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きみに、風が吹くまで

作者: Yuu Kusatome

きみに、風が吹くまで

 

第一章:風のない町へ


 夏の朝は静かに始まる。窓の外の田んぼと山々が、風に揺れるなか、風見凛は車椅子を操作していた。

 山あいの静かな町。短期転校は母の提案だった。「二拠点通学制度」と言うらしい。空気を変えたら気持ちも変わるかもしれない――そんな期待が込められていた。でも凛は、変われるものならとっくに変わっていたと思っていた。

 この町の高校に通い始めたのは昨日。初日は歓迎ムードだったが、その裏にある「特別扱い」はすぐに察知できた。声をかけてくる教師の笑顔も、妙に気を遣ったクラスメイトの視線も、すべてがガラス越しのやさしさだった。

「風見さん、次、こっちの教室ですよ」

 声をかけてきたのは、高倉三穂。さっぱりとした短髪の少女で、笑うと口角がきゅっと上がる。初日から何かと世話を焼いてくるこの子に、凛は少しだけ警戒していた。

「ありがとう。自分で行けるから」

 静かにそう答えると、三穂は立ち止まって、ふっと笑った。

「へえ、じゃあ見てるね。変な段差とかあったら助けるから」

 それだけ言って、先に歩き出す。あっさりした態度に、少しだけ肩の力が抜ける気がした。必要以上に手を出されるより、その方がずっと楽だった。

 教室の扉を開けると、ざわついていた空気が一瞬止まり、すぐに何事もなかったかのように再び動き出す。席に着くまでの間に感じたその「間」は、凛にとってはもう慣れたものだった。

 ――慣れた、というのも変な言い方だけど。

 昼休み。三穂が何気なく声をかけてくる。

「風見さんって、走るの好きだった?」

「……どうして?」

「いや、車椅子の動き、なんかリズムあるなって思って」

 答えに詰まる。そんなこと言われたのは初めてだったからだ。

「……好きだったよ。昔はね」

 その一言に、三穂はにんまりと笑った。

「そっか。やっぱりね。なんかそういう人って、動きに出るんだよ。不思議だけど」

 軽口に聞こえたその言葉は、どこかで凛の奥にあるものを揺らした。

 その日の夕方。校門を出たところで、三穂が凛に尋ねた。

「明日、ちょっと寄り道して帰らない? 近くに、風の丘って場所があるんだ。けっこうきれいだよ」

 凛は少し迷ってから、静かに頷いた。

「……わかった。行ってみる」

 風なんて、いまはどこにも吹いてない。でも、もしかしたら……そう思わせる何かが、その少女にはあった。



第二章:動かない風車


 風の丘は学校から少し離れていた。丘の上には広い空とゆるやかな風が待っていた。風に揺れる草花の音は、東都では見られない景色だった。

 丘の中央には、古びた風車が立っていた。錆びた羽根は片方が折れていて、もう動く気配はない。

「ここ、風が強いと羽がちょっとだけ回るんだよ。ほんとにちょっとだけだけどね」

 三穂は草の上に寝転がりながら、空を見上げて言った。

 凛はゆっくりと車椅子から降りて、敷物の上に移動する。彼女は足を伸ばして座ることができる程度には身体を動かせたが、立ち上がることはできなかった。

「……ずいぶん古いね、この風車」

「うん。動かないけど好き。ずっとここにあるって、なんかいいなって思わない?」

「壊れてても?」

「うん、壊れてても。そこにあるってことが大事なんじゃない?」

 凛は答えなかった。けれど、その言葉は妙に心に引っかかった。

 ――壊れても、そこにあることに意味がある?

