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あめつちの詩  作者: SKY
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第八章:変化の風


拓也が帰郷してから一週間が過ぎた。十二月に入り、街は徐々にクリスマスの装いを見せ始めていた。「あめつちの詩」にも、小さなクリスマスの飾りが窓辺に飾られていた。拓也の手によるものだ。


この一週間、拓也はほとんど店にいて、パソコンで何やら作業をしたり、時には店の写真を撮ったりしていた。千代は孫が何をしているのか、完全には理解していなかったが、彼を信頼して見守っていた。


「おばあちゃん」朝食の時間に拓也が声をかけた。「今日、市の文化財担当者が来るよね」


千代は頷いた。「ええ、午後二時に」


「その前に見てほしいものがあるんだ」拓也はノートパソコンを開いた。「この一週間で作ったものなんだけど」


千代は興味深そうに画面を覗き込んだ。そこには「あめつちの詩」という文字と共に、店の美しい写真が並んでいた。


「これは…?」千代は尋ねた。


「インスタグラムとツイッターのアカウントだよ」拓也は説明した。「『あめつちの詩』の公式SNSページさ」


「エスエヌエス?」千代は聞き慣れない言葉に首をかしげた。


拓也は優しく笑った。「ソーシャル・ネットワーキング・サービスの略だよ。簡単に言うと、インターネット上で情報を発信したり、人とつながったりするサービスなんだ」


千代は半分理解したような、半分混乱したような表情を見せた。


「具体的に言うと」拓也は続けた。「この一週間で『あめつちの詩』の写真や歴史、特にべっこう飴の作り方なんかを紹介してきたんだ」


拓也がスクロールすると、店内の様々な写真、昔の道具、べっこう飴を作る様子、そして子どもたちの笑顔などが次々と現れた。それぞれの写真には短い説明文が添えられていた。


「こんなに素敵な写真」千代は感心した。「あなたが撮ったの?」


「うん」拓也は嬉しそうに頷いた。「デザイナーとしての腕の見せ所さ」


千代は写真一枚一枚を見ていたが、やがて「いいね:532」という数字に気がついた。


「これは何?」と尋ねると、拓也は誇らしげに説明した。


「これは『いいね』の数だよ。532人がこの投稿を気に入ったということさ」


「まあ!」千代は驚いた。「そんなに多くの人が?」


「そう」拓也は嬉しそうに言った。「実は、この一週間でフォロワーがどんどん増えてるんだ。今、『あめつちの詩』のアカウントをフォローしている人は約800人」


「フォロワー?」千代はまた新しい言葉に戸惑った。


「『あめつちの詩』の更新を見たいと思ってくれている人たちのことさ」拓也は丁寧に説明した。「特に、べっこう飴の作り方の動画は人気で、3000回以上再生されてるんだ」


千代はただただ驚くばかりだった。自分の店のこと、自分の作るべっこう飴のことを、そんなに多くの人が興味を持ってくれているなんて。


「そして、これが一番驚くべきことなんだけど」拓也は別の画面を開いた。「『あめつちの詩』の外観写真を投稿したら、建築や歴史の専門家からコメントが来たんだ。この建物の木組みは昭和初期の貴重な様式だって」


千代は静かに頷いた。「誠のお父さんが建てた家だものね」


「そう」拓也は熱心に続けた。「そして、文化財担当者が来る前に、こういったSNSでの反応や専門家のコメントをまとめておくと、説得力が増すと思うんだ」


千代は感動して言葉が出なかった。拓也がこれほどまでに真剣に「あめつちの詩」のために動いてくれていることに、胸がいっぱいになった。


「それに」拓也はもう一つの驚きを見せた。「これを見て」


画面には、店の店頭に立つ人々の写真が映っていた。


「これは昨日の夕方撮ったんだ。SNSを見て、わざわざ『あめつちの詩』に来てくれた人たち。中には遠方から電車で来た人もいるよ」


「まあ!」千代は驚いた。「わたしの店を見るために?」


「そう」拓也は笑顔で言った。「君の店を見るために、べっこう飴を食べるために、昔懐かしい駄菓子屋の雰囲気を味わうために」


千代はうれしさと驚きで涙ぐんでいた。「信じられないわ」


「これがSNSの力だよ」拓也は自信を持って言った。「文化財担当者にも、こうした反応を見せれば、『あめつちの詩』の文化的価値をより理解してもらえるはずだ」


朝食後、千代は普段通り店を開いたが、心はどこか落ち着かなかった。午後の文化財担当者との話し合いが気になるのと同時に、拓也が見せてくれたSNSの反応が脳裏から離れなかった。


