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あめつちの詩  作者: SKY
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第四章:季節は巡る

十月も中旬を過ぎると、朝夕の冷え込みが厳しくなってきた。千代の家の庭にある柿の木の実は、すっかり赤く色づいていた。


「今年は豊作ね」と千代は窓から柿の木を眺めながら呟いた。


さくらが初めて「あめつちの詩」を訪れてから一週間ほど経っていた。さくらの明るい性格のおかげで、健太はさらに店に通うのが楽しみになったようだ。二人はほぼ毎日、放課後に千代の店に立ち寄るようになっていた。


この日も、午後三時半を過ぎたころ、風鈴がチリンと鳴り、「こんにちは!」というさくらの元気な声と共に、健太の「こんにちは、千代さん」という少し控えめな挨拶が聞こえた。


「あら、二人とも来てくれたのね」千代は嬉しそうに迎えた。


健太とさくらはランドセルを床に置き、いつものようにテーブルに座った。健太は何か特別なことがあったのか、いつもより嬉しそうな表情をしている。


「何かいいことあったの?」と千代は尋ねた。


健太は誇らしげに胸を張った。「今日、国語のテストで九十点取れました!」


「まあ、すごいじゃない!」千代は本当に嬉しそうに言った。「よく頑張ったわね」


「千代おばあちゃんに漢字を教えてもらったおかげです」健太は素直に言った。


この数日、千代は健太の宿題を手伝うことが多くなっていた。特に漢字の練習は、健太が苦手としていたところだった。


「いいえ、これはあなたの努力よ」と千代は優しく微笑んだ。「お母さんにも見せた?」


健太の表情が少し曇った。「まだです…昨日も遅かったし、今日も遅いって言ってました」


千代は複雑な気持ちになった。仕事に忙しい母親を責めることはできない。シングルマザーとして、子どもを育てながら働くのは並大抵のことではないのだろう。それでも、子どもの成長の喜びを共有できないのは、親子にとって寂しいことだ。


「そう…」と千代は静かに言った。「でも、わたしは見たわよ。本当に立派だと思うわ」


「わたしも見たよ!」さくらが明るく言った。「教室で見せてもらったとき、びっくりしたよ。健太くん、すごいね!」


健太は少し照れたように笑った。「ありがとう」


「そうだ、今日は特別なことをしましょう」と千代は立ち上がった。「昔の遊びを教えてあげるわ」


「昔の遊び?」二人は興味津々の表情になった。


千代は古い木箱を取り出してきた。中には色とりどりのビー玉が入っている。


「これ、知ってる?」


さくらは目を輝かせた。「ビー玉だ!おじいちゃんの家にあるの見たことある!」


健太は少し首を傾げたが、「玉…ですか?」と尋ねた。


「そう、ビー玉って言うのよ」千代は手のひらにビー玉を転がした。「これで遊ぶゲームがあるの」


千代は店の床に小さな円を描いた。「この中に、ビー玉を何個か置くの。そして、外から自分のビー玉を転がして、円の中のビー玉を外に出せたら、そのビー玉はあなたのものになるの」