 それは、誰かにそう言ってほしかった自分への答えだったのかもしれない。

 翌日。学校の昼休み、いつものように三穂が隣の席にやって来る。

「凛ってさ、あんまり人と群れないよね」

「……そう見える?」

「うん。というか、避けてるでしょ?」

 言葉を濁さずに言い切る三穂に、凛は思わず眉をひそめる。

「そういうあなたも、一人でいること多いけど?」

「あたしはね、人に期待しないだけ。無駄に気を遣われるより、ひとりでいる方が気楽じゃん」

 それは凛にとっても同じだった。けれど、彼女は「気楽」ではなく、「寂しい」を知っていた。

 放課後。体育の時間、凛は見学席に一人きりだった。グラウンドでは女子たちがリレーの練習をしている。

「ねえ、あの子、足悪いんでしょ? でも顔は可愛いよね。男子とか、好きそう」

「まさか。めんどくさそうじゃん。付き合っても色々制限ありそうだし」

 悪意というほどではないが、風に乗って届くその声は凛の心をじわじわと締めつける。

 ――ああ、これか。またこれだ。

 過剰な気遣いのあとは、無関心、そして距離。ずっと繰り返してきた。誰かと距離が近づきそうになるたび、同じ痛みを味わってきた。

 その晩。下校途中に三穂が話しかけてくる。

「ねえ、知ってる? 車椅子の陸上競技って、すっごく速いんだよ。あたしの自転車よりも速いんだって」

「……それがどうしたの?」

「凛も、走ってみたくない? もし競技用の車椅子があれば――」

「やめて。そういうの、もういいから」

 ぴしゃりと切るように言う凛の声に、三穂は目を見開く。

「どうして?」

「だって、私は『走れない』の。なのに『走ってみれば?』って……。そうやって希望を持たされるのが一番つらいの」

 言葉が詰まる。押し殺してきた気持ちが、ひとつひとつ表に出てきてしまいそうだった。

「何かを『してあげたい』って思ってくれるのは、ありがたい。でも、その気持ちが重くなることもあるって、知らないでしょ」

 三穂は何も言わなかった。ただ、凛の目をじっと見ていた。

「……ごめん。でも、あたしは『あげる』つもりなんてなかったよ」

「え?」

「あたしは、一緒に『走りたい』って思っただけ」

 静かに、でも真っ直ぐにそう言った三穂の声は、妙に凛の胸を貫いた。

 その夜、凛は一人で風の丘に行った。車椅子をゆっくりと押しながら、舗装されていない道を進む。

 風車は、やっぱり動いていなかった。けれど、あのときと違って、草が少しだけざわめいていた。



第三章:あの丘で、風を待つ


 風の丘は、午後の淡い日差しに染まっていた。草や土や空の匂いが、凛の身体に静かに染み込んでくる。

「いた。……やっぱり来てた」

 背後からかけられた声に、凛は肩をすくめる。振り向くと、汗をかいた三穂が手を振りながら近づいてくる。

「探したよ。……ひとりで来たんだ」

「たまには、ね」

 軽くそう返すと、三穂は無言で隣に座った。風が二人の間を抜けていく。けれど、風車は今日も動かない。

「このあいだは、ごめんね」

 三穂がぽつりと言った。

「あたし、自分が『正しいことしてる』って思ってた。凛を元気づけたくて、走るってことを夢みさせたくて。けど、それってただの自己満足だったのかもしれない」

 凛は答えなかった。代わりに空を見上げた。澄んだ青がどこまでも広がっていて、まるでどこにも壁なんてないみたいに見えた。

「あの、実はね……」

三穂は少し言いよどんだ。

「あたし、中学の時、陸上部だった。マネージャー役だったけど、本当は走りたかった。結局、試合に出られたのは一回だけ」

そう言って、三穂は右膝をさする。

「あの頃から、羨ましかったんだ。凛みたいに、進む意味をちゃんと考えてる人が」 

 初めて聞く三穂の弱さに、凛は少し驚いた。

「でも……もし、凛がそれでも、もう一度だけ『風を感じてみたい』って思ってくれるなら、見せたいものがあるの」

 そう言って、三穂はスマホを取り出した。再生された動画には、競技用車椅子が猛スピードで走る映像。金属音と歓声が響き、まるで異世界のようだった。

「すごい速さ……」

「でしょ? トップ選手は時速三十キロ以上。競技用車椅子は三輪で前傾姿勢、とにかく速くて軽いんだって」

 三穂は画面をスクロールしながら、違う選手の映像を見せた。

「自由……」

