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六話目 満たされた静寂

 スマートフォンの、無音のアラームが枕を微かに、そして執拗に震わせた。

 

 僕の意識は、どこまでも深い静寂の海の底から、光に引かれるプランクトンのようにゆっくりと浮上した。目を開けても、部屋の中はまだ夜の気配を色濃く残している。窓の外に広がる世界は、上質な紙にインクを一滴落としたかのように、深い藍色に静まり返っていた。昨日までの日常と、これから始まる非日常とを隔てる、静謐な境界の時間。僕はゆっくりとベッドから身体を起こすと、床に置いたままだった、ずっしりと重いリュックサックに目をやった。その武骨な膨らみが、昨夜の衝動的な決意が決して夢ではなかったことを、雄弁に物語っていた。

 

 期待と、ほんの少しの不安が入り混じった、不思議な高揚感が全身の血を温める。それはまるで、これから読む本の分厚さを指で感じながら、その壮大な物語の最初のページを、今まさにめくろうとしている時のような感覚だった。僕は誰に言うでもなく、小さく、それでも確かな意志を込めて頷き、新しい一日を、そして新しい世界を迎え入れる準備を始めた。

 

 アパートの軋む階段を、忍び足で、いつもより慎重に下りる。僕の世界は相変わらず無音だったが、夜明け前の街が奏でる「響き」は、昼間のそれとは全く質感が異なっていた。生命の活動が最小限に抑えられた街は、まるで巨大な生き物が深い眠りの中で寝息を立てているかのように、低く、途切れることのない微かな振動を地面の奥底から響かせている。それは、僕がこれまで不快なノイズとして一方的に切り捨ててきた、混沌とした街の交響曲の、最も静かで、最も純粋な序曲の部分なのかもしれない。この響きの中にも、物語は眠っているのだろうか。詩織さんの言葉が、ふと頭をよぎった。

 

 駅へと続く道を歩きながら、僕は自分の足音だけが、その静寂に微かなリズムを刻んでいるのを感じた。アスファルトを蹴るスニーカーの裏の感触。これは、これから始まる旅への、僕自身の心臓の鼓動と、確かに共鳴していた。

 

 まだ薄暗いホームに滑り込んできた始発電車は、空席ばかりが目立った。僕は窓際の席に深く腰を下ろし、ゆっくりと移り変わっていく車窓の風景に目を凝らした。ガタン、ゴトン、という音にならない規則正しい振動が、座席を通して僕の身体の芯へと絶え間なく伝わってくる。それは、決して不快なものではなく、むしろ心地よかった。これから僕を未知の世界へと運んでくれる、頼もしい揺り籠のリズム。この振動は、僕が今まで感じてきた街の無秩序な振動とは違う。明確な目的地へと向かう、意思を持った響きだ。

 

 電車が走り出すと、見慣れた僕の街が、まるで映画のワンシーンのように後ろへと流れていく。まだ眠りから覚めきらない家々の窓、ぽつりぽつりと灯る街灯のオレンジ色の光、時折すれ違う新聞配達のバイクが起こす微かな空気の揺れ。それら全てが、僕が今まで生きてきた世界の断片だった。僕は、その世界から一時的に離れようとしている。もっと大きな「響き」を、この身体で聴くために。

 

 背中に感じるリュックの重みが、高校時代の、あのほろ苦い記憶を呼び覚ます。クラスの友人たちと計画したキャンプ。行く気になって荷物を詰めたのに、大勢の中でのコミュニケーションへの不安から、結局嘘をついて断ってしまった。あの夏、空っぽのままクローゼットの奥に押し込まれたリュック。それが、僕の壁の象徴だった。だが、今、僕の背中にあるこの重みは、あの時とは全く違う。これは、逃避ではなく、探求のための重さだ。僕が僕自身の意志で、世界を知るために背負った、希望の重さなのだ。

 

 どれくらい時間が経っただろうか。車窓の風景は、いつしか灰色だったコンクリートの建物群から、屋根の色が多彩な低い家々が並ぶ郊外の景色へと変わり、やがて、その向こうに広がる広大な田園風景が、昇り始めた朝の光を浴びてゆっくりと輪郭を現し始めた。そして、地平線の先に、幾重にも連なる山々のシルエットが、水墨画のように浮かび上がってきた時、僕の心臓は、期待に大きく脈を打っていた。

