第六章:過去と未来の狭間で
十一月も中旬に差し掛かり、文化祭まであと数日という時期になると、「あめつちの詩」はますます賑わいを見せるようになった。放課後になると必ず子どもたちが駆け込んでくる。特に文化祭の出し物を担当するクラスの子どもたちは、最後の確認のために店に立ち寄ることが多くなっていた。
千代もまた、久しぶりの忙しさに少し疲れながらも、心から楽しんでいた。棚には新しい駄菓子も少しずつ増え、べっこう飴は毎日作るようになっていた。
その日の午前中、千代はいつものように店の掃除をしていた。文化祭で使うための道具を整理し、べっこう飴の材料も確認する。そんな作業に熱中していると、風鈴が鳴り、ドアが開いた。
「おはよう、千代さん」
振り返ると、河野が立っていた。いつもの穏やかな表情ではなく、少し緊張した顔をしている。
「まあ、茂さん。おはよう」千代は笑顔で迎えた。「珍しいわね、こんな早く」
「ああ…」河野は少し言葉に詰まった。「ちょっと話があってね」
千代はすぐに何か重要な話だと感じた。「お茶でも入れるわ。座って」
河野は小さなベンチに座り、千代がお茶を入れるのを待った。千代は奥から二つの湯呑みを持ってきて、向かい合わせに座った。
「どうしたの?何かあったの?」千代は優しく尋ねた。
河野は深く息を吸い、「実はね」と言い始めた。「再開発の話だ」
千代は一瞬、息が止まるのを感じた。再開発の話は以前から聞いていたが、最近は子どもたちとの賑わいに気を取られ、すっかり頭から離れていた。
「正式な通知が来た」河野は懐から一通の封筒を取り出した。「昨日、各店舗に配られたんだ。千代さんのところにはまだ来てないのかい?」
千代は首を横に振った。「いいえ…まだ」
河野は封筒を開け、中から一枚の書類を取り出した。「来月の説明会があるそうだ。そして…」河野は少し躊躇した。「来年の春までに立ち退きの方向で話を進めたいとのことだ」
「来年の春…」千代は呟いた。それはあと数ヶ月しかない。この店を開いて以来、半世紀以上を過ごしてきた場所を、そんなに早く離れなければならないのか。
「でも、まだ最終決定ではないよ」河野は急いで付け加えた。「説明会で詳しい話があるだろうし」
千代は黙ってお茶を飲んだ。頭の中で様々な思いが交錯していた。
「千代さん…」河野は心配そうに声をかけた。「大丈夫かい?」
千代はゆっくりと顔を上げ、小さく微笑んだ。「ええ、大丈夫よ」
「その…」河野は言葉を選びながら続けた。「もし必要なら、由美子さんに連絡したほうがいいかもしれない」
千代は静かに頷いた。「そうね…でも、まず自分で考えてみるわ」
河野は理解したようにうなずき、立ち上がった。「とにかく、説明会には必ず出席したほうがいい。12月10日だ」
「ありがとう、茂さん」千代は言った。「教えてくれて」
河野が店を出た後、千代はしばらく動けずにいた。窓の外では、冬の冷たい風が吹き始めていた。もう柿の木の葉もほとんど落ち、枝だけが寂しげに伸びている。
「もうすぐ冬ね…」千代は呟いた。「そして春…」
千代の頭の中で、子どもたちの笑顔が浮かんだ。特に健太とさくら。この数ヶ月で、彼らは「あめつちの詩」の大切な一部になっていた。そして文化祭を通じて、さらに多くの人々に店を知ってもらえるはずだった。
「どうしよう…」千代は小さく呟いた。「彼らに言うべきかしら」
考え込んでいると、店の入口で郵便配達員の姿が見えた。
「佐々木千代様宛てのお手紙です」
千代は玄関へ行き、手紙を受け取った。予想通り、再開発についての正式な通知だった。封を開けて中身を読むと、河野の言った通りの内容が書かれていた。商店街一帯の再開発計画、説明会の案内、そして立ち退きの方向性について。
千代は手紙を胸に抱え、椅子に座り込んだ。誠との思い出が詰まったこの店。子どもたちとの笑顔が溢れていたこの場所。そのすべてが終わろうとしているのか。
「誠…どうしたらいいの?」千代は遺影に向かって小さく呟いた。
