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三話目 ノイズが奏でる交響曲

蓮田です。

5800字と、結構長めになってしまいましたが、見てくれると嬉しいです。

 あの衝撃的な体験から、僕の世界は静かに、そして確実に変容し始めていた。

 

 部屋の机に置かれたチェロのレコードは、もはや単なる装飾品や、僕にとって解読不能な文字が刻まれた、ただの石板ではなかった。それは、僕の身体の奥深くに、今もなお鳴り響く「響き」の震源地のようだった。ふと目を閉じれば、ソファを通して伝わってきたあの地を這うような重低音と、肌を突き刺す光の粒のような鋭い振動が、記憶の底から蘇ってくる。血が、細胞が、あの音楽の奔流を覚えている。


 世界は相変わらず、僕にとっては音のない絵画のままだった。けれど、その絵画を構成する絵の具の質感が、以前とはまるで違って見えた。窓の外を歩く人々の足取りには、ある種のリズムが感じられるようになった。風に揺れる木の葉のざわめきは、無数の小さな振動の集合体として肌に伝わってきた。それらはまだ意味のある「音」ではなかったが、単なる無秩序な刺激ではなく、世界が絶えず奏でている微かな脈動のように感じられたのだ。

 

 僕は、あの日から中断していた物語『月のクジラ』のファイルを開いた。海の底の静寂から始まる、光を探すクジラの物語。詩織さんがくれた「満月の光みたいな音」という言葉を道しるべに書き始めた物語だ。しかし、今、僕の身体は本物の「響き」を知ってしまった。


 

 ――チェロが奏でる、深い森の夜明けの響きを。


 

 僕は、その体験を言葉にしようと試みた。キーボードの上で指が彷徨う。けれど、どんな言葉を並べても、あの身体の芯を揺さぶられた感覚を表現するには、あまりに陳腐で、薄っぺらく感じられた。

 

 

「地を這うような、低い振動」

 

「肌を刺すような、鋭い響き」


 そんなありきたりの言葉では、あの嵐のような感情のうねりを、その百分の一も掬い取ることができない。言葉を知っていることと、それを表現できることは全く違う。今まで僕は、知らない音を想像力で補い、言葉を紡いできた。だが、一度「本物」を知ってしまった今、僕の言葉はその「本物」の前では、ただ茫然と立ち尽くす他かなかった。知ってしまったからこその、新たな壁。それは、僕が物書きとして初めて直面する、あまりにも絶望的な無力感だった。


 その日から数日間、僕は一行も書き進めることができなかった。身体の中に渦巻く豊かな「響き」と、それを表現できないもどかしい現実との間で、僕は完全に立ち往生してしまったのだ。このままでは、僕の物語は永遠に海の底の静寂から抜け出すことができない。

 

 結局、僕の足は、吸い寄せられるように再びあの店へと向かっていた。何か答えが見つかるわけではないかもしれない。それでも、もう一度あの場所に、そして詩織さんに会わなければ、僕は前に進めないような気がした。

 

 錆びた真鍮の文字が掲げられた『月のクジラ』のドアを開ける。無音の中の振動が、僕の来訪を告げる。カウンターの奥で、詩織さんはレコードの整理をしていた。僕の姿に気づくと、彼女は前回と同じように、ぱっと顔を輝かせた。その笑顔を見るだけで、僕の心の強張りが少しだけ解けていくのが分かった。


『こんにちは』

 

 僕がメモ帳にそう書くと、彼女は「待ってたよ」とでも言うように、優しい笑顔で頷いた。そして、カウンターから出てきて、僕の顔をじっと覗き込んだ。何かを察したように、彼女はペンを走らせる。


『どうしたの?なんだか、悩んでる顔をしてる』


 この彼女の洞察力に、僕はいつも驚かされる。僕は、ここ数日の葛藤を、正直に書き連ねた。


『あの後、物語を書こうとしたんです。でも、書けなくなってしまいました。僕の身体は、あのチェロの響きを覚えているんです。それなのに、恥ずかしいことに、僕の言葉が、それに全く追いつかないんです』


