第三章:出会いの風
十月の初めのある日、千代はいつものように店の前を掃除していた。秋の風が冷たく感じられる朝だった。柿の木の実は少しずつ色づき始め、葉も黄色く変わりつつある。
「今年も秋が来たのね」と千代は小さく呟いた。
ふと視線を上げると、見慣れない子どもの姿が目に入った。小学生だろうか、青いランドセルを背負った男の子が一人、うつむきながらゆっくりと歩いていた。まだ朝の八時前。学校が始まるには少し早い時間だった。
千代は声をかけようかどうか迷った。最近は知らない子どもに話しかけるのも気が引けるようになっていた。でも、その子の佇まいに何か引っかかるものを感じた。
「坊や、学校はまだ早いんじゃないかい?」
千代の声に、男の子は驚いたように顔を上げた。丸い顔に大きな目、少し伸びかけた前髪。十歳くらいだろうか。
「あ…はい」
男の子は恐る恐る答えた。見知らぬ老人に話しかけられて警戒しているのだろう。
「具合でも悪いの?」と千代は優しく尋ねた。
男の子は首を振って、「ううん…」と小さな声で言った。
「そう。でも、こんな早くから歩いてると疲れちゃうわよ。よかったら、ちょっと休んでいく?」千代は店の方を指さした。「ここは駄菓子屋なの。『あめつちの詩』っていうのよ」
男の子は怪訝な表情で店を見た。「だがしや…?」
「そうよ。お菓子を売ってるところ。知らない?」
男の子は小さく首を振った。「引っ越してきたばかりだから…」
「そうだったの」と千代は納得した。「名前は?」
「松田…健太です」と男の子は答えた。
「健太くんっていうのね。私は佐々木千代。みんなから千代さんって呼ばれてるわ」
健太はまだ警戒心を解いていないようだったが、少しだけ好奇心も見せ始めた。千代はそっと店の方へ歩き始めた。
「さあ、中に入らない? 温かいお茶もあるわよ」
健太は少し躊躇したが、千代の優しい雰囲気に少しずつ安心したのか、おずおずと後について来た。
店内に入ると、健太は驚いたように周りを見回した。棚には色とりどりの駄菓子が並び、天井からは手作りの風車が吊るされている。古い木の床はきしみ、空気には砂糖の甘い香りが漂っていた。
「ここに座りなさい」と千代は小さなベンチを指さした。
健太は言われるままに座り、ランドセルを膝の上に置いた。
「お茶を入れるから、少し待っててね」
千代が奥に行くと、健太は好奇心いっぱいの目で店内を見渡し始めた。彼にとって駄菓子屋は初めての経験だったのだろう。
千代は温かいお茶と小さな平皿に乗せたラムネを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ。寒い朝だから、温まるといいわ」
「あ…ありがとうございます」と健太は少し緊張した様子で言った。
千代はラムネを指さした。「これ、食べてみる? お駄賃よ」
健太は恐る恐るラムネを一つ手に取り、口に入れた。甘酸っぱい味が広がると、彼の顔に小さな笑顔が浮かんだ。
「おいしい…」
「そう、良かった」と千代は微笑んだ。「ところで、どうして朝こんなに早くから歩いてたの?」
健太は少し黙り、それからポツリと言った。「学校に行くの…嫌だから」
「嫌なの? どうして?」
「友達…いないから」健太の声は小さかった。「転校してきたばかりだし…」
千代は静かに頷いた。子どもの寂しさを、彼女はよく理解していた。かつて「あめつちの詩」に来ていた子どもたちの中にも、似たような悩みを抱えていた子がいた。
「そうなのね。いつ引っ越してきたの?」
「先月…」健太はうつむいて言った。「お母さんの仕事の関係で」
「お父さんは?」
健太は黙ったまま首を振った。千代は質問を続けなかった。何か事情があるのだろう。
