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あめつちの詩  作者: SKY
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第五章:広がる輪

夕立の翌日から、「あめつちの詩」は少しずつ賑わいを取り戻していった。健太とさくらが毎日のように通い、そして彼らと一緒に数人のクラスメイトたちも顔を見せるようになった。千代は久しぶりの忙しさに少し戸惑いながらも、心から楽しんでいた。


十月の最終週、土曜日の午前中。千代は早めに店を開け、棚の整理をしていた。この日は午後から子どもたちが来るだろうと思い、準備を整えておきたかったのだ。


風鈴が鳴り、ドアが開いた。


「おはようございます、千代おばあちゃん」


元気な声が店内に響いた。振り返ると、さくらが一人で立っていた。健太の姿はない。


「あら、さくらちゃん。おはよう」千代は少し驚いた様子で迎えた。「一人なの?健太くんは?」


「健太くんは、今日お母さんと買い物に行くんだって」さくらは答えた。「だから、わたし一人で来ました」


「そう」千代は微笑んだ。「健太くんのお母さん、忙しいだろうけど、息子との時間を大切にしてるのね」


「うん」さくらは頷いた。「それでね、千代おばあちゃん。今日はお願いがあって来たんです」


「お願い?」千代は興味を持って聞いた。


さくらはランドセルから一枚の紙を取り出した。学校の通知のようだ。


「これ」さくらは千代に紙を差し出した。


千代はそれを受け取り、読み始めた。「『秋の文化祭のお知らせ』…」


通知によると、さくらたちの小学校では来月の中旬に文化祭が開催されるという。各クラスが出し物を考え、保護者や地域の人々に見てもらう行事だ。


「文化祭ね」千代は頷いた。「楽しみね」


「それでね」さくらはやや緊張した様子で続けた。「わたしたちのクラスは『昔の遊び』をテーマにすることになったんです。先生が『最近は昔の遊びを知らない子が多いから、みんなで調べて紹介しよう』って」


「なるほど、いいテーマね」


「それで!」さくらの目が輝いた。「わたし、提案したんです。『千代おばあちゃんに教えてもらおう』って」


千代は少し驚いた。「わたしに?」


「はい!」さくらは元気よく頷いた。「千代おばあちゃんは昔の遊びをたくさん知ってるし、教え方も上手だから。みんなも賛成してくれて、先生も『いいアイデアね』って言ってくれたんです」


