五話目 満月の音を探す旅
櫻田葵という、僕の過去を鮮明に映し出す鏡のような存在と再会してから、数日が過ぎた。彼女と交わした「今度の日曜日」という約束は、静かで単調だった僕の日常に、甘くも苦い、不思議な質感の楔を打ち込んだようだった。あのスーパーでの喧騒の中で再会したあの瞬間から、僕の世界を構成する交響曲には、間違いなく新しい音色が加わっていた。それは、ひどく懐かしく、そして僕が一度は意識的に遠ざけようとした、過去からの"旋律"だった。
葵との間では、数年ぶりにメッセージのやり取りが復活した。他愛のない近況報告や、昔の共通の友人の噂話。指先だけで交わされる言葉の応酬は、高校時代に戻ったような錯覚さえ覚えさせた。けれど、その気軽なやり取りの底には、数年間という決して短くない空白の時間が、静かに横たわっているのも事実だった。その時間を、僕たちはこれからどうやって埋めていくのだろう。日曜日に訪れる『月のクジラ』で、その答えのひとかけらでも見つかるのだろうか。
僕は、あの日以来、再び『月のクジラ』の執筆に没頭しようと試みていた。しかし、一度リズムを失った心は、そう簡単には元に戻らない。キーボードの上を彷徨う指は、どこか確信を欠いていた。物語は進み、言葉は紡がれる。だが、その言葉たちが、以前のような熱や躍動感を帯びてくれないのだ。画面に並んだ文字の羅列は、まるで僕自身の心を映すかのように、ひどく表面的で、冷たく感じられた。
葵との再会が、僕の中に眠っていた何かを揺り動かしたのは確かだった。彼女は、僕が自分の周りに築いていた「壁」がなくなったと言ってくれた。その言葉は、僕が詩織さんと出会ってからの変化を、誰よりも的確に言い当ててくれていて、素直に嬉しかった。あの壁の内側で、膝を抱えるようにして文章を書いていた頃の僕を知る彼女だからこそ、その言葉には重みがあった。
――海の底のクジラは、自らが発する響きが、どこまで届くのかを知らない。ただ、広大で、どこまでも続く暗闇と静寂の中を、一筋の光を求めて孤独に泳ぎ続ける。その巨体を揺らすのは、遠い海溝の軋みか、あるいは自分自身の巨大な心臓が刻む、荘厳なリズムだけだ。
書きかけの原稿の一節を読み返し、僕は深いため息をついた。言葉が、嘘をついている。詩織さんから「響き」を教わり、街のノイズさえ音楽として翻訳しようと試みていた時の、あの全能感にも似た高揚はどこへ行ってしまったのか。今の僕の文章は、ただ頭の中でこねくり回しただけの、借り物の言葉でしかない。葵に「すごいね」と言ってもらいたい、そんな下心が見え隠れしているようで、自分でも嫌気がさした。
ふと、気づいてしまったのだ。僕の物語は、まだあの古いアパートの、四畳半の部屋の中から一歩も出ていないのではないか、と。
詩織さんが教えてくれた「響き」は、僕の世界を根底から変えた。街のノイズは音楽になり、雨粒は物語を奏でた。けれど、それらは全て、僕の日常という限られたステージの上で鳴っている音だ。葵は、そんな僕の過去も現在も、全てを知ろうとしてくれている。壁の内側にいた僕も、壁がなくなった今の僕も、地続きの「相葉湊」として受け入れようとしてくれている。その彼女に、僕は一体何を見せられるのだろう。『月のクジラ』という、僕にとっての聖域で、どんな響きを共有できるというのだろう。僕が今書いているこの物語は、結局のところ、僕の小さな世界だけで完結してしまってはいないだろうか。
――海の底のクジラが探す、「満月の光みたいな音」。
その詩的な表現は、今も僕の心の道標だ。しかし、僕はその音を、あまりに観念的に捉えすぎていたのかもしれない。その音は、本当に海の底にしかないのだろうか。僕がまだ知らないだけで、この世界のどこかには、もっと根源的で、もっと壮大な響きが存在しているのではないか。チェロが奏でた森の夜明け。アスファルトを打つ都会の雨。それらとは全く違う次元の、地球そのものが発する、巨大な息遣いのような音楽が。
その思いは、鉛色の雲のように僕の心に垂れこめ、日増しに重くなっていった。僕の物語は、僕自身が、もっと広い世界を知らなければならない。そうでないと、これ以上深く、遠くへは泳いでいけない。そんな焦燥感にも似た渇望が、僕の喉をカラカラに乾かせていた。