応える声はなかったが、千代の心の中で、亡き夫の言葉が蘇った。「千代、時代は変わっても、子どもたちの笑顔は変わらないよ。大切なのは形じゃない。心だ」
千代は深く息を吸い、少しずつ気持ちを落ち着かせた。「そうね、誠」と彼女は静かに言った。「まだ何も決まったわけじゃない。それに、子どもたちの文化祭もある。今はそれに集中しなくちゃ」
午後になって、健太とさくらが店にやってきた時、千代はいつもの笑顔で二人を迎えた。
「千代おばあちゃん、これ見て!」さくらが元気よく紙を広げた。「文化祭のパンフレットだよ。4年2組のページには、『あめつちの詩』のことも書いてあるんだ!」
千代はパンフレットを見て、微笑んだ。確かに、「昔の遊びと駄菓子」のコーナーに「あめつちの詩」のことが紹介されていた。子どもたちが書いたであろう温かい言葉に、千代の目に涙が滲んだ。
「どうしたの、千代おばあちゃん?」健太が心配そうに尋ねた。
千代は急いで涙をぬぐった。「いいえ、うれしくて…みんなが書いてくれた言葉が、とても温かいから」
「当たり前だよ!」さくらは誇らしげに言った。「みんな千代おばあちゃんのこと、大好きなんだから」
「ありがとう」千代は心から言った。
その日、千代は再開発の話を二人には言わなかった。彼らの楽しみを台無しにしたくなかったのだ。文化祭が終わってから、ゆっくり考えよう…そう決めた。
夜、一人静かに夕食を取りながら、千代は再開発の通知のことを考えていた。半世紀以上も営んできた駄菓子屋を閉めるということは、どういうことなのだろう。この場所を離れるということは…
千代の目に、過去の光景が次々と浮かんだ。若かりし日の誠と店を開いた日、子どもたちが列を作って駄菓子を買いに来た日々、様々な季節の行事、そして最近の健太とさくらたちとの新しい思い出。
「時が過ぎるのは早いわね」千代は窓の外の夜景を見ながら呟いた。
そして彼女の心には、静かな決意が芽生え始めていた。何があっても、文化祭までは精一杯頑張ろう。子どもたちの笑顔のために。そして、その後のことは…説明会で詳しく聞いてから考えよう。
文化祭の前日、「あめつちの詩」は特別な準備で忙しかった。千代は朝早くから起き出し、べっこう飴の材料を用意した。今日は最後の確認と、明日の実演のための準備を子どもたちと一緒に行う予定だった。
庭に出ると、柿の木はほとんど葉を落とし、数個の実だけが枝にぶら下がっていた。「もう冬が近いのね」と千代は思った。空は澄み渡り、冷たい風が頬を撫でる。
店の準備を整えていると、いつもより早く健太とさくらがやってきた。二人の後ろには、文化祭の準備を手伝うクラスメイトたちも数人ついてきていた。
「おはよう、千代おばあちゃん!」子どもたちは元気よく挨拶した。
「まあ、みんな早いのね」千代は微笑んで迎えた。
「今日は午前中だけ授業で、午後は準備の時間なんだ」さくらが説明した。「それで先生が『千代おばあちゃんのところで最終確認してもいいよ』って言ってくれたの」
「そう、それは嬉しいわ」千代は本当に嬉しそうに言った。
子どもたちは店内に入り、明日の実演の準備を始めた。掲示するポスターの確認、昔の遊びの道具の点検、べっこう飴の実演の流れの確認…みんな真剣な表情で取り組んでいた。
「千代おばあちゃん」健太が小さな声で言った。「明日、緊張する?」
千代は優しく微笑んだ。「少しね。でも、みんなが一緒だから大丈夫よ」
健太は安心したように頷いた。「うん、僕たちもいるから」
昼過ぎ、準備が一段落すると、千代は子どもたちのために特別なおやつを用意した。自家製の蒸しパンとべっこう飴、そして温かいお茶。
「みんな、休憩しましょう」千代はテーブルにおやつを並べた。
子どもたちは嬉しそうに座り、おいしそうにおやつを食べ始めた。
「千代おばあちゃんの蒸しパン、最高!」田中が満足そうに言った。
「本当に美味しい」別の女の子も同意した。
