第七章:帰郷
月曜日の午後三時、千代は緊張した面持ちで不動産会社の島田を迎えた。彼はスーツ姿で現れ、店内をじっくりと見回した後、再開発計画の概要を説明した。
「計画では、この一帯をマンションと小規模商業施設に建て替える予定です」島田はパンフレットを広げながら言った。「もちろん、現在の店舗オーナーには優先的に新施設への入居権をお渡しします」
千代は静かに聞いていた。新しい施設での家賃は現在の三倍以上。高齢の彼女には、とても支払える金額ではなかった。
「もし店を畳まれるなら」島田は続けた。「相応の立ち退き料をお支払いします。ご高齢のことですし、これを機に…」
彼の言葉は丁寧だったが、千代には「引退したら」という含みが感じられた。確かに七十八歳。普通なら引退する年齢だ。でも…
「少し考えさせてください」千代は静かに言った。「説明会の後に返事します」
島田は理解したように頷き、「もちろんです」と言って立ち去った。
彼が去った後、千代は窓辺に立って外を見た。わずかに雪の混じった冷たい雨が降り始めていた。
「もう冬なのね…」千代は呟いた。
その夜、千代は眠れずにいた。再開発の話、文化祭での子どもたちの様子、そして明日の拓也の到着。あまりにも多くのことが一度に起きている。
「誠、どうしたらいいのかしら」千代は遺影に向かって小さく語りかけた。
朝を迎え、千代はいつもどおり店を開けた。午前中は静かだったが、放課後になると健太とさくらがやってきた。
「千代おばあちゃん、あの人何を言ってたの?」さくらが真っ先に尋ねた。
千代は昨日の島田との話を簡単に説明した。「新しい施設ができるけど、家賃が高くなるの。それか、お店をたたむかって…」
「そんなの嫌だ!」健太が珍しく強い口調で言った。「千代おばあちゃんのお店がなくなるなんて」
千代は二人の頭をなでた。「まだ何も決まってないわ。それに、今日は拓也が来るのよ」
「本当?」さくらは目を輝かせた。「拓也さんとお店の話、できるね」
千代は微笑んだ。「ええ、でも拓也も自分の生活があるから。あまり期待しないでね」
健太とさくらは「あめつちの詩を守る会」の活動報告もした。既に学校で二十人以上の署名を集めたという。
「みんな協力してくれてるよ」さくらは嬉しそうに言った。「先生も『頑張って』って言ってくれた」
子どもたちは午後五時頃、「拓也さんが来たら、明日また来るね」と言って店を後にした。千代は二人を見送った後、部屋の掃除を始めた。久しぶりに来る孫のために、少しでも気持ちよく過ごしてほしいと思ったからだ。
時計が午後七時を指したとき、店の入口で風鈴が鳴った。
「おばあちゃん、いる?」
低く、少し疲れた声が響いた。千代は驚いて振り返った。
そこには背の高い青年が立っていた。濃いブラウンのコートを着て、肩にはバッグをかけている。少し伸びた黒髪と、優しげな目。十八年前の少年の面影はあるが、もう立派な大人になっていた。
「拓也…」千代は思わず手で口を覆った。
「ただいま、おばあちゃん」拓也は照れくさそうに微笑んだ。
千代は涙ぐみながら孫に駆け寄った。「おかえり、拓也」
二人は静かに抱き合った。十八年もの時が流れたとは思えないほど、温かい再会だった。
「少し痩せたんじゃない?」千代は拓也の顔をじっと見つめた。
「仕事が忙しくて」拓也は少し疲れた笑顔で言った。「でも、元気だよ」
千代は急いでお茶を用意し、二階の居間に拓也を案内した。久しぶりの来訪に、千代の心は喜びでいっぱいになっていた。
「お母さんから話は聞いたよ」拓也はお茶を飲みながら切り出した。「再開発の件」
千代は静かに頷いた。「ええ…まだ詳しいことはわからないけど、厳しい状況ね」
拓也は真剣な表情になった。「おばあちゃんはどうしたいの?本当のところ」
千代は窓の外を見た。雪混じりの雨は止んでいたが、寒さは厳しくなっていた。
「正直なところ…わからないわ」千代は言った。「年齢を考えれば、引退する時期かもしれない。でも…」