自分の小さな駄菓子屋が、こんなにも多くの人に関心を持たれているなんて。


午前中、いつもより多くのお客さんが訪れた。若いカップルや、カメラを持った大学生らしき人たち。みんな「インスタグラムで見ました」「ツイッターで知りました」と言って、千代に話しかける。


「べっこう飴、食べられますか?」

「この風車、手作りなんですか?」

「昔ながらの駄菓子屋、初めて来ました。素敵ですね」


千代は精一杯応対した。慣れない状況に少し戸惑いながらも、お客さんの笑顔を見るのは嬉しかった。


放課後、健太とさくらがいつものように店に立ち寄った。


「千代おばあちゃん!今日、学校でみんなが『あめつちの詩』の話をしてたよ!」さくらは興奮気味に言った。


「え?」千代は驚いた。


「うん!」健太も嬉しそうに頷いた。「先生が『あめつちの詩のSNSを見た』って言ってたんだ」


千代は微笑んだ。「拓也のおかげね」


「拓也さん、すごいね!」さくらは目を輝かせた。「私のお母さんも『素敵な駄菓子屋ね』って言ってたよ」


午後二時、予定通り市の文化財担当者がやってきた。中年の男性で、木村という名前だった。


「佐々木さん、はじめまして」木村は丁寧に挨拶した。「お話は伺っています。この度は貴重な建物についてご相談いただき、ありがとうございます」


千代は緊張しながらも、「こちらこそよろしくお願いします」と答えた。


拓也も加わり、三人で話し合いが始まった。拓也はまず、準備していた資料を木村に見せた。SNSでの反応、専門家のコメント、そして「あめつちの詩」の歴史をまとめた小冊子。


木村は真剣に資料を見ながら、時々うなずいていた。


「なるほど」彼は感心した様子で言った。「SNSでこれだけの反応があるとは驚きですね。特に建築関係の専門家からの評価は貴重です」


木村は店内を丁寧に見て回り、柱や梁の構造、古い棚の作りなどを確認していった。


「この建物は確かに昭和初期の商店建築として価値がありそうです」木村は専門家らしい目で見定めながら言った。「特に木組みの技術や、店舗と住居が一体となった造りは、現代ではほとんど見られません」


千代と拓也は期待と不安が入り混じった表情で話を聞いていた。


「それに」木村は続けた。「単に建物としての価値だけでなく、五十年以上続く駄菓子屋としての文化的価値、地域の子どもたちの居場所としての社会的価値も認められます」


拓也は嬉しそうに千代の肩を抱いた。「おばあちゃん、聞いた?」


木村は最後に重要な話をした。「正式な文化財指定には審査がありますが、私個人としては推薦する価値は十分にあると思います。特に『登録有形文化財』としての可能性は高いでしょう」


「登録有形文化財?」千代は初めて聞く言葉だった。


「はい」木村は説明した。「国が指定する文化財の一種で、築五十年以上経過した歴史的建造物が対象です。指定されれば、改修費用の補助や税制優遇などの支援も受けられます」


千代と拓也は喜びの表情を交換した。


「ただし」木村は少し真剣な表情になった。「いくつか条件があります。建物の原型をなるべく保存すること、文化的活動を継続すること、そして定期的な報告や一般公開に協力することなどです」