執筆の手が完全に止まってしまった日の午後、僕は逃げるようにパソコンの画面を切り替え、意味もなくネットの海を漂っていた。最新のニュース、映画のレビュー、取るに足らないゴシップ記事。指先だけで世界と繋がっているような、それでいてひどく孤独な時間。僕は、この感覚があまり好きではなかった。情報の洪水は、かつて僕が補聴器をつけるのを嫌った理由と同じく、意味のないノイズの奔流となって僕の思考を麻痺させるだけだったからだ。
しかし、その時だった。いくつもの無意味な情報の残像を通り過ぎた先で、ふと、一枚の写真に、僕は釘付けになった。
「心洗われる日本の原風景へ」
そんなありふれたキャッチコピーと共に写し出されていたのは、僕が今まで一度も見たことのない、圧倒的な緑の世界だった。どこまでも続く、苔むした岩と木々。まるで緑色のビロードを、幾重にも敷き詰めたかのような、神秘的な森。その間を縫うように流れる、清冽な水の流れ。そこには、僕が日常の中で感じているような、人工的な響きが一切存在しないように見えた。あるのは、ただ、生命の純粋な営みだけ。
僕は、吸い寄せられるようにその広告をクリックした。現れたのは、とある国立公園の特集ページだった。僕が住むこのコンクリートに囲まれた街からは、電車とバスを乗り継いで、何時間もかかる場所。そこには、日本でも有数の、人の手がほとんど入っていない原生林が広がっているという。
僕は、スクロールする指を止められなかった。ページに埋め込まれたドローンが撮影したという映像が、自動で再生される。もちろん、音は聴こえない。けれど、僕の全身は、その無音の映像から、まだ体感したことのないはずの「響き」を必死に感じ取ろうとしていた。全身の皮膚が、目に見えないアンテナとなって、画面の向こうの振動を捉えようとしている。
巨大な滝が、白い飛沫を上げながらエメラルドグリーンの滝壺へと落ちていく。その凄まじい水量が分厚い岩盤を叩く、重く、荘厳な地響き。それは単なる轟音ではなく、地球の内部から直接響いてくるような、惑星の呻き声のように思えた。
風が、樹齢数百年はあろうかという巨木の枝葉を一斉に揺らす。それは途方もなくスケールの大きなざわめきであり、無数の木の葉が一斉に囁き合うような、高周波の振動となって、僕の鼓膜ではない、どこかを震わせるようだった。
陽光を浴びて、きらきらと輝く苔。霧に包まれた森の奥深く。そこでは鳥たちが空を駆け抜け、獣たちが息を潜めている。その生命そのものの微細な振動が、濃密な静寂の響きとなって、画面越しに伝わってくる。それは、音がないのではない。全ての音が、完璧な調和をもってそこに存在しているがゆえの、満たされた静寂なのだ。
――これは……。
詩織さんが教えてくれた「音楽」とは、また違う。これは、誰かが作ったメロディではない。遥か昔、この星が生まれた時から奏で続けてきた、ありのままのシンフォニーだ。カオスで、不協和音だらけだった街の響きとは対極にある、完璧な秩序に満ちた、大自然の交響曲。
その「響き」を、この身体で聴いてみたい。
衝動は、ほとんど雷鳴のように、僕の全身を貫いた。耳で聴くのではない。この肌で、この骨で、この魂で、地球の呼吸を、その巨大な心臓の鼓動を、感じてみたい。そこに身を置いた時、僕の身体は、僕の物語は、一体どう変わるのだろう。あのクジラが探している音の、本当の意味が見つかるかもしれない。
僕は、ほとんど無意識のうちに、ブラウザの新しいタブを開き、その場所への交通手段を検索していた。
「ここへ、行こう」
誰に言うでもなく、そう呟いていたと思う。それは、熟考の末の結論ではなかった。僕の身体が、僕の物語が、そこへ行けと叫んでいる。本能的で、抗いようのない決意だった。
時刻表と睨めっこし、地図アプリでルートを確認する。一泊すれば、丸一日はその森を歩けるだろう。僕はすぐに、山間にある小さな宿の予約サイトを開いた。幸いにも、平日のためか、運良く、一部屋だけ空きがあった。僕は、震える指で予約ボタンをクリックした。「予約を確定する」という無機質な文字が、僕の運命を決定づけるスイッチのように見えた。もう、後戻りはできない。