千代は穏やかな笑顔で子どもたちを見守っていた。この光景が、いつまでも続くといいのに…そんな思いが胸をよぎった。
「ねえ、千代おばあちゃん」さくらが急に尋ねた。「なんだか元気ないみたい。どうしたの?」
千代は少し驚いた。さくらの観察力は鋭かった。「そんなことないわ。ちょっと疲れているだけよ」
「無理しないでね」健太も心配そうに言った。「僕たち、手伝えることあったら言ってね」
千代は心が温かくなるのを感じた。「ありがとう。みんながこうして来てくれるだけで、十分よ」
子どもたちが帰った後、千代は再び庭に出た。空は夕焼けに染まり始め、柿の木のシルエットが浮かび上がっていた。
千代は一つの熟した柿を手に取った。赤く、ずっしりと重い実。「今年も、いい実がなったわね」と千代は呟いた。
柿を見つめながら、千代は再開発のことを考えていた。もしこの店を離れなければならないとしたら、この柿の木はどうなるのだろう。五十年以上前、誠と一緒に植えたこの木は、二人の歴史の証人だった。
「誠、明日は文化祭よ」千代は空を見上げて言った。「子どもたちが頑張ってくれてるわ。あなたも見ていてね」
夕暮れの「あめつちの詩」は静かだったが、千代の心は明日への期待と、未来への不安が交錯していた。一つだけ彼女が確信していたのは、子どもたちと過ごした時間は、かけがえのないものだということ。再開発がどうなろうと、その思い出だけは誰も奪うことはできない。
そして明日は、きっと新しい思い出が増える日になる。千代はそう信じて、家路についた。
文化祭当日の朝、千代は早めに起きて準備を整えた。べっこう飴の材料、昔の遊びの道具、そして子どもたちへのちょっとしたプレゼント。全て丁寧に箱に詰めた。
鏡台の前で髪を整えながら、千代は少し緊張していた。久しぶりの大きな行事だ。しかも、大勢の人の前で話したり、実演したりするなんて…
「大丈夫よ」千代は自分に言い聞かせた。「子どもたちが一緒にいてくれるわ」
用意を終えると、千代は時計を見た。まだ時間があった。昨日、松本先生から「10時に学校に来てください」と言われていた。学校までは歩いて15分ほど。まだ余裕がある。
千代は窓辺に立ち、外の景色を眺めた。朝の光が商店街を照らし、静かな雰囲気が漂っている。土曜日なので、多くの店は開いていないが、いくつかの店は準備を始めていた。
「今日一日、頑張ろう」千代は決意を新たにした。
出発の時間になり、千代は荷物を持って家を出ようとしたとき、携帯電話が鳴った。健太の母親からだった。
「もしもし、佐々木さん?松田真理です」
「ああ、松田さん。おはようございます」
「おはようございます。今日は文化祭ですね。健太が朝から興奮していますよ」
千代は微笑んだ。「わたしも楽しみにしています」
「あの…実は、学校に向かう途中なのですが、もしよろしければ、お迎えに上がりましょうか?車で行きますので」
千代は少し驚いた。「まあ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。歩いていけますから」
「いいえ、ぜひ。健太も『千代おばあちゃんを迎えに行こう』と言っているんです」
千代は心が温かくなるのを感じた。「そうですか…では、お言葉に甘えます」
「では、10分ほどで到着します」
電話を切ると、千代は玄関先でおしゃれをした。今日は特別な日だから、少しだけ良い服を着て、軽く化粧もした。
約束通り、10分後に車が店の前に止まった。健太が窓から顔を出して手を振っている。
「千代おばあちゃん!」
千代は笑顔で手を振り返した。「おはよう、健太くん」
真理が車から降りてきて、千代の荷物を持ってくれた。「重そうですね。お手伝いします」
「ありがとうございます」千代は感謝の言葉を述べた。
車の中で、健太は嬉しそうに話しかけてきた。「今日、楽しみだね。みんな千代おばあちゃんが来るの、待ってるよ」
「そう、わたしも楽しみよ」千代は微笑んだ。
