二話目 クジラのお腹、聴く光
あの日、詩織さんから受け取った一枚のレコード。それが僕の部屋の小さな机を占領してから、一週間が経とうとしていた。僕はといえば、まるで高価な美術品を前にするように、ただそれを眺めることしかできずにいた。
それもそのはず、プレーヤーがないのだから、当然のことだ。そもそも、これまで音楽を聴くという習慣がなかった僕の部屋に、そんなものがあるはずもなかった。机の上に置いてあるレコードは、本来の役目を果たせないまま、静かにそこに在るだけ。黒い円盤に刻まれた細い溝は、僕には解読不能な古代の象形文字のように見えた。
それでも、僕は飽きることなくそのジャケットを見つめ続けた。モノクロ写真の中のチェリストは、相変わらず厳しい表情で僕を見据えている。その眉間に刻まれた深い皺は、彼が奏でる音楽の険しさを物語っているのか。それとも、音楽を生み出す苦しみの表れか。あるいは、その先にある歓喜を知る者の、孤高の表情なのかもしれない。
そして、彼の姿に重なるようにして、詩織さんの言葉が頭の中で何度も再生された。
「――この音、あなたに、聴かせてあげたいな」
彼女の唇の動きと、真剣な眼差し。その記憶は、まるで僕の心に直接響いた音のように、今でも鮮明に残っている。彼女は、僕に何を聴かせたかったのだろう。このチェリストが紡ぎ出す音の世界とは、一体どんなものなのだろう。
想像だけが、際限なく膨らんでいく。僕はノートパソコンを開き、書きかけの物語『月のクジラ』の続きを読む。海の底の静寂。そこに響くはずの、満月のような光の音。だが、その音を具体的に言葉にしようとすると、途端に筆が止まってしまう。僕の知る言葉は、想像の浅瀬をなぞるばかりで、その核心に触れることができない。まるで、透明な壁に阻まれているようなもどかしさ。
このままでは駄目だ。
眺めているだけでは、何も始まらない。物語が前に進まないように、僕自身も、このレコードの前で立ち尽くしているだけだ。
意を決して、僕は椅子から立ち上がった。レコードを傷つけないように慎重に布で包み、ショルダーバッグに収める。目指す場所は、ひとつしかなかった。
あの、古い看板のかかった店。『月のクジラ』へ。
雨上がりの、まだ湿り気を帯びたアスファルトの道を歩く。前回訪れた時よりも、足取りは少しだけ軽かった。期待と同じくらいの不安を抱えながら、僕はあの店の前に立った。ドアノブに手をかける。カラン、という無音の振動が、僕の訪問を店内に告げた。
「あ……」
店に入ると、カウンターの奥で本を読んでいた詩織さんが顔を上げた。僕の姿を認めると、彼女の表情がぱっと華やぐ。その笑顔に、僕の心臓が少しだけ速く脈打ったのを感じた。
「いらっしゃい」
唇の動きで、そう言ったのがわかった。僕は会釈をしてから、少し躊躇いがちに、バッグから布に包んだレコードを取り出した。
それを見た詩織さんの目が、優しく細められる。すべてを察してくれたようだった。彼女はカウンターから出てくると、僕のそばに寄り、いつものように小さなメモ帳にペンを走らせた。
『聴きたくなった?』
僕はこくりと頷く。その単純な動作が、ひどく気恥ずかしく感じられた。
『でも、プレーヤーがなくて』
僕がそう書き足すと、詩織さんは「やっぱりね」とでも言うように、楽しそうに笑った。
『大丈夫。とっておきの場所があるの。ついてきて』
彼女はそう書くと、僕の手を引くようにして店の奥へと歩き始めた。レコードで埋め尽くされた棚と棚の間を抜けていく。店の裏手には、従業員用のスペースでもあるのかと思っていたが、そこにはもう一つ、重厚な木製のドアがあった。真鍮のプレートには、
『The Whale's Belly(クジラのお腹)』
と刻まれている。