この旅は、単に物語の取材のためだけではない。これは、僕自身のための旅だ。詩織さんという翻訳者を得て、新しい言語を学び始めた僕が、その言語を使って、未知の世界を読み解きにいくための冒険。そして、葵という過去からの"来訪者"を迎える前に、僕自身が僕の現在地を、確かめるための儀式のようなものだ。
詩織さんには、帰ってきたらこの話をしよう。僕が体感した「自然の音楽」を、今度は僕が、僕の言葉で彼女に伝えるんだ。彼女はきっと、目を輝かせて『どんな音楽が聴こえた?』とメモに書いてくるだろう。その問いに、僕は胸を張って答えたい。そして葵には……。今度の日曜日に会う時には、ただ壁がなくなっただけじゃない、もっと大きくなった世界を、僕自身の言葉で語れるようになっているはずだ。驚くだろうか。それとも、「湊らしいね」と、昔と変わらない笑顔で言ってくれるだろうか。
そう決めた瞬間、僕の身体に、再び血が通い始めるのを感じた。停滞していた物語の歯車が、錆び付いた音を立てながら、ゆっくりと、そして確実に、再び回り始める気配がした。
「よしっ!」
僕は椅子から勢いよく立ち上がった。窓の外は、いつの間にか夕暮れのオレンジ色に染まり始めている。明日の朝、始発の電車で出よう。そうと決まれば、もう一刻の猶予もなかった。
僕はクローゼットの奥から、高校生の時以来使っていなかった、少し埃をかぶったリュックサックを引っ張り出した。パンパン、と手で埃を払うと、少しだけ、古びた布の匂いがした。
このリュックには、淡い思い出がある。高校二年の夏、クラスの友人たちとキャンプに行く計画が持ち上がった。僕も誘われ、最初は行く気になって、このリュックに必要なものを詰めたのだ。だが、日が近づくにつれ、大勢の中でのコミュニケーションに対する不安が膨れ上がった。筆談の煩わしさ、手話が通じない友人たちとの隔たり。それを想像するだけで、胃が重くなった。結局、僕は「家の用事ができた」と嘘をついて、計画を断ってしまった。空っぽのまま、クローゼットの奥に押し込まれたこのリュック。それが、僕の壁の象徴だった。
だが、今は違う。このリュックは、僕を新しい世界へと運んでくれるのだ。僕は、旅に必要なものを、今度こそ、確かな意志を持って詰め始めた。最低限の着替え。洗面用具。タオル。そして、筆談のためのメモ帳とペンは忘れてはならない。それから、書きかけの『月のクジラ』のデータが入った、僕の分身でもあるノートパソコン。旅の途中で、何かを書き留めたくなるかもしれない。いや、きっとそうなるに違いない。あの森の響きを浴びた僕の言葉が、どう変わるのか。それを確かめないわけにはいかない。最後に、僕は机の引き出しから補聴器を取り出した。それを手に取り、一瞬考える。これを持って行っても、街のノイズとは違う、意味のある響きを捉えられるだろうか?いや、むしろ外した方が、余計な情報に惑わされず、身体全体で感じられるのかもしれない。僕は少し迷った末、それをリュックの外ポケットにそっとしまった。お守りのようなものだ。
全ての準備を終えると、リュックはずっしりと重くなっていた。その重みが、これから始まる旅の現実感を、そして過去の自分を乗り越えようとする僕自身の決意の重さを、僕に伝えてくる。
僕は、荷物を詰めたリュックを背負い、部屋の中をゆっくりと見渡した。いつもの見慣れた風景。本棚、書きかけの原稿が散らばる机、小さなベッド。今まで、僕の世界はここで完結していた。しかし、明日の今頃、僕は全く違う風景の中にいる。その場所で鳴っている音楽は、一体どんな響きなのだろうか。僕の身体は、その響きに耐えられるだろうか。
期待が九割。そして、残りの一割は、未知への、ほんのわずかな不安。その心地よい緊張感が、僕の全身を包んでいた。
僕はスマートフォンのアラームを、まだ夜も明けきらない早朝の時間にセットした。画面に表示された出発時刻が、新しい物語の始まりの合図のように見えた。
ベッドに横になり、目を閉じる。瞼の裏に、あの圧倒的な緑が広がる。まだ見ぬ世界の響きへの期待で、心臓が静かに、しかし力強く高鳴っているのが分かった。眠りに落ちるまでの、静かで高揚した時間。それはまるで、壮大な交響曲の、演奏が始まる直前の、息を呑むような静寂に似ていた。
僕の本当の旅が、今、始まろうとしていた。




