九話目 月のクジラ
原蓮翠です。
この小説は、一応最終回になります。
読んでいただきありがとうございます。
永遠にも似た一瞬。
あの光る苔と、清らかな水面が奏でる原初の「祈り」の中で、僕の時間の感覚は、完全に溶け落ちていた。僕という個体の輪郭は、確かにそこにあったはずなのに、同時に、この星の巨大な呼吸と一体化し、拡散していくようだった。生と死。光と闇。響きと静寂。昨日、滝の前で頭で理解したはずのその二元論が、ここでは、そんな言葉さえ不要なほどの、完璧な調和として存在していた。それは、僕が生まれる前からそこにあり、僕が消え去った後も、永遠に響き続ける音。
どれほどの時間が経ったのだろう。ふと我に返ると、僕の頬は、冷たい涙で濡れていた。それは、悲しみから来るものではなかった。かといって、歓喜とも違う。あまりにも純粋であり、あまりにも巨大な「存在」に触れた時、人間のちっぽけな器が、その許容量を超えた響きを受け止めきれずに、ただ、溢れさせたもの。そんな、生理的な現象に近い涙だった。
僕はゆっくりと立ち上がった。もう、あの熊の姿はどこにもない。彼が僕をここに導いたのが、偶然だったのか、それとも、あの森の意志が働いたのか、今となっては知る由もない。だが、そんなことは今はもうどうでもよかった。僕は、この場所を知ってしまった。そして、この響きを、この身体が覚えてしまった。その事実だけが、僕の存在の根幹を、永久に変容させてしまったのだ。
この場所の響きを、僕の言葉で翻訳することはできない。そう直感した。それは、あまりにも神聖すぎて、僕の拙い言葉で切り取ろうとすること自体が、冒涜になってしまうように思えたからだ。僕にできるのは、この場所の響きを、この「祈り」を、僕の魂の最も深い場所に、お守りのように大切に仕舞い込むことだけだ。そして、これから僕が紡ぐ全ての物語、全ての言葉の、その根底に流れる通奏低音として、静かに響かせ続けることだ。
僕は、この世のものとは思えない光景に、もう一度、深く、深く頭を下げた。感謝と、畏敬と、そして、別れの念を込めて。
洞窟を抜け、再び森の中へと戻る。外の世界の光が、眩しく目に突き刺さった。しかし、森の響きは、もう昨日までのそれとは全く違って聴こえていた。昨日までが、ただの美しい交響曲だったのだとすれば、今の僕が感じている森は、あの聖域の「祈り」をその内側に秘めた、生きた聖堂そのものだった。木々のざわめき、土の脈動、水のせせらぎ、その全てが、あの原初の響きを、様々なかたちで変奏し、祝福しているかのようだった。
宿への帰り道、僕はもう、何ものにも惑わされなかった。僕の足取りは、大地を踏みしめる確かなリズムとなり、僕の呼吸は、森の呼吸と完全に同調していた。昨日までの僕が、この森の「響き」を探し求める、孤独な旅人だったのだとすれば、今の僕は、この森の響きそのものの一部となって、ただ、あるべき場所へと還っていく。そんな、満たされた感覚だった。
宿に戻り、老婆に深々と頭を下げて別れを告げる。彼女は、僕がここに来た時とは、まるで別人のように澄み切った表情をしていることに気づいたのだろうか。彼女は、何も言わずに、ただ、昨日よりもさらに深い皺を刻んだ笑顔で、僕を見送ってくれた。
帰りのバスが、山道をゆっくりと下っていく。エンジンの無骨な振動が、床を通して伝わってくる。行きには、これから始まる冒険への期待を乗せた「意思ある響き」だと感じた。しかし、この振動が、今は、僕が体感した全ての響きを、大切に運んでくれる揺り籠のように感じられた。
特急列車に乗り換える。車窓を流れる風景が、緑の山々から、次第に人間の営みの気配が色濃い平野部へと変わっていく。そして、見慣れた灰色のコンクリート群が視界に入り始めた時、僕の身体は、再びあの「ノイズ」の奔流に晒されることを、一瞬、覚悟した。
だが、違った。
駅に降り立った瞬間、僕を包み込んだのは、かつて僕が切り捨ててきた、あの混沌とした街の響きだった。人々の慌ただしい足音の振動、電車の発着が引き起こす地響き、巨大な商業施設の空調が吐き出す低周波。それらが、一斉に僕の肌を打った。