千代は言葉に詰まった。子どもたちが自分を頼りにしてくれるという事実に、胸が熱くなるのを感じた。


「でも…」と千代は少し躊躇した。「大丈夫かしら。わたし、そんな大勢の前で話すなんて…」


「大丈夫です!」さくらは自信満々に言った。「千代おばあちゃんは説明上手だし、みんな千代おばあちゃんのこと、もう知ってるから」


確かに、この一週間ほどで、クラスの半数以上の子どもたちが駄菓子屋を訪れていた。彼らにとって千代はもう「千代おばあちゃん」だった。


千代は少し考え、そして静かに頷いた。「わかったわ。力になれるなら、喜んで」


「やった!」さくらは飛び上がって喜んだ。「ありがとうございます!先生にも伝えておきます」


「いつ頃になるのかしら?」


「来週の火曜日です」さくらは答えた。「午後の授業で、先生が『昔の遊び』の時間を特別に設けてくれるんです」


「そう」千代は少し緊張したようだが、微笑んだ。「楽しみにしているわ」


さくらは嬉しそうに千代の手を取った。「ね、今日は何か特別な遊びを教えてもらえませんか?文化祭で紹介できるような」


千代は少し考えた。「そうね…」とつぶやき、古い木箱から何かを取り出した。布で包まれた小さな袋だ。


「これは何ですか?」さくらは好奇心いっぱいに尋ねた。


千代は布を広げた。中には、小さな布の袋が五つと、小豆が入っていた。


「お手玉よ」千代は説明した。「わたしが子どもの頃、よく遊んだものなの」


さくらは目を輝かせた。「使い方を教えてください!」


千代は一つのお手玉を手に取り、軽く投げ上げてキャッチする様子を見せた。「まずは一つから始めるの。こうやって片手で上に投げて、同じ手で受け止める」


さくらも一つ手に取り、真似してみた。最初は何度か落としたが、すぐにコツをつかんだ。


「できた!」


「上手ね」千代は褒めた。「次は二つよ。こうやって…」


千代は二つのお手玉を交互に投げ上げ、キャッチするやり方を教えた。さくらは熱心に練習した。


「昔の子どもたちは、こうやって遊んでいたのね」さくらは感心した様子で言った。


「ええ。特別な道具がなくても、小さな袋と豆や小石があれば作れるのよ」千代は懐かしそうに言った。「みんなでお手玉の数を競ったり、歌を歌いながら遊んだりしたわ」


「歌?」


「そう。例えば…」千代は小さく歌い始めた。「♪ひとつ とっても とられても ひとつ」


お手玉を投げながら歌う千代の姿は、まるで時が戻ったかのように若々しく見えた。


「素敵な歌!」さくらは目を輝かせた。「教えてください」


千代は笑顔で頷き、さくらにお手玉の歌を教え始めた。二人は午前中いっぱい、様々なお手玉の技や歌を練習した。さくらは覚えるのが早く、すぐに三つのお手玉を扱えるようになった。


「さくらちゃん、器用ね」千代は感心した。


「千代おばあちゃんのおかげです」さくらは嬉しそうに言った。「文化祭でこれを紹介したいです」


「そうね、きっとみんな喜ぶわ」


昼過ぎ、さくらは「今日はありがとうございました!」と言って店を後にした。「火曜日、よろしくお願いします!」


千代は店の前まで出て、さくらが角を曲がって見えなくなるまで見送った。そして静かに呟いた。「まさかわたしが学校に行くことになるなんて…」


胸の中には少しの不安と、それ以上の楽しみがあった。子どもたちのために何かできることは、こんなにも嬉しいことなのだと、千代は改めて感じていた。


「誠、見ていてね」と千代は空を見上げて言った。「わたしたちの『あめつちの詩』が、また子どもたちの役に立つのよ」




火曜日の午後、千代は少し緊張しながら小学校の門をくぐった。手には小さな木箱を持っている。中には、お手玉、めんこ、あやとり糸など、昔の遊びの道具が詰められていた。


「佐々木さん、こちらへどうぞ」


校門の所で待っていた女性教師が千代に声をかけた。鮮やかな赤いスーツを着た三十代前半の若い先生だ。


「佐々木千代です」千代は丁寧に挨拶した。「今日はお招きいただき、ありがとうございます」


「こちらこそ、来ていただき感謝します」先生は笑顔で言った。「わたくし、松本と申します。4年2組の担任です」


千代は頷いた。「よろしくお願いします」


「健太くんやさくらちゃんからよくお話は聞いています」松本先生は千代を校舎へと案内しながら言った。「『千代おばあちゃんはすごいんだよ』って、子どもたちが毎日のように話しているんですよ」


千代は少し照れたように笑った。「そんな、大したことはしていませんよ」


「いいえ、本当に感謝しています」松本先生は真剣な表情になった。「特に健太くん、転校してきた時はとても内向的だったのに、最近はすっかり明るくなって。人が変わったみたいなんです」


