個人的な回想(皮膚の感覚とターンオーバーについて)
子どもの頃、カッターナイフで指を切って一針縫ったことがあった。あの傷跡はずっと残ると思っていなかった。しかし、なんとなく躊躇なく全身をアカスリでこすり続け、気づけば半年が過ぎていた。
皮膚に負荷をかける行為は一般的には避けるべきものだが、私にとっては、様々な経験から傷ができている最中が最も免疫力が高まる時期だと感じていた。
特に冬になると、乾燥肌によるかゆみが顕著に現れた。家族から見れば、エアコンをつけるだけで私がかゆみに悩む姿は一種のトラウマのようだった。しかし、自分の感覚ではそれは単なるかゆみではなく、まるで虫が皮膚の下を這っているような違和感に近かった。私は掻きむしるのではなく、じっとその感覚に耐えていた。汗をかいたときと同じ症状が出ることもあり、脱水状態ではないかと考え、冬なのに水分を意識的に補給することもあった。
しかし今年になって、その冬のかゆみはまったく現れなくなった。自分では丹念に続けてきたアカスリの影響だと思っているが、家族の反応は冷ややかで、「また変なことをしているんじゃないか」という視線を向けられる。それでも、自分にとっては、長年付き合ってきた不快な感覚が静かに消え、身体の調子が少しずつ整っていくのを実感している。
鼻周りの毛細血管も以前は気になったが、こまめに垢すりをしていくうちに目立たなくなった。アレルギー性鼻炎も、鼻うがいの影響か、ここ2年ほど風邪を引くことがなかった。皮膚のかゆみ、鼻の変化、そして風邪を引きにくくなった体調――こうした現象を振り返ると、私にとってアカスリは単なる習慣ではなく、身体の自然な再生や防御機能と向き合う方法だったのだと思う。
かゆみという感覚を通じて、皮膚が語る声に耳を澄ませる。こすったときににじむ血やほてりは、単なる損傷ではなく、いらなくなった皮膚が入れ替わる合図のようにも感じられる。家族の冷たい視線をよそに、自分の身体が静かに変わり、整っていくのを実感する――そんな体験が、私の中で確かな手応えになっている。
さらに、自分なりの仮説もある。汗が出るとき、それは本来、水分が皮膚の外に排出されることを意味する。しかし、何らかの理由でこの排出が阻害され、汗による圧力が皮膚にかかると、炎症や痛みとして感覚が現れるのではないか――と考えると、長年悩んできた違和感の原因にも納得がいくように思える。
同時に、皮膚がターンオーバーするときにも、同じように痛みを感じる人がいてもおかしくないと感じる。皮膚が剥がれる際に痛みを感じないのは、人間にとってあまりにも都合がよすぎるのではないか。もしかすると、私たちは普段、その痛みや違和感を意識せずに、身体の再生プロセスを見過ごしているのかもしれない。掻くこと、こすること、そして時に血がにじむこと――その一連の行為は、皮膚を削り、再構成させるための身体の本能的な働きなのではないか。そんな仮説が、最近の私の中で静かに育っている。
もし人間に、皮膚を削除する機能があれば、シワに悩まされる必要はなかっただろう。そのシステムがないということは、人間の進化には限界があるということを示しているのかもしれない。しかし、考えてみればシワが多いのは脳だとも考えられる。人間は、身体と脳、二つのジレンマに直面しているのかもしれない。
子どもの頃に縫った指の傷跡が、アカスリの影響で薄くなったのかどうかは分からない。しかし、もしかしたら傷跡が消える可能性もある――そんな問題意識が、今の私には静かに芽生えている。
あとがき
本稿で述べたことは、あくまでも私個人の体験に基づく見解であり、皮膚科や医学界への批判を意図したものではない。既存の医学的な「血を出さない」「こすりすぎない」という方針が正しいことは理解しているし、それを否定するつもりもまったくない。むしろ、自分のやっていることは、医学的には常識から外れた奇妙な行為に見えるのかもしれない。
それでも、自分の身体がどう変化し、どう楽になり、どんな感覚を手放していったのか――そのプロセスを記録しておきたかった。それは正しさを語るためではなく、自分のなかで長年曖昧だった感覚の正体に、少しでも輪郭を与えたかったからだ。
傷跡として残る凹凸がある状態は、確かに皮膚をもろくしていることを示すと思う。しかし、自分の知っている医学的知識からすれば、皮膚を分厚く上書きするようなことはありえないとも考えている。皮膚が柔軟であることは、人間の身体にとって不可欠であり、柔軟性を保つこと自体が健康の基本である――そんな考えもまた、自分の体験を通して強く意識するようになった。