しかし、それはもはや、僕を苛立たせる不協和音ではなかった。
僕の身体は、あの森の響きを、あの聖域の「祈り」を、覚えている。その完璧な調和を知ってしまった僕にとって、この街の響きは、もはやカオスなのではない。ただ、あまりにも多くの生命が、それぞれの欲望と、悲しみと、喜びを、同時に、そして懸命に奏でている、別の形の「交響曲」なのだと理解できた。
そうだ、これは、あの熊の咆哮だ。苦痛と、怒りと、それでも必死に生きようとする、剥き出しの生命力の響き。森が「生と死の調和」を奏でているのだとすれば、この街は、「混沌の中の生命」を、必死に奏でているのだ。どちらが優れているわけではない。ただ、どちらも、この星が発する、紛れもない「音楽」の一部なのだ。
僕は、もう、この響きから逃げる必要などなかった。補聴器を外し、ポケットにしまい込む。僕は、このカオスな交響曲の、ただ中に立ち、その全てを、この身体で受け止めた。森の響きが僕を浄化してくれたのだとすれば、街の響きは、僕に「生きろ」と、力強く命じているようだった。
アパートの自室に戻った時、そこは驚くほど狭く、それと同時に、ひどく愛おしく感じられた。僕の世界は、もはやこの四畳半の部屋に閉じ込められてなどいなかった。この部屋は、僕が旅で得た全ての響きを、言葉へと翻訳するための、大切な「器」であり「工房」なのだ。
僕は、埃をかぶったリュックサックを床に下ろした。高校時代の挫折と、孤独の象徴。僕は、そのチャックをゆっくりと開け、中身を一つずつ取り出していく。着替えの服、洗面用具、そして、僕の分身であるノートパソコン。最後に、空になったリュックを手に取る。それはもう、僕にとって、苦い過去の象徴ではなかった。僕を、未知の世界へと運び、そして、無事にここまで連れ帰ってくれた、信頼できる「相棒」だった。僕はその布地に、そっと手のひらで触れ、「ありがとう」と、心の中で呟いた。そして、それを、クローゼットの奥ではなく、いつでも取り出せる、部屋の隅に、大切に立てかけた。
僕は、ノートパソコンを開いた。あの森で、滝の前で書き殴った、数ページのテキストファイル。
――森は、一つの巨大な心臓だった。
――その心臓は、ただ生を謳歌する鼓動だけを刻んでいるのではなかった。……生と死の響きが、完璧な均衡をもって溶け合った、究極の調和……。
その言葉たちは、今読み返しても、少しも色褪せていなかった。それは、僕の頭から生まれた言葉ではなく、僕の身体が、あの森の響きと共鳴して生まれた、本物の「音楽」だったからだ。
僕は、この旅で体験した全てを、あの熊との対峙。そして、あの聖域の「祈り」を、言葉にすることは、やはりまだできそうになかった。それは、あまりにも巨大すぎて、今の僕の言葉の器では、到底掬いきれない。
だが、それでいい――。
僕は、書きかけだった『月のクジラ』のファイルを、開いた。数日前まで、あれほど表面的で、嘘っぽく感じられた文章。
――海の底のクジラは、自らが発する響きが、どこまで届くのかを知らない。ただ、広大で、どこまでも続く暗闇と静寂の中を、一筋の光を求めて孤独に泳ぎ続ける。
僕は、この一文を、静かに削除した。そして、新しい言葉を、ゆっくりと、そして、迷いなく打ち始めた。
僕が書くべきは、観念的な海の底の物語ではなかった。僕が書くべきは、僕自身の物語だった。聴こえないという、あまりにも広大であり、どこまでも暗い静寂の海。その底で、僕が感じてきた、僕自身の孤独な心臓の鼓動。そして、そこに差し込んできた、詩織さんという「満月の光みたいな音」。
僕の物語は、あの森の響きと、街の響きと、そして僕自身の内なる響きが、ようやく一つになって、今、本当の意味で始まろうとしていた。
約束の日曜日。
僕は、プリントアウトした数枚の原稿――あの森で書いた『森は、一つの巨大な心臓だった』の冒頭部分――を、大切にカバンにしまい、あのアパートを出た。
