第二章:あの日の記憶
朝の光が障子を通して部屋に差し込むと、千代は目を覚ました。体がいつもより重く感じられる。昨夜は遅くまで由美子の電話のことを考えていたせいだろうか。
床の間に飾られた古い掛け軸を眺めながら、千代はゆっくりと起き上がった。「今日も一日、始まるわね」と小さく呟く。
朝の支度を済ませ、千代は二階の窓から外を眺めた。木造二階建ての「あめつちの詩」は商店街の端に位置し、隣家との間には小さな空間がある。そこに植えられた柿の木は、今年も実をつけ始めていた。まだ青いその実を見ながら、千代の思いは五十年前へと遡っていった。
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「千代、見てごらん。この場所なら、駄菓子屋を開くには最高だよ」
昭和二十九年、二十八歳だった佐々木誠は、若妻の千代の手を引いて、古い木造家屋の前に立っていた。
「でも、こんな古い家…」と千代は不安げに言った。
「大丈夫さ。この家はうちの親父が建てたんだ。しっかりしてるよ。それに、この辺りはこれから発展するんだ。住宅地だけじゃなく、商店も増えていくだろう」
誠の父、つまり千代の義父は駄菓子職人だった。先の大戦で店を失い、この家に移り住んだものの、再び店を開く前に他界してしまった。その遺志を継いだ誠は、父の技術を学び、この家で駄菓子屋を始めることを決意したのだ。
「ほら、ここに庭もある。柿の木も植えられるよ。お前が好きな柿の実がなる木をさ」
誠の言葉に、千代は少し心を動かされた。確かにこの家は古かったが、二人の新しい生活の始まりにはぴったりだったかもしれない。
「じゃあ、店の名前は何にするの?」と千代は尋ねた。
誠は空を見上げた。「『あめつちの詩』…どうだろう?」
「あめつち?」
「そう、天地の『あめつち』さ。駄菓子は子供たちの小さな宝物。でも、その小さな宝物が、子供たちの心の中では天地のように広がるんだ。だから、『あめつちの詩』」
「素敵な名前ね」と千代は微笑んだ。
そして二人は、この古い家を少しずつ改装し、一階を店舗に、二階を住居にした。誠が赤いひさしに「あめつちの詩」と書いた日、千代は庭に小さな柿の木を植えた。二人の新しい生活の象徴として。
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それから数年が経ち、昭和三十五年頃になると、周囲は徐々に商店街として発展していった。八百屋、魚屋、文房具屋、そして河野の薬局など、様々な店が軒を連ねるようになった。
「あめつちの詩」も地域の子どもたちに知られるようになり、放課後になると大勢の子どもたちが押し寄せるようになった。
「千代さーん、キャラメルください!」
「ぼく、ビー玉がほしいな」
「わたし、ラムネ!」
子どもたちの元気な声が店内に響き渡る。千代は手際よく駄菓子を取り分け、小さな紙袋に入れていく。
「はい、キャラメルは20円。ビー玉は一つ5円ね。ラムネはどれにする?」
二十代後半から三十代になった千代は、子どもたちに囲まれるのが何よりも幸せだった。自分たちにはまだ子どもが授からなかったが、駄菓子屋に来る子どもたち全員が、自分の子どものように思えた。
誠は店の奥で駄菓子を作りながら、時々子どもたちに声をかける。
「おい、正太。学校はどうだ? 勉強ちゃんとしてるか?」
「うん、してるよ! 先生にほめられたんだ!」
「そりゃあ偉い。じゃあ、今日は特別に飴を一つおまけしてやろう」
誠の温かい人柄に、子どもたちは心を開いていた。彼は単に駄菓子を売るだけでなく、時には相談相手になり、時には厳しく叱ることもあった。商店街の「おじさん」として、多くの子どもたちの成長を見守っていたのだ。
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千代は窓辺から離れ、古い箪笥からアルバムを取り出した。その中の一枚の写真には、店の前に立つ誠と千代、そして大勢の子どもたちが写っている。昭和三十七年の夏祭りの日の一枚だった。