 書き終えたメモを、僕は少し恥ずかしい気持ちで彼女に差し出した。まるで、先生にできない宿題を泣きついている子供のようだ。詩織さんは、僕の拙い文章を真剣な眼差しでゆっくりと読んだ。そして、少し考えるように窓の外に視線を移してから、僕に向き直って、ふわりと微笑んだ。


『そっか。じゃあ、言葉にしなくてもいいんじゃないかな』


 予想外の言葉に、僕は思わず顔を上げた。言葉にしなくていい?物書きである僕に、彼女はそう言うのだろうか。僕の戸惑いを読み取ったように、彼女は言葉を続けた。


『湊くんはさ、あの音楽をどう思った?』

 

『……すごい、と思いました。森の夜明けや、獣の足音や、光が見えました』

 

『うん。じゃあ、それで十分だよ。音楽は、言葉で説明するためにあるんじゃない。感じるためにあるんだから。湊くんがそれを感じられたのなら、それが全てだよ』


 彼女の言葉は、僕の固くなった心を、丁寧に、優しく解きほぐしていくようだった。そうだ。僕はいつの間にか、あの感動を「どう表現するか」ということばかりに囚われていた。ただ純粋に「感じる」という、最も大切なことを忘れかけていた。


『でも、僕は物書きだから。感じたことを、言葉にして誰かに伝えたいんです』


 僕がそう書き足すと、詩織さんは「うん、知ってる」と言わんばかりに、悪戯っぽく笑った。


『だから、今日は違うものを聴いてみよう。言葉にしやすい音を』


 そう言うと、彼女は僕を再び店の奥へと誘った。向かう先は、もちろん、あの『クジラのお腹』だった。

 

 再び、僕はあの革張りのソファに深く身を沈めていた。外界から遮断された、静寂と柔らかな光だけの空間。僕の隣に座った詩織さんは、今回、クラシックのレコードではなく、一風変わったジャケットの一枚をターンテーブルにセットした。そこには、ただ、雨に濡れたアスファルトの写真が写っているだけだった。


『これは、あるアーティストが録音した、世界中の「雨の音」を集めたレコードなの』


 詩織さんはメモを見せると、僕に優しく微笑みかけた。


『耳で聴こえなくても、湊くんは雨が見えるって言ってたよね。だから、身体で聴く雨は、どう感じるかと思って』


 そう言って、彼女はそっと針を落とした。

 

 最初に伝わってきたのは、チェロの時のような重低音ではなく、もっと細かく、無数の点が身体中に降り注ぐような振動だった。ソファの背もたれから、足元の床から、まるで霧雨のような微細な震えが、僕の全身を包み込む。

 

 目を閉じると、情景が浮かんでくる。これは、静かな森の木の葉を優しく叩く、春の雨だ。湿った土の匂いと、生命の息吹を感じさせる、穏やかで優しい響き。

 

 やがて、振動の粒は少しずつ大きく、そして強くなっていく。ソファを叩くリズムが、より明確になる。


『ロンドンの街角の雨。石畳を叩く、少し気まぐれな雨音』


 膝の上のメモが、情景を補足してくれる。そうだ、これは都会の雨だ。傘を打つ雨粒の、少し硬質な響き。足早に行き交う人々の気配。古びた石畳が雨を弾く、冷たい感触。

 

 曲はさらに表情を変え、振動は激しい奔流となった。ソファ全体が大きく揺れ、まるで嵐の中にいるようだ。低く唸るような響きが、雷鳴のように身体の芯を震わせる。


『東南アジアのスコール。全てを洗い流すような、激しい生命力の音』


 詩織さんの言葉が、響きに物語を与える。これは、破壊の音ではない。浄化と、再生の音だ。熱帯の植物が、この雨を全身で受け止め、歓喜している姿が見える。

 