千代は静かに微笑んだ。「健太くんは素直な良い子ですから。環境が変わって、少し時間がかかっただけよ」


「それにしても、駄菓子屋さんっていうのは素敵ですね」松本先生は言った。「わたしも子どもの頃、近所に駄菓子屋さんがあって、よく通ったんですよ」


「そう、懐かしいでしょう?」


「はい。でも、今はほとんど見なくなりましたね」松本先生は少し寂しそうに言った。「だからこそ、佐々木さんのお店は特別なんでしょうね」


二人は階段を上がり、4年2組の教室に到着した。ドアを開けると、教室内からざわめきが聞こえた。


「みんな、今日の特別ゲストよ」松本先生が教室に入ると、子どもたちは一斉に静かになった。


千代がドアから入ると、「千代おばあちゃん!」という歓声が上がった。健太とさくらを中心に、駄菓子屋に来たことのある子どもたちが嬉しそうに手を振っている。


「みなさん、こんにちは」千代は少し緊張しながらも、優しく微笑んだ。


「今日は『昔の遊び』について、佐々木千代さんに教えていただきます」松本先生が説明した。「佐々木さんは長年駄菓子屋を営んでいて, 昔の子どもたちがどんな遊びをしていたかをよくご存じなんです」


千代は前に立ち、深呼吸をした。「みなさん、こんにちは。佐々木千代です。みんなからは千代おばあちゃんと呼ばれています」


子どもたちは興味津々の表情で見つめていた。


「さて、今日は昔の遊びについてお話しますね」千代は持ってきた木箱を開けた。「これは、わたしが子どもの頃に遊んだものです」


お手玉、めんこ、あやとり糸、おはじき…次々と昔の遊びの道具を取り出していく。子どもたちは「わあ」「すごい」と声を上げた。


「まずはこれ」千代はお手玉を手に取った。「お手玉って知ってる?」


数人の子どもたちが手を挙げた。さくらも嬉しそうに手を挙げている。


「さくらちゃん、前に練習したものよね」と千代は言った。「みんなの前でやってみる?」


さくらは元気よく前に出て、千代に教わったお手玉の技を披露した。三つのお手玉を器用に操り、歌も歌いながら演じる姿に、クラスメイトたちは感嘆の声を上げた。


「すごい!」

「さくらちゃん、上手!」


さくらが席に戻ると、千代は続けた。「このお手玉は、特別な道具がなくても手作りできるのよ。小さな布と小豆や小石があれば十分」


次に千代はめんことあやとりも紹介した。そして最後に、特別なものを取り出した。小さな鍋と砂糖、水飴だ。


「これから、べっこう飴の作り方を教えるわ」


「べっこう飴?」子どもたちは興味津々の表情になった。


「わたしの駄菓子屋『あめつちの詩』の名物なのよ」千代は説明した。「夫が考えた秘伝のレシピなの」


松本先生が教室の隅に用意してあった簡易コンロを出してきた。「佐々木さん、こちらをお使いください」


「ありがとう」千代は頷き、準備を始めた。


子どもたちは椅子から立ち上がり、千代の周りに集まってきた。


「まず、砂糖をお鍋に入れるの」千代は説明しながら作業を進めた。「そして弱火で溶かしていくのよ」


砂糖が少しずつ溶け始め、甘い香りが教室に広がった。子どもたちは目を輝かせて見ている。


「火加減が大事なのよ」千代は言った。「強すぎると焦げてしまうし、弱すぎると固まらない」


砂糖が完全に溶けたところで、千代は水飴を加えた。「これを入れると、飴がきれいな琥珀色になるの」