 

 あれが、僕が目指す場所。地球という、極めて大きな大自然が奏でる、ありのままのシンフォニーが鳴り響く場所だ。僕の小さな部屋で、言葉だけで構築してきた物語の世界が、あの雄大な現実の前に、一体どれほど無力で、そして、どれほどの影響を受けるのだろう。

 

 特急列車を降り、古びたロータリーの隅にあるバス停へと向かう。ここから先は、さらに深く山奥へと分け入っていく、一時間に一本しかない路線バスに乗り換えなければならない。バスを待つ乗客は、僕の他に、大きな登山用のリュックを背負った年配の夫婦二人に、高性能そうなカメラを首から下げた若い女性一人だけだった。彼らもまた、あの森の響きに魅せられて、ここまでやって来たのだろうか。僕たちは言葉を交わすことはなかったが、同じ目的地を目指す者同士の、不思議な一体感のようなものが、澄んだ秋の空気の中に漂っていた。

 

 やがてやって来たバスに乗り込むと、電車とはまた違う、無骨で力強いエンジンの振動が、床を通して僕の足の裏をくすぐった。バスは、くねくねと続く細い山道を、まるで巨大な芋虫のように、ゆっくりと、そして着実に登っていく。窓の外の景色は、刻一刻と、その緑の密度を増していった。時折、木々の切れ間から見える眼下の景色は、僕が今までいた世界が、いかに小さく、そして平坦なものだったかを思い知らせるのに十分だった。

 バスの揺れに身を任せながら、僕はノートパソコンを開き、書きかけの『月のクジラ』のファイルを開いた。


 

 ――海の底のクジラは、自らが発する響きが、どこまで届くのかを知らない。ただ、広大で、どこまでも続く暗闇と静寂の中を、一筋の光を求めて孤独に泳ぎ続ける。


 

 その一文を、僕はじっと見つめた。今の僕が、このクジラそのものではないか。僕は、僕の言葉という響きが、どこまで届くのかを知らない。詩織さんや、葵という存在に出会い、僕の世界は確かに広がり始めた。けれど、まだ僕は、僕自身の海の、その浅瀬を泳いでいるに過ぎないのかもしれない。もっと深くへ。もっと、根源的な響きが満ちる場所へ。僕がこの旅で体感するであろう「響き」は、このクジラの物語に、一体どんな変化をもたらすのだろう。そのことを考えると、キーボードに置いた指先が、微かに震えるのを感じた。

 

 終点のバス停で降りた瞬間、僕は息を呑んだ。

 

 世界から、僕が知っている種類の響きが、完全に消え失せていた。

 

 バスがエンジンを切り、重いドアを閉じて、小さなロータリーを回って走り去っていく。その最後の振動が空気の中に溶けて消えた後、そこに訪れたのは、僕が生まれてから一度も体験したことのない、完全なる「静寂」だった。

 

 いや、違う。これは、ただの静寂ではない。僕がアパートの一室で感じていた、音の不在としての、空虚な静寂とは、全く次元が違う。

 

 これは、"満たされた静寂"だ。

 

 空気が、あまりにも濃い。湿った土と、腐葉土と、そして無数の生命が発する、名付けようのない匂いで満たされている。空気そのものに、緑の色と湿った土の味がついているようだった。そして、その濃密な空気そのものが、まるで巨大なスピーカーのように、絶え間なく、そして豊かに震えているのだ。

 

 僕は思わず目を閉じ、全身の感覚を、肌の一枚一枚を、目に見えないアンテナのように研ぎ澄ませた。

 

 地面の奥深くから、ほとんど感じ取れないほどの、しかし確かな、途方もなく低い振動が伝わってくる。それは、この大地そのものの脈動だ。地球の鼓動。僕はこの星の上に立っているのだという、あまりにも当たり前の事実を、初めて身体で理解した。

 

 風が吹き抜ける。それは、ビル風のように、ただ無機質に肌を撫でるものではない。森の木々を通り抜けてきた風は、無数の木の葉の囁き、枝のしなり、幹の軋みといった、幾千もの微細な振動をその身に纏っている。それは、僕の頬を撫で、髪を揺らし、そして僕の身体の奥深くまで、森が紡いできた何億年もの物語を運んでくるようだった。