「そっか。大変ね」と千代は優しく言った。「でも、友達はきっとできるわ。少し時間がかかるかもしれないけど」
健太は何も言わなかったが、千代の言葉を聞いているようだった。
「あのね、学校に早く行くより、ちょうどいい時間に行った方がいいわ」と千代はアドバイスした。「早すぎると、一人でいる時間が長くなって余計に寂しいでしょ?」
健太は小さく頷いた。
「それに、元気を出すには甘いものが一番よ」千代は立ち上がり、棚から小さな飴玉を取り出した。「これ、持っていきなさい。授業中は食べちゃダメだけど、寂しくなったら舐めるといいわ」
健太は驚いた様子で飴玉を受け取った。「いいんですか?」
「ええ、いいのよ。この飴はね、特別なの。寂しい気持ちを少しだけ和らげてくれるの」
千代は本当は嘘をついていた。それはただの飴玉だ。でも、彼女の優しさが込められていることは確かだった。
「ありがとうございます」と健太は小さく頭を下げた。
時計を見ると、もう八時半に近づいていた。「そろそろ学校に行く時間じゃない?」
健太は少し残念そうに立ち上がった。「はい…」
「また来てね」と千代は言った。「放課後でもいいわよ。この駄菓子屋、面白いでしょ?」
健太は少し表情を明るくして、「はい」と答えた。
店を出る前に、健太は振り返って尋ねた。「『あめつちの詩』って、どういう意味ですか?」
千代は微笑んで答えた。「それはね、またの楽しみにしておきましょ。次来た時に教えてあげるわ」
健太は不思議そうな顔をしたが、小さく頷いた。そして「行ってきます」と言って、店を出て行った。
千代は店の前まで出て、健太が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
「久しぶりね…」と千代は呟いた。「子どもが来るなんて」
心の中に、小さな温かさを感じながら、千代は店に戻った。
その日の夕方、千代は棚の整理をしていた。古くなった商品を取り除き、埃を拭き取る。もう新しい商品を仕入れることはほとんどないが、せめて清潔さは保ちたかった。
風鈴がチリンと鳴り、千代は顔を上げた。
「こんにちは…」
ドアの所に立っていたのは朝会った健太だった。学校から帰ってきたのだろう、ランドセルを背負ったままだ。
「まあ、健太くん。来てくれたのね」千代は嬉しそうに言った。「学校はどうだった?」
健太はランドセルを抱えたまま、少し遠慮がちに店内に入ってきた。「普通…です」
「そう。座りなさい」と千代は朝と同じベンチを指さした。「何か飲む? お茶? それともジュース?」
「あの…ジュースください」と健太は小さな声で言った。
千代は奥に行き、古い冷蔵庫からボトルを取り出した。普段は自分用にしか飲み物を置いていないが、たまに来る常連のお年寄りのために、少しだけジュースも置いていた。
「はい、どうぞ」と千代はコップに注いだオレンジジュースを健太に渡した。
「ありがとうございます」と健太は礼儀正しく言った。
健太がジュースを飲んでいる間、千代は彼の様子を観察した。朝よりは少しリラックスしているようだが、まだどこか緊張している。
「朝あげた飴、食べた?」と千代は尋ねた。
健太は少し照れたように頷いた。「休み時間に…」
「効き目はあった?」
健太は考えるように首を傾げた。「わからないけど…美味しかったです」
千代は微笑んだ。「それが大事なの。美味しいものを食べると、気持ちも少し明るくなるでしょ?」
健太は黙って頷いた。そして、周りを見回して尋ねた。「ここにあるお菓子、全部売り物なんですか?」
「そうよ。見たいものがあったら言ってね」
健太はランドセルを床に置き、少しずつ店内を歩き始めた。棚には様々な駄菓子が並んでいる。飴玉、ラムネ、キャラメル、ビー玉、めんこ…健太にとって、それらは全て新しい発見だった。