千代は写真に微笑みかけた。「あの頃は、毎日が賑やかだったわね」
朝食を終えた千代は、今日も店を開ける準備を始めた。階段を降りながら、足の痛みに少し顔をしかめる。年齢のせいか、最近は膝が痛むことが多かった。
一階の店内に入ると、千代は奥の小さな作業台に目をやった。そこには今でも、誠が使っていた道具が置かれている。銅鍋、木べら、型抜き…全て古くなっているが、大切に手入れされていた。
千代はそっと銅鍋に手を触れた。冷たい金属の感触が、温かい記憶を呼び覚ます。
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「千代、今日はべっこう飴を作るぞ」
夏の終わりのある夜、店を閉めた後の作業台で、誠は千代に声をかけた。べっこう飴は「あめつちの詩」の名物で、誠の父から受け継いだ秘伝のレシピで作られていた。
「ええ、手伝うわ」と千代は答え、エプロンを締め直した。
誠は砂糖を銅鍋に入れ、弱火にかける。「火加減が大事なんだ。強すぎても弱すぎてもダメだ」
千代は黙って頷いた。夫の作業を何度も見ているうちに、彼女も駄菓子作りの技を少しずつ身につけていった。
「ほら、見てごらん。砂糖が溶けていく…」誠の声には職人としての誇りが感じられた。「この色、この香り…全てが大事なんだ」
溶けた砂糖に水飴を加え、さらに熱を通していく。誠の手つきは実に正確で、長年の経験から来る確かさがあった。
「千代、温度計を見ておいてくれ。145度になったら教えてくれ」
千代は真剣な表情で温度計を見つめた。「あと少しね…」
やがて、飴は完璧な琥珀色になった。誠は火を止め、熱い飴を作業台に広げる。そして、型に流し込んでいく。
「ほら、こうやって…」と誠は千代に教えながら、手早く飴を形作っていった。「飴は生き物みたいなもんだ。温度が下がる前に形を作らないとな」
千代も横で手伝いながら、夫の技術に感嘆していた。彼の手から生まれる駄菓子は、単なるお菓子ではなく、芸術品のようだった。
「誠、あなたの作るべっこう飴は、本当に美しいわ」と千代は心から言った。
誠は少し照れたように笑った。「いや、まだまだだよ。親父の作るべっこう飴には遠く及ばない」
二人は夜遅くまで飴作りに没頭した。窓の外では、虫の声が静かに響いていた。
「千代、いつか子どもができたら、この技術を教えてやりたいな」と誠はふと言った。
「ええ…」と千代は答えたが、少し寂しげな表情を浮かべた。結婚して数年経っても、二人の間に子どもは授からなかった。
誠はそんな千代の表情を見逃さなかった。「大丈夫さ。子どもができなくても、駄菓子屋にはたくさんの子どもたちが来てくれる。みんな俺たちの子どものようなものだ」
千代は夫の優しさに心が温かくなった。「ええ、そうね」
翌朝、店の棚に並べられたべっこう飴は、朝日を受けて美しく輝いていた。学校帰りの子どもたちは、その飴を見て目を輝かせた。
「わあ、べっこう飴だ!」
「おじさん、これ、一つください!」
子どもたちの笑顔を見ながら、千代と誠は顔を見合わせて微笑んだ。二人の夜なべ仕事は、こうして子どもたちの喜びになる。それが何よりの幸せだった。
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千代はふと我に返り、古い銅鍋から手を離した。「もう何年べっこう飴を作ってないかしら…」と小さく呟いた。
誠が他界してからは、手作り駄菓子を作ることも少なくなった。かつての技術は千代の中に眠っているが、一人では作る気にもなれなかった。それに、今では手作り駄菓子を買いに来る子どもたちもいない。
「でも、レシピはちゃんと覚えているわ」と千代は自分に言い聞かせるように言った。いつか、誰かにこの技術を伝えることができればいいのに…そんな思いが、彼女の心をかすめた。
千代は店の棚を拭きながら、古いカレンダーに目をやった。九月も終わりに近づき、もうすぐ十月だ。かつては、季節ごとに様々な行事があった。夏祭り、七夕、クリスマス、正月…そのたびに「あめつちの詩」は特別な駄菓子を用意し、子どもたちを喜ばせていた。