「もちろん」拓也は即座に答えた。「それらの条件は喜んで受け入れます」


木村は頷いた。「では、正式な申請手続きについてご説明しましょう」


話し合いは一時間ほど続き、その後木村は「あめつちの詩」を後にした。


「拓也」木村が去った後、千代は孫に向き直った。「これで、お店を残せるかもしれないのね」


「うん」拓也は嬉しそうに頷いた。「文化財になれば、再開発でも簡単には壊せなくなる。それに、補助金も出るから、改修費用の心配も少なくなるよ」


千代は感慨深げに店内を見回した。「こんな風に価値を認められるなんて…誠も喜んでるでしょうね」


「おじいちゃんだけじゃないよ」拓也は優しく言った。「この店を五十年以上守ってきたのは、おばあちゃんだからね」


千代の目に涙が浮かんだ。「ありがとう、拓也」


その日の夕方、「あめつちの詩」にはいつもより多くの子どもたちが集まった。健太とさくらを中心に、「守る会」のメンバーたちだ。


「千代おばあちゃん、文化財になるの?」田中が興味津々で聞いた。


「まだわからないけど、可能性はあるみたいよ」千代は微笑んで答えた。


「やった!」子どもたちから歓声が上がった。


拓也はそんな子どもたちに向かって言った。「みんなのおかげだよ。『守る会』の活動が、大きな力になった」


「僕たちに何かできることある?」健太が真剣な表情で尋ねた。


拓也は考え込むように言った。「そうだな…」


そして、彼の目に閃きが走った。


「あるよ!」拓也は元気よく言った。「文化財申請の前に、『あめつちの詩』の魅力を発信するイベントをやってみない?」


「イベント?」子どもたちは興味を示した。


「そう」拓也は説明し始めた。「例えば、『昔の遊びと駄菓子の日』みたいな。みんなで協力して、もっと多くの人に『あめつちの詩』を知ってもらうんだ」


「いいね!」さくらが目を輝かせた。「文化祭みたいに、べっこう飴の実演とかできるよね!」


子どもたちは次々とアイデアを出し始めた。手作り駄菓子の体験コーナー、昔の遊びの教室、駄菓子の歴史展示…


千代はそんな子どもたちと拓也の様子を見ながら、心が温かくなるのを感じた。かつての「あめつちの詩」の賑わいが、少しずつ戻ってきているようだった。


「誠、見ていてね」千代は心の中で呟いた。「またお店が活気づいてきたわ」


窓の外では、小雪が舞い始めていた。冬の訪れとともに、「あめつちの詩」に新しい風が吹き始めていた。



イベントの計画は急ピッチで進んだ。拓也と子どもたちは、「あめつちの詩・冬の思い出祭り」と名付けたイベントを二週間後の土曜日に開催することに決めた。


「でも、準備期間が短いけど大丈夫?」千代は少し心配そうに尋ねた。


「大丈夫だよ」拓也は自信を持って答えた。「SNSで宣伝すれば、すぐに広がるし、子どもたちも頑張ってくれる」


そして彼の言葉通り、子どもたちは熱心に準備を始めた。放課後になると「あめつちの詩」に集まり、手作りのポスターを作ったり、プログラムを考えたり、役割分担を決めたりした。


「僕は昔の遊びコーナー担当!」田中が張り切った。

「私はべっこう飴の実演を手伝うよ!」さくらも元気よく言った。

「ぼくは…受付を」健太は少し控えめに言った。


千代はそんな子どもたちの姿を見て、心から嬉しく思った。彼らが自発的に動き、「あめつちの詩」のために力を尽くしてくれる。それは彼女にとって、何よりの贈り物だった。


拓也も忙しかった。SNSでの宣伝活動、チラシのデザイン、地元新聞社への連絡など、プロのデザイナーとしてのスキルを活かした活動を次々と展開していった。


「拓也」ある夜、千代は孫に声をかけた。「あなた、本当に東京の仕事を辞めるつもり?」


拓也はパソコンから顔を上げ、優しく微笑んだ。「うん、もう決めたよ。フリーランスとして働きながら、『あめつちの詩』を一緒に守っていく」


「でも…」千代は心配そうに言った。「あなたの将来は?」


拓也は静かに答えた。「おばあちゃん、僕はこの一週間で気づいたんだ。東京では見つけられなかった『自分がやりたいこと』が、ここにあったって」


「やりたいこと?」


「うん」拓也の目は輝いていた。「デザインの仕事をしながら、歴史ある建物を守り、子どもたちの居場所を創る。それって、すごく創造的で意味のある仕事だと思うんだ」


千代は感動して言葉が出なかった。


「それに」拓也は笑顔で付け加えた。「おばあちゃんのべっこう飴の作り方、しっかり教えてもらわないとね」


千代は嬉しそうに笑った。「あら、もう上手じゃない」


拓也も笑った。「まだまだだよ。おばあちゃんの腕には遠く及ばない」


その夜、千代は久しぶりに安心して眠りについた。夢の中で、若かりし日の誠と一緒に店を開いた頃の光景を見た。そして目覚めた時、千代の心には不思議な確信があった。「あめつちの詩」は、これからも続いていくのだという確信。