「これ、何ですか?」と健太は透明な瓶に入った赤と白の縞模様の飴を指さした。
「あれは棒付きキャンディよ」と千代は答えた。「甘くて長持ちするの。人気の駄菓子よ」
健太は興味深そうに瓶を見つめていた。
「食べてみる?」と千代は尋ねた。
健太は少し驚いたように千代を見た。「いいんですか?」
「ええ、もちろん。お客さんなんだから」千代は瓶から一本のキャンディを取り出し、健太に差し出した。「はい、どうぞ」
健太は恐る恐るキャンディを受け取り、包み紙を剥がして口に入れた。甘い味が広がると、彼の顔に笑顔が浮かんだ。
「甘い!」
「でしょう?」と千代は微笑んだ。「子どもたちに人気の味なのよ」
健太はキャンディを舐めながら、また店内を見回し始めた。今度は天井から吊るされた風車に目を留めた。
「あれは何ですか?」
「風車よ。手作りなの」と千代は説明した。「風が吹くと、クルクル回るの」
「誰が作ったんですか?」
「わたしよ」千代は少し誇らしげに言った。「誠…わたしの夫も作っていたの。でも、今はわたし一人で」
「すごいです」と健太は素直に言った。
千代は嬉しくなって、「作り方、教えてあげようか?」と提案した。
健太の目が輝いた。「本当ですか?」
「ええ。簡単よ。色紙と竹ひご、それから糸があれば作れるわ」
「今、作れますか?」健太の声には期待が込められていた。
千代は少し考えた。夕方の用事はなかった。「そうね、少しだけなら」
千代は奥の引き出しから色紙と道具を取り出した。テーブルの上に広げると、健太は興味津々で近づいてきた。
「まず、紙を正方形に切るのよ」と千代は説明しながら、手際よく色紙を切った。「それから、こうやって折り目をつけて…」
健太は真剣な表情で千代の手元を見つめていた。
「次に、角を中心に向かって切り込みを入れるの。でも、中心まで切らないように気をつけてね」
千代の器用な手つきに、健太は感心した様子だった。
「そして、こうやって端を折り曲げて、中心に集めるの」
千代が色紙を折り曲げていくと、徐々に風車の形になっていった。
「最後に、中心に穴を開けて、竹ひごを通せば…」千代は完成した風車を持ち上げ、軽く吹きかけた。風車はクルクルと回り始めた。
「わあ!」健太は目を輝かせた。「回った!」
「どう? 綺麗でしょ?」と千代は微笑んだ。
「はい! 僕にもできますか?」
「もちろん。ちょっと練習すれば、誰でもできるわよ」
千代は健太にも色紙を渡し、一緒に風車作りを始めた。最初は上手くいかなかったが、千代が丁寧に教えると、健太も少しずつコツを掴んでいった。
「そう、そうよ。その調子」と千代は励ました。
しばらくして、健太の手の中にも小さな風車が完成した。拙いところもあったが、立派な風車だった。
「できた!」健太は嬉しそうに風車を持ち上げた。
「上手にできたわね」と千代は褒めた。「これはあなたの風車よ。大事にしてね」
健太は風車を大切そうに持ち、「ありがとうございます」と言った。
時計を見ると、もう五時を過ぎていた。
「もう、こんな時間ね」と千代は言った。「お母さん、心配してるんじゃない?」
健太は少し考えて、「大丈夫です。お母さん、仕事で遅いから」と答えた。
「そうなの?」と千代は少し心配そうに尋ねた。「一人でお留守番?」
健太は頷いた。「はい。いつもです」
千代は複雑な気持ちになった。両親が共働きで、子どもが一人で過ごすのは今の時代では珍しくないのかもしれない。でも、彼女の時代とは大きく違っていた。
「そうか…」と千代は静かに言った。「でも、あまり遅くまでいると、お母さんが帰ってきてあなたがいないと心配するでしょ?」
健太は少し残念そうな顔をしたが、頷いた。「はい…」
「また明日来てもいいわよ」と千代は言った。「もっと色々な駄菓子も見せてあげるし、風車も作ろうね」