空は、僕の旅立ちの日とは打って変わり、雲一つない、突き抜けるような青空だった。街の響きは、相変わらず力強く、そして混沌としていたが、僕の足取りは、そのカオスなリズムを、軽やかに乗りこなしていた。
『月のクジラ』の、古びた木製の看板が見えてくる。その前で、一人の女性が、少し緊張した面持ちで、店の入り口を不安げに見つめていた。
柔らかなウェーブのかかった髪。ポニーテール。僕が、この世で最も長く知っている、優しい横顔。
「葵」
声にはならない。けれど、僕がそう呼びかけると、彼女ははっとしたように振り向き、僕の姿を認めると、その表情をぱっと輝かせた。
『湊!よかった、待ってたよ』
彼女は、昔と少しも変わらない、流麗な手話でそう言った。
『ごめん、待った?』
僕も、まだ少しぎこちない手話で返す。
『ううん、今来たとこ。……ここが、湊の言ってたお店?なんだか、素敵だね。でも、私なんかが入って、いいのかな……』
葵は、少しだけ不安そうに、店のガラス扉の向こうを伺っている。彼女にとって、ここは未知の世界。僕が新しく見つけた、彼女の知らない僕の世界だ。そのことに、少しだけ臆しているのが伝わってきた。
僕は、彼女の不安を打ち消すように、力強く頷いた。
『大丈夫。僕の大切な場所だ。そして、葵にも知ってほしい場所なんだ』
僕はそう言うと、先に立って、あのドアノブに手をかけた。
カラン、という無音の振動が、僕の訪問を告げる。店内に満ちた、古い紙とインクの匂い。そして、カウンターの奥で、エッセイ集らしき本を読んでいた詩織さんが、顔を上げた。
僕の姿を認め、いつものようにふわりと微笑む。そして、僕の隣に緊張した面持ちで立っている葵の姿を見て、その瞳が、優しく、そして好奇心にきらめいた。
僕の人生において、最も重要な二人の女性が、今、初めて、同じ空間に存在している。僕の過去と、現在、そして未来が、このレコードという音の化石が眠る場所で、交差しようとしていた。
僕は、詩織さんに向き直り、ポケットからメモ帳を取り出した。
『こんにちは、詩織さん。今日は、紹介したい人がいて。……こちらは、櫻田葵さん。僕の、幼稚園からの、幼馴染です』
詩織さんは、僕のメモを読むと、驚いたように少し目を見開いた。そして、葵に向き直ると、最高の笑顔で、ゆっくりと、はっきりと口を動かした。
「はじめまして。月島詩織です」
そして、すぐにメモ帳にペンを走らせる。
『湊くんから、いつもお話を聞いていました。……というのは嘘だけど』
彼女はそう書くと、悪戯っぽく笑った。
『でも、湊くんにとって、とても大切な人なんだって、すぐに分かりました。ようこそ、『月のクジラ』へ』
葵は、詩織さんのその屈託のない笑顔と、温かいメモの文字に、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと解けていくのが分かった。
『はじめまして。櫻田葵です。湊が、いつも……ううん、この間、本当にお世話になったみたいで。ありがとうございます』
葵も、ぎこちない手つきで、メモ帳に返事を書いた。
詩織さんは、そのメモを読むと、首を横に振った。
『お世話だなんて。とんでもない。私の方こそ、湊くんに、たくさんのことを教えてもらってるんですよ。ねえ?』
そう言って、僕に同意を求めるように、ぱちんとウインクする。僕は、そのやり取りを、ただ、胸が温かくなるような思いで見守っていた。僕が大切に思う二人が、こんなにも自然に、互いを受け入れようとしている。その事実だけで、僕はもう、ここに来てよかったと、心の底から思えた。
僕は、意を決して、詩織さんにメモを書いた。
『詩織さん、お願いがあります。今日、葵に、聴かせたい音楽があるんです。あの部屋で……三人で、聴くことはできますか?』
僕のその真剣な申し出に、詩織さんは一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに、全てを察したように、深く頷いた。