「でも?」
「子どもたちが来るようになって、久しぶりに店が賑わっているの」千代は目を輝かせて言った。「『あめつちの詩を守る会』なんて作ってくれて…」
拓也は驚いた顔をした。「守る会?」
千代は最近の出来事を詳しく語った。健太との出会い、さくらたちとの交流、文化祭の様子、そして子どもたちの「守る会」のこと。
拓也は静かに聞いていた。そして、「おじいちゃんも喜んでるだろうね」と言った。
千代は微笑んだ。「ええ、きっとそうよ」
二人は夕食を取りながら、拓也の東京での生活や仕事の話をした。彼はデザイン会社で働いているが、最近少し行き詰まりを感じているという。
「クライアントの言うとおりのデザインを作るだけで、自分の創造性を発揮する機会が少ないんだ」拓也は少し寂しそうに言った。
「それは大変ね」千代は共感を示した。
食事の後、拓也は店内を歩き回った。「変わってないね、ここは」
「ええ、あなたが最後に来た時とほとんど同じよ」千代は言った。
拓也は棚の駄菓子や、天井から吊るされた風車を見上げた。「子どもの頃、この店が大好きだった。学校帰りにいつも寄ってたっけ」
「覚えてるわ」千代は微笑んだ。「あなたはいつも同じ場所に座って、宿題をしていたわね」
拓也は窓際の小さなテーブルを指さした。「あそこだ。おじいちゃんがよく数学を教えてくれた」
思い出話に花を咲かせながら、二人の間には十八年の空白を埋めるような温かさが広がっていった。
夜も更けた頃、千代は引き出しから封筒を取り出した。
「これ、あなたに書いた手紙よ」千代は拓也に渡した。「もし読みたかったら…」
拓也は大切そうに封筒を受け取った。「今、読んでもいい?」
千代は頷いた。
拓也が手紙を読み終えたとき、彼の目には涙が光っていた。
「おばあちゃん…」拓也は静かに言った。「この店は、僕にとっても特別な場所だよ」
千代は孫の言葉に心が温かくなった。「ありがとう、拓也」
「明日、その子どもたちに会わせてくれる?」拓也は尋ねた。「彼らが『あめつちの詩』をどれだけ大切に思っているか、直接聞いてみたい」
「もちろん」千代は嬉しそうに言った。「彼らも拓也に会えるのを楽しみにしているわ」
その夜、久しぶりに二階の孫の部屋に明かりがともった。千代は自分の部屋で横になりながら、拓也が戻ってきたことの安心感を噛みしめていた。
「誠、拓也が帰ってきたわ」千代は小さく呟いた。「大きくなったわね」
明日は健太とさくらが拓也に会う。そして、「あめつちの詩」の未来について、何か新しい展開があるかもしれない。そんな期待を胸に、千代は静かに目を閉じた。
翌朝、千代は早めに起きて朝食の準備をした。久しぶりに二人分の朝食を作るのは、不思議と楽しかった。
「おはよう、おばあちゃん」
拓也が階段を降りてきた。少し眠そうな顔をしているが、すっきりとした表情だった。
「おはよう、拓也。よく眠れた?」
「ええ、久しぶりの実家で、ぐっすり眠れたよ」拓也は窓の外を見た。「雪が積もってる」
確かに、一晩で薄く雪が積もっていた。初雪だ。十一月末としては少し早い。
「今年は冬が早いみたいね」千代は言った。
二人は朝食を取りながら、今日の予定を話し合った。午前中は店を開け、放課後に健太とさくらたちが来る。それまでの間、拓也は店の様子をじっくり見て回りたいと言った。
「デザイナーの目で見ると、色々見えてくるかもしれないから」
千代は孫の言葉に少し驚いたが、「ええ、好きにしていいわよ」と答えた。
朝食の後、千代はいつものように店を開けた。雪のせいか、通りには人影が少なかった。
拓也はスケッチブックを持ち出し、店内の様々な角度からスケッチを始めた。棚の配置、駄菓子の並び方、天井の風車、窓から差し込む光…デザイナーの目で、「あめつちの詩」の空間を捉えていく。
千代は静かに見守りながら、自分の日常作業をこなしていた。
「おばあちゃん」昼過ぎ、拓也が突然声をかけてきた。「この店、すごく良い空間だよ」
「え?」千代は意外そうに振り返った。