健太の顔が明るくなった。「本当ですか?」
「ええ、約束するわ」
健太はランドセルを背負い、大切そうに風車を手に持った。「明日も来ます!」
「待ってるわ」と千代は笑顔で答えた。「あ、そうだ。これも持っていきなさい」
千代は棚から小さな紙袋を取り、中にラムネと飴を少し入れた。
「おやつよ。一人で待っている時に食べるといいわ」
健太は嬉しそうに紙袋を受け取った。「ありがとうございます!」
「いってらっしゃい」と千代は店の前まで出て、健太を見送った。
健太は何度も振り返りながら、風車を大事に持って歩いていった。やがて、彼の小さな背中は角を曲がって見えなくなった。
千代は静かに笑顔を浮かべた。久しぶりに子どもと接して、心が温かくなるのを感じた。そして、「あめつちの詩」にまた子どもの笑顔が戻ってきたことに、小さな希望を抱いた。
翌朝、千代は少し早めに起きた。昨夜、健太のことを考えていて眠りが浅かったせいかもしれない。朝食を済ませると、いつもより丁寧に店の準備を始めた。棚を拭き、駄菓子の並びを整え、床を掃く。
「何だか、久しぶりに張り切っちゃったわね」と千代は自分に言い聞かせるように言った。
時計は八時を指していた。昨日と同じ時間に健太が通りかかるだろうか。千代は窓辺から外を眺めた。
しばらくすると、昨日と同じ青いランドセルを背負った小さな姿が見えてきた。千代は思わず微笑んだ。
店の前で掃除をしているふりをして、千代は健太が近づくのを待った。
「おはよう、健太くん」
健太は昨日とは違い、少し顔を上げて千代を見た。「おはようございます、千代さん」
「今日は学校、嫌じゃないの?」と千代は尋ねた。
健太は少し考え、「わからない…」と正直に答えた。
「そう」と千代は頷いた。「でも、昨日より元気そうね」
健太は小さく微笑んだ。「昨日の風車、お母さんに見せたら、びっくりしてました」
「そう、良かったわ」千代は嬉しくなった。「お母さんとはゆっくり話せた?」
健太の表情が少し曇った。「うん…でも、すぐ疲れて寝ちゃった」
千代は何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。健太の家庭の事情に深入りするのは避けたかった。
「そう…お母さん、お仕事大変なのね」
健太は黙って頷いた。
「朝ごはんは食べた?」と千代は話題を変えた。
「パンとジュース…」
千代は少し心配になった。十歳の子どもが一人で朝食を用意しているのだろうか。
「そう…」と千代は言った。「今日も学校の後、来てくれる?」
健太の顔が明るくなった。「はい! 来ます!」
「じゃあ、今日は何か美味しいものを用意しておくわね」
「本当ですか?」健太の目が輝いた。
「ええ、約束するわ」
健太は嬉しそうに頷き、「じゃあ、行ってきます!」と言って、昨日よりも元気に学校へと向かっていった。
千代は健太の背中を見送りながら、彼の家庭について考えていた。母親は仕事で忙しく、父親の話は出てこない。引っ越してきたばかりで友達もいない。そんな状況で、健太は孤独を感じているのだろう。
「あの子、わたしにできることはないかしら…」と千代は呟いた。
昼過ぎ、千代が店の奥で昼食を取っていると、ドアの風鈴が鳴った。
「あら、茂さん」
入ってきたのは河野だった。「やあ、千代さん。元気そうだね」
「ええ、まあね」と千代は答え、「お茶でもどう?」と促した。
河野は椅子に座り、「ありがとう」と言った。千代が奥からお茶を持ってくると、河野は店内を見回して言った。
「なんだか、店が綺麗になったような気がするな」
千代は少し照れたように笑った。「気のせいよ」
「いや、本当だ」と河野は言った。「それに、千代さん自身も何だか生き生きしてるみたいだ」
