2025年08月10日 に書いた短編 「記憶を失う肌」です
1 仮説
「皮膚は、第二の脳だ。」
ガラス張りの会議室に、私の声が響いた。
モニターには、触覚・温度・痛覚・圧力・化学刺激の感知経路を示す図が映っている。
皮膚はただの覆いではなく、膨大な情報を脳に送り続ける巨大なセンサーだ。
私は長年の研究で、さらに一歩踏み込んだ仮説を立てていた。
——皮膚には、記憶が宿る。
神経回路のように、重要な構造は容易に更新されず保持される。
もしそれが感覚記憶や経験の一部を蓄えているなら、皮膚の“記録”は脳の記憶と連動しているはずだ。
CEOは腕を組み、ゆっくりと口角を上げた。
「それを消せば……過去を消せるってことか。シミも傷も、トラウマも」
私は頷いた。だが、その先にある危険を、この時はまだ想像できていなかった。
2 ルシード・スキン
新薬の名は「ルシード・スキン」。
遺伝子治療で皮膚の記憶保持機能を破壊し、表皮を常に“初期化”する。
効果は劇的だった。施術から数週間で長年のシミは消え、古傷は跡形もなく消失する。
試験参加者たちはSNSに笑顔を投稿し、メディアは「若返り革命」と称した。
最初の異変は静かに訪れた。
「最近、妙に物忘れが多くて……」
ある被験者がそう漏らした。
忘れるタイミングは奇妙な規則性を持っていた。皮膚のターンオーバー周期——およそ25日ごとに、まるで皮膚が更新されるのと同じ速度で記憶が消えていく。
古傷が消えると、その出来事の記憶も消える。
幼い頃に走り回った庭、結婚指輪でできた小さな擦れ跡——その情景も意味も消え去る。
3 奇跡と代償
皮膚の初期化効果は、想定外の奇跡ももたらした。
手術中に失われた皮膚や、欠損した部位が徐々に再生していく症例が報告されたのだ。
戦地で片腕を失った兵士が、完全な腕を取り戻し、笑いながら握手を求めてきた。
だが、その笑みは25日後には消え、その兵士は「なぜ自分に腕が二本あるのか」も分からなくなっていた。
再生は祝福だったが、記憶のない祝福は、空洞のように冷たかった。
この再生能力は、末期患者や臓器不全の人々にも希望を与えた。
心臓を再生した少女は健康を取り戻し、歩けなかった老人が再び歩き出した。
だが、彼らはやがて、自分がなぜ病院にいたのか、なぜ治療を受けたのかすら忘れてしまう。
それでも人々は列をなし、施術を求めた。理由は簡単だ——生き延びることと、美しくなることは、何よりも強い欲望だから。
4 拡散
やがて判明した。これは一過性の副作用ではなく、恒久的な変化だ。
皮膚の記憶保持遺伝子は一度改変されれば二度と戻らず、その人は生涯25日周期で過去を失い続ける。
だが、規制の動きが出る前に施術は世界中へと広まった。
富裕層は永遠に若い外見と再生能力を得、貧困層は闇市場の簡易版で安く施術を受けた。
PTSD患者はトラウマを消すために志願し、犯罪組織は証言者の記憶を消すために利用した。
軍は捕虜や諜報員に施し、情報漏洩を物理的に防ぐ手段とした。
気づけば、街には過去を持たない人間が溢れていた。
5 文明の崩壊
25日以上前のことを誰も覚えていない人々は、表面的には普通の生活を送っているように見えた。
だが、会話は浅く、物語は続かない。約束は破られ、計画は立てられず、文化行事の意味も消えていった。
法律や契約は機能せず、ビジネスは常に“初日の交渉”に戻る。
病院では医師が患者の名前を忘れ、技術者は同じミスを繰り返す。
新聞は同じ記事を何度も載せ、学校では毎月同じ授業が繰り返された。
人間はまだ言葉を話し、食事をし、互いに触れ合った。
だが、そのやり取りにはもう意味がなかった。
都市は外見こそ現代的だが、内側は知性を失った“猿の惑星”だった。
6 最後の記録
今や、記憶を保持できる人間は少数派になった。
私の研究所もほとんどが施術済みで、助手たちは25日ごとに私の名前を聞き直す。
私は自分が施術を受けないよう誓ってきたが、昨日、鏡を見て気づいた。
左頬の古傷が消えていた。
子どもの頃、庭で犬と遊んでいて転んだ時にできた、小さな線のような傷。
いつ、どうして消えたのか、思い出せない。いや、その犬の姿も、その庭も、もう思い出せない。
——記録者も、やがて消える。
これはおそらく最後の記録だ。
もしこれを読む者がまだ25日以上の記憶を持つなら、どうか警告と受け取ってほしい。
人間は皮膚から生まれ変わり、皮膚と共に滅びる。
そして世界は、過去を持たない者たちの惑星へと変わりつつある。
彼らは笑い、遊び、愛し合う。
だがその笑みが何を意味しているのか、誰にも確かめる術はない。
なぜなら、確かめようとする記憶すら、25日後には消えてしまうのだから。