真理は運転しながら、「健太からいつも話を聞いていますが、本当にお世話になっているようですね」と言った。
「いいえ、こちらこそ」千代は答えた。「健太くんがお店に来てくれるようになって、わたしの毎日が明るくなりました」
健太は少し照れくさそうに笑った。
学校に到着すると、既に大勢の人で賑わっていた。保護者や地域の人々が訪れていて、校門には歓迎の横断幕が掲げられていた。
「4年2組の教室は2階よ」健太が案内役を買って出た。「さくらちゃんたちも待ってるよ」
千代は健太に導かれ、学校の中へと歩いていった。廊下には子どもたちの作品が飾られ、教室からは楽しそうな声が聞こえてくる。
4年2組の教室に着くと、さくらが飛び出してきた。
「千代おばあちゃん、来てくれた!」
中には既に大勢の子どもたちが準備を整えていた。教室は「昔の遊びと駄菓子」のテーマで飾り付けられ、壁には古い駄菓子の写真や、遊びの説明が貼られていた。そして中央には「あめつちの詩」と大きく書かれた看板があった。
「わあ…」千代は感動して言葉を失った。
松本先生が近づいてきて、「佐々木さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」と挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」千代は頭を下げた。
子どもたちは千代の周りに集まり、次々と質問や話しかけてきた。「今日は何から始める?」「べっこう飴の実演、楽しみ!」「お手玉の歌、覚えたよ!」
千代はそんな子どもたちの熱意に、すっかり緊張が解けていった。
文化祭は午前10時に始まり、教室はすぐに来場者でいっぱいになった。子どもたちは班ごとに分かれて、昔の遊びを実演していた。お手玉、めんこ、あやとり、ビー玉遊び…そして、千代は教室の一角で、駄菓子の歴史や「あめつちの詩」についての話をしていた。
「駄菓子屋は、子どもたちの社交場でもあったんです」千代は集まった保護者たちに語りかけた。「小さなお小遣いで買える駄菓子を通じて、友達と交流したり、時には悩みを相談したり…」
保護者たちは興味深そうに聞き入っていた。中には「私も子どもの頃、駄菓子屋によく行きました」「懐かしいですね」と声をかける人もいた。
午後になると、いよいよべっこう飴の実演の時間がやってきた。教室の前には「べっこう飴実演 13:00〜」と書かれた看板が立てられ、多くの人が集まってきた。
「みなさん、これから『あめつちの詩』の名物、べっこう飴の作り方を実演します」松本先生が司会を務めた。「教えてくださるのは、佐々木千代さんです」
千代は少し緊張しながらも、準備を始めた。健太とさくらが手伝いながら、材料を並べる。
「まず、砂糖をお鍋に入れて、弱火で熱します」千代は説明しながら作業を進めた。「火加減が大事なのよ。強すぎると焦げてしまうし、弱すぎると固まらない」
見学者たちは熱心に見つめ、中には写真を撮る人もいた。
砂糖が溶け始め、甘い香りが教室に広がると、「いい匂い!」「懐かしい香り」という声が上がった。
千代は水飴を加え、丁寧にかき混ぜた。「こうすると、きれいな琥珀色になるのよ」
子どもたちは真剣な表情で千代の手元を見つめていた。健太は特に集中して見ていて、千代の一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
「熱いうちに形を作るのがコツですよ」千代は飴が適度な粘り気を持ったところで火を止め、用意していた型に流し込んでいった。
観客からは感嘆の声が上がった。千代の手作業は見事で、経験に裏打ちされた確かな技術が伝わってきた。
べっこう飴が冷め始めると、千代は完成品を少しずつ切り分け、来場者たちに配った。「どうぞ、味見してください」
「美味しい!」「こんな飴、久しぶり」「子どもの頃を思い出します」