千代はお茶を注ぎながら、少し戸惑ったように言った。「そうかしら…」
「何かあったのか?」と河野は興味深そうに尋ねた。
千代は少し迷ってから、「実はね…」と健太のことを話し始めた。昨日の朝の出会いから、風車作り、そして今朝の様子まで。
「へえ、そんな子が来たのか」と河野は驚いた様子で言った。「久しぶりだな、子どもが来るなんて」
「ええ」と千代は頷いた。「なんだか…懐かしい気持ちになったわ」
「その子は、松田家の息子か」と河野は言った。
「え? 知ってるの?」
「ああ、薬局にも来たよ。お母さんが薬を買いに来てね」河野は少し声を落として続けた。「シングルマザーらしい。お父さんのことは聞かなかったけど、一人で子育てしながら仕事もしてるみたいだ」
「そう…」と千代は納得した。「だから健太くん、あんなに寂しそうな顔をしているのね」
「そうじゃないかな」と河野は頷いた。「新しい土地で友達もいなくて、お母さんは忙しくて…大変だろうさ」
千代は窓の外を見た。「わたし、あの子に何かしてあげられるかしら…」
「千代さんの『あめつちの詩』が、あの子の居場所になるかもしれないな」と河野は言った。「かつてそうだったように」
千代は静かに頷いた。かつての「あめつちの詩」は、多くの子どもたちの居場所だった。学校でも家でもない、第三の場所。そこでは、子どもたちが自分らしくいられた。
「そうね…」と千代は小さく微笑んだ。「できることからやってみるわ」
河野は立ち上がり、「その調子だ」と言った。「久しぶりに、千代さんの目に輝きが戻ってきたよ」
千代は恥ずかしそうに手を振った。「茂さんったら、大げさね」
河野は帰り際、「また報告してくれよ」と言って、店を出ていった。
午後、千代は健太が来るのを待ちながら、少し特別なことを準備していた。小さなお菓子を作ろうと思ったのだ。
引き出しから古いレシピ帳を取り出し、簡単に作れるものを探した。「これなら…」と、千代は小麦粉と砂糖を用意し始めた。
かつては様々な手作り駄菓子を作っていた千代だが、誠が亡くなってからは、ほとんど作らなくなっていた。でも、健太のために再び作る気持ちになれた自分に、少しの驚きと喜びを感じていた。
「誠、見ていてね」と千代は遺影に向かって小さく呟いた。「また、手作り駄菓子を作るわよ」
## シーン4:放課後の居場所
午後三時半、健太は約束通り「あめつちの詩」にやってきた。今日は昨日よりもはっきりと「こんにちは!」と挨拶した。
「あら、健太くん。待ってたわよ」と千代は笑顔で迎えた。
健太は店内に入ると、何か甘い香りがすることに気づいた。「いい匂いがする…」
「わかった?」と千代は嬉しそうに言った。「ちょっとしたものを作ってみたの。座っていなさい」
健太はベンチに座り、千代が奥から何かを持ってくるのを期待に胸を膨らませて待った。
やがて千代は小さなお皿を持ってきた。上には、丸い形の焼き菓子が数個載っていた。
「これは何ですか?」と健太は好奇心いっぱいに尋ねた。
「雪の宿よ」と千代は答えた。「小麦粉と砂糖で作る簡単なお菓子なの。昔はよく作ってたのよ」
健太は一つ手に取り、恐る恐る一口かじった。サクサクとした食感と優しい甘さが口の中に広がった。
「美味しい!」と健太は目を輝かせた。
「そう? 良かった」千代は本当に嬉しそうだった。「ずいぶん久しぶりに作ったから、うまくできるか心配だったわ」
健太は次々と雪の宿を口に運んだ。「こんなの、お店で売ってるお菓子より全然美味しいです!」
千代は照れくさそうに笑った。「そんなことないわ。でも、ありがとう」
健太が雪の宿を食べ終わると、千代はオレンジジュースを差し出した。
「今日は学校、どうだった?」と千代は尋ねた。