「やってみたい!」さくらが即座に言った。健太も「ぼくも」と目を輝かせた。


「じゃあ、外でやりましょう。床が平らな方がいいから」


三人は店の前のスペースに出た。商店街は相変わらず静かで、通行人もほとんどいない。


千代はチョークで地面に円を描き、中にビー玉を五つ置いた。「さあ、やってみて」


さくらが先に挑戦した。勢いよくビー玉を転がしたが、円を外れてしまった。「あー、惜しい!」


次は健太の番だ。彼は一つのビー玉を慎重に持ち、狙いを定めて転がした。ビー玉は円に当たったが、中のビー玉を出すことはできなかった。


「惜しいわね」と千代は言った。「もう一度やってみなさい」


二人は何度か挑戦したが、なかなかコツがつかめない様子だった。


「こうやるのよ」と千代は自分のビー玉を取り出し、見事に円の中のビー玉を弾き出した。


「すごい!」二人は驚いた声を上げた。「千代おばあちゃん、上手!」


千代は少し照れたように笑った。「昔はよく遊んだからね」


さくらと健太も少しずつコツをつかみ始め、やがて一つ、また一つとビー玉を獲得していった。


「やった!」さくらは嬉しそうに跳ね上がった。健太も小さく「やった」と喜びを表した。


「上手になったわね」と千代は二人を褒めた。


三人がビー玉遊びに熱中していると、通りかかった老婦人が足を止めた。


「まあ、懐かしい光景ねえ」


振り返ると、千代の常連客の一人、高橋さんが立っていた。


「こんにちは、高橋さん」と千代は挨拶した。


「久しぶりに子どもの声が聞こえるから、何かと思ったわ」高橋さんは健太とさくらに微笑みかけた。「あなたたち、新しいお友達?」


健太は少し恥ずかしそうに頭を下げた。「松田健太です…」


「山本さくらです!」さくらは元気よく挨拶した。


「まあ、可愛いお子さんたちね」高橋さんは優しく言った。「昔はね、この商店街には子どもがいっぱいいたのよ。みんなでビー玉やめんこをして遊んでいたわ」


「本当ですか?」さくらは興味深そうに聞いた。


「ええ。千代さんの駄菓子屋さんは、いつも子どもでいっぱいだったのよ」


健太とさくらは千代を見上げた。「すごいですね」


千代は懐かしそうに微笑んだ。「そうね、すごく賑やかだったわ」


高橋さんはしばらく三人の遊びを見ていたが、やがて「また来るわね」と言って去っていった。


ビー玉遊びの後、千代は健太とさくらにめんこも教えた。厚紙で作られた円形のカードを投げて、相手のめんこをひっくり返すゲームだ。


「昔の子どもたちは、こういう遊びをして過ごしていたのよ」と千代は説明した。「テレビゲームなんてなかったからね」


「でも、面白いです」健太は素直に言った。「みんなで遊べるし」


「そうだよね!」さくらも同意した。「これ、クラスのみんなにも教えたいな」


千代はそんな二人を見て、心が温かくなった。現代の子どもでも、昔ながらの遊びを楽しめるのだと知り、嬉しかった。


「そうだ、あれももらっていきなさい」千代は柿の木を指さした。「実がたくさんなったから」


二人は柿の木の方に歩いていった。「わあ、赤くて綺麗!」さくらが感嘆した。


「もう熟してるわ。食べごろよ」千代は数個の柿を取って紙袋に入れた。「お母さんにも食べてもらいなさい」


「ありがとうございます!」二人は嬉しそうに紙袋を受け取った。


この日の夕方、二人が帰る時間になると、千代は彼らに言った。


「そういえば、さくらちゃんが言ってた『みんなを連れてくる』って話は、どうなったの?」


さくらは少し恥ずかしそうに笑った。「実は、明日連れてくる予定なんです。クラスで話したら、何人か興味を持ってくれて」


「そうなの?」千代は嬉しそうに言った。「何人くらい来るのかしら?」


「たぶん、五、六人…」健太が控えめに答えた。


「田中くんと、佐藤くんと、山田さんと…」さくらが指を折りながら数えた。「七人くらいかな?」


「まあ、それは楽しみね」千代は本当に嬉しそうだった。「たくさん駄菓子を用意しておくわ」


「きっと喜びますよ!」さくらは元気よく言った。「みんな、駄菓子屋に行ったことない子ばかりだから」


「じゃあ、明日が楽しみね」千代は二人の背中をそっと押した。「帰りは気をつけて」


二人が帰った後、千代は窓辺に立ち、夕暮れの商店街を眺めた。明日は大勢の子どもたちが来るという。久しぶりに「あめつちの詩」に活気が戻ることを思うと、胸が高鳴った。


「誠、見ているかしら…」と千代は小さく呟いた。

「また子どもの声が聞こえるようになるわ」




翌日、千代はいつもより早く起きて準備を始めた。棚を整理し、埃を払い、古くなった商品を取り除いた。そして、子どもたちが来ることを考えて、手作りの風車を何個か準備しておいた。一緒に遊べるものがあった方がいいと考えたのだ。