「そう、風ってさ、目に見えないけど、ちゃんと存在するよね。車椅子も同じだと思うの。見た目は『制限』だけど、ほんとは『可能性』なんじゃないかなって」

 凛は、動画を見ながら言葉を探していた。自分には関係ないと、どこかで思っていた。こんな世界、自分には関係ない。でも――

「私、昔、走るのが好きだった」

 ぽつりと漏れた言葉に、三穂が反応を止める。

「小学生の頃ね。運動会とか、全力で走って、転んでも笑って、それがすごく気持ちよかった。でも、あるときから、走れなくなった。少しずつ足が動かなくなって、誰にも言えなくて。医者は『進行性の脊髄性筋萎縮症』って言ってたけど、当時は意味も分からなくて。いつの間にか、走る夢も消えていった」

 凛はそこで一度、深く息を吐いた。

「中学のとき、ある男子に告白されたの。でも、その人、私が車椅子になってるの見て、戸惑ってた。『前はもっと明るかったよ』って……言われたの。ああ、私、過去の自分と比べられてるんだって、すごく、冷たくなった」

 三穂は何も言わなかった。ただ、手をぎゅっと握ってくれていた。

「……それ以来、誰かに『何かを期待される』のが怖くなった。良くなるとか、頑張れば戻れるとか。そう言われるたびに、『いまの自分』を否定されてる気がして」

 しばらく、風の音だけが流れた。風車はやっぱり動かないままだったが、それでも草の音は生きていた。

「……ねえ、凛。実は、競技用車椅子を貸してもらえるか、今ちょっと市のスポーツセンターにお願いしてるの」

 凛は驚いたように三穂を見る。

「なにそれ、いつの間に……」

「中学のとき陸上部だったから、そのときのコーチが今も施設にいてね。話したら、『使ってくれても構わない』って言ってくれて」

「でも……私が嫌がったら?」

 三穂は少し目を伏せた。手のひらを見つめながら、その声はいつもより小さかった。

「正直、怖いんだ。凛が嫌な思いして、嫌われたらって。でもね、あたしが夢見るだけの陸上と違って、凛には可能性があると思うから。……あ、でも、これも『勝手な思い込み』なのかな」

 悔しそうに笑う三穂に、凛は思わず手を伸ばしかけた。

「そのときは、ただ一緒に風の丘でお昼寝でもする。無理には誘わないよ。でも――」

 三穂は風の吹く方を見つめた。

「一度でいいから、『いまの風』を自分で感じてほしいって、思ったの」

 三穂は、草の中からなにかを取り出した。小さな、カラフルな風車だった。

「風が吹いたら、これ、回るんだよ」

 そう言って風車を凛の膝の上に置く。手のひらサイズのそれは、陽に照らされてきらきらと光っていた。

「……いまは、吹いてないね」

「うん。でも、吹くよ。必ず」

 凛は風車を手に取り、そっと風にかざした。風は微かに、彼女の髪を揺らすだけだった。でも、それで十分だった。

 その日以来、二人は毎日のように放課後を共にするようになった。

 凛は三穂の勧めで、少しだけ陸上部の見学にも行った。競技用車椅子に実際に触れて、座って、前輪を動かしてみる。ただそれだけで、風を切る感覚がほんの少しだけ蘇るようだった。

「ねえ、凛はさ、もし将来、歩けるようになったら何したい?」

 ある日、三穂が聞いてきた。

「うーん……。朝早くに、知らない町を散歩してみたいかな。坂を見つけたら走って登って、疲れたらそのまま寝転んで空を見たい」

「いいね、それ。あたしもつきあうよ」

 凛は少し照れたように目を伏せる。風が草をさわさわと揺らし、二人の間を流れる。

「そう簡単に叶うものじゃないけどね」

「叶うかどうかより、持ってるかどうかのほうが大事なんだって」

 そう言って三穂は、例の風車を空にかざす。

「だから、これは約束。風が吹いたら、凛は走る。あたしはその時、凛のとなりを、全力で走るから」

 凛は三穂の横顔を見る。太陽に照らされた少女の表情が、まぶしすぎて直視できない。

「そんなふうに言われると……」

 凛は途中で言葉を切り、ただ風車を見つめた。風が、ふっと吹いた。小さな風車が、ほんの少しだけ回った。



第四章:走れないけど、走っている


 八月の空は、すこし鈍い光を帯びはじめていた。入道雲の輪郭が少しずつ曖昧になり、蝉の鳴き声が、遠くからゆっくりと間引かれていく。

 凛は一人で、風の丘に向かっていた。舗装されていない砂利道を、車椅子で静かに進む。車輪が跳ねるたび、身体に軽い振動が伝わる。けれどその振動は、今はもう苦ではなかった。むしろ、前に進んでいる感触として心地よく思えた。