健太は少し考えてから答えた。「今日は…少し良かったです」
「そう、それは良かったわ」と千代は微笑んだ。「何かあったの?」
「体育の時間に、サッカーのチームに入れてもらえました」健太は少し嬉しそうに言った。「みんなで遊んだの、久しぶりで…」
「それは良かったわね」千代は心から言った。「友達は少しずつできるものよ」
健太はラムネを少しずつ食べながら、「でも、まだあんまり話せない…」と少し俯いた。
「大丈夫よ」千代は優しく言った。「急がなくていいの。焦らなくても、自然に友達はできるわ」
健太は千代の言葉に少し安心したように頷いた。
「健太くんは何が好きなの?」と千代は話題を変えた。「好きな科目とか、趣味とか」
健太はしばらく考えてから、「絵を描くこと…かな」と少し恥ずかしそうに答えた。
「そう、絵が好きなのね」千代は興味深そうに言った。「どんな絵を描くの?」
「風景とか…学校で見た空とか…」健太は控えめに言った。
「見せてくれる?」
健太は少しためらったが、ランドセルから小さなスケッチブックを取り出した。「これ…」
千代はそっとページをめくった。そこには、子供らしい線で描かれた風景、校庭の木々、空に浮かぶ雲、そして最近描いたであろう「あめつちの詩」の外観が描かれていた。稚拙ではあるが、見たものの印象をよく捉えていて、十歳の子どもとしては素晴らしい才能を感じさせた。
「これ、わたしの店?」千代は最後のページを指さした。
健太は少し赤くなって頷いた。「昨日描いたんです…」
「素敵ね」千代は感嘆した。「とても上手よ。特に、この赤いひさしの感じが本物そっくり」
健太は嬉しそうに微笑んだ。自分の絵を褒められることは珍しかったのだろう。
「健太くん、絵の才能があるわ」と千代は真剣に言った。「これからも、どんどん描くといいわね」
「はい」健太は元気よく頷いた。
千代はふと思いついて、「そうだ」と言った。「もし良かったら、わたしの店の風景を描いてくれないかしら? 中も外も。思い出に残しておきたいの」
「いいんですか?」健太は驚いた様子で聞いた。
「ええ、ぜひお願いしたいわ」
「描きます!」健太は張り切った声で答えた。
その日から、健太は放課後になるとスケッチブックを持って「あめつちの詩」に通い、色々な角度から店の様子を描くようになった。時には店の外から、時には中から。棚に並んだ駄菓子、天井から吊るされた風車、窓から差し込む光…健太の目を通して、「あめつちの詩」の様々な表情が紙の上に生まれていった。
千代は健太が描く姿を見守りながら、かつて自分が子どもたちの成長を見守っていた時のような、温かい気持ちを思い出していた。同時に、この店がいつまで続けられるのかという不安も、心の片隅にあった。
「健太くん、疲れたら休憩してね」と千代は声をかけた。
健太はスケッチブックから顔を上げて笑顔を見せた。「大丈夫です。楽しいから」
千代は微笑んだ。「そう。じゃあ、お茶とお菓子を用意するわね」
千代が奥に行くと、健太はまた集中して絵を描き始めた。
それから数日が経ち、健太が「あめつちの詩」に通うことは、すっかり日課となっていた。朝、学校に行く前に少し寄り、夕方は必ず立ち寄って一時間ほど過ごす。時には宿題をし、時には千代と昔の遊びをし、時には絵を描く。
千代も健太が来ることを楽しみにするようになった。朝は温かいお茶とちょっとしたお菓子を用意し、夕方は健太の好きなものを少しずつ試して覚えていった。
「健太くん、今日はこれを作ってみたの」と千代は小さな皿に載せた蒸しパンを差し出した。「どうかしら?」
健太は一口かじって、「甘くて美味しい!」と目を輝かせた。
「良かった」千代は嬉しそうに言った。「これはね、わたしが子どもの頃に母が作ってくれたレシピなの」