昼過ぎ、千代が店の掃除をしていると、河野が訪ねてきた。

「千代さん、元気そうだね」

「ええ、まあね」と千代は答えた。「お茶でもどう?」

「ありがとう。いただくよ」

千代がお茶を入れている間、河野は店内を見回していた。

「店の雰囲気が変わったね」と河野は言った。「明るくなった気がする」

千代は微笑んだ。「そう? 気のせいじゃない?」

「いや、本当だよ」河野は真剣な表情で言った。「あの子…健太くんが来るようになってから、千代さん自身が変わったんだ」

千代はお茶を河野に差し出しながら、「そうかしら」と少し照れた様子で言った。

「間違いない」と河野は言った。「久しぶりに、千代さんの顔に笑顔が戻ってきたよ」

千代は窓の外を見た。「健太くんとさくらちゃんと話していると、昔を思い出すの。この駄菓子屋が子どもたちでいっぱいだった頃のことを」

「そうだろうね」河野は頷いた。「あの頃は良かった」

「でも…」と千代は言葉を続けた。「ただ昔を懐かしむだけじゃないの。子どもたちに教えてもらったこともあるわ」

「教えてもらった?」河野は興味深そうに尋ねた。

「ええ。現代の子どもたちも、本当は人と触れ合いたがっているってこと」千代は静かに言った。「スマホやゲームに夢中になっているように見えても、実は誰かと一緒に遊びたいって思っているのよ」

河野は感心したように頷いた。「なるほど。それは大事な発見だね」

「だから、わたしにできることをやりたいと思うの」千代は決意を込めて言った。「『あめつちの詩』が、また子どもたちの居場所になれたら…」

「ところで」と河野は少し笑みを浮かべて言った。「聞いたところによると、今日は大勢の子どもたちが来るらしいね?」

千代は驚いた。「まあ、もう知ってるの?」

「ああ、薬局に来た子どもが話していたよ」河野は嬉しそうに言った。「『明日、みんなで駄菓子屋に行くんだ』ってね」

千代は照れくさそうに微笑んだ。「さくらちゃんという女の子が、クラスのみんなを連れてくると言ってたの。何人来るかわからないけど…」

「それは楽しみだね」河野はお茶を飲みながら、「わたしも応援するよ」と言った。

河野が帰った後、千代は古い引き出しから、様々な色の紙を取り出した。かつては店内を飾っていた風車を、もう一度作ろうと思ったのだ。

千代が黙々と風車を作っていると、風鈴が鳴った。時計を見ると、まだ三時前だった。「早いわね」と思いながら顔を上げると、健太とさくらが立っていた。

「こんにちは、千代おばあちゃん!」二人は元気に挨拶した。

「あら、二人とも。今日は早いのね」

「今日は学校が早く終わったんです」健太が説明した。

「みんなは、あとから来ます」さくらが付け加えた。「今、教室に残ってる子もいるから」

「そう」千代は頷いた。「じゃあ、それまでに準備しましょうか」

「何を準備するんですか?」健太が尋ねた。

千代は作りかけの風車を指さした。「これよ。店内を飾ろうと思って」

「わあ、風車!」さくらは目を輝かせた。「わたしも作りたい!」

「わたしも!」健太も加わった。

千代は嬉しそうに言った。「じゃあ、三人で作りましょう」

千代は二人に色紙を渡し、風車の作り方を教え始めた。健太は前に作ったことがあるので、さくらに教えながら作っていた。

「こうやって折るんだよ」健太は自信を持って説明した。

「へえ、健太くん上手だね」さくらは素直に感心した。

千代は二人を見守りながら、自分の風車を作り続けた。子どもたちの会話が店内に響く。その光景は、かつての「あめつちの詩」を思い起こさせた。

やがて、三人の風車が完成した。千代のは大きく、美しい模様が描かれている。健太のは少し不器用だが、しっかりと形になっている。さくらのは明るい色使いで、元気な印象だ。