詩織さんが鍵を開けてドアを押すと、ひんやりとした空気が流れ出してきた。中は、僕が想像していたような倉庫ではなく、完全に独立した一部屋になっていた。
『ここは、特別な試聴室なの』
詩織さんは僕を中に促しながら、メモを見せた。
部屋はそれほど広くはない。二人掛けの革張りのソファがひとつと、その向かいに、真空管アンプやターンテーブルといった、僕には価値のわからない音響機器がずらりと並んだ棚があるだけ。壁は、音を吸収するためだろうか、厚い布で覆われていた。窓はなく、間接照明の柔らかな光だけが、部屋をぼんやりと照らしている。まるで、外界から完全に遮断された、秘密の隠れ家のようだった。
『少しだけ、普通の試聴室とは違うの。驚かないでね』
詩織さんは意味ありげに微笑むと、僕からチェロのレコードを受け取り、慣れた手つきでターンテーブルにセットした。そして、僕にソファに座るよう、手で促す。
僕は言われるがまま、深く腰を下ろした。革のソファは、僕の身体を優しく包み込むように沈む。詩織さんはアンプのスイッチを入れ、いくつかのツマミを調整している。そして、僕の隣にちょこんと腰を下ろすと、新しいページのメモを僕に見せた。
『この部屋はね、床も、このソファも、全部が振動するようになってるの。「体感音響システム」っていうんだけど、音を身体で感じることができる。耳で聴くんじゃない。全身で、聴くの』
全身で、聴く?
僕にとって「振動」とは、これまで不快なノイズと同義語だった。工事現場の地響き、満員電車の揺れ、大通りを走るトラックの騒音。それらは全て、僕の世界の静寂を乱す、意味のない暴力的な刺激でしかなかった。
詩織さんは、僕の戸惑いを読み取ったように、優しく頷いた。
『大丈夫。きっと、違うから』
彼女はそう書くと、ターンテーブルにそっと針を落とした。
――その瞬間、世界が変わった。
最初に感じたのは、地を這うような、ものすごく低く、長い振動だった。その振動は、ソファの背もたれから、床から、僕の身体の芯へと直接伝わってくる。暴力的なノイズとは全く違う。それは、整理され、調律された、意味のある「響き」だった。
詩織さんが、隣でメモを僕の膝に置く。照明の光を受けて、彼女の文字が浮かび上がった。
『――最初は、深い森の夜明けのよう。まだ太陽は昇らない。霧が立ち込めて、木々の輪郭もぼんやりしている』
その言葉を読んだ瞬間、僕の全身を伝う振動が、目の前に情景を描き出した。そうだ、これは深い森だ。夜の冷気と、湿った土の匂いを含んだ、静謐な空気。僕の背中を、足の裏を、その森の空気が撫でていく。
聞き進めると、やがて、振動に変化が訪れた。低く長く続いていた響きの上に、もう少し輪郭のはっきりした、断続的な震えが重なる。トン……トン……と、ソファを通して、僕の心臓に直接響いてくるような感覚。
膝の上のメモに、詩織さんのペンが走る。
『そこに、迷い込んだ一匹の獣の、孤独な足音が重なるの。ゆっくりと、慎重に。何かに怯えるように』
獣の足音。そうだ、これは足音だ。霧一体の森を、一歩、また一歩と進む、孤独な獣。その不安や寂しさが、振動のわずかな揺らぎから伝わってくるようだった。僕は思わず目を閉じる。瞼の裏に、詩織さんの言葉と、身体が感じる響きによって生まれた、僕だけの森が広がっていた。
音楽は、さらに表情を変えていく。振動は次第に力強さを増し、細かく、鋭くなっていく。それはまるで、獣が何かを見つけ、駆け出す時の鼓動のようだ。ソファが、床が、僕の身体ごと震わせる。それは、恐怖や不快感とは全く違う、生命の躍動そのものだった。
全身の細胞が、その響きに共鳴して目覚めていくような感覚。
詩織さんのメモが、その情景を補ってくれる。