イベント準備が進む中、あの島田からも連絡があった。


「佐々木さん」電話越しの島田の声は明るかった。「文化財保護の動きがあると聞きました。再開発計画も、それを考慮して修正中です」


「そうですか」千代は安堵の溜息をついた。


「実は」島田は続けた。「『あめつちの詩』の文化的価値を再開発計画の目玉にしたいと考えています。歴史的建造物として保存しながら、周辺を整備する方向で」


それは千代にとって、とても嬉しい知らせだった。


「ありがとうございます」千代は心から言った。「説明会の日も近いですね」


「はい」島田は言った。「十二月十日、よろしくお願いします」


電話を切った後、千代は拓也に島田からの連絡内容を伝えた。


「それは良かった」拓也は満足そうに言った。「再開発側も方針を変えてきたみたいだね。きっとSNSの反響や文化財保護の動きが影響したんだろう」


「あなたのおかげよ」千代は感謝の気持ちを伝えた。


拓也は首を振った。「僕だけじゃないよ。子どもたちの『守る会』の活動、そしておばあちゃんが長年店を守ってきたこと。みんなの力が集まったんだよ」


そんな会話をしている時、健太とさくらが店にやってきた。


「千代おばあちゃん、拓也さん!」さくらは元気よく挨拶した。「先生が、学校のメディアルームを使っていいって言ってくれたよ!」


「メディアルーム?」千代は首をかしげた。


健太が説明した。「パソコンとプリンターがある部屋だよ。イベントのチラシをたくさん印刷できるんだ」


「それは助かるね」拓也は嬉しそうに言った。「これでもっと多くの人に知らせることができる」


準備期間中、予想外の出来事もあった。拓也のSNS投稿を見た地元テレビ局から取材の申し込みがあったのだ。


「テレビ取材?」千代は驚いた。「わたしが出るの?」


「おばあちゃんが主役だよ」拓也は笑顔で言った。「五十年以上続く駄菓子屋と、べっこう飴作りの匠として」


千代は緊張したが、取材当日は堂々とインタビューに応え、べっこう飴の実演もした。子どもたちも一緒に映り、「あめつちの詩を守る会」の活動について話した。


番組は週末に放送され、反響は予想以上だった。SNSのフォロワーは倍増し、お店に来る人も増えた。


「信じられないわ」千代はお客さんの列を見て呟いた。「こんなに多くの人が…」


河野もお店に立ち寄り、「商店街が久しぶりに賑わってるよ」と喜んだ。


イベント前日、「あめつちの詩」は大忙しだった。子どもたちは放課後に集まり、最後の準備を進めた。健太とさくらは受付用の名札を作り、田中たちは遊びのコーナーを設置し、他の子どもたちはポスターや飾りつけを担当した。


「みんな、すごいね」千代は感心した。「こんなに頑張ってくれて」


「当たり前だよ!」さくらは元気よく答えた。「千代おばあちゃんのお店は、私たちの大切な場所だもん」


健太も静かに頷いた。「ぼくたちにとって、特別な場所だから」


拓也も子どもたちと一緒に働きながら、時には専門的なアドバイスを与えていた。彼のデザインセンスで、店内は華やかながらも懐かしさを感じさせる空間に変わっていった。


夕方、準備を終えた後、みんなで記念写真を撮った。千代、拓也、健太、さくら、そして「守る会」のメンバーたち。笑顔いっぱいの一枚の写真には、彼らの希望と決意が詰まっていた。


