一章:シャッター通りの駄菓子屋
朝の光が差し込む窓辺で、佐々木千代は茶色く変色した鏡台に向かい、白髪を一本一本丁寧に結い上げていた。七十八歳になった今でも、髪を結う手つきだけは若い頃と変わらない。「よし」と小さく呟き、畳の上に正座して、簡素な朝食を終えた。
腰を伸ばすと、ぎくっと背中が鳴る。「まったく、年には勝てんわね」と自嘲気味に笑いながら、千代は襖を開けて階段を降りた。
一階は駄菓子屋「あめつちの詩」の店舗だ。店の名前は、四十年前、夫の誠が筆を握って書いたものだった。赤いひさしに描かれた「あめつちの詩」の文字は今でも雨風に耐え、色あせながらも店を見守っている。
千代は店内の電気をつけた。薄暗い店内に明かりが灯ると、色とりどりの駄菓子が浮かび上がる。ガラス瓶に入った飴玉、小さな紙袋に入ったラムネ、ビー玉、めんこ、そして天井から吊るされた手作りの風車。
「おはよう」と千代は店内に向かって挨拶した。返事をするものは誰もいないが、四十年以上続けてきた習慣だ。かつては夫の誠が「おう、今日も元気にいくか」と返してくれたものだった。
シャッターを開ける前に、千代は雑巾で棚のホコリを丁寧に拭いていく。もう十年前から、この店を手伝ってくれる人はいない。娘の由美子は東京で暮らし、孫の拓也はデザイナーとして忙しく働いている。「もう店を畳んだら?」と言われても、千代には駄菓子屋以外の生き方が想像できなかった。
やがて千代はシャッターを持ち上げた。金属の音が静かな商店街に響く。正面に広がるのは、半分以上の店がシャッターを閉ざした寂しい通りだ。かつては子供たちの声で賑わったこの商店街も、今では「シャッター通り」と呼ばれるようになっていた。
朝の光に照らされた店先で、千代は小さなほうきで掃き掃除を始めた。誰も通らない道を掃くのは無駄かもしれないが、これも長年の習慣だった。
「千代さん、おはよう」
声をかけられて顔を上げると、背中を丸めた老人が立っていた。隣の薬局の店主、河野茂だ。千代と同じく八十歳前後だが、昔から仲の良い幼なじみだった。
「まあ、茂さん。今日も早いのね」
「ああ、年寄りは朝が早い。それにしても静かな朝だね」
二人は並んで商店街を見渡した。二十年前、三十年前の賑わいがうそのようだ。
「今日は何か入荷するのかい?」と河野が尋ねた。
千代は小さく首を振る。「いいえ。もう新しい商品を仕入れるのは難しくてね。昔ながらのものを少しずつ売っていくだけよ」
「そうか…」と河野は言葉を濁した。「実は、昨日、うちにも話が来たんだ。再開発の」
千代の手が一瞬止まった。再開発の話は、以前から耳にしていた。この古い商店街を取り壊して、新しいマンションや商業施設を建てる計画だ。
「もう逃れられないのかね」と河野は呟いた。「うちは薬局だから、場所が変わっても何とかなるかもしれないが、千代さんは…」
「大丈夫よ」と千代は平静を装った。「その時はその時。まだ正式な話じゃないでしょう?」
「ああ、そうだ」と河野は急いで言った。「まだ決まったわけじゃない。心配しなくていい」
会話が終わると、河野は自分の店のシャッターを開け始めた。千代は静かに「あめつちの詩」の中へと戻った。
店内は相変わらず静かだ。足音を立てないように、千代は奥の小さな作業台へと向かう。そこには古い電気ポットがあり、温かいお茶を入れられるようになっていた。自分用と、たまに来る常連のお年寄りのためだ。
お茶を入れながら、千代は窓の外を眺めた。道行く人はほとんどいない。たまに通る車も、この商店街に用事があるわけではなさそうだ。
その時、ドアの上の風鈴が小さく鳴った。
「おばあちゃん、おはようございます」
千代の顔がぱっと明るくなる。入ってきたのは八十代の田中さんだった。週に二回、孫のためにラムネを買いに来る常連客だ。
「まあ、田中さん。いらっしゃい。お孫さんはどうしてる?」
「元気ですよ。今日も『おばあちゃんのラムネが食べたい』って言うもんだから」
田中さんは小銭を出しながら、懐かしそうに店内を見回した。
「この駄菓子屋は変わらないねえ。あたしが子供の頃から、ずっとこうして」
千代は静かに微笑んだ。「ええ、変わらないものもあるものね」
ラムネを紙袋に入れながら、千代は心の中で思った。確かに店の形は変わらないかもしれない。けれど、かつてこの店に詰めかけた子供たちの姿は、もう見ることはできない。
田中さんが帰った後、また静けさが戻った。千代は椅子に腰掛け、古いラジオをつけた。かすかに流れる演歌が、静かな店内に響いた。