子どもたちは静かに、でも目を輝かせて見守っていた。健太は特に真剣な表情で千代の手元を見つめている。


「ほら、色が変わってきたでしょう?」千代は鍋を少し傾けた。「この琥珀色がべっこう飴の特徴なの」


飴が適度な色と粘り気を持ったところで、千代は火を止め、用意していた型に流し込んでいった。


「熱いうちに形を作るのがコツよ」千代は説明した。「冷めると固まって形が作れなくなるから」


松本先生が「みんな、少し下がっていなさい。熱いから危ないわよ」と注意した。


千代は手早く作業を進め、棒付きのべっこう飴をいくつか作った。「これが冷めれば完成よ」


「食べられるんですか?」一人の男の子が尋ねた。


「もちろん」千代は微笑んだ。「でも、今日作ったのは冷めるのに時間がかかるから、これはあらかじめ用意しておいたものを配るわね」


千代は別の箱から、すでに完成しているべっこう飴を取り出した。琥珀色に輝く美しい飴に、子どもたちから歓声が上がった。


「はい、一人一つずつどうぞ」


子どもたちは嬉しそうに飴を受け取った。口に入れると、甘くて少し苦味のある独特の味が広がる。


「美味しい!」

「こんな飴、初めて食べた!」


松本先生も一つ受け取り、「本当に美味しいですね」と感心した様子で言った。


「これがわたしの店の名物なの」千代は誇らしげに言った。「昔は子どもたちが列を作って買いに来ていたのよ」


「また作って売ってください!」田中が声を上げた。「買いに行きます!」


千代は嬉しそうに頷いた。「ええ、そうするわ」


授業の最後に、松本先生が「みんな、佐々木さんにお礼を言いましょう」と言うと、子どもたちは一斉に立ち上がり、「ありがとうございました!」と元気に挨拶した。


千代は静かに頭を下げた。「こちらこそ、呼んでいただいて嬉しかったわ」


教室を出る時、健太とさくらが千代の所に駆け寄ってきた。


「千代おばあちゃん、すごかった!」さくらは興奮した様子で言った。


「みんな、喜んでたよ」健太も嬉しそうに言った。


千代は二人の頭をなでた。「あなたたちが呼んでくれたおかげよ」


松本先生も近づいてきた。「本当にありがとうございました。子どもたちが大喜びでした」


「いいえ、わたしも楽しかったです」千代は心からそう言った。


「実は…」松本先生は少し躊躇いながら言った。「来月の文化祭で、もし可能でしたら、べっこう飴の実演をしていただけないでしょうか?保護者の方々にも見ていただきたくて」


千代は驚いたが、すぐに微笑んだ。「ええ、喜んで」


「本当ですか?」松本先生は目を輝かせた。「助かります!」


「千代おばあちゃん、最高!」さくらが飛び跳ねた。


健太も「嬉しいな」と小さく呟いた。


校門を出る時、千代は振り返って校舎を見上げた。何十年ぶりかで学校に来て、子どもたちと過ごした時間は、彼女にとって特別なものだった。


「誠、わたしまた学校に来たのよ」と千代は心の中で呟いた。「子どもたちに昔の遊びを教えて、べっこう飴も作ったの」


帰り道、千代の足取りは軽かった。「あめつちの詩」と学校が繋がったこと、それは彼女にとって大きな喜びだった。かつての駄菓子屋が果たしていた役割が、少しずつ復活しているように感じられた。




学校訪問から数日後、千代はべっこう飴を店の商品として並べ始めた。久しぶりに手作り駄菓子を作る喜びを感じながら、彼女は毎朝少しずつ作り、透明なガラス瓶に入れて棚に並べた。