「建物は古いけど、光の入り方とか、空間の使い方とか、今のデザイン的に見ても理にかなってる」拓也は真剣な表情で言った。「特に、この古い木の棚と柱が作る温かみのある空間は、現代では簡単に作れないものだよ」
千代は孫の意外な評価に驚いた。「そう…?わたしには、ただの古い店よ」
拓也は首を振った。「違うよ、おばあちゃん。今、都会では『レトロ』や『アナログ感』が人気なんだ。みんな、デジタルな世界に疲れて、こういう温かい空間を求めてる」
千代はじっと拓也の顔を見た。孫の目には、確かな輝きがあった。それは彼が何かを発見した時の表情だ。子どもの頃から変わらない。
「それに」拓也は続けた。「『あめつちの詩』という名前も素敵だよ。おじいちゃんのセンスは抜群だった」
千代は微笑んだ。「あなたのおじいちゃんは、言葉の力を信じていたのよ」
二人はしばらく店の歴史や、誠の思い出話をした。拓也は祖父のことを覚えてはいるが、十二歳の時に亡くなっているため、大人の目線での会話は初めてだった。
「おじいちゃんは…どんな人だったの?」拓也は静かに尋ねた。「僕の記憶では、いつも優しくて、面白い話をしてくれる人だったけど」
千代は遠い目をした。「誠は…情熱的な人だったわ。一度決めたことは最後までやり遂げる。そして、子どもたちのことを本当に大切にしていた」
「それでこの駄菓子屋を…」
「ええ。彼の夢は、子どもたちの居場所を作ることだったの。お菓子を売るだけじゃなく、子どもたちが安心して過ごせる場所。悩みを打ち明けたり、友達と笑ったり…そんな場所を作りたかったのよ」
拓也は真剣な表情で聞いていた。「それは今も変わってないね。この店を訪れる子どもたちを見れば、おじいちゃんの夢は実現しているよ」
千代は嬉しそうに頷いた。「ええ、そうね」
昼食後、拓也は店の外にも出て、建物の外観をスケッチした。雪の中、集中して描いている彼の姿を見て、千代は誇らしい気持ちになった。
「成長したのね」と千代は小さく呟いた。
午後三時頃、予定通り健太とさくらがやってきた。
「こんにちは、千代おばあちゃん!」二人は元気よく挨拶した。そして、入口で拓也の姿を見つけると、好奇心いっぱいの表情になった。
「あ、拓也さん?」さくらが率直に尋ねた。
「ああ、そうだよ」拓也は微笑んで応えた。「きみたちが健太くんとさくらちゃんだね」
二人は少し緊張した様子で頷いた。
「おばあちゃんから話を聞いたよ」拓也は二人に向き合った。「『あめつちの詩を守る会』を作ってくれてありがとう」
健太とさくらは嬉しそうに顔を見合わせた。「当たり前です!」さくらが力強く言った。「千代おばあちゃんのお店は、私たちの大切な場所だから」
健太も静かに頷いた。「ぼくがこの町に引っ越してきた時、友達がいなくて寂しかった。でも、千代おばあちゃんの店に来るようになって、さくらちゃんや他のみんなと友達になれた。だから…守りたいんです」
拓也は二人の真剣な表情を見て、深く頷いた。「よくわかったよ。僕も子どもの頃、この店で多くの時間を過ごしたんだ。おばあちゃんとおじいちゃんに育ててもらったようなものさ」
千代は三人の会話を聞きながら、お茶を用意していた。
「拓也さんは東京でデザイナーやってるんですよね?」さくらが興味津々で尋ねた。「どんなものをデザインするんですか?」
拓也は自分の仕事について話し始めた。広告やパッケージのデザイン、時にはウェブサイトや雑誌の表紙なども。
「へぇ、すごい!」さくらは目を輝かせた。「私たちのチラシもデザインしてくれませんか?」
「チラシ?」拓也は少し驚いた様子で尋ねた。
健太が説明した。「『あめつちの詩を守る会』の活動で、お店のことをもっと多くの人に知ってもらうためのチラシを作ろうと思ってたんです」
「そうか」拓也は考え込むような表情になった。そして、「いいね、やってみよう」と言った。