『夜明けの光が、木々の隙間から差し込んできた。獣は光に向かって走り出す。不安を振り切るように、希望を求めて』
光……!そうだ、この鋭く、高まっていく響きは、光の粒だ。森の闇を切り裂いて降り注ぐ、無数の光の矢。それらが僕の肌を打ち、身体の奥深くまで突き刺さる。不快だったはずの振動が、今は歓喜の奔流となって僕を包み込んでいた。
これまで僕が「音のない世界」と呼んでいたものは、一体何だったのだろう。僕の世界にも、振動は常に存在していた。ただ、僕はその意味を知らなかっただけだ。翻訳してくれる人がいなかっただけだ。詩織さんの言葉という道標を得て、僕の身体は初めて、振動という名の言語を理解し始めていた。
曲がクライマックスに達した時、振動は嵐のようになった。低く唸る響きと、鋭く震える響きが複雑に絡み合い、巨大なうねりとなって僕に押し寄せる。それはもはや、森の情景ではなかった。剥き出しの感情の塊そのものだった。悲しみ、喜び、怒り、絶望、そして祈り。名状しがたい全ての感情が、渾然一体となって僕の魂を揺さぶる。
僕は、ソファの肘掛けを強く握りしめていた。涙が、頬を伝っていることにも気づかなかった。これは、あのジャケットのチェリストの魂の叫びなのだ。彼が、その全身全霊をかけて楽器から絞り出した、言葉にならない言葉なのだ。
やがて、嵐のような響きは静まり、最後の音が、長い余韻を残して消えていった。ソファの振動が止むと、部屋には完全な静寂が戻ってきた。しかし、それは僕が今まで知っていた静寂とは全く違っていた。僕の身体の中に、音楽の残響がまだ渦巻いている。血の一滴一滴が、あのチェロの響きを記憶しているようだった。
呆然としている僕の隣で、詩織さんがそっとメモを書いた。
『おかえりなさい』
その言葉に、僕は自分がどこか遠い世界へ旅をしていたのだと、初めて気づいた。僕はゆっくりと、詩織さんの方を向いた。彼女は、少し心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
僕は、震える手でペンを取り、彼女のメモ帳に返事を書いた。
『ただいま』
たった四文字を書くだけで、精一杯だった。
僕たちは、どちらからともなく微笑み合った。音楽を共に「体感」したという不思議な一体感が、僕と彼女の間を満たしていた。それはもう、単なる店員と客の関係ではなかった。同じ秘密を共有し、同じ風景を見た、共犯者のような……、あるいは、共に旅をした仲間のような、特別な絆。
この体験は、僕の創作の世界を根底から揺るがした。言葉だけで構築していた僕の物語に、「響き」という新しい次元が加わったのだ。これまで表現しきれなかった感情の機微や、情景の深みを、この身体が覚えた響きでなら、描けるかもしれない。あの『月のクジラ』の物語に、本物の海の響きを、月光の音色を与えることができるかもしれない。
試聴室を出ると、店の外はすっかり夕暮れに染まっていた。詩織さんは、あのチェロのレコードを丁寧に袋に入れて、僕に手渡してくれた。
『またいつでも、聴きにおいでね。ここにある音は、全部あなたのものだから』
彼女のメモの文字が、夕陽を受けて金色に輝いて見えた。
僕は、何度も何度も頷き、店を後にした。帰り道、僕は自分の身体の内側で鳴り続けている音楽の余韻に、ずっと耳を澄ませていた。それは、僕だけが聴くことのできる、僕のためだけの音楽だった。
もしも音が聴こえたなら、と夢想したことは数え切れない。だが、今日、僕は音を聴いたのだ。耳ではない、この全身で。世界は相変わらず静かな絵画のようだったが、その絵の具の下に、暖かく、力強い脈動が流れていることを、僕はもう知っていた。僕の物語は、ここから、本当の意味で始まるのかもしれない。