「明日はいよいよ本番だね」拓也は写真を撮り終えて言った。「みんな、緊張してる?」


「ちょっとだけ」健太が正直に答えた。


「大丈夫」千代は優しく言った。「みんな一緒だから」


子どもたちは「はい!」と元気よく応え、それぞれ帰っていった。


店に残ったのは千代と拓也だけ。彼らは静かに明日への準備をしながら、穏やかな時間を過ごした。


「拓也」千代はふと言った。「あなたが帰ってきてくれて、本当に良かったわ」


拓也は優しく微笑んだ。「おばあちゃん、僕こそ感謝してるよ。こうして戻ってこられて、『あめつちの詩』の未来を一緒に作れることに」


二人は窓の外を見た。小雪が優しく舞っていた。明日もきっと冷えるだろう。でも、「あめつちの詩」の中は、温かい思いで満ちていた。


イベント当日の朝、千代は普段より早く起きた。窓の外を見ると、薄く雪が積もっていた。でも、空は晴れており、今日は天気に恵まれそうだった。


「おはよう、おばあちゃん」拓也も早起きして、準備を始めていた。「緊張してる?」


「少しね」千代は正直に答えた。「こんなに大勢の人が来るなんて…」


実際、SNSの反応を見ると、百人以上の人が「参加します」と返信していた。小さな駄菓子屋にとっては、かつてない賑わいになりそうだった。


「大丈夫だよ」拓也は安心させるように言った。「子どもたちも手伝ってくれるし、河野さんも来てくれるって」


朝食後、二人は店の最終準備を始めた。イベントは十時開始だが、九時には健太とさくらが手伝いに来ると言っていた。


定刻通り、健太とさくらが到着した。二人とも少し興奮した様子だが、責任感を持って自分の役割に取り組んでいた。


「受付の準備、できました」健太が報告した。


「べっこう飴の材料も準備完了!」さくらも元気よく言った。


九時半頃から、他の「守る会」のメンバーたちも集まってきた。そして、驚いたことに、既に店の前には人が並び始めていた。


「まあ、もう来てるのね」千代は驚いた。


「SNSの効果だね」拓也は満足そうに言った。


十時、予定通りイベントが始まった。「あめつちの詩・冬の思い出祭り」の横断幕が掲げられ、健太とさくらが受付で笑顔で来場者を迎えた。


店内は見違えるように変わっていた。古き良き駄菓子屋の雰囲気はそのままに、イベント用のコーナーが設けられていた。べっこう飴の実演コーナー、昔の遊び体験コーナー、「あめつちの詩」の歴史展示コーナー、そして駄菓子の販売コーナー。


千代は主にべっこう飴の実演を担当した。砂糖を溶かし、水飴を加え、琥珀色になるまで熱し、型に流し込む。その一連の動作を、彼女は何千回も繰り返してきた。今日も変わらぬ手つきで、美しいべっこう飴を作っていく。


見学者たちは感嘆の声を上げた。「すごい技術ですね」「昔ながらの製法なんですね」「この香り、懐かしい」


拓也は全体の指揮を執りながら、時には写真を撮ったり、来場者に説明したりしていた。デザイナーとしての目と、孫としての愛情が融合した彼の働きぶりは見事だった。


健太は最初は緊張していたが、さくらの明るさに助けられ、だんだんと自信を持って受付の仕事をこなすようになった。


「健太くん、さくらちゃん、よく頑張ってるね」


振り返ると、健太の母親・真理が立っていた。


「お母さん!」健太は驚いた様子で言った。


「来てみたかったの」真理は微笑んだ。「みんなが頑張ってるって聞いたから」


「まあ、松田さん」千代も嬉しそうに言った。「いらっしゃい」


真理は店内を見回して感心した様子だった。「すごいわね。こんなに賑わっているなんて」


「拓也さんのおかげです!」さくらが元気よく言った。「SNSで宣伝してくれたんです」


真理はそんな子どもたちの様子を見て、「本当に良かった」と言った。「健太が引っ越してきた時は心配だったけど…素敵な居場所と友達ができて」


千代は優しく微笑んだ。「健太くんは素直で良い子ですもの。わたしこそ、いつも来てくれて嬉しいわ」


真理は頭を下げた。「私こそ感謝してます。これからもよろしくお願いします」


真理もイベントに参加し、べっこう飴を買ったり、昔の遊びを体験したりして楽しんでいた。


午後になると、さらに来場者が増え、店内は人でいっぱいになった。中には遠方から来たという人もいて、「SNSで見て、絶対に来たいと思った」と言っていた。


驚いたことに、文化財担当の木村さんも姿を見せた。彼は熱心に店内を見て回り、メモを取っていた。


「木村さん、わざわざありがとうございます」千代は挨拶した。


「いえいえ」木村は笑顔で答えた。「こんなに盛況だとは思いませんでした。文化財としての価値を実感する良い機会になりました」


拓也も加わり、三人で少し話をした。


「文化財申請の準備は順調です」拓也は報告した。「今日の様子も記録して、資料に加えますね」


「ぜひお願いします」木村は頷いた。「これだけ地域に根付いた活動は、審査でも評価されるでしょう」


イベントのハイライトは午後三時からの「あめつちの詩の思い出を語る会」だった。千代、拓也、健太、さくら、そして河野さんらがパネリストとなり、それぞれの視点から「あめつちの詩」について語った。