子どもたちは喜びの声を上げた。そして、彼らが考えていた「守る会」の活動計画を詳しく話し始めた。署名活動、チラシ配り、そして自分たちで考えた「駄菓子屋を守る理由」のリスト。
拓也は真剣に聞きながら、時々メモを取っていた。そして、「いい考えだね。でも、もっと効果的な方法もあるかもしれない」と言った。
「どんな方法ですか?」健太が興味深そうに尋ねた。
拓也はしばらく考えて、「例えば、SNSを使って『あめつちの詩』の魅力を発信するとか、地域の文化財として価値をアピールするとか…」
子どもたちは新しいアイデアに目を輝かせた。さくらが「それって、どうやるんですか?」と尋ねると、拓也は「明日みんなで詳しく話し合おう」と提案した。
その日の夕方、健太とさくらが帰った後、千代と拓也は再び二人きりになった。
「良い子たちね」千代は微笑んだ。
「うん」拓也も頷いた。「彼らの『あめつちの詩』への思いは本物だね」
千代は静かに拓也の顔を見つめた。「あなたはどう思うの?この店のこと」
拓也はスケッチブックを開き、今日描いた店の絵を千代に見せた。それは単なるスケッチではなく、デザイナーの視点で捉えた「あめつちの詩」の本質が表現されていた。古い木の温もり、光の入り方、子どもたちの笑顔…
「僕は…この店には可能性があると思う」拓也は真剣な表情で言った。「単なる古い駄菓子屋じゃなくて、地域の文化や子どもたちの成長を支える特別な場所だよ」
千代は少し驚いて目を見開いた。「拓也…」
「おばあちゃん、明日からもう少し詳しく調べてみたい」拓也は決心したように言った。「再開発の計画書も見せてもらって、どんな可能性があるか探ってみるよ」
千代は静かに頷いた。拓也の目には、彼女が久しぶりに見る情熱が宿っていた。それは誠に似ていた。何かを見つけた時の、あの輝く目…
「この店は…」拓也はもう一度スケッチブックを見つめた。「おじいちゃんとおばあちゃんの人生そのものだよね。そして今は、健太くんやさくらちゃんたちの大切な場所になっている」
千代は感動して言葉が出なかった。ただ、静かに頷くことしかできなかった。
拓也は千代の手を取った。「おばあちゃん、もう少し時間をくれるかな。何か方法があるかもしれない」
「ええ…」千代はようやく言葉を絞り出した。「ありがとう、拓也」
窓の外では、雪がまた降り始めていた。柿の木は雪化粧をし、静かに立っている。寒い冬の始まりだが、千代の心には小さな温かさが灯り始めていた。
翌日、朝から小雪が舞う寒い一日だった。千代と拓也は早めに起きて、一緒に朝食を準備した。
「今日は何をするの?」千代は拓也に尋ねた。
「午前中は再開発の計画書をもう少し詳しく調べたいんだ」拓也はコーヒーを飲みながら答えた。「それから、この辺りの商店街の様子も見て回りたい」
千代は頷いた。「そう。河野さんのところにも行ってみるといいわ。彼も再開発のことで色々知ってるから」
朝食後、拓也は島田が置いていった資料を丁寧に読み込み始めた。彼はデザイナーらしく、時々メモを取ったり、図面に印をつけたりしていた。
「おばあちゃん」しばらくして拓也が声をかけた。「この計画、全ての店舗を取り壊すわけじゃないんだね」
「え?」千代は驚いて振り返った。
「ここに書いてある」拓也は図面を指さした。「商店街の中央部分は全面建て替えだけど、端の部分は『既存店舗活用ゾーン』になってる」
千代はその図面を覗き込んだ。確かに、商店街の端に位置する「あめつちの詩」の辺りは、全面取り壊しではなく、「既存建物の改装・活用」と書かれていた。
「でも、島田さんは立ち退きの話をしていたわ」千代は首をかしげた。
拓也は資料をめくりながら、「多分、全体計画としては『既存建物活用』の選択肢もあるけど、個別には立ち退きを勧めてるんじゃないかな」と言った。「新しい施設の方が会社としては利益が出るから」
千代は複雑な表情になった。「そうかもしれないわね」
「もう少し調べてみるよ」拓也は立ち上がった。「河野さんのところに行ってくる」