「さあ、これを店内に飾りましょう」と千代は提案した。

三人は風車を天井から吊るした。回転する色とりどりの風車が、店内に新しい命を吹き込んだようだった。

「綺麗!」さくらは喜んだ。

「本当だね」健太も満足そうに見上げた。

その時、風鈴が激しく鳴り、店の入口から大勢の子どもたちが入ってきた。

「こんにちは!」

「ここが駄菓子屋さん?」

「わあ、すごい!」

さくらが手を振って叫んだ。「みんな、来たんだね!」

健太も嬉しそうな、でも少し緊張した表情で友達を見ていた。

千代は一瞬言葉を失ったが、すぐに温かい笑顔を浮かべた。「いらっしゃい、みなさん。『あめつちの詩』へようこそ」





子どもたちは少し遠慮がちに店内に入ってきた。古い木の床がきしみ、天井からは色とりどりの風車が回っている。棚には様々な駄菓子が並び、空気には懐かしい甘い香りが漂っていた。


「わあ、すごい」背の高い男の子が目を輝かせた。「テレビで見たような駄菓子屋だ」


「田中くん、ほら見て!」さくらが指さした。「あれは飴玉だよ」


「あっちにはビー玉もある!」別の女の子が声を上げた。


子どもたちは興味津々で店内を見回し始めた。


千代は嬉しさを隠せない様子で、子どもたちに声をかけた。「何か欲しいものがあったら言ってね。ここにあるものは全部売り物よ」


「いくらですか?」と背の低い女の子が尋ねた。


「そうねえ」千代は笑顔で言った。「飴玉は一つ5円、ラムネは10円、キャラメルは20円。みんなの小遣いで買える値段にしてあるわ」


子どもたちは驚いた声を上げた。「安い!」


「コンビニより全然安いじゃん」と田中が言った。


子どもたちはポケットからお小遣いを取り出し、思い思いの駄菓子を選び始めた。千代は一人一人の注文を聞き、小さな紙袋に入れていく。


「ぼく、この飴がいいな」

「わたし、ラムネください」

「このビー玉、かっこいい!」


健太は少し離れたところから、この光景を嬉しそうに見ていた。自分とさくらのおかげで千代の店に子どもたちが集まったこと、千代が笑顔で忙しそうにしていることが、とても誇らしかった。