「わたしと夫の誠が、この店を開いたのは昭和二十九年」千代は静かに話し始めた。「当時はまだ戦後の復興期で、子どもたちに少しでも楽しみを与えたいと思ったのがきっかけでした」


拓也は「子どもの頃、この店で過ごした時間が僕の原点になっている」と語り、健太とさくらは「今の子どもたちにとっての『あめつちの詩』の意味」を素直な言葉で伝えた。


聴衆は真剣に耳を傾け、時には笑い、時には感動の涙を浮かべていた。


語り会の最後に、拓也が重要な発表をした。


「今日は皆さんに嬉しいお知らせがあります」彼は少し緊張した様子で言った。「『あめつちの詩』は現在、登録有形文化財への申請を準備中です。そして、再開発計画の中でも、この建物を保存する方向で話が進んでいます」


会場から拍手が沸き起こった。


「さらに」拓也は続けた。「私は東京での仕事を辞め、この街に戻り、祖母と一緒に『あめつちの詩』を継いでいくことを決めました」


千代は涙ぐんでいた。拓也の公式の場での発表に、胸が熱くなった。


「『あめつちの詩』は単なる駄菓子屋ではありません」拓也は力強く言った。「昔の子どもたち、そして今の子どもたちの思い出と笑顔が詰まった、かけがえのない場所です。これからも、この伝統を守りながら、新しい形で発展させていきたいと思います」


大きな拍手が会場に響き渡った。


イベントは大成功のうちに終了した。予想を超える三百人近くの来場者があり、用意した駄菓子はほとんど売り切れた。特にべっこう飴は大人気で、何度も作り直したほどだった。


片付けを手伝ってくれた子どもたちも、達成感に満ちた表情をしていた。


「楽しかった!」さくらは元気よく言った。


「うん、すごく」健太も普段より積極的に言った。


「みんな、本当によく頑張ったね」拓也は子どもたちを褒めた。「これだけ多くの人に『あめつちの詩』の魅力を伝えることができたよ」


店が閉まり、子どもたちも帰った後、千代と拓也はテーブルを囲んで一息ついた。


「疲れたわ」千代は言ったが、その顔には満足感が溢れていた。


「でも、大成功だったね」拓也は笑顔で言った。「おばあちゃんのべっこう飴は、やっぱり人気だった」


千代は少し照れたように笑った。「まあね」


二人は温かいお茶を飲みながら、今日一日を振り返った。


「あと三日で再開発の説明会ね」千代は少し緊張した様子で言った。


「うん」拓也は頷いた。「でも、もう心配ないよ。今日のイベントの成功と、文化財申請の動きで、きっと『あめつちの詩』は守られる」


千代は静かに頷いた。「ありがとう、拓也。あなたが帰ってきてくれなかったら…」


「おばあちゃん」拓也は優しく言った。「僕こそ感謝してるよ。この店があったから、帰る場所があったんだから」


窓の外では、雪がまた降り始めていた。しかし、「あめつちの詩」の中は温かな光に包まれていた。


三日後、十二月十日。再開発計画の住民説明会が開かれた。千代と拓也はもちろん、河野さんや他の商店主たち、そして地域の住民たちが集まった。


島田が説明役を務め、修正された再開発計画を発表した。


「当初の計画から大きく変更した点は」島田はスライドを指しながら説明した。「商店街の一部、特に歴史的価値のある建物については保存し、改修を行うということです」


スクリーンには「あめつちの詩」の写真が映し出され、「歴史的建造物として保存」という文字が添えられていた。


「特に『あめつちの詩』については、現在登録有形文化財への申請が進められており、再開発においても中心的な存在として位置づけます」島田は続けた。


千代は拓也と顔を見合わせ、安堵の表情を交わした。


説明会は全体として穏やかな雰囲気で進み、多くの住民から支持を得た。特に「歴史的建造物の保存」という方針は好評だった。


説明会の後、島田が千代と拓也に近づいてきた。


「佐々木さん、拓也さん」島田は笑顔で言った。「先日のイベント、素晴らしかったですね。私も少し遅れて参加させていただきました」


「まあ、ありがとうございます」千代は答えた。


「あれだけの盛況ぶりを見て」島田は続けた。「『あめつちの詩』がこの地域にとって、どれほど大切な存在か、改めて実感しました」


拓也は真剣な表情で言った。「ということは、再開発でも『あめつちの詩』は残せるということでしょうか」


「はい」島田は力強く頷いた。「もちろん、改修工事は必要ですが、基本的な構造や雰囲気は保存します。むしろ、再開発の象徴的存在として、より多くの方に知っていただきたいと考えています」