拓也が出かけている間、千代はいつものように店の準備をした。再開発の計画に「既存建物活用」の選択肢があるという事実に、少し希望が見えた気がした。
昼過ぎ、拓也が戻ってきた。「おばあちゃん、面白いことがわかったよ」
「何?」千代は興味深そうに尋ねた。
「この辺りは『歴史的商店街保存地区』に指定されてる可能性があるんだ」拓也は説明した。「河野さんが教えてくれたけど、市の文化財保護の担当者が何度か調査に来ていたらしい」
「まあ、そうなの?」
「うん。特に『あめつちの詩』みたいな昭和初期からの建物は、文化的価値があるかもしれないって」
千代は驚いた。「わたしの店が?文化的価値?」
拓也は笑った。「おばあちゃんにとっては当たり前の風景かもしれないけど、昔ながらの駄菓子屋って、今ではとても貴重なんだよ。特に五十年以上続いているようなところはね」
千代はそんな視点で自分の店を見たことがなかった。毎日の当たり前が、実は特別なものだったのかもしれない。
「それに」拓也は続けた。「この建物自体も、古い木造建築として価値があるみたい。特にこの梁の組み方とか、今では見られない職人技なんだって」
千代は見上げて、店内の天井を眺めた。確かに、立派な木の梁が組まれている。誠の父、つまり拓也の曽祖父が建てた家だ。
「わたしたち家族にとっては思い出の場所だけど」千代は静かに言った。「それが文化的価値があるなんて…」
「だからもう少し調べてみたいんだ」拓也は熱心に言った。「もし文化財的な価値が認められれば、再開発でも保存対象になる可能性があるよ」
その日の午後、健太とさくらが学校帰りに訪れた。今日は他の友達も数人連れてきていた。
「こんにちは!」子どもたちが元気よく店に入ってきた。
「こんにちは、みんな」千代は微笑んで迎えた。
「拓也さん、いますか?」さくらがすぐに尋ねた。
「いるよ」拓也が店の奥から出てきた。「みんな、来てくれたんだね」
子どもたちは拓也の周りに集まった。さくらが「みんなに紹介するね」と言って、田中をはじめとする「守る会」のメンバーを紹介していく。
「よろしく」拓也は子どもたちに優しく微笑んだ。
「拓也さん、昨日言ってたアイデア、聞かせてください!」田中が熱心に言った。
拓也はスケッチブックを開き、子どもたちに見せながら説明し始めた。
「まず、『あめつちの詩』の価値をもっと多くの人に知ってもらうために、こんなアイデアを考えてみたんだ」
拓也が描いたのは、単なるチラシではなく、駄菓子屋の歴史や文化的価値、思い出を集めた小さな冊子のデザイン案だった。
「わあ、すごい!」さくらは目を輝かせた。「これ、本みたいですね」
「そう、単なるチラシじゃなくて、小さな本にしようと思ったんだ」拓也は説明した。「『あめつちの詩』の歴史や、おじいちゃんとおばあちゃんの思い出、そして今のみんなの体験談も入れて」
「僕たちの話も載るんですか?」健太が少し驚いた様子で尋ねた。
「もちろん」拓也は頷いた。「みんなにとって、この駄菓子屋がどんな意味を持つのか、それを言葉にしてほしいんだ」
子どもたちは興奮して、次々とアイデアを出し始めた。
「『あめつちの詩』で一番好きな思い出を書く」
「千代おばあちゃんの作るべっこう飴のこと」
「放課後に集まる楽しさ」
拓也はそれらの意見を丁寧にメモしていった。
「それから」拓也は次のページをめくった。「SNSでの発信も考えてるんだ。インスタグラムやツイッターで『あめつちの詩』の様子を発信して、もっと多くの人に知ってもらう」
「SNS?」田中が目を輝かせた。「僕のお兄ちゃん、インスタやってるよ!手伝ってもらえるかも」
「それはいいね」拓也は笑顔で言った。
千代はそんな子どもたちと拓也の様子を見ながら、静かに微笑んでいた。まるで昔、誠が子どもたちと話し込む姿を見ているようだった。
拓也はさらに計画を説明した。「そして最後に、『あめつちの詩』が文化的価値のある建物として保存されるよう、市に働きかけるんだ」
「文化的価値?」子どもたちは少し難しい言葉に首をかしげた。