健太はおいしそうに蒸しパンを食べながら、「千代おばあちゃんの子どもの頃って、どんな感じだったんですか?」と尋ねた。
千代は少し考え込むように、遠い目をした。「そうねえ…今から六十年以上も前のことよ。まだ戦争が終わって間もない頃だったわ」
健太は真剣な表情で聞いていた。
「物がなくて、みんな貧しかったけれど」と千代は続けた。「でも、子どもたちは元気だったわ。今みたいなおもちゃはなかったけど, 自分たちで遊びを作って楽しんでいたの」
「どんな遊びですか?」
「そうねえ…石けりや、かくれんぼ、おはじき…」千代は懐かしそうに言った。「そして、駄菓子屋さんは特別な場所だったの。ほんの少しのお小遣いで買える飴玉やお菓子は、わたしたちにとって宝物だったわ」
健太は静かに頷いた。千代の言葉から、彼女の子ども時代を想像しようとしているようだった。
「だから、この駄菓子屋を始めたときは、子どもたちに特別な場所を作りたいと思ったの」と千代は言った。「お菓子を売るだけじゃなく、子どもたちが集まって、おしゃべりしたり、遊んだり、時には悩みを打ち明けたりする場所にしたかったの」
「それって、今の『あめつちの詩』みたいですね」健太は素直に言った。
千代は少し驚いて健太を見た。そして、優しく微笑んだ。「そうね…そうかもしれないわね」
健太がスケッチブックを広げると、今日は店の棚に並ぶ駄菓子を描き始めた。千代はそっと健太の横に座り、彼の描く様子を見守っていた。
「健太くん」と千代はふと尋ねた。「『あめつちの詩』って、どういう意味か知りたい?以前聞いていたわよね」
健太は顔を上げて、「はい」と答えた。「気になってたんです」
千代は静かに説明し始めた。「『あめつち』というのは、『天地』のことなの。昔の言い方で」
「てんち…空と地面?」
「そう、そのとおり」千代は頷いた。「誠…わたしの夫が名付けたの。『駄菓子は子どもたちの小さな宝物。でも、その小さな宝物が、子どもたちの心の中では天地のように広がるんだ』って言ってね」
健太は少し考え込むように、「天地のように広がる…」と繰り返した。
「難しいかしら?」と千代は微笑んだ。
健太は首を振った。「なんとなく、わかる気がします。駄菓子を食べると、小さいのに、すごく嬉しくなるから」
千代は感心した。「そう、まさにそういうことよ」
二人は静かに微笑み合った。そんな時、風鈴が鳴り、誰かが店に入ってきた。
「こんにちは…」
振り返ると、小柄な女の子が立っていた。黒い髪を二つに結び、大きな目をした活発そうな印象の子だった。
「あら、いらっしゃい」千代は優しく迎えた。
女の子は健太を見ると、「あ、松田くん!」と声をあげた。
健太は少し驚いたように顔を上げた。「山本さん…」
「やっぱりここにいた!」女の子は元気よく言った。「学校で『放課後どこに行くの?』って聞いたら、『駄菓子屋』って言ってたから、探してたんだ」
千代は女の子と健太を交互に見て、「お友達?」と尋ねた。
健太は少し恥ずかしそうに頷いた。「クラスメイトの山本さくらちゃん…」
さくらは千代に向かって元気よく会釈した。「はじめまして!山本さくらです。松田くんと同じクラスです」
「まあ、さくらちゃん」千代は笑顔で言った。「わたしは佐々木千代よ。みんなからは千代おばあちゃんって呼ばれてるわ」
さくらは興味津々の目で店内を見回した。「ここが駄菓子屋さんなんですね!初めて来ました」
「そうよ、『あめつちの詩』っていうの」千代は説明した。「ゆっくり見ていってね」
さくらはすぐに店内を歩き回り始めた。「わあ、いろんなお菓子がある!」
健太はスケッチブックを閉じて、少し緊張した様子でさくらの方を見ていた。
「松田くん、何してたの?」さくらが尋ねた。
「絵…描いてた」健太は小さな声で答えた。