「久しぶりに看板商品が戻ってきたわね」と千代は誇らしげに飴の入った瓶を眺めた。


週末の土曜日、健太とさくらはいつものように駄菓子屋を訪れた。


「こんにちは、千代おばあちゃん!」二人は元気よく挨拶した。


「あら、二人とも来てくれたのね」千代は笑顔で迎えた。


健太が棚の飴を見て目を輝かせた。「べっこう飴、並んでる!」


「ええ」千代は頷いた。「みんながまた食べたいって言ってくれたから、作ったのよ」


さくらは嬉しそうに手をたたいた。「やったー!買っていい?」


「もちろん」千代は微笑んだ。「一つ30円よ」


二人は小銭を出して飴を買い、テーブルに座った。


「健太くん、学校のこと、どう?」千代は尋ねた。


健太は少し照れながらも嬉しそうに答えた。「うん、楽しくなってきた。先生も『明るくなったね』って言ってくれたんだ」


「それは良かったわ」千代は心から言った。


さくらが口の中のべっこう飴を転がしながら言った。「ねえ、明日の日曜日、どうする?」


健太は少し考えて、「特に予定ないよ」と答えた。


「じゃあ、うちに来ない?」さくらは提案した。「お母さんが『健太くんを誘ってもいいよ』って言ってるんだ」


健太は少し驚いた様子で「え?いいの?」と尋ねた。


「うん!わたしの家、駅の近くのマンションなんだよ。ゲームもあるし、お菓子作りもできるんだ」


健太は嬉しそうな、でも少し緊張した表情になった。友達の家に遊びに行くのは、転校してから初めてのことだった。


「行ってあげなさい」千代は優しく促した。「楽しいわよ、きっと」


「うん…行く」健太は決心したように頷いた。


さくらは飛び上がるほど喜んだ。「やったー!明日の11時に、駅前の広場で待ち合わせね」


健太も嬉しそうに頷いた。「わかった。楽しみにしてる」


二人がべっこう飴を食べ終わると、さくらが「そういえば」と言って立ち上がった。「千代おばあちゃん、これ」


さくらはランドセルから一枚の紙を取り出した。それは文化祭のポスターだった。


「文化祭は11月15日なんだ」さくらは説明した。「4年2組は『昔の遊びと駄菓子』をテーマにすることになったよ」


「まあ、素敵ね」千代はポスターを見て言った。


「千代おばあちゃんのべっこう飴が目玉なんだよ」健太が誇らしげに言った。「みんな楽しみにしてる」


千代は嬉しさで胸がいっぱいになった。「わたしも楽しみにしているわ」


その日の午後、二人は『あめつちの詩』で宿題をしたり、千代と昔の遊びをしたりして過ごした。健太とさくらの様子を見ていると、二人の間に芽生えた友情が日に日に深まっているのがわかった。内向的だった健太は、さくらの明るさに引っ張られるように少しずつ殻を破り、自分の意見も言えるようになってきていた。


帰り際、健太が千代に小さな声で言った。「千代おばあちゃん、明日さくらちゃんの家に行くの、ちょっと緊張する…」


千代は優しく微笑んだ。「大丈夫よ。さくらちゃんはいい子だし、お母さんもきっと優しい方よ。健太くんらしく素直に振る舞えばいいの」


健太は少し安心したように頷いた。「うん、ありがとう」


二人が帰った後、千代は窓辺に立ち、秋の夕暮れを眺めた。庭の柿の木は、実をほとんど落とし、残った葉も黄色く色づいていた。やがて冬が来る。そして、春…


「子どもたちの成長は早いわね」と千代は呟いた。「健太くんもさくらちゃんも、この数週間でずいぶん変わった」


翌日、健太はさくらの家に遊びに行き、夕方になって「あめつちの詩」に立ち寄った。顔には満面の笑みが浮かんでいた。


「千代おばあちゃん、楽しかったよ!」健太は興奮した様子で話し始めた。「さくらちゃんのお母さん、すごく優しくて。一緒にクッキーを焼いたんだ。それから、ゲームもしたよ」


千代は嬉しそうに聞いていた。「それは良かったわね」


「それでね」健太は少し恥ずかしそうに続けた。「来週は、うちに来てもらうことになったんだ。お母さんに電話で相談したら、『いいわよ』って」


「まあ、素敵ね」千代は心から喜んだ。「きっとお母さんも嬉しいわ」


健太は頷いた。「うん、お母さん『わたしも会ってみたい』って言ってた」


千代は健太の頭をなでた。「見てごらん。友達って素晴らしいでしょう?」


健太の目に、小さな涙が光った。「うん…」


それは喜びの涙だった。転校してきて、友達ができるか不安だった日々。そんな過去が、今はもう遠いものに感じられた。


「千代おばあちゃん、ありがとう」健太は小さく言った。


千代は「何のことかしら?」と言いながらも、健太の気持ちをよく理解していた。彼女の店が、健太とさくらの出会いの場になったこと。そして彼らの友情が育つ土壌になったこと。それは千代にとっても、かけがえのない喜びだった。