さくらが健太の横に来て、「見て、健太くん。千代おばあちゃん、すごく嬉しそう」と小声で言った。


健太は頷いた。「うん」


子どもたちが駄菓子を買い終わると、千代は言った。「よかったら、ここで食べていってもいいのよ。昔は、みんなここでおしゃべりしながら駄菓子を食べていたの」


「いいんですか?」田中が尋ねた。


「もちろん」千代は微笑んだ。「そのためのベンチもあるのよ」


子どもたちは店内のベンチや小さなテーブルに座り、駄菓子を開けて食べ始めた。教室とは違う、リラックスした雰囲気の中で、彼らは楽しそうにおしゃべりを始めた。


「このキャラメル、すごく美味しい!」

「ねえ、このビー玉ですごいゲームがあるんだって」

「えっ、どんなの?」


健太とさくらは、千代に教えてもらったビー玉遊びのルールを友達に説明し始めた。すぐに子どもたちは「やってみたい!」と声を上げた。


「そうだな」と千代は考えた。「外でやるといいわね。床が平らだから」


子どもたちは店の前のスペースに出て、ビー玉遊びを始めた。千代は店の入口に立ち、その様子を見守っていた。


「健太くん、すごいじゃない」と千代は健太に声をかけた。「こんなに友達ができて」


健太は照れくさそうに笑った。「み、みんなが来たがったんだ…」


「あなたとさくらちゃんが案内してくれたおかげよ」千代は優しく言った。「ありがとう」


健太は嬉しさで顔が熱くなるのを感じた。


子どもたちがビー玉遊びに熱中していると、空が急に暗くなってきた。


「あら?」千代は空を見上げた。「雨が来そうね」


まるで千代の言葉に応えるように、大粒の雨が落ち始めた。




「わあ!」子どもたちは驚いて声を上げた。


「みんな、中に入りなさい!」千代は急いで子どもたちを店内に誘導した。


秋の終わりの突然の夕立だった。子どもたちは間一髪で店内に逃げ込んだが、それでも少し濡れてしまった。


「タオルを持ってくるわ」と千代は奥に行った。


雨は激しさを増し、屋根を打つ音が店内に響いた。


「すごい雨だね」さくらが窓の外を見て言った。


「うん」健太も頷いた。「急に降ってきた」


千代がタオルを持って戻ってきた。「はい、みんな拭きなさい」


子どもたちは順番にタオルを借り、髪や服を拭いた。


「こんな急な雨、久しぶりね」と千代は言った。「秋の終わりの夕立は、よく突然やってくるのよ」


「いつまで降るんですか?」田中が心配そうに尋ねた。


「さあ…」千代は空を見上げた。「でも、こういう夕立は長くは続かないことが多いわ。少し待ってみましょう」


子どもたちは仕方なく店内で待つことになった。しかし、それは決して退屈な時間ではなかった。千代は古い駄菓子のパンフレットや、昔の遊びの本を取り出してきて、子どもたちに見せた。


「昔はね、こんな駄菓子があったのよ」と千代は懐かしそうに説明した。


子どもたちは興味津々で本を覗き込んだ。


「わあ、昔の子どもたちも駄菓子好きだったんですね」女の子の一人が言った。


「ええ、みんな大好きだったわ」千代は微笑んだ。「学校帰りにここに寄って、小遣いで買って、友達とおしゃべりしながら食べるのが楽しみだったの」


「今とあんまり変わらないですね」田中が言った。


千代はその言葉に少し驚き、そして嬉しくなった。「そうね…本当に変わらないわね」


雨の音を聞きながら、千代は子どもたちに昔の遊びをいくつか教えた。お手玉、あやとり、かるた…子どもたちは新しい発見に目を輝かせた。


健太は少し離れた窓辺に立ち、雨に打たれる外の風景を見ていた。突然の夕立で予定外のことになったが、結果的に友達と千代の店でもっと長く過ごせることになり、彼は密かに嬉しかった。