感想が次々と寄せられ、千代の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
実演が終わると、多くの人が千代に話しかけてきた。「お店はどこにあるんですか?」「今度行ってみたいです」「子どもを連れて行きますね」
千代は一人一人に丁寧に応えた。「商店街の端にある『あめつちの詩』です。いつでも来てください」
そんな中、一人の中年男性が千代に近づいてきた。スーツ姿で、どこか物腰が違う印象だった。
「佐々木さんですね」男性は名刺を差し出した。「不動産会社の島田と申します」
千代は少し驚いたが、名刺を受け取った。「はい、佐々木千代です」
「素晴らしい実演でした」島田は言った。「そういえば、再開発の件、通知は届きましたか?」
千代の表情が少し曇った。「はい…」
「実は、説明会の前に少しお話ししたいことがあるのですが」島田は声を低くした。「お店にお伺いしてもよろしいでしょうか?月曜日の午後あたりで」
千代は少し考えて、「はい、構いませんよ」と答えた。
島田は微笑み、「では、月曜日の15時頃に伺います」と言って立ち去った。
千代はその後ろ姿を見送りながら、胸に不安がよぎった。何の話だろう。再開発のことに違いないが…
そんな千代の様子に気づいたのか、健太が近づいてきた。「どうしたの、千代おばあちゃん?」
千代は急いで笑顔を取り戻した。「何でもないわ。少し疲れただけよ」
「休憩する?」健太は心配そうに言った。
「大丈夫よ」千代は健太の頭をなでた。「さあ、まだ文化祭は続くわ。頑張りましょう」
午後3時頃、文化祭も佳境に入り、4年2組の教室は大盛況だった。子どもたちは交代で昔の遊びを教えたり、駄菓子の歴史を説明したりしていた。千代はそんな子どもたちの姿を見守りながら、誇らしい気持ちでいっぱいだった。
「千代さん」松本先生が近づいてきた。「本当にありがとうございます。子どもたちの成長が目に見えるようです」
「いいえ、こちらこそ」千代は心から言った。「こんな機会をいただいて、感謝しています」
「実は…」松本先生は少し躊躇いながら続けた。「子どもたちが何か言いたいことがあるようで」
「え?」
松本先生が子どもたちを集め、「みんな、話したいことがあったよね?」と言った。
子どもたちはお互いを見合わせ、そして田中が前に出てきた。
「千代おばあちゃん」田中は少し緊張した様子で言った。「みんなで相談したんだ。『あめつちの詩』のことをもっとたくさんの人に知ってもらいたいって」
「そうなの?」千代は驚いた。
さくらも前に出てきた。「うん!だって、千代おばあちゃんの駄菓子屋は特別だもん。昔の遊びも教えてくれるし、べっこう飴も作ってくれる。みんなが集まれる場所なんだよ」
健太も静かに言った。「僕…千代おばあちゃんの店に行けて良かった。友達もできたし、楽しいことがいっぱいあった」
次々と子どもたちが思いを述べた。「駄菓子屋があって嬉しい」「これからも行きたい」「もっと多くの人に知ってほしい」
そして最後に、田中が一枚の紙を千代に差し出した。
「これ、みんなで作ったんだ」
それは、手書きの「あめつちの詩を守る会」と書かれた紙だった。下には子どもたちの名前がずらりと並んでいる。
「守る会?」千代は驚いて尋ねた。
「うん」田中は真剣な表情で言った。「実は昨日、ぼくたちがお店の前を通りかかったとき、何か知らない人が千代おばあちゃんの店の前で写真を撮ったり、メモを取ったりしてたんだ」
「それで、何だろうって思って、河野おじいちゃんに聞いたら…」さくらが続けた。「商店街が『さい、かい、はつ』っていうので、なくなるかもしれないって」
千代は息を呑んだ。子どもたちは既に再開発のことを知っていたのだ。
「それって本当?」健太が心配そうに尋ねた。「千代おばあちゃんのお店、なくなっちゃうの?」
千代は言葉に詰まった。嘘をつくつもりはなかったが、子どもたちを心配させたくもなかった。