昼過ぎ、千代は小さなお弁当を広げていた。自分ひとりだけだから、おかずは二品だけの質素なものだ。それでも、自分の手で作ったお弁当には愛着があった。
ちょうど食べ終わったところで、風鈴が再び鳴った。
「千代さん、ちょっといいかい?」
河野が顔を覗かせている。手には新聞紙で包まれた何かを持っていた。
「どうぞ、茂さん。何か持ってきてくれたの?」
「ああ、家内が朝作った漬物だ。少し分けてもらった」
千代は微笑んで受け取った。「まあ、ありがとう。柿の実がなる頃になったら、わたしからもおすそ分けするわね」
河野は店内に入り、小さなベンチに腰掛けた。千代がお茶を出すと、河野は恐る恐る切り出した。
「あのさ、さっきの再開発の話だけど…」
千代は静かに頷いた。「聞かせて」
「不動産会社が各店舗を回っているらしい。もう何軒かは立ち退きに同意したとか」
「そう…」千代は窓の外を見た。「でも、わたしはここでしか生きられないわ」
「わかっている」と河野は言った。「だが、現実は厳しい。この商店街、もう若い人が来なくなって久しいじゃないか」
千代は黙ってお茶を飲んだ。確かに若い人たちは、郊外の大型ショッピングモールに流れていった。子供たちも、スマートフォンやゲームに夢中で、駄菓子屋に興味を示すことは少なくなった。
「わたしたちの時代は終わったのかもしれんな」と河野は静かに言った。
千代はそっと首を振った。「でも、この駄菓子屋には思い出があるの。誠との…子供たちとの…」
河野は友人の気持ちを理解していた。彼自身も、薬局を先代から受け継ぎ、一生をこの商店街で過ごしてきた。変わりゆく時代の中で、変わらないものを守ることの難しさを、誰よりも知っていた。
「まあ、まだ正式な話じゃない」と河野は話題を変えようとした。「ところで、由美子さんからは連絡あったかい?」
千代は少し表情を曇らせた。「先週、電話があったわ。東京は忙しいみたいね」
河野は言葉を選びながら続けた。「孫の拓也くんは?」
「デザインの仕事で忙しいみたい。たまにメールをくれるけど…」千代の声が少し震えた。「あの子、『おばあちゃん、スマホ買ったら?』って言うのよ。わたし、そんな機械、使いこなせないのに」
河野は優しく笑った。「おれもカミさんに言われるよ。だが、こんな年になって新しいものを覚えるのは大変だ」
二人は昔話に花を咲かせた。商店街が賑わっていた頃、子供たちが学校帰りに駄菓子屋に群がった日々、夏祭りで一緒に屋台を出した思い出。語るほどに、目の前の寂しい商店街と、記憶の中の活気ある姿のギャップが広がっていく。
やがて河野は立ち上がった。「じゃあ、また来るよ。千代さんも無理しないでね」
千代は笑顔で見送った。「ええ、ありがとう」
河野が去った後、千代は古いアルバムを取り出した。埃をかぶった表紙をそっと開くと、色あせた写真が並んでいる。若かりし頃の自分と誠、開店当時の「あめつちの詩」、子供たちでにぎわう店内。一枚一枚に、千代の人生が刻まれていた。
再開発の話は、千代の心に重くのしかかった。でも、八十年近く生きてきて、彼女は変化を受け入れることも学んできた。問題は、受け入れるべき変化と、守るべきものをどう見極めるかだった。
アルバムの最後のページには、十年前に他界した誠との最後の写真があった。二人で店の前に立ち、笑顔を見せている。千代はその写真を胸に抱きしめた。
「誠、あなたならどうする?」
答えはなかったが、千代の心の中で、夫の声が聞こえるような気がした。「千代、お前は強い女だ。きっと道は開ける」
夕方になると、千代は少しずつ閉店の準備を始めた。最近は、夕方になっても客が来ることはほとんどない。それでも、午後六時まではきちんと店を開けておくのが、千代のプライドだった。
電話が鳴ったのは、五時半を過ぎた頃だった。古い黒電話のベルが、静かな店内に響く。
「はい、あめつちの詩です」
「お母さん? 由美子よ」
千代の顔がほころんだ。「まあ、由美子。どうしたの? 珍しいわね」
電話の向こうから、娘の由美子の声が聞こえる。五十二歳になる娘は、東京の会社で働きながら一人暮らしをしている。
「お母さん、元気にしてる? 腰の調子はどう?」
「ありがとう、相変わらずよ。あんたこそ、仕事は忙しい?」
「ええ、まあね…」と由美子は言葉を濁した。「それでね、お母さん。この前、河野さんから連絡があったの」
千代は一瞬、息を飲んだ。「河野さんから?」
「ええ、商店街の再開発の話。もう具体的になってきてるんでしょう?」