千代の目に涙が浮かんだ。「本当に…ありがとうございます」


「いえ」島田は丁寧に言った。「私たちも最初は全面建て替えを考えていましたが、地域の歴史や文化を守ることの重要性を学びました。これも佐々木さんたちの熱意があったからこそです」


三人はしばらく改修計画の詳細について話し合った。工事の時期や範囲、費用負担などの具体的な内容も含まれていた。


「文化財に指定されれば、改修費用の一部は補助金でカバーできるでしょう」島田は説明した。「当社も可能な限り協力します」


話し合いを終え、千代と拓也は晴れやかな気持ちで「あめつちの詩」に戻った。店に着くと、健太とさくらが待っていた。


「どうだった?」さくらが即座に尋ねた。


「うん、良かったよ」拓也は笑顔で言った。「『あめつちの詩』は残るし、むしろより良くなる予定だ」


「本当?」健太の目が輝いた。


千代も嬉しそうに頷いた。「ええ、みんなのおかげよ」


子どもたちは歓声を上げ、飛び跳ねて喜んだ。


「よかった!」

「やったね!」


千代は子どもたちの喜ぶ様子を見ながら、心から安堵していた。長い間不安だった未来が、今は希望に満ちている。


その夜、千代は二階の部屋で誠の遺影に語りかけた。


「誠、聞いてる?『あめつちの詩』は残ることになったのよ。しかも文化財になるかもしれない」


千代は微笑みながら続けた。「拓也が帰ってきてくれて、店を手伝ってくれるの。それに、健太くんやさくらちゃんたちも一生懸命協力してくれて…本当に幸せよ」


窓の外では雪が静かに降り続けていた。空には月が出て、雪景色を銀色に照らしている。千代はその美しい光景を眺めながら、心に深い平和を感じていた。


「ありがとう、誠」彼女は小さく呟いた。「あなたのおかげよ」



クリスマスが近づくにつれ、「あめつちの詩」はますます賑わいを見せるようになった。イベントや報道の影響で、連日多くの人が訪れるようになったのだ。特に週末は、健太やさくらたちの手伝いがなければ対応できないほどだった。


「もう少しゆっくりしたペースが良かったかもね」千代は半分冗談、半分本気で言った。

「そうだね」拓也も笑いながら応じた。「でも、これも『あめつちの詩』が愛されている証拠だよ」


拓也は東京の会社に正式に退職の意思を伝え、フリーランスとして働き始めていた。驚いたことに、「あめつちの詩」の活動をSNSで知った会社が、「伝統と現代をつなぐデザイン」というテーマでの仕事を依頼してきたのだ。


「おばあちゃん」ある日、拓也が嬉しそうに言った。「『あめつちの詩』のオリジナル商品を作らないか?」


「オリジナル商品?」千代は首をかしげた。


「うん」拓也は熱心に説明した。「例えば、おばあちゃんのべっこう飴をモチーフにしたグッズとか、昔の駄菓子パッケージをアレンジしたものとか」


千代は少し驚いたが、考えてみれば悪くないアイデアだった。「そうね、面白そうね」

拓也はさっそくデザイン案を作り始めた。彼のデザインは昔ながらの雰囲気を残しながらも、現代的なセンスが光るものだった。


子どもたちも積極的に意見を出し、「子ども目線」のアイデアが加わった。健太は静かながらも的確な意見を言い、さくらはいつも通り元気いっぱいにアイデアを出す。二人の相性の良さは、周りの大人たちを微笑ませた。