「さあ、おやつにしましょう」千代は厨房から蒸しパンを取り出した。「今日は特別に作ったのよ」


健太は嬉しそうに頷いた。「ありがとう」


窓の外では、早い夕暮れが街を包み始めていた。十一月に入り、日が落ちるのも早くなってきた。でも「あめつちの詩」の中は温かく、心地よい甘い香りが漂っている。


健太は蒸しパンを頬張りながら、「千代おばあちゃん、文化祭の日、お母さんも来るって言ってたよ」と言った。


「そう、それは素敵ね」千代は微笑んだ。


「千代おばあちゃんと会うのを楽しみにしてるって」


千代は嬉しそうに頷いた。「わたしも楽しみよ」


その日以降、健太とさくらの友情はさらに深まっていった。二人はお互いの家を行き来するようになり、「あめつちの詩」には放課後に顔を見せるという日常が定着した。そして彼らと一緒に、クラスメイトの子どもたちも次第に増えていった。




十一月の第二週目、文化祭の準備が本格化してきたある日のこと。千代が店の掃除をしていると、風鈴が鳴り、ドアが開いた。


「千代おばあちゃん、こんにちは!」


健太とさくらの声に続いて、大勢の子どもたちが店内に入ってきた。十人近くのクラスメイトたちが、嬉しそうに挨拶をする。


「まあ、みんな来てくれたのね」千代は驚きながらも嬉しそうに迎えた。


「今日は文化祭の練習なんです」さくらが説明した。「先生が『本番前に千代おばあちゃんに見てもらったら?』って言ってくれて」


「そうなの」千代は微笑んだ。「それは楽しみね」


子どもたちは店内のスペースと、外の平らな場所を使って、昔の遊びの実演を始めた。お手玉、めんこ、ビー玉遊び、あやとり…さくらやクラスの女子たちは、千代に教わったお手玉の技を披露する。健太を含む男子たちは、めんことビー玉遊びを実演していた。


「素晴らしいわ」千代は感心して見ていた。「みんな上手になったのね」


「千代おばあちゃんのおかげです」リーダー格の田中が言った。


練習の途中で、千代は子どもたちにお茶とラムネを出した。みんなが一休みしながらおしゃべりをしていると、田中が千代に質問した。


「ねえ、千代おばあちゃん。どうして『あめつちの詩』っていう名前にしたの?」


その問いに、他の子どもたちも「そうだよ、どうして?」「意味あるの?」と興味を示した。


健太とさくらは、すでに千代から名前の由来を聞いていたが、他の子どもたちに知ってもらいたくて、期待の眼差しを千代に向けていた。


千代は少し考えてから、静かに話し始めた。「この名前は、わたしの夫が付けたのよ」


子どもたちは真剣な表情で聞き入った。


「『あめつち』というのは、『天地』のこと。昔の言い方なの」千代は説明した。「誠…わたしの夫は、『駄菓子は子どもたちの小さな宝物。でも、その小さな宝物が、子どもたちの心の中では天地のように広がるんだ』と言ったの」


「天地のように広がる…」田中は考え込むように繰り返した。


「難しいかしら?」千代は微笑んだ。


「なんとなくわかる」別の女の子が言った。「駄菓子食べると、小さいのに、すごく嬉しい気持ちになるもんね」


「そう、まさにそういうことよ」千代は嬉しそうに頷いた。「小さな駄菓子が、あなたたちの中で大きな喜びになる。それが『あめつちの詩』の意味なの」


「素敵な名前だね」さくらは感心した様子で言った。


「ねえ、千代おばあちゃん」田中が少し恥ずかしそうに言った。「僕たちも、文化祭で『あめつちの詩』の話をしていいかな?」


千代は少し驚いた。「えっ?」


「だって」田中は続けた。「みんな『昔の遊びと駄菓子』のテーマで発表するんだよ。千代おばあちゃんの店のこと、みんなに知ってもらいたいんだ」


健太もさくらも、「そうだよ」「いいよね?」と同意した。


千代は胸が熱くなるのを感じた。「もちろん、いいわよ」


子どもたちは嬉しそうに顔を見合わせた。田中が「じゃあ、店の歴史とか、もっと教えてほしいな」と言うと、他の子どもたちも「聞きたい!」「昔の話して!」と次々に声を上げた。