 

 どこか遠くで、滝が落ちているのかもしれない。あるいは、川が岩を食んでいるのかもしれない。その水の響きが、直接的ではないが、空気と地面を媒介にして、重低音の持続音のように、この空間全体を、その荘厳な響きで支配している。


 

 ――これは、音楽だ。


 

 詩織さんが教えてくれた、人が作った音楽とは全く違う。誰かが作曲したわけでも、誰かが演奏しているわけでもない。何億年という時間をかけて、この星自身が創り上げてきた、壮大で、完璧な調和に満ちた交響曲。僕は、その交響曲の、たった一人の聴衆として、今、ここに立っていた。

 

 街の響きが、無数の楽器がてんでばらばらに自分のパートを主張する、カオティックな現代音楽なのだとすれば、この森の響きは、全てのパートが完璧に調和した、荘厳なグレゴリオ聖歌のようだった。

 

 僕は、リュックの外ポケットに入れていた補聴器に、無意識に手を伸ばしていた。そして、そっとその手を下ろした。これじゃない。こんな小さな機械を通して聴くべき音楽ではない。この身体の、六十兆の細胞の全てを使って、全身全霊で聴かなければならない音楽だ。

 

 予約した宿は、バス停から森の入り口へと続く小道を、数分歩いた場所にあった。古びた木造の、山小屋のような佇まいの小さな旅館。僕が年季の入った引き戸を開けると、帳場に座っていた人の良さそうなお婆さんが、にこやかに顔を上げた。

 

 僕はいつものように、ポケットからメモ帳とペンを取り出す。

 

『すみません。耳が聴こえないんです。本日、予約していた相葉です』

 

 そう書いて見せると、お婆さんは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに「まあ、まあ、遠いところからようこそ」とでも言うように、皺の刻まれた顔をほころばせた。そして、大きな身振り手振りで、僕を部屋へと案内してくれた。その手の動き一つ一つに、言葉を超えた温かさが宿っているように感じられた。

 

 僕が通されたのは、二階の角部屋だった。窓が大きく、森に面している。畳のい草の匂いが心地よい、簡素だが隅々まで掃除の行き届いた清潔な和室。窓を開けると、ひんやりとした、しかし生命力に満ちた空気が流れ込んできた。目の前に、あの原生林の入り口が迫っている。まるで、緑色の巨大な生き物が、そこで静かに呼吸しているかのようだ。

 

 荷物を置き、一息つくと、僕は再び窓の外に目をやった。太陽は、いつの間にか西の空に傾き始めている。森の木々が、夕陽を受けて、その影を長く、長く伸ばしていた。光と影が織りなす、静かで荘厳なグラデーション。それは、僕が今まで見てきたどんな夕焼けとも違って、神秘的な美しさを湛えていた。

 

 

 この森に、明日、僕は足を踏み入れる。 

 この星が奏でる音楽の、その心臓部へと。


 

 そこで僕は、一体何を聴き、何を感じるのだろうか。僕の物語は、僕の世界は、どう変容してしまうのだろうか。

 

 葵と約束した日曜日まで、あと数日。彼女に会う前に、僕は僕自身の物語を、もう一度、この場所で書き始めなければならない。僕がここで体感するであろう、ありのままの響きを、僕の言葉で翻訳するために。

 

 夜の帳が、ゆっくりと森を包み込んでいく。街のネオンとは無縁の、本物の闇。その闇の中で、森の響きは、さらにその輪郭をはっきりとさせていくようだった。それは、恐ろしいほどの静寂であり、それと同時に、無数の生命の気配に満ちた、どこまでも豊かな響きだった。

 

 僕は、ノートパソコンの電源を入れた。真っ白な新規ファイルを開き、画面の中で規則正しく点滅するカーソルを、しばらくの間、ただじっと見つめていた。

 

 やがて、僕はゆっくりと、最初の一文をタイプし始めた。それは、今まで書いてきた『月のクジラ』とは、全く違う物語の始まりを告げる、静かに、そして確信に満ちた一文だった。


 

 ――森は、一つの巨大な心臓だった。


 

 その言葉を画面に映し出した瞬間、僕の旅が、そして僕の新しい物語が、本当の意味で始まったことを、全身で感じていた。

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