クリスマスイブの夜、「あめつちの詩」は特別なイベントを開いた。「昔のクリスマスを楽しむ会」と題し、昭和のクリスマスの雰囲気を再現したのだ。


簡素ながらも温かい装飾、手作りのプレゼント交換、そして千代特製のクリスマスお菓子。子どもたちはもちろん、大人たちも童心に返ったように楽しんでいた。


「昔は、こんな風にクリスマスを過ごしたのですか?」と、参加者の一人が千代に尋ねた。

「ええ」千代は懐かしそうに答えた。「豪華ではなかったけれど、みんなで集まって、手作りのものを分け合って…それが何よりの楽しみだったわ」


その言葉に、多くの人が共感した様子だった。現代の華やかなクリスマスとは違う、素朴だが心温まる時間が流れていた。


イベントが終わり、店が閉まった後、千代、拓也、健太、さくらの四人は、小さなクリスマスパーティーを開いた。健太の母親・真理も招かれていた。


「乾杯!」拓也がジュースの入ったグラスを掲げた。「『あめつちの詩』と、みんなの素敵な未来のために」

「乾杯!」全員がグラスを合わせた。


真理は微笑みながら言った。「この駄菓子屋が残ることになって、本当に良かった。健太がこんなに笑顔になるなんて…」


健太は少し恥ずかしそうにしたが、確かに彼の表情は以前より明るく、自信に満ちていた。さくらの明るさに引っ張られながらも、彼なりの成長を遂げていたのだ。


「千代さんと拓也さんのおかげです」真理は心から感謝の言葉を述べた。

「いいえ」千代は首を振った。「健太くん自身の頑張りよ。それに、さくらちゃんと仲良くなれて、彼も変わったのね」


さくらは嬉しそうに笑った。「健太くんは最初は静かだったけど、本当はすごく優しくて、頑張り屋さんなんだよ」

健太の頬が少し赤くなった。


拓也はそんな子どもたちの様子を見て、「これからも『あめつちの詩』が、みんなの居場所であり続けるようにしたいね」と言った。


クリスマスパーティーの後、千代は一人で店内に残った。拓也は少し買い物に出かけていた。静かな店内で、千代は年の瀬を感じていた。

窓の外では雪が舞い、店内の小さなクリスマスツリーのライトが優しく光っている。

千代は誠の遺影を手に取り、小さな声で話しかけた。


「誠、今年のクリスマスは特別よ。『あめつちの詩』が文化財になる可能性が出てきたの。そして、拓也が帰ってきて、店を続けてくれることになった」


千代の声には、深い感謝と喜びが満ちていた。

「子どもたちも毎日来てくれて、お店は賑やかになったわ。健太くんとさくらちゃんは特に熱心で…まるで昔のあなたと私を見ているようね」

千代は少し涙ぐみながら続けた。


「あなたがこの店に込めた思い…『子どもたちの居場所であり続けること』。その思いは今も生き続けているわ。拓也も、それを大切にしてくれている」

千代は遺影に優しく微笑みかけた。


「来年はきっと、もっと素敵な年になるわ。改修工事も始まるし、新しい『あめつちの詩』が生まれ変わる。でも、あなたの思いだけは、いつまでも変わらず守っていくわ」


その時、風鈴が鳴り、拓也が戻ってきた。手には小さな包みがあった。

「おばあちゃん、まだ起きてたんだ」拓也は微笑んだ。「これ、クリスマスプレゼント」

千代は驚いて包みを受け取った。「まあ、ありがとう」

中を開けると、美しいスカーフが入っていた。千代の好きな青を基調とした、上品なデザインのものだった。


「素敵ね」千代は心から喜んだ。


「おばあちゃんに似合うと思って」拓也は嬉しそうに言った。「あ、それと…」

拓也はもう一つの包みを取り出した。「これはおじいちゃんへ」


千代は驚いた。「誠に?」

「うん」拓也は少し照れくさそうに言った。「おじいちゃんがいなかったら、僕もおばあちゃんも、この店も今ここにはなかったと思うから」

それは小さな木彫りの風車だった。拓也が自分で彫ったという。


「これを、おじいちゃんの遺影の横に置こうと思って」拓也は言った。

千代は感動で言葉が出なかった。ただ静かに頷き、拓也と一緒に風車を誠の遺影の横に置いた。


「誠、見てる?」千代は心の中で呟いた。「わたしたちは幸せよ。あなたのおかげで」


窓の外では、雪が静かに降り続けていた。年の瀬の「あめつちの詩」は、穏やかな光に包まれていた。





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