「まだ何も決まったわけじゃないのよ」千代は静かに言った。「説明会があって、そこでいろいろ話し合うの」
「でも、なくなる可能性はあるんでしょ?」田中が食い下がった。
千代は小さく頷いた。「ええ…可能性はあるわ」
教室には一瞬、静寂が流れた。そして、
「そんなの嫌だ!」
「千代おばあちゃんのお店、大好きなのに!」
「どうして駄菓子屋がなくなるの?」
子どもたちから次々と声が上がった。彼らの表情には、本当の悲しみと怒りが混ざっていた。
松本先生が子どもたちを落ち着かせようと声をかけた。「みんな、静かに。ここは文化祭の場所だから、大きな声を出さないで」
子どもたちは少し静かになったが、まだ動揺は収まらない様子だった。
「そこで」田中が再び口を開いた。「僕たちは『あめつちの詩を守る会』を作ろうって思ったんだ。千代おばあちゃんのお店をなくさないために、みんなで力を合わせよう!」
千代は感動で胸がいっぱいになった。こんなにも子どもたちが自分の店を大切に思ってくれているなんて。
「みんな…」千代の目に涙が滲んだ。「ありがとう」
さくらが千代の手を取った。「千代おばあちゃん、泣かないで。私たち、絶対にお店を守るから!」
健太も頷いた。「うん。僕たちにできることがあれば、何でもするよ」
千代は涙を拭いながら、子どもたちに頭を下げた。「本当にありがとう。でも、再開発は大人たちが決めることなの。みんなが心配してくれるだけで、わたしは十分幸せよ」
「そんなこと言わないで」さくらは力強く言った。「私たちにだってできることはあるはず!」
松本先生が千代の肩に手を置いた。「子どもたちの気持ちは本物です。彼らなりに考えているんですよ」
千代は静かに頷いた。「わかりました。でも、みんなには迷惑をかけたくないの」
「迷惑じゃない!」子どもたちが口々に言った。
その後、文化祭は予定通り進行した。しかし、子どもたちの間には「あめつちの詩を守る」という新しい目標が生まれていた。彼らは来場者に熱心に駄菓子屋の良さを説明し、「ぜひ行ってみてください」と宣伝していた。
夕方、文化祭が終わる頃、子どもたちは千代の周りに集まってきた。
「千代おばあちゃん、これからどうする?」さくらが尋ねた。
千代は少し考えて、「まずは月曜日に不動産会社の人が来るから、話を聞いてみるわ」と答えた。「それから12月10日に説明会があるの」
「私たちも行きたい!」さくらが即座に言った。
「それは無理よ」千代は優しく断った。「説明会は大人だけのものだから」
「でも…」子どもたちは諦めきれない様子だった。
「こうしましょう」松本先生が提案した。「まずは千代さんが月曜日に不動産会社の方と話をする。その結果を聞いてから、私たちにできることを考えましょう」
子どもたちは不満そうだったが、しぶしぶ頷いた。
「約束するよ」千代は子どもたちの顔を見回した。「何があっても、ちゃんと話すわ。隠し事はしないから」
「うん」健太が静かに頷いた。「信じてる」
文化祭が終わり、片付けも終わると、千代は健太の母親の車で帰ることになった。車の中で、真理が心配そうに尋ねた。
「再開発の話、本当なんですか?」
千代は静かに頷いた。「ええ…通知が来たんです。まだ詳細はわかりませんが」
「子どもたちが心配していました」真理は言った。「健太も『千代おばあちゃんのお店がなくなるかもしれない』って、悲しそうでした」
千代は窓の外を見た。夕暮れの街並みが流れていく。「子どもたちには申し訳ないと思っています。でも、時代の流れには逆らえないかもしれません」
「そんなことないよ」後部座席から健太の声が聞こえた。「千代おばあちゃんのお店は特別だもん。なくなったらダメだよ」
真理は後ろを振り返り、「健太」と軽く注意したが、すぐに千代に向かって言った。「私も健太の気持ちはわかります。あそこは単なる駄菓子屋じゃない。子どもたちの居場所ですから」