拓也は優しく説明した。「つまり、この駄菓子屋が歴史的に大切な場所だということを、市の人たちに認めてもらうってことさ。そうすれば、簡単には壊せなくなるんだ」
「それっていいね!」さくらが元気よく言った。「私たちにもできることある?」
「ある」拓也はうなずいた。「みんなが『あめつちの詩』について書いてくれた思い出や感想が、とても重要な証拠になるんだ」
子どもたちは真剣な表情で頷いた。彼らにとって、これは単なる店を守る活動ではなく、自分たちの居場所を守る大切な活動なのだ。
「みんな」拓也は少し声を落として言った。「実は明日、市の文化財保護の担当者に会いに行く予定なんだ。その前に、みんなの『あめつちの詩』への思いを聞かせてくれないかな」
「今?」健太が少し緊張した様子で尋ねた。
「うん、もし良かったら」拓也はスマートフォンを取り出した。「録音してもいい?後で文章にまとめるから」
子どもたちは少し恥ずかしそうにしたが、順番に自分の思いを語り始めた。
最初はさくらだった。「私にとって『あめつちの詩』は、友達と一緒に笑える場所です。家でも学校でもない、特別な場所。千代おばあちゃんは優しくて、いつも私たちの話を聞いてくれる。この駄菓子屋がなくなったら、私、すごく悲しい」
次は健太の番だった。彼はいつもより少し緊張した様子だったが、しっかりとした声で話し始めた。
「僕が引っ越してきた時、友達がいなくて毎日寂しかった。でも、千代おばあちゃんの店に来るようになって、さくらちゃんや田中くんたちと友達になれた。ここは…僕の心の居場所です。だから、守りたいです」
田中や他の子どもたちも、それぞれの言葉で「あめつちの詩」への思いを語った。
拓也はそれらを真剣な表情で聞き、時には質問を挟みながら、丁寧に記録していった。
千代は少し離れたところで、子どもたちの話を聞いていた。彼らの言葉の一つ一つが、彼女の心に染み入ってくる。自分の店がこんなにも子どもたちに愛されていることに、改めて気づかされた。
録音が終わると、拓也は「ありがとう、みんな。すごく良い話が聞けたよ」と笑顔で言った。
「これで『あめつちの詩』は守れますか?」さくらが少し不安そうに尋ねた。
拓也は正直に答えた。「約束はできないけど、できる限りのことはするよ。みんなの思いは、必ず伝わると思う」
子どもたちが帰った後、千代と拓也は静かにお茶を飲みながら話し合った。
「子どもたちの言葉、素敵だったわね」千代は微笑んだ。
「うん」拓也も頷いた。「彼らにとって、この店がどれだけ大切か、よくわかったよ」
千代は少し考え込んだ様子で言った。「でも、拓也…本当に文化財になるの?そんな特別な店かしら」
「おばあちゃん」拓也は真剣な表情で言った。「この店は単なる古い建物じゃないよ。五十年以上の歴史があって、昔ながらの駄菓子文化を今に伝えている。それに、この地域の子どもたちにとっての居場所でもある。これって、十分に文化的価値があると思うんだ」
千代は驚いた様子で拓也を見つめた。「そんな風に言われると、なんだか照れくさいわ」
拓也は笑った。「おばあちゃんとおじいちゃんが何十年も守ってきたものだよ。それは決して小さなことじゃない」
「ありがとう、拓也」千代は心から言った。
窓の外では、雪がやんで月が出ていた。静かな冬の夜だった。
翌日、拓也は朝早くから準備を始めた。市役所に行くため、スーツに着替え、資料をカバンに詰める。
「おばあちゃん、行ってくるよ」拓也は千代に声をかけた。
「気をつけてね」千代は少し緊張した様子で見送った。「頑張ってきて」
拓也が出かけた後、千代はいつものように店を開けた。しかし、心はどこか落ち着かない。拓也がどんな話をしているのか、結果はどうなるのか…
午前中、数人の常連客が来店した。その中には、河野も含まれていた。
「千代さん、拓也くんが市役所に行ったって?」河野は興味深そうに尋ねた。
「ええ」千代は頷いた。「文化財保護の担当者に会いに行ったの」