 ――私、いま、ちゃんと進んでる。

 翌日、体育館。窓の外には蝉の声が響いている。床は陽の光を受けてまだらに光り、クラスメイトたちが体育着姿で談笑していた。その一角、バスケットゴールの下で、凛は競技用車椅子の練習に取り組んでいた。

 いまは練習を始めて1週間目。車輪を押すたびに少しずつスピードが増す。流れるような動作が目を引き、男子の一人が声を上げた。

「風見さん、最近速くなってね? フォームきれいだし」

「昨日も思ったけど、競技用車椅子で頑張ってるのってなんかいいよな」

 凛は聞こえないふりをしていたが、耳の奥にその言葉は染みこんでいた。汗で濡れた前髪を払いながら、もう一度、助走をつけて走路を進む。

 その瞬間、車椅子の前輪がひっかかり、凛は床に倒れ込んだ。

「っ……!」

 鈍い音の後、体育館がざわめいた。

「いまの……?」「あれ不自然じゃない?」

 隅からは笑い声。数人の女子たちが視線を交わす。かつての学校でもよく見た光景。嫌悪ではなく、好奇心と無関心の混ざった軽い感情。

 ジャージの裾がずれて、凛の右脚がむき出しになっていた。痛みがじわじわと広がる。

 誰も動かない中、真っ先に駆け寄ったのは三穂だった。まるで何かに突き動かされるように。

「凛、大丈夫!? 足、打ってない?」

 凛は顔を伏せたまま、答えなかった。目の奥が熱い。見られてしまった。あの瞬間の、自分の情けない姿を。

 保健室で診断を受けた結果、骨には異常はなかったが、右膝の靱帯を軽く伸ばしているとのことだった。しばらくは練習も歩行も控えるようにと伝えられた。

 放課後。凛は無言のまま、風の丘へと向かっていた。ガタガタと揺れる車椅子の振動が、痛みと悔しさをより深く刻みつけていく。丘に着き、風車の根元に座ると、凛はただ黙って風を見つめていた。

 そこへ、三穂が駆けてきた。気配を察しても、凛は顔を上げない。

「凛……」

「そんな優しさ、今はいらない」

「優しさじゃないよ。ただ、あたしも悔しかった。……あんな風に、あんな目で笑われて……」

「じゃあ怒ってよ! なんであんなことされたのか、私だってわかってる。気に入らないんでしょ、私の顔とか、成績とか、車椅子で目立つことも、全部……」

 声が震え始める。

「走ろうって思っただけなのに……ただ、ちょっとでも前に進みたくて……」

 言葉の最後は、涙に押し流された。三穂は何も言わず、凛の隣に腰を下ろした。そして、そっと肩に手を回した。ぎこちなく、でも確かなぬくもり。

 凛は、それを拒むことなく、三穂の肩に身を預けた。胸に飛び込みたいほどの気持ちを堪えて、それでも誰かに触れていたかった。そのまま、凛は声を上げずに泣いた。悔しさと哀しさと、それでもまだ捨てきれない何かが混じった涙だった。