特に思い出深いのは、夏祭りの準備だった。
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昭和四十年の夏、「あめつちの詩」の前には、色とりどりの提灯が下げられていた。商店街全体が夏祭りの準備で忙しく、各店が趣向を凝らした出し物を用意していた。
「誠、提灯もう少し右よ。そう、そこがいいわ」
千代は店の前に立ち、夫の作業を指示していた。誠は脚立に登り、提灯を吊るしていく。
「これでいいか?」
「ええ、完璧よ」
店内では、夏祭り特別の駄菓子が準備されていた。わたあめ、色水、カラフルな飴玉…普段は置いていないものも、この日のために用意されていた。
「千代さん、わたあめの機械、貸してもらえませんか?」
隣の八百屋の奥さんが声をかけてきた。
「もちろんよ。誠、わたあめの機械、取ってきて」
商店街の夏祭りは、単なるイベントではなく、住民全体の協力で成り立つ一大行事だった。各店が得意分野を活かし、お互いに助け合って準備を進める。
午後になると、学校帰りの子どもたちが続々と「あめつちの詩」に集まってきた。
「千代さん、お祭りの準備、手伝っていい?」
「おじさん、提灯、もっと吊るさない?」
子どもたちの声に、誠は嬉しそうに応じた。「よし、じゃあ君たちは短冊を書いてくれないか? 俺は残りの提灯を吊るすから」
店の前のスペースは、子どもたちの作業場と化した。短冊に願い事を書く子、提灯を飾る子、風車を作る子…みんな真剣な表情で祭りの準備に取り組んでいた。
千代は店の中から、その様子を微笑ましく見守っていた。駄菓子屋は単にお菓子を売る場所ではなく、こうして地域の絆を深める場所でもあった。
祭りの日、「あめつちの詩」の前には小さな縁日が設けられた。誠はわたあめを作り、千代は水風船すくいを担当した。商店街全体が賑わい、笑顔と歓声で溢れていた。
夜になり、祭りの余韻が残る中、千代と誠は店の片づけをしていた。
「今年も賑やかだったね」と誠は言った。
「ええ、子どもたちも喜んでいたわ」
「この祭り、俺たちがいなくなっても、ずっと続いていくといいな」
「大丈夫よ、きっと続くわ」と千代は自信を持って答えた。
そんな彼女の言葉を聞いて、誠は満足そうに微笑んだ。「そうだな。この商店街は、これからもっと発展していくさ」
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千代は現実に引き戻された。今の商店街に、かつてのような夏祭りはない。店同士の交流も少なく、子どもたちの姿もめっきり減った。
「時代は変わったのね…」と千代は呟いた。
それでも、季節の移り変わりは同じだ。窓の外の柿の木も、五十年前と同じように実をつけ、色づき始めている。そんな自然の営みが、千代に少しの慰めを与えていた。
午後になり、千代は店番をしながら、編み物をしていた。針を動かす手つきは、年齢を感じさせないほど器用だ。編みかけの小さな風車の飾りは、かつて店内を飾っていたものの代わりになるはずだった。
店の風鈴が小さく鳴り、千代は顔を上げた。河野が入ってきた。
「千代さん、編み物かい?」
「ええ、暇だからね」と千代は微笑んだ。「お茶でもどう?」
「ありがとう。いただくよ」
千代はポットからお茶を注ぎ、河野に差し出した。二人は昔からの友人で、商店街の変遷を共に見てきた。
「ねえ、茂さん。覚えてる? この商店街が一番賑わっていた頃」
河野は懐かしそうに微笑んだ。「ああ、昭和四十年代だったかな。高度経済成長の頃だ」
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昭和四十五年、商店街は最も活気に満ちていた。各店舗には客が絶えず、週末ともなれば人々で溢れかえっていた。
「あめつちの詩」も例外ではなかった。放課後になると、小学生だけでなく、中学生や高校生も立ち寄るようになっていた。彼らにとって駄菓子屋は、単なる買い物の場所ではなく、友達と集まる社交の場でもあった。
「千代さん、宿題教えてよ」
中学二年生の女の子が、数学のドリルを広げている。千代は店番をしながらも、彼女の横に座り、問題を説明した。