「見せて!」
健太は少しためらったが、千代が優しく頷くのを見て、おずおずとスケッチブックを開いた。
「すごい!」さくらは素直に感嘆した。「上手だね!」
健太の顔が少し赤くなった。「そ、そんなことないよ…」
「いいえ、本当に上手よ」千代もさくらの言葉に同意した。「健太くんには才能があるわ」
さくらはスケッチブックのページをめくり、「あ、これも素敵!」と次々に健太の絵を褒めた。健太は照れながらも、嬉しそうな表情を隠せなかった。
千代はそっと立ち上がり、「二人ともお茶とお菓子はどう?」と提案した。
「はい!」さくらは即座に元気よく答えた。
千代は奥に行き、お茶と先ほど焼いた蒸しパンを用意した。
戻ってくると、健太とさくらは既に打ち解けて話していた。健太は自分の描いた絵について、さくらに説明しているようだった。
「はい、どうぞ」千代はお茶とお菓子を二人の前に置いた。
「わあ、ありがとうございます!」さくらは目を輝かせた。
「いただきます」二人は揃って言った。
さくらは蒸しパンを一口食べて、「美味しい!」と声を上げた。「お店で売ってるのとは全然違う!」
「手作りだからね」と千代は微笑んだ。
「千代おばあちゃんは、いろんなものを作れるんだよ」健太は少し誇らしげに言った。「べっこう飴とか、風車とか」
「え、本当?」さくらは興味津々で千代を見た。「すごい!」
「まあ、昔から駄菓子屋をやってるからね」千代は謙遜した。
「ねえ、どうやって作るか教えてもらえますか?」さくらは目を輝かせて尋ねた。
「もちろん」千代は嬉しそうに言った。「今度、二人に教えてあげるわ」
「やった!」さくらは喜んだ。「松田くん、一緒にやろうよ」
健太も嬉しそうに頷いた。「うん」
それから三人は、楽しくおしゃべりしながらお茶の時間を過ごした。さくらは話好きで明るい性格だったので、会話が途切れることはなかった。健太も、さくらがいることで普段より多く話していた。
千代は二人の様子を見ながら、心が温かくなるのを感じた。久しぶりに店内に子どもたちの声が響き、「あめつちの詩」に活気が戻ってきたような気がした。
時計を見ると、もう五時半を過ぎていた。
「もう、こんな時間ね」と千代は言った。「お母さんたち、心配してるんじゃない?」
「あ、本当だ」さくらは時計を見て驚いた。「帰らなきゃ」
健太も立ち上がった。「ぼくも」
「また明日来てね」と千代は二人に言った。
「はい!絶対来ます」さくらは元気よく答えた。
健太も「また明日」と言って、スケッチブックをランドセルにしまった。
二人が靴を履いていると、さくらが突然「そうだ」と言った。「明日、他のみんなも連れてきてもいいですか?」
千代は少し驚いたが、すぐに笑顔になった。「もちろん、大歓迎よ」
「やった!」さくらは喜んだ。「ねえ、松田くん、明日はクラスのみんなにも教えよう。この素敵な駄菓子屋のこと」
健太は少しびっくりした表情をしたが、すぐに嬉しそうに頷いた。「うん」
二人は「さようなら」と言って、店を出ていった。千代は店の前まで出て、二人が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
「あらあら…」千代は微笑みながら呟いた。「明日は賑やかになりそうね」
千代は店に戻り、窓辺に立って夕暮れの空を見上げた。空は秋の澄んだ青から、徐々に夕焼けのオレンジ色に染まり始めていた。庭の柿の木の実は、すっかり赤く熟していた。
「誠、見ていた?」千代は小さく呟いた。「また子どもたちが来てくれるのよ」
千代の心には、長い間忘れていた希望の灯がともり始めていた。「あめつちの詩」は、また子どもたちの居場所になれるかもしれない。そんな思いが、彼女の胸を温かく満たしていった。