千代は黙った。河野が由美子に連絡したことに少し驚いたが、それも友人としての心遣いなのだろう。
「…そうみたいね」と千代は静かに答えた。
「お母さん、もう店を畳んだらどう?」由美子の声は優しかったが、決然としていた。「いつまでもその古い店にしがみついても、昔は戻ってこないわ」
千代は深く息を吸った。娘の言葉は理屈としては正しい。でも、この店は単なる商売の場ではなかった。千代と誠の人生そのものだった。
「わたしには、ここしかないのよ」
「だから、東京に来たらどう? わたしのマンションは狭いけど、近くに良い老人ホームもあるし…」
「老人ホーム?」千代の声が少し強くなった。「わたしはまだそんな場所に行く年じゃないわ」
電話の向こうで、由美子がため息をついた。「お母さん、現実を見て。もう七十八歳なのよ。いつまでも一人であの店を守れるわけじゃない」
千代は黙っていた。由美子の言うことも分かる。娘は心配してくれているのだ。でも…
「拓也のことは?」と千代は話題を変えた。「元気にしてる?」
「ええ、相変わらず忙しそう。この前、デザインの賞をもらったみたいで」
「まあ、すごいわね」千代の声が明るくなる。「あの子、小さい頃から絵を描くのが上手だったものね」
由美子は少し間を置いて言った。「…お母さん、今度拓也に連絡させるわ。久しぶりに実家に帰るように言ってみる」
「そうしてくれるの?」千代の声に期待が混じった。「でも、忙しいなら無理しなくていいのよ」
「大丈夫よ。それじゃ、また電話するわ。お体に気をつけて」
「ええ、あんたも無理しないでね」
電話を切ると、千代はぼんやりと受話器を見つめた。東京に行く…か。確かに、これからの生活を考えれば、娘の言う通りかもしれない。でも、この店を離れることは、誠との思い出、自分の人生との決別のように思えた。
千代はゆっくりと立ち上がり、店内を見回した。棚のガラス瓶に入った色とりどりの飴、埃をかぶったおもちゃ、天井から吊るされた風車。どれもこれも、千代の人生の一部だった。
もし店を閉めることになったら、これらはどうなるのだろう。捨てられるのか、それとも誰かに引き取られるのか。考えるだけで胸が痛んだ。
千代は静かにシャッターを下ろし始めた。金属の音が響く中、彼女は心の中で問いかけていた。「これが最後の時なのかしら」
夕闇が迫る頃、千代は二階の居間で夕食の準備をしていた。一人分の夕食は質素だが、千代は料理をすることが好きだった。今日は、朝市で買った旬の野菜を使った煮物と、小さな焼き魚が並ぶ。
「いただきます」と千代は小さく手を合わせた。向かいの席には、誠の遺影が置かれている。十年経った今でも、食事の度に向かい合って食べる習慣は変わらなかった。
「今日はね、茂さんが再開発の話をしに来たのよ」と千代は遺影に話しかける。「もう逃れられないかもしれないって」
静かな居間に、千代の独り言だけが響く。
「由美子からも電話があったわ。『店を畳んだら』って言うのよ。あの子は心配してくれてるんだけどね…」
千代は箸を置き、窓の外を見た。街灯の明かりが一つ、また一つと灯りはじめる。かつて賑わった商店街も、今は早い時間から静まり返っている。
「誠、覚えてる? あの夏祭りの日のこと」
千代の目に、遠い日の光景が浮かぶ。夏の夜、店の前に提灯を下げ、浴衣姿の子供たちが駄菓子を買いに集まる様子。誠は大きな声で子供たちに声をかけ、千代は手早く駄菓子を袋に詰めていた。まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
「あの頃は、毎日が賑やかだったわね」と千代は微笑んだ。「子供たちの声で、店中がいつも一杯だった」
食事を再開しながら、千代は昔話を続けた。まるで誠がそこに座って聞いているかのように。
「今日、ふと思ったの。わたしたちの駄菓子屋は、ただお菓子を売るだけの場所じゃなかったんじゃないかって」
千代の記憶の中では、「あめつちの詩」は子供たちの社交場であり、遊び場であり、時には悩みを打ち明ける場所でもあった。友達同士のケンカを仲裁したこともあれば、宿題を教えたこともある。そして何より、子供たちの無邪気な笑顔が、この店を明るく照らしていた。
「あの子たちは今、どうしているかしら」と千代は遠い目をした。「中には、もう自分の子供を連れて来てくれた人もいたけど…今では、そんな人も来なくなった」
夕食を終えると、千代は食器を片付け、小さなテーブルで手芸を始