千代は感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。「ありがとうございます。でも、まだどうなるかわかりません。月曜日に不動産会社の人と話してみます」
真理は頷いた。「何かあれば、いつでも言ってください。私にできることがあれば」
「ありがとう」千代は心からお礼を言った。
車が「あめつちの詩」の前に停まると、千代は健太と真理に深々と頭を下げた。「今日は本当にありがとうございました」
「いつでも頼ってくださいね」真理は優しく言った。
健太は窓から顔を出して、「千代おばあちゃん、絶対に店を守ろうね!明日も来るから!」と元気よく言った。
千代は笑顔で手を振った。「ええ、明日も待ってるわ」
車が走り去った後、千代は店の前に立ち止まった。赤いひさしに描かれた「あめつちの詩」の文字。五十年以上前、誠が筆で書いたものだ。時間が経ち、色あせてはいるが、今でも温かみがある。
「誠、見ていた?」千代は空を見上げて呟いた。「子どもたちが店を守りたいって言ってくれたのよ」
千代は店に入り、明かりをつけた。文化祭で使った道具を置き、少し疲れた体を椅子に預けた。今日は特別な一日だった。子どもたちの笑顔、真剣な表情、そして彼らの「あめつちの詩を守る」という熱意。
しかし、月曜日には不動産会社の島田が来る。そこでどんな話があるのか、千代は少し不安だった。でも、今日の子どもたちの姿を思い出すと、何かが心の中で固まっていく感覚があった。
「わたしにも、まだできることがあるのかもしれない」千代は静かに呟いた。
窓の外では、秋の夜風が吹き始めていた。柿の木の枝が揺れ、残った数個の実が月明かりに照らされている。季節は確実に冬へと向かっていた。
日曜日の朝、千代はいつもより少し遅く起きた。文化祭の疲れが残っていたのだろう。朝食を取りながら、昨日の出来事を思い返していた。子どもたちの真剣な表情、「あめつちの詩を守る会」、そして不動産会社の島田との約束。
「明日、何を話すのかしら」千代は考え込んだ。
朝食を終えると、千代は長年使っている古い黒電話の前に座った。しばらく迷った後、受話器を取り、ダイヤルを回した。
「もしもし、由美子?」
「お母さん?」電話の向こうから娘の声が聞こえた。「どうしたの?珍しいわね、こんな朝早くに」
「ごめんなさい、急に思い立って…」千代は少し言葉に詰まった。「元気にしてる?」
「ええ、まあね」由美子の声には少し警戒心が混じっていた。「お母さんこそ、どう?何かあったの?」
千代は深く息を吸った。「実はね…商店街の再開発の話が具体的になってきたの」
電話の向こうで、由美子の息遣いが変わった。「やっぱり…」
「まだ詳細はわからないけど、明日不動産会社の人が来るの。それから12月10日に説明会があるわ」
「そう…」由美子は少し間を置いて言った。「それで、どうするつもり?」
千代は窓の外を見た。「まだわからないわ。でも…」
「でも?」
「昨日、学校の文化祭があってね。子どもたちが『あめつちの詩を守る会』を作ったの」
「え?」由美子は驚いた様子だった。
千代は文化祭の様子、健太とさくらをはじめとする子どもたちの活躍、そして彼らの「店を守りたい」という思いを詳しく話した。
話を聞き終えた由美子は、しばらく沈黙していた。そして、
「お母さん…」彼女の声は少し震えていた。「どうしたいの?本当のところ」
千代は正直に答えた。「わからないわ。店を続けたい気持ちもあるけど、もう年だし…でも、子どもたちの笑顔を見ていると、もう少し頑張れるかなって思うの」
「そう…」由美子の声には複雑な感情が混ざっていた。「実は…拓也に話してみようと思ってたの」
「拓也に?」千代は孫の名前に少し驚いた。
「ええ、拓也も大きくなったし、お母さんのこと心配してるのよ」由美子は説明した。「それに…彼、最近仕事のことで悩んでたみたいだから」
「まあ、そうなの?」千代は心配になった。「何かあったの?」