 一枚のレコードを聴き終える頃には、僕はただの雨という現象に、これほど多様な表情と物語が隠されていることに、深い感銘を受けていた。それは、チェロの音楽のような劇的な感情の起伏はなかったが、もっと僕たちの日常に寄り添った、繊細で豊かな響きの世界だった。


『どうだった?』


 振動が止んだ後、詩織さんが尋ねた。


『すごかったです。雨にも、色々な物語があるんですね。僕がいつも見ている雨は、その中のほんの一場面でしかなかった』

 

『でしょ?』


 詩織さんは嬉しそうに笑った。


『音楽って、なにも楽器が奏でるものだけじゃないんだよ。街のざわめきも、風の音も、誰かの足音も、全部が音楽になりうる。あなたがいつも切り捨ててきた「ノイズ」の中にだって、きっと物語は隠れてる』


 

 ノイズの中の、物語。


 

 その言葉は、僕にとって雷に打たれたような衝撃だった。僕はこれまで、耳が聴こえないことを理由に、僕の世界を自ら狭めていたのかもしれない。不快な振動をノイズとして遮断し、静寂な絵画の世界に閉じこもることで、自分を守ってきた。しかし、詩織さんは、そのノイズの中にこそ豊かさがあると教えてくれている。

 

 ふと、僕は以前から気になっていたことを尋ねてみた。


『詩織さんは、音楽のエッセイを書いているんですよね。どんなことを書いているんですか?』

 

 僕の問いに、彼女は少しだけはにかんだような表情を見せた。


『うーん、大したことじゃないよ。例えば、この雨のレコードみたいに、音に隠された風景や物語を、言葉でスケッチする。そんな感じかな。私も、湊くんと同じ。音を言葉に翻訳しようとしてる、ただの翻訳者なんだよ』


 彼女もまた、"翻訳者"。僕と彼女は、違う場所に立ちながら、同じように音と言葉の間を行き来している。その事実が、僕たちの間の距離をさらに縮めてくれたような気がした。僕が感じた「言葉にできないもどかしさ」を、彼女はきっと誰よりも理解してくれていたのだ。

 

 その日を境に、僕の日常は再び、しかし以前とは全く違う形で変わり始めた。

 

 僕は、ポケットの奥にしまい込んでいた補聴器を、数年ぶりに取り出した。最新のものではないし、僕の耳にはほとんど気休め程度にしかならない。それでも、僕はそれを装着して、街に出ることにした。詩織さんが言っていた「ノイズの中の物語」を、探すために。

 

 人通りの多い交差点に立つ。以前なら、様々な方向から押し寄せる意味のない振動の洪水に、すぐに気分が悪くなっていただろう。だが、今の僕は違った。目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ます。

 

 遠くで響く、工事現場の断続的な低い振動。それは、この街の心臓の鼓動のようだ。すぐそばを走り抜けるバスのエンジン音は、巨大な生き物の息遣いのように、空気を震わせる。信号待ちをする人々の、無数の靴音がアスファルトを微かに叩くリズム。それらが混じり合い、一つの巨大な音楽を形成している。

 

 カオスだ。不協和音だ。けれど、その中には確かに、生命の脈動があった。人々が生き、街が呼吸している、生々しい響き。僕は、今までこの生々しい現実から目を背けてきたのだ。

 

 まだ、その響きを心地よいと感じることはできなかった。頭が痛くなることもある。それでも、僕は逃げずに、そのカオスの中に身を置き続けた。僕の世界はもはや、静かな一枚の絵画ではなかった。無数の響きがせめぎ合う、ダイナミックで、予測不可能な交響曲だった。


 この変化は、僕の文章にも、確かな影響を与え始めた。

 

 書きかけだった『月のクジラ』。僕は、あのチェロの響きを直接的に言葉にすることを、一度諦めた。代わりに、僕が街で体感した「響き」を、物語の世界に持ち込むことにした。


 