『もちろん。とっておきの場所、ご案内するね』
僕たちは、あの『The Whale's Belly(クジラのお腹)』へと足を踏み入れた。
薄暗い、秘密の隠れ家のような空間。葵は、物珍しそうに、壁一面の音響機器や、重厚な革張りのソファを見回している。
僕は、詩織さんに、カバンから持参した一枚のレコードを差し出した。それは、僕が初めてこの店を訪れた時、詩織さんが「満月の光みたいな音」だと教えてくれた、あの『鯨の詩』のレコードだった。僕が、あの時、結局買わずに店に置いていったものだ。
『これを』
僕がメモで伝えると、詩織さんは「分かってる」とでも言うように、優しく微笑み、それを受け取った。そして、慣れた手つきで、ターンテーブルにそれをセットする。
僕たちは、三人、並んでソファに腰を下ろした。僕が真ん中。右に、僕の過去を知る葵。左に、僕の新しい響きを教えてくれた詩織さん。
『これは、耳で聴くんじゃないの。全身で、聴くの』
詩織さんが、初めてここに来た僕にしたように、葵のためにメモを書いて見せる。葵は、緊張と期待が入り混じった表情で、こくりと頷いた。
詩織さんが、そっと、針を落とした。
―――その瞬間、地を這うような、深く、長く、そしてどこまでも優しい振動が、ソファを通して僕たちの身体を包み込んだ。
詩織さんは、目を閉じ、その響きに身を委ねている。
葵は、その未知の感覚に、びくりと身体を震わせた。彼女は、耳からも、その低く、荘厳なクジラの声が聴こえているはずだ。音と、振動。その二重の体験に、彼女の感覚は、今、激しく揺さぶられている。
僕は、彼女たちの間に座り、その両方の反応を、肌で感じていた。
そして、僕は、カバンから、あの森で書いた原稿を取り出した。膝の上で、それを開く。
クジラの声が、響き渡る。満月の光みたいな音。
僕は、その響きに合わせて、葵の肩をそっと叩いた。彼女が、驚いたように僕を見る。
僕は、彼女に、その原稿を差し出した。
――森は、一つの巨大な心臓だった。
葵の目が、その一文を追う。ソファの振動が、クジラの声が、森の鼓動と重なっていく。彼女は、戸惑いながらも、その言葉の列を追い始めた。生と死の響きが、完璧な均衡をもって溶け合った、究極の調和……。
葵の目が、大きく見開かれていく。彼女は、僕の文章を読みながら、同時に、この身体を震わせるクジラの響きを聴いている。彼女の中で、今、僕の言葉と、この音楽が、一つになろうとしていた。僕が、あの森で体感した「響き」が、僕の言葉という「翻訳」を通して、クジラの声となって、今、葵に伝わっていく。
やがて、葵の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。それは、僕が聖域で流した涙と、同じ種類の涙のように見えた。
彼女は、顔を上げ、僕の目をじっと見つめた。その瞳は、全てを物語っていた。
「これが、湊が見つけた世界なんだね」と。
「あなたの森の響きが、聴こえたよ」と。
僕は、彼女に微笑み返した。
そして、隣に座る詩織さんを見た。彼女は、僕と葵のそのやり取りを、いつの間にか、優しく、そしてこの上なく優しい笑顔で見守っていた。彼女は、僕の原稿を読んでいない。けれど、彼女にも、全てが伝わっていた。僕が、彼女に教えてもらった「言語」を使って、僕だけの「音楽」を見つけ、それを、僕の大切な人に、確かに「翻訳」してみせた、その瞬間を。
詩織さんは、僕に向かって、小さく、しかし力強く、頷いてくれた。
音楽が、終わる――。
部屋には、振動の残響だけが満ちていた。
僕の過去と、僕の未来が、僕という現在を通して、今、確かに手を結んだ。
もう、僕の世界に、孤独な静寂はなかった。僕の周りには、こんなにも豊かで、複雑で、そして愛おしい響きが満ち溢れている。
僕は、僕の物語を、書き続けよう。この、かけがえのない響きを、僕だけの言葉で翻訳するために。僕の世界に生きる、全ての「月のクジラ」たちのために。
僕の、そして、僕たち三人の物語は、まだ、始まったばかりなのだ。