「なるほど」河野は感心した様子で言った。「あの子、よく考えてるね。子どもの頃から頭が良かったけど、大人になってさらに頼もしくなった」
千代は嬉しそうに微笑んだ。「ええ、そうね」
「それにしても」河野は店内を見回した。「最近は子どもたちでにぎわってるね。昔みたいだ」
「そうなのよ」千代は温かい目で言った。「健太くんとさくらちゃんのおかげで、また子どもたちが来てくれるようになったの」
河野は長年の友人として、千代の表情の変化に気づいていた。「千代さん、元気になったね。目の輝きが違う」
千代は少し照れたように笑った。「そう?」
「ああ」河野は確信を持って言った。「この店が再びにぎわい始めて、千代さん自身も生き生きしてきた。だから…」
「だから?」
「だからこそ、この店を残す価値があると思うんだ」河野は真剣な表情で言った。「単なる古い駄菓子屋じゃない。この町の歴史であり、子どもたちの思い出の場所なんだ」
千代は河野の言葉に心動かされた。「ありがとう、茂さん」
昼過ぎ、拓也から電話があった。
「おばあちゃん、良い話が聞けたよ」拓也の声には、明るさがあった。「詳しくは帰ってから話すね。あと、夕方に島田さんも来るって言ってた。何か新しい話があるらしい」
「そう」千代は少し緊張した様子で言った。「わかったわ」
電話を切ると、千代はしばらく考え込んでいた。状況が急に動き出したようで、期待と不安が入り混じる複雑な気持ちだった。
午後、健太とさくらが学校帰りに立ち寄った。
「千代おばあちゃん、拓也さんは?」さくらがすぐに尋ねた。
「まだ戻ってないのよ」千代は答えた。「でも、良い話が聞けたって連絡があったわ」
「本当?」健太は目を輝かせた。「じゃあ、お店は守れるかも?」
「さあ、まだわからないわ」千代は正直に言った。「でも、みんなの協力のおかげで、少し希望が見えてきたような気がするわ」
子どもたちは喜んで、「守る会」の活動報告をし始めた。既に五十人以上の署名が集まったという。
「みんな、協力的だよ」さくらは嬉しそうに言った。「先生たちも署名してくれたんだ」
千代は心から感謝した。「ありがとう、みんな。本当に…」
そんな話をしている時、風鈴が鳴り、拓也が戻ってきた。
「ただいま」拓也は疲れた様子だが、満足そうな表情で言った。
「おかえり」千代は迎えた。「どうだった?」
「拓也さん!」健太とさくらも駆け寄った。
拓也は三人に向かって微笑んだ。「まあまあの手応えだったよ。市の担当者も興味を持ってくれて、来週、実際に店を見に来ることになった」
「本当?」千代は驚いた。
「うん」拓也は頷いた。「『昭和初期の商店建築として価値がある可能性が高い』って言ってた。特に、この地域で唯一残っている昔ながらの駄菓子屋として、文化的意義があるらしい」
「やった!」さくらは飛び上がった。
「でも」拓也は少し慎重な表情を見せた。「まだ決まったわけじゃないよ。審査があって、条件もあるみたい」
「どんな条件?」健太が尋ねた。
「建物の状態を維持することや、文化的活動を続けることなど」拓也は説明した。「詳しいことは来週、担当者が来た時に教えてくれるって」
千代は複雑な表情で考え込んでいた。文化財…それは誇らしいことだが、同時に大きな責任でもある。
「あと」拓也は続けた。「五時に島田さんが来るから、皆で話を聞こうよ」
健太とさくらは「私たちも聞きたい!」と言った。
「もちろん」拓也は頷いた。「みんなで『あめつちの詩』の未来を考えるんだから」
午後五時、予定通り島田がやってきた。健太とさくらも残っていたので、島田は少し驚いた様子だったが、「皆さんで話を聞くのですね」と理解を示した。
店内のテーブルに、千代、拓也、健太、さくら、そして島田が座った。
「実は」島田は新しい資料を広げながら切り出した。「再開発計画に修正案ができました」
「修正案?」千代は驚いた。
「はい」島田は頷いた。「元々の計画では、この一帯を全面建て替えの予定でしたが、市からの要請もあり、一部の歴史的建造物は保存する方向になりました」