 ――海の底の静寂は、完全な無音ではなかった。遠くで火山が活動する微かな地響きが、クジラの巨体を揺らす。海流が岩肌を舐める、擦れるような響き。そして、自分自身の、巨大な心臓が刻む、荘厳なリズム。クジラは、その無数の響きの中で、ただ一つの「満月の光みたいな音」を探しているのだ。


 

 文章に、躍動感が生まれた。身体感覚に直接訴えかけるような、生々しい手触りが加わった。僕の言葉は、ようやく、僕の身体が感じた世界に追いつき始めたのかもしれない。

 

 数週間後、僕は書き上げた『月のクジラ』の新しい冒頭部分をプリントアウトし、それを持って『月のクジラ』へと向かった。今日こそ、僕の言葉を、彼女に届けたかった。僕が彼女から受け取ったものを、僕なりの形で返すために。

 

 店に入ると、詩織さんはカウンターで本を読んでいた。僕の姿に気づくと、彼女はいつものように微笑んだ。僕は無言で、手にした原稿を彼女に差し出した。


『あなたに、読んでほしくて』


 僕がメモにそう書くと、彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な表情で頷き、原稿を受け取った。彼女が、僕の言葉の世界に足を踏み入れていく。僕は、祈るような気持ちで、その姿を見守った。

 

 彼女の目が、ゆっくりと文字の列を追っていく。時折、その動きが止まり、何かを確かめるように、僕の顔をちらりと見る。そして、また文章の世界へと戻っていく。その表情が、次第に柔らかく、そして深い感動の色を帯びていくのを、僕は見逃さなかった。

 

 数ページの短い文章を、彼女はまるで、自分の一番大切な宝物に触れるかのように、ゆっくりと読み終えた。そして、顔を上げると、その瞳は微かに潤んでいた。


『すごい……』


 彼女は、震える手でメモ帳にペンを走らせた。


『これは、ただの物語じゃない。……音が、聴こえる。海の底の響きが、クジラの鼓動が、ここから聴こえてくるみたい』


 彼女は深く息をつくと、言葉を続けた。


『ありがとう、湊くん。あなたの言葉を通して、私も初めて、海の底の本当の静寂を知ることができた気がする。これは、あなたにしか書けない音楽だよ』


 

 あなたにしか書けない音楽。


 

 その言葉は、僕が今まで誰かからかけてもらった、どんな賞賛の言葉よりも、深く、強く、僕の魂に突き刺さった。耳が聴こえないことは、僕にとって紛れもない欠落だった。しかし、その欠落があったからこそ、僕は音を言葉で表現しようともがき、僕だけの「響き」を見つけ出すことができたのかもしれない。

 

 僕と詩織さんの間には、もはや言葉は必要なかった。いや、僕たちの間には、音や文字を超えた、もっと深く、豊かな言葉が流れていた。彼女が僕に音楽の響きを教えてくれ、僕が彼女に物語の響きを返す。僕たちは、互いの世界の"翻訳者"であり、最高の読者である。そして何より、同じ音楽を奏でる共演者なのだ。

 

 店を出ると、空は燃えるような夕焼けに染まっていた。世界は相変わらず僕には無音のままだったが、もはやそこに孤独はなかった。僕の内側には、これから紡がれるべき無数の物語と、詩織さんと共有した確かな響きが、暖かく満ちている。


 

 もしも、音が聴こえたなら――。


 

 その問いは、いつしか僕の中から消えていた。代わりに、新しい問いが生まれていた。

 

 この世界の響きを、僕は次に、どんな物語にしようか。

 

 それは、絶望からではなく、希望から始まる問いだった。僕の本当の物語は、まだ始まったばかりなのだ。詩織さんという、最高の聴き手と共に。

小説や、音楽をやってる身からすると、こういう"音"を自分なりに表現でき、その表現を思うがままに書き連ね、それをみんなに見てもらうことができる「音楽」や「小説」って素晴らしいなと書いてて思います。

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