「ほら、この公式を使うのよ。こうやって…」
千代は高校を卒業しており、基本的な数学は教えることができた。子どもたちは彼女の優しい教え方が好きで、よく宿題を持ってきた。
一方、誠は男の子たちに囲まれ、野球カードの交換会の審判をしていた。
「それは公平じゃないぞ。貴重なカードなら、もう一枚足さないと」
「えー、でもこのカードも貴重だよ」
「いや、先週のリーグ戦で活躍した選手のカードの方が価値があるんだ」
誠の判断は子どもたちに信頼されており、彼の言葉には誰も逆らわなかった。
店内は子どもたちの声で溢れ、外では商店街全体が活気に満ちていた。魚屋の威勢のいい掛け声、八百屋の季節の野菜を勧める声、文房具屋の新商品の宣伝…様々な音が混ざり合い、商店街の独特の雰囲気を作り出していた。
夕方になり、会社帰りの大人たちも商店街に立ち寄るようになる。中には、子どもの頃に「あめつちの詩」で駄菓子を買っていた人もいた。
「おじさん、おばさん、久しぶり!」
三十代の男性が、誠と千代に声をかけた。
「まあ、健一くん? 立派になったわね」と千代は驚いた。
「ええ、この春から区役所に勤めてるんです。今日は息子を連れてきました。ほら、拓也、挨拶しなさい」
小さな男の子が恥ずかしそうに頭を下げた。「はじめまして…」
「まあ、可愛い坊やね」と千代は微笑んだ。「何か好きな駄菓子はある?」
拓也は父親の後ろに隠れながらも、興味深そうに店内を見回していた。
「ほら、遠慮しないで選びなさい」と健一は息子を促した。「おじさんとおばさんは、お父さんが小さい頃からの知り合いなんだよ」
拓也は少しずつ店内に見入り、やがて棚のカラフルな飴に目を留めた。
「これ…」
「あら、棒付きキャンディね。お父さんも好きだったのよ」と千代は言いながら、飴を取り出した。
「そうか、息子も同じものが好きなんだな」と健一は笑った。「やっぱり血は争えないね」
そんなふうに、「あめつちの詩」は世代を超えた絆の場所でもあった。親子で訪れる客も多く、千代と誠は様々な家族の成長を見守ってきた。
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「あの頃は良かったねえ」と河野は懐かしそうに言った。「今じゃ、大型スーパーやコンビニに客を取られてしまって…」
千代は黙って頷いた。時代の流れと共に、商店街の形も変わっていった。昭和の終わり頃から、徐々に客足は減り始め、店舗も一軒、また一軒と閉まっていった。
「でも、千代さんは良くやってきたよ」と河野は続けた。「他の駄菓子屋は次々と閉店していったのに、『あめつちの詩』だけは残った」
千代は静かに微笑んだ。「誠との約束だったから…この店を守るって」
「そうだったな」と河野は頷いた。「誠さんは、最後まで『この店は子どもたちの居場所なんだ』って言ってたっけ」
千代は窓の外を見た。今では、放課後に子どもたちが駄菓子屋に集まる姿はほとんど見られない。彼らはゲームセンターやファストフード店、あるいは自宅でスマートフォンやゲーム機に夢中になっている。
「時代は変わったけれど…」と千代は言った。「でも、子どもたちの心は変わらないと思うの。ただ、私たちが彼らに届く方法を見つけられていないだけかもしれない」
河野は友人を見つめ、その言葉に少し驚いた。今まで諦めたような表情を見せていた千代が、こんなことを言うとは思わなかったからだ。
「千代さん…」
「茂さん、私、考えてたの。本当に店を閉めていいのかって」千代の目には、かすかな光が宿っていた。「誠との思い出も大切だけど、もしかしたら…この店には、まだ役目があるのかもしれないって」
河野は静かに頷いた。「そうかもしれないな」
二人は窓の外を見た。商店街は静かだったが、遠くから子どもの声が聞こえてきた。その声に、千代の心は少しだけ明るくなった。
「もしかしたら…」と千代は小さく呟いた。「もしかしたら、また…」
その言葉の続きは、彼女自身にもまだ見えていなかった。けれど、長い間忘れていた何かが、彼女の中で目覚め始めていた。