千代は昔を思い出しながら、「あめつちの詩」の歴史を語り始めた。昭和二十九年の開店、駄菓子屋が賑わっていた頃の様子、時代と共に変わっていく街の様子…


子どもたちは目を輝かせて聞いていた。千代の言葉から、彼らは見たことのない昭和の風景を想像していた。


「昔は、このあたりも子どもたちでいっぱいだったのね」さくらが感慨深げに言った。


「ええ」千代は懐かしそうに頷いた。「放課後になると、店の前に列ができるほどだったわ」


「でも、今は…」健太が少し心配そうに店内を見回した。


確かに、子どもたちが来るようになったとはいえ、かつての賑わいとは比べものにならない。それに、商店街自体も寂れてきている。最近はシャッターが下りたままの店が増え、再開発の話もちらほら聞こえてくる。


千代は健太の不安を察して、優しく微笑んだ。「大丈夫よ。こうして、また子どもたちが来てくれるようになった。それだけで十分幸せだわ」


「でも、もっと賑やかになったらいいのに」田中が言った。


「そうだね」さくらが急に明るい声で言った。「まず、文化祭で『あめつちの詩』のことを紹介しよう!それで、もっとみんなに知ってもらえば…」


「いいね!」田中も乗り気になった。「べっこう飴の実演とかもするし、きっと興味を持ってくれる人いるよ」


子どもたちは次々とアイデアを出し始めた。手作りのポスターを作る案、簡単な駄菓子の作り方を紹介する案など、様々な意見が飛び交った。


千代はそんな子どもたちの様子を見ながら、静かに微笑んでいた。この子たちが「あめつちの詩」を大切に思ってくれていること、それだけで彼女は幸せだった。


練習を終えて子どもたちが帰る頃、町はすっかり夕闇に包まれていた。千代は店の前に立ち、帰っていく子どもたちを見送った。


「また明日来るね!」

「千代おばあちゃん、ありがとう!」


元気な声と共に、子どもたちは次々と角を曲がって見えなくなっていった。最後に残ったのは健太とさくらだった。


「二人とも、ありがとう」千代は心からの感謝を込めて言った。「こんなに大勢連れてきてくれて」


「みんな、千代おばあちゃんの店が大好きなんだよ」さくらは嬉しそうに言った。


「本当に…ありがとう」健太もしっかりとした声で言った。「僕、この店に来れて良かった」


千代は二人の頭をそっとなでた。「わたしこそ、あなたたちに出会えて良かったわ」


「明日も来るからね!」二人は元気よく手を振って帰っていった。


千代は店に戻り、窓辺に立って夜の空を見上げた。星が一つ、また一つと輝き始めている。


「誠、見ていたかしら」と千代は静かに呟いた。「子どもたちがまた『あめつちの詩』に集まってきてくれたのよ」


店内はまだ子どもたちの声が残っているような気がした。久しぶりの賑わいに、千代の心は温かさで満たされていた。明日も子どもたちが来る。そして文化祭では、「あめつちの詩」のことを多くの人に知ってもらえる。


そんなことを考えていると、千代の心に小さな希望が灯り始めていた。もしかしたら、この店はもう一度昔のような駄菓子屋として生まれ変われるかもしれない。子どもたちの笑顔あふれる場所として…


窓の外では、柿の木の最後の葉が風に揺れていた。やがて冬が訪れ、そして春が来る。この店も、もう一度新しい季節を迎えることができるだろうか。


千代はシャッターを下ろし、店の灯りを消した。今日も一日、無事に終わった。明日もまた、子どもたちの笑顔が見られることを楽しみに、彼女は二階の自分の部屋へと上がっていった。






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