ふと、健太は道路の向こうに立つ人影に気がついた。よく見ると、それは母親の真理だった。仕事帰りだろうか、傘を差して立ち止まり、「あめつちの詩」の方を見ている。


「お母さん!」健太は窓を開けて手を振った。


真理は驚いたように健太を見、それから店の方に歩いてきた。


風鈴が鳴り、真理が店に入ってきた。


「健太、ここにいたの」と真理は言った。「学校から帰らないから心配したわ」


「ごめんなさい」健太は謝った。「友達と一緒に千代おばあちゃんの店に来たんだ」


真理は店内を見回し、そして千代と目が合った。


「あなたが健太の話していた千代さん?」と真理は尋ねた。


千代は微笑んで頷いた。「ええ、佐々木千代です。健太くんには大変お世話になってます」


「いいえ、こちらこそ」真理は頭を下げた。「息子がいつもお世話になっています。松田真理です」


「どうぞ、上がってください」千代は真理を招き入れた。「雨も強いし、少し休んでいきませんか?」


真理は遠慮がちに靴を脱ぎ、店内に入った。子どもたちは興味津々で健太のお母さんを見ていた。


「お茶をどうぞ」千代はポットからお茶を注いだ。


「ありがとうございます」真理はお茶を受け取り、一口飲んだ。「温かくて美味しいです」


千代は真理の横に座り、「健太くんのこと、いつも心配してたのよ」と静かに言った。「最初は寂しそうだったから」


真理は少し俯いた。「引っ越してきたばかりで…私も仕事が忙しくて、あまり構ってあげられなくて」


「大変なのはわかります」と千代は優しく言った。「でも、健太くんは頑張り屋さんよ。このところ、どんどん明るくなってきてる」


真理は健太を見た。彼は友達と楽しそうに話している。「本当ですね…家でも最近は元気になりました」


「こうして友達もできたし」千代は微笑んだ。「あの子は大丈夫よ」


真理は深く息を吸い、「千代さん、本当にありがとうございます」と心からの感謝を言葉にした。「息子のことを見守ってくださって」


千代は首を振った。「いいえ、むしろわたしが感謝してるのよ。健太くんとさくらちゃんが来てくれるようになって、この店に元気が戻ってきたから」


二人は静かに微笑みあった。母親と祖母のような年の離れた二人だが、子どもを想う気持ちには共通するものがあった。


外の雨は少しずつ小降りになってきていた。


「あら、雨が弱くなってきたわね」と千代は言った。


「そろそろ帰らなきゃ」と真理は立ち上がった。「健太、みんなにお別れを言いなさい」


健太は少し残念そうな顔をしたが、友達に「また明日」と言い、千代にもお礼を言った。


「また来るからね、千代おばあちゃん」


「ええ、待ってるわ」千代は微笑んだ。


他の子どもたちも、親が心配するだろうと言って、帰る準備を始めた。


「千代おばあちゃん、また来ていい?」と田中が尋ねた。


「もちろん」千代は嬉しそうに言った。「いつでも来てね」


子どもたちは次々と店を出ていった。最後に真理が千代に頭を下げた。


「今度はゆっくりお話させてください」


「ええ、いつでもどうぞ」千代は答えた。


真理と健太が店を出ると、真理は健太の肩に手を置いた。


「いい人ね、千代おばあちゃん」


健太は嬉しそうに頷いた。「うん! 優しいんだ」


「あんなに友達ができて、お母さん嬉しいわ」真理は本当に安心したように言った。


健太は照れくさそうに笑った。「さくらちゃんのおかげだよ」


「でも、健太も頑張ったのよ」真理は優しく言った。「それに、あのテストの点数も素晴らしかったわ。今朝、先生からメールをもらったの」


健太は驚いた表情になった。「見たの?」


「ええ」真理は微笑んだ。「九十点、本当によく頑張ったわね」


健太の顔がパッと明るくなった。「千代おばあちゃんが漢字を教えてくれたんだ」


「そう、じゃあ今度お礼を言わなくちゃね」


二人が角を曲がって見えなくなるまで、千代は店の前に立って見送っていた。


雨上がりの空気は清々しく、西の空には夕日が雲間から顔を出し始めていた。千代は深く息を吸い、心地よい疲れを感じた。


「誠、見ていた?」と千代は空を見上げて呟いた。「また子どもたちが来てくれたのよ」


店内に戻り、千代はベンチを整え、床に落ちた駄菓子の包み紙を拾った。今日の「あめつちの詩」は、久しぶりに子どもたちの笑い声で満ちていた。


さくらも最後の一人として残っていたが、そろそろ帰る時間になった。


「千代おばあちゃん、今日は本当に楽しかったです!」さくらは元気に言った。「みんなも喜んでたよ」


「そうだったら嬉しいわ」千代は心から言った。「また来てね」


「もちろん!」さくらは力強く頷いた。「明日も来るよ。それに、みんなもまた来るって言ってた」


「そう」千代はその言葉に少し驚き、そして嬉しくなった。「いつでも歓迎するわ」


さくらが帰った後、千代は窓辺に立ち、夕暮れの風景を眺めた。雨上がりの空には、美しい夕焼けが広がっていた。


庭の柿の木は雨に洗われ、赤い実が一層鮮やかに輝いていた。滴る雨粒が夕日に照らされて、まるで宝石のようだ。


千代はその光景を見つめながら、静かに微笑んだ。季節は巡り、時は流れ、そして「あめつちの詩」にも、新しい風が吹き始めていた。


部屋に戻った千代は、鏡台の前に座り、白髪を梳きながら今日一日を振り返った。子どもたちの笑顔、駄菓子を選ぶ嬉しそうな様子、ビー玉遊びに夢中になる姿…そして健太の母親との出会い。


「久しぶりに疲れたわ」と千代は呟いたが、その声には満足感が滲んでいた。


ベッドに横になると、千代の耳にはまだ子どもたちの声が響いているような気がした。「千代おばあちゃん!」「これ、どうやって食べるの?」「また来ていい?」


「ええ、いつでも来なさい」千代は小さく答えた。


窓の外では、秋の夜風が柿の木の葉を優しく揺らしていた。その音を聞きながら、千代はゆっくりと目を閉じた。久しぶりに心地よい眠りに就けそうな気がした。


明日はどんな一日になるだろう。子どもたちは本当にまた来てくれるだろうか。そんな期待と不安が入り混じりながらも、千代の心は確かに動き始めていた。停滞していた時間が、また流れ始めたように感じられた。


「あめつちの詩」は、もう一度子どもたちの詩になろうとしていた。





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