「詳しくは知らないけど、今の会社の仕事に少し行き詰まりを感じてるみたい」由美子は言った。「デザイナーとして認められてはいるけど、もっと自分らしい仕事がしたいって」
千代は黙って聞いていた。拓也は十歳の頃を最後に「あめつちの詩」を訪れていない。東京の大学に進学し、そのままデザイン会社に就職した。年に一度の正月に顔を合わせる程度で、最近はメールや電話でのやり取りが主だった。
「拓也に連絡してみるわ」由美子は決心したように言った。「できれば、実家に帰るように言ってみる」
「いいのかしら」千代は少し迷った。「わざわざ忙しいところを…」
「大丈夫よ」由美子は力強く言った。「お母さんの店のこと、拓也も子どもの頃から好きだったでしょう。それに…彼にとっても、少し東京を離れるのはいいかもしれない」
千代は感謝の気持ちと少しの戸惑いを感じながら、「ありがとう」と言った。
電話を切った後、千代はしばらく窓辺に立っていた。拓也が来るかもしれない。彼が最後に店に来たのは、もう十八年前のことだ。あの茶色の髪の少年は、今では二十八歳の大人になっている。
「拓也…」千代は孫の名前を呟いた。「来てくれるかしら」
その日の午後、「あめつちの詩」には健太とさくらをはじめ、何人かの子どもたちが訪れた。彼らは昨日の文化祭の余韻冷めやらぬ様子で、次々と感想を話した。
「千代おばあちゃん、みんな褒めてくれたよ!」さくらは嬉しそうに言った。「べっこう飴が特に人気だった!」
「本当に?」千代は微笑んだ。
「うん」健太も頷いた。「先生も『とても勉強になった』って言ってた」
子どもたちは「あめつちの詩を守る会」のことも熱心に話し合っていた。どうやら彼らなりの作戦を練っているようだった。
「まずは署名活動をしよう」田中が提案した。「学校の友達や家族にも協力してもらおう」
「それから、お店の良さをもっと知ってもらうためのチラシも作ろう」別の子が言った。
千代はそんな子どもたちの様子を見ながら、心が温かくなるのを感じた。そして、由美子に電話したことも彼らに話した。
「孫の拓也が来るかもしれないの」
「拓也さん?」健太が興味深そうに尋ねた。
「ええ。今は東京でデザイナーをしているの」千代は説明した。「小さい頃はよくここに来ていたのよ」
「デザイナー?すごい!」さくらは目を輝かせた。「どんなデザインをしてるんですか?」
「そうねえ…」千代は少し考えて言った。「広告とか、パッケージとか…詳しくはわからないけど」
「拓也さんが来たら、一緒に『守る会』の活動ができるかも!」田中が言った。「デザイナーなら、すごいチラシとか作れるよね」
千代は苦笑した。「まあ、まだ来るかどうかもわからないのよ」
その日の夕方、子どもたちが帰った後、千代のスマートフォンに一通のメールが届いた。送信者は拓也だった。
「おばあちゃん、お母さんから話を聞きました。明後日の夜、実家に帰ります。その後すぐにおばあちゃんの店に行きます。楽しみにしていてください。拓也より」
千代は何度もメールを読み返した。拓也が本当に来るのだ。胸が高鳴るのを感じた。
「誠…」千代は夫の遺影に向かって言った。「拓也が帰ってくるのよ。何年ぶりかしら」
店内は静かだったが、千代の心は様々な感情で揺れ動いていた。明日は不動産会社の島田との話し合い。そして明後日は孫の拓也が帰ってくる。何もかもが急に動き始めたような気がした。
窓の外では、最後の柿の実が風に揺れていた。季節の変わり目。そして、「あめつちの詩」の未来も、何かの変わり目に来ているのかもしれない。
千代はその夜、久しぶりに長い手紙を書いた。明後日に会う拓也へ向けて。店の歴史、最近の出来事、子どもたちのこと、そして再開発の話。全てを正直に書き綴った。
「拓也へ」という宛名を書き、千代は手紙を封筒に入れた。明後日、拓也に直接渡すつもりだった。
静かな夜の「あめつちの詩」で、千代は明日のことを考えながら、少しずつ眠りについた。