拓也は目を輝かせた。「それは朗報ですね」
「ただし」島田は続けた。「保存するためには、いくつかの条件があります。建物の安全性の確保、文化的活動の継続、そして一定の改修工事への同意です」
千代は静かに聞いていた。「どのくらいの費用がかかるの?」
島田は数字を示した。改修工事は決して安くないが、市からの補助金も出る可能性があるという。それでも、千代一人では難しい金額だった。
健太とさくらは少し不安そうな表情で大人たちの話を聞いていた。
「心配しないで」拓也は子どもたちに微笑みかけた。「方法はあるよ」
そして拓也は島田に向き直った。「僕には考えがあります。『あめつちの詩』を単なる駄菓子屋としてではなく、地域の文化センターとして再生する計画です」
「文化センター?」島田は興味を示した。
「はい」拓也はスケッチブックを開き、自分のビジョンを説明し始めた。「駄菓子の歴史展示、手作り駄菓子の実演、昔の遊びを教える教室…そして、子どもたちの居場所としての機能も強化します」
島田は感心した様子で聞いていた。「それは興味深い提案ですね」
「もちろん」拓也は真剣な表情で続けた。「おばあちゃんの意向が最優先です。彼女がどう思うか、それが一番大切です」
全員の視線が千代に向けられた。
千代はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「わたしは…」彼女は一人一人の顔を見渡した。「この店を続けたいと思います」
健太とさくらは喜びの声を上げた。
「でも」千代は続けた。「もう七十八歳。いつまでも一人でやれるわけではないわ」
拓也は静かに言った。「おばあちゃん、僕が手伝うよ」
千代は驚いて孫を見つめた。「拓也?」
「実は…」拓也は少し照れくさそうに言った。「東京の仕事を辞めて、こっちに戻ろうと考えてたんだ。フリーランスのデザイナーとして働きながら、『あめつちの詩』を一緒に守っていきたい」
千代は言葉を失った。目に涙が浮かんでいた。
「本当に?」彼女はようやく言葉を絞り出した。「あなたの将来を…」
「おばあちゃん」拓也は微笑んだ。「これは僕自身の選択だよ。最近、東京での仕事に行き詰まりを感じていたんだ。もっと意味のあることがしたいって思ってた。それに…」
拓也は健太とさくらを見た。
「この子たちの話を聞いて、『あめつちの詩』がどれだけ大切な場所か、改めて気づいたんだ。子どもの頃の自分もそうだった。この店で過ごした時間が、僕を形作ってきたんだ」
千代は感動で胸がいっぱいになった。「拓也…」
島田も感心した様子で言った。「素晴らしい決断ですね。もしそうなら、再開発計画の中でも『あめつちの詩』を特別に位置づけることができるかもしれません」
話し合いは前向きな雰囲気で進み、最終的に島田は「説明会までに、より詳細な改修プランを提示します」と約束して帰っていった。
店に残ったのは、千代、拓也、健太、さくらの四人。
「やった!」さくらは喜びを爆発させた。「お店が残る!」
健太も嬉しそうに微笑んだ。「よかった…」
拓也は二人に感謝した。「みんなのおかげだよ。『守る会』の活動が、大きな力になった」
千代は静かに拓也に向き合った。「本当にいいの?東京での仕事を…」
「うん」拓也は確信を持って言った。「むしろ、僕にとってもチャンスだと思ってる。フリーランスとして自分らしい仕事をしながら、この店を新しい形で発展させていく。それって、すごくわくわくすることじゃない?」
千代の目から涙がこぼれた。それは喜びと安堵の涙だった。
「ありがとう、拓也」千代は心から言った。「誠も、きっと喜んでるわ」
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。白い雪が商店街を覆い、新しい季節の訪れを告げているようだった。
「あめつちの詩」の新しい一章が、今、始まろうとしていた。