出る前、自分の物語が行き詰まっていると感じていた。詩織さんが教えてくれた「響き」を、頭の中だけでこねくり回し、借り物の言葉で表現しようとしていた。しかし、今、この場所に立って、その傲慢さを恥じていた。僕がやろうとしていたのは、この壮大な交響曲を、四畳半の部屋で無理やり再現しようとするような、あまりにも滑稽な試みだったのだ。
本当にすべきことは、再現ではない。"翻訳"だ。それも、僕という不完全なフィルターを通して、僕だけの言葉に。そのためには、まず、この響きに自分自身の全ての身を委ね、僕自身がこの交響曲の、一つの音符になる必要があった。
道は次第に険しくなり、石畳は途切れ、獣道のような細い登り坂に変わった。息が上がる。リュックの重みが、肩にずっしりと食い込んでくる。しかし、不思議と苦しくはなかった。僕の身体が発する疲労の響きさえも、この森の音楽の一部として、受け入れられているような感覚があったからだ。
そして、どれくらい登っただろうか。それまで僕の耳元で囁くようだった水の響きが、次第にその音量を増し、やがて、地面そのものを揺るがすほどの、荘厳な重低音へと変わっていった。僕は、その響きの発生源へと、吸い寄せられるように足を速めた。
最後の曲線を曲がった瞬間、僕は、完全に言葉を失った。
目の前に、巨大な滝が、圧倒的なまでの迫力で流れ落ちていた。これは、昨日、インターネットの画面で見た光景と一緒だ。しかし、そこで感じたものは、今、僕が全身で浴びているこの「響き」の、ほんの序章に過ぎなかった。
それは、暴力的なまでのエネルギーの奔流だった。莫大な量の水が、数十メートルの高さから、寸断されることなく一枚の白い布となって滑り落ち、翠玉の滝壺を、凄まじい力で叩きつけている。その衝撃は、僕が立っている地面を、そして僕の骨の髄までを、絶え間なく、力強く震わせていた。
顔を上げると、滝壺から巻き上げられた水飛沫が、霧となって僕の全身に降り注いだ。冷たく、そして清浄な水の粒子。それは、僕という存在の表面に付着した、都会の喧騒や、創作の苦悩や、対人関係の迷いといった、あらゆる不純物を洗い流していくかのようだった。
これが、地球の呻き声。僕が想像していた、地球という惑星の響きそのものだった。チェロが奏でた森の夜明けの、何百倍も、いや、何千倍も、根源的で、巨大な響き。それはもはや、美しいとか、荘厳だとかいう、陳腐な言葉で表現できるものではなかった。ただ、圧倒的な「存在」そのものだった。僕は、その前にひれ伏すかのように、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
しばらくの間、その響きを無心で浴び続けていた。ふと、僕は滝の脇にある、巨大な倒木に目をやった。おそらく、何十年も、あるいは百年以上も前に、嵐か何かで倒れたのだろう。その幹は、今では一面、ビロードのような深い緑色の苔に覆われ、そこから新しい世代のシダや、名も知らぬ小さな草花が、力強く芽吹いている。
その光景を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が、僕の脳天を貫いた。
――そうか。この森の音楽は、ただ美しいだけではないのか。
この圧倒的な生命力の奔流である滝のすぐそばで、この巨大な木は、その命を終え、静かに朽ち果てていこうとしている。しかし、その「死」は、決して終わりではなかった。その"死体"は、次の世代の生命を育むための、豊かで完璧な土壌となっている。生と死が、破壊と再生が、ここで、完璧な円環を描いている。
僕が今まで見てきたのは、この森の交響曲の、美しいメロディラインだけだったのかもしれない。だが、その下には、この倒木が奏でるような、あまりにも低く、そして静かで、しかし決して途切れることのない、死と腐敗の通奏低音が、常に流れ続けているのだ。そして、その二つが合わさって初めて、この森の、本当の音楽が完成する。