 風が丘の上を静かに吹き抜ける。風車は、今はまだ動かない。けれど、その羽根は、確かにそこにあった。



第五章:きみに、風が吹くまで


 夏の終わりの気配が、空気の色に混じりはじめていた。蝉の声は細くなり、朝の風が少し冷たさを含んでいる。

 凛は教室の窓辺でひとり、手すさびに風車を回していた。右脚にはサポーターが巻かれ、まだ痛みは残る。競技用車椅子の練習も、いまは控えている。

 誰も話しかけてこない。けれど、誰も避けているわけではない。視線の向け方が、少しだけ変わったように思う。好奇心や憐れみではなく、ただそこにいる人としての視線。

 放課後、ロッカーを開けると、一枚の紙が落ちた。裏には小さな文字。

「この前のこと、ごめんなさい。細工をしたのは私じゃないんです。でも、あのとき笑ってしまったことは、本当にごめん。あなたがきれいだったから。きれいに、速くて、私にはないものを持ってたから」

 それだけだった。差出人はなかった。でも、その日から、体育の時間、凛のロッカーの前に水筒が置かれるようになった。冷たい麦茶の水筒。差出人不明の、言葉なき謝罪。

 ――誰かが、変わろうとしてくれてる。

 ――それだけで、こんなにも、重たかったものが少し軽くなるなんて。

 凛はその紙を畳んで、カバンのポケットにしまった。

 数日後の午後。風の丘。まだ日差しは強いけれど、風は穏やかだった。凛は風車の根元に座っていた。

「……来たね」

 三穂がハーモニカを持って、ゆっくりと近づいてきた。普段は見せないような、少し照れくさそうな顔。

「あたし、小さい頃、じいちゃんに吹き方教わってさ。下手だけど、ちょっとだけ、聴いてみて」

 そう言って吹かれた音は、どこか拙く、どこか懐かしい音色だった。草がざわめく中で、静かに音が揺れる。

 凛は目を閉じた。ハーモニカの音と風の音が重なって、まるで丘そのものが呼吸しているようだった。

「……風って、音があるんだね」

「あるよ。ほら、凛が走ったときも、風の音がしてた。あたし、ちゃんと覚えてる」

 凛は目を開けて、三穂を見た。いつもと変わらない、でも、どこか優しくて強い顔。

「ねえ、三穂。私……もう、走れないかもしれない。怖いんだよ。また、何かが壊れるのが」

「それでもいい。風が吹いたら、また感じればいいだけ。速くなくていいし、うまくなくていい……。あのとき聞けなかったんだけど、凛が競技用車椅子乗ったときどう思った?」

「……上手く言葉に出来ないけど、とにかく気持ちよかった」

 三穂は頷く。そして、ポケットから小さな風車を取り出し、凛の前に差し出した。

「覚えてる? 『風が吹いたら、走る』って」

 凛は風車に手を伸ばす。指先が三穂の手に触れて、少しだけ電流が走る。

「うん。でも、私ね……」

 凛は、風車を自分の掌に静かに乗せてから言った。

「ほんとはもう、少しだけ走ってたのかもしれない」

「え?」

「東都から、ここに来るって決めたときも。あなたと話すようになったときも。こうして丘に来るようになったときも。ずっと、心だけは動いてた。……それって、走ってるのと同じだよね」

 静かな肯定だった。三穂はその言葉を受け止めるように、小さく頷いた。

「うん。凛は、ちゃんと進んでた。あたし、それに気づかないで、勝手に引っ張ろうとしてた」

 凛は微笑んだ。風車の羽根に触れながら、前を見る。

「でも、三穂がいなかったら、きっと風の音も聞けてなかった」

 風が、また吹いた。風車がひときわ強く回る。そして、ふたりは並んで座った。もう夕方が近い。凛はふと、口を開いた。

「ねえ、三穂。もうすぐ、帰るんだ。……東都に」

 三穂の瞳に、一瞬だけ痛みのような感情が過ぎる。けれど、すぐに彼女は頷いた。

「……うん、知ってる」

「まだ全然、何もわからない。でも、こうやって風を感じたこと、忘れない。怖くても、傷ついても、走ることができたって――」

「うん」

 ふたりは沈黙したまま、草の音を聞いた。

 やがて凛がつぶやいた。

「きっと、これは奇跡じゃないんだよね。偶然出会って、偶然ちょっとだけ走れて、でも、それを『選んだ』のは、自分だったから」

「うん、奇跡なんかじゃない。凛が、選んだんだよ」

 言葉の重なりに、ふたりは笑った。痛みも、不安も、過去も、全部そのままで。けれど今だけは、風がちゃんと吹いていた。

 次の週始め。凛は荷造りをしていた。段ボールは二つ。生活用品は学校に預け、手荷物だけを持って、明日の朝、バスに乗る予定だった。

 部屋の隅には、例の風車がある。風の丘で三穂にもらったもの。昨日の風でほんの少し回ったそれは、今は静かに止まっていた。心に引っ掛かる何かがあって、凛は風車に手を伸ばした。