僕の、聴こえないという欠落。僕が自分の周りに築いてきた、孤独な壁。それらは、僕の人生における「倒木」だったのかもしれない。僕はそれを、ただの欠点であり、失われたものだとばかり思っていた。しかし、違ったのだ。その静寂と孤独という土壌があったからこそ、詩織さんの言葉が、葵の優しさが、新しい生命の種となって、僕の中で芽吹くことができたのではないか。僕の過去は、僕の欠落は、決して無意味ではなかった。それは、僕だけの物語を奏でるために、必要であり、不可欠な響きだったのだ。
クジラが探していた「満月の光みたいな音」。それは、ただ一つの美しいメロディのことではなかったのかもしれない。広大で暗い海の底という、死にも似た静寂があって初めて、その一筋の光が、希望の音色として響き渡る。光と闇、生と死、響きと静寂。その両方があって初めて、世界は、物語は、音楽になる。
僕は、ゆっくりと滝から少し離れた、陽だまりになった岩の上に腰を下ろした。リュックから、僕の分身であるノートパソコンを取り出す。滝の響きが、心地よい重低音として背中を震わせる。僕は、昨日書き始めた、新しい物語のファイルを開いた。
――森は、一つの巨大な心臓だった。
その一文に続く、新しい言葉が、もう僕の中には満ちていた。それは、もはや僕一人の頭の中から生まれた言葉ではなかった。この森が、この星が、僕の指を通して紡がせる言葉だった。
その心臓は、ただ生を謳歌する鼓動だけを刻んでいるのではなかった。その脈動の裏側には、常に、朽ち果てていくもののための、静かで荘厳な鎮魂歌が流れている。倒れた巨木は、その身を苔や菌類に捧げ、やがては土に還る。その過程で奏でられる、分解と発酵の微細な響き。それは、新しい命が芽吹くための、最も優しく、最も力強い序曲なのだ。森の静寂とは、音の不在ではない。生と死の響きが、完璧な均衡をもって溶け合った、究極の調和の状態を指す言葉だった。
指が、止まらなかった。今まで感じていた、言葉への不信感や、表現へのもどかしさが、嘘のように消え去っていた。僕の言葉は、ようやく、僕の身体が感じた世界と、完全に一つになったのだ。
どれくらいの時間が経ったのか、気づけば、太陽は西の空に大きく傾き、森の緑は、夕陽を浴びて燃えるような黄金色に輝いていた。僕は書き上げた数ページの文章を、何度も、何度も読み返した。そこには、僕がこの場所で体感した「響き」の、ほんの断片かもしれないが、不完全であるかも知れないが、それでも確かな手触りを持った、僕自身の言葉があった。
パソコンを閉じ、リュックにしまう。帰り道、僕は行きの時よりも、さらに深く、森の響きを感じ取ることができた。僕という異物は、完全にこの森の一部として、その呼吸と一体化していた。
宿に戻り、温泉で冷えた身体を温める。窓の外には、満天の星空が広がっていた。街の光に邪魔されることのない、本物の星の輝き。その一つ一つの瞬きさえもが、宇宙の壮大な静寂を奏でる、微かな響きのように感じられた。
ベッドに横になり、スマートフォンを手に取る。葵からの『日曜日、楽しみにしてるね』というメッセージが、画面に表示されていた。数日前まで、僕は彼女に会うことに、どこか漠然とした不安を感じていた。僕の変化を、僕の新しい世界を、うまく伝えられるだろうか、と。
だが、今はもう、その不安は一切なかった。
僕は、僕自身の言葉を、僕自身の物語を、手に入れてしまったのだから。
僕は、彼女にメッセージを返した。
『僕もだよ。聴かせたい音楽があるんだ。僕が、この場所で見つけた音楽を』
それは、比喩ではなかった。僕が書いた、あの森の物語。それこそが、僕が葵に、そして詩織さんに聴かせたい、僕だけの音楽なのだ。
日曜日の『月のクジラ』での再会が、僕の物語の、新しい章の始まりになる。過去と現在、そして未来の響きが交錯する、全く新しいセッションの始まり。その予感が、静かだが確かな熱となって、僕の胸を満たしていた。
僕は、深い満足感と共に、目を閉じた。意識が遠のく中、僕の耳ではないどこかで、遠い森の、そして満天の星々の、荘厳であり、優しい交響曲が、いつまでも鳴り響いていた。