 ただ別れの挨拶はしないと決めていた。涙を見せたくなかったし、言葉で終わらせたくもなかった。

 けれど、校門の前で待っていたのは、やはり三穂だった。

「ねえ、凛。ちょっとだけ付き合って」

 言い出す前に拒まれることを恐れたように、三穂は早口だった。断れない空気のまま、ふたりは丘へ向かっていた。

 夕暮れの風の丘。草の匂い。少し赤みがかった光。

「……どうしてわかったの?」

「別れを言わずに帰るって、なんでわかったの」

 三穂は黙って笑った。

「凛ってさ、『大丈夫そう』な顔をするときが、一番放っておけないんだよ」

 風車の前まで来ると、三穂はふうっと息を吐いてから、凛の方を見た。

「……ひとつ、言っていい?」

「なに?」

「医者になりたいって言ってたのは、治したい人がいるからなの」

 凛は黙って聞いていた。

「それが凛。初めて会ったとき、風が止まったみたいな顔をしてた。動けないことに納得してない顔で……自分勝手だけど、あたしが風になれたらって思ったの」

 凛の目が揺れる。何かを言おうとして、言葉が出てこない。三穂は目を伏せ、風に揺れる髪を耳にかけた。

「だけど、ほんとは……」

 三穂の声が少し震える。

「ただの自己満足かもしれないって思う時もあるの。お父さんが研究している神経再生医療のこと、いつか役立つかも、って……でも、それより前から、もう……」

 凛は、視線を三穂の横顔に向けた。

「……脚が動かなくても、凛が凛じゃなくても、好きだったと思うんだよね」

 その言葉は、さらっと風のように出てきた。けれど、それがどれだけ大きなことだったか、凛にはすぐに分かった。

 その言葉は、真夏の空のようにまっすぐだった。

「……それって、なんか告白みたいだよ」

 凛がぽつりと言った。自嘲にも似た笑みを浮かべながら。三穂は笑って、凛の手にある風車を手にとった。

「けど、これは『約束』じゃないの。あたしの『宣言』っていうか……凛に、風が吹くその日まで、あたしは走り続けたいの」

 風が吹いた。ふたりの髪を揺らし、風車がふわりと回り始める。

「……うん、わかった」

 少し気恥ずかしいような間が流れて、ふたりは同時に顔をそらした。凛が微笑んだ。頬に涙がつたっていることには、もう誰も触れなかった。夏が終わっていく音が、草の間を静かに通り抜けていった。



エピローグ:風の手紙


 数年後、東都の風は丘の日々を思い出させた。大学に通う凛は、もう他人の視線を気にしなくなっていた。カフェでアイスティーを飲んでいると、スマホが震えた。三穂からのLINEだった。


(三穂)

凛!あたしのことまだ覚えてる?久しぶり!神経再建の臨床手術が日本でも始まるんだって!急に話したくなっちゃって。

けど今、東都の地下鉄で絶賛迷子中。「出口B2どこ!」って言ったらOLに引かれた。今どこにいるの?助けて〜(笑)


 凛は思わず、ふっと笑った。

「……ほんと、バカみたいにまっすぐなんだから」

 カバンの中には、今も例の風車がある。色褪せているが、羽は軽やかに回る。スマートフォンを持ち直し、短く返信を打つ。


(凛)

覚えてるよ。もちろん。今度は、私が迎えに行くから。だから、そこで大人しく迷ってて。


 送信ボタンを押すと、スマホをそっと閉じた。目を閉じると、あの丘の匂いがした気がした。草の音、夕暮れの光、そして、あの日、誰かがくれた風の感触。

 風が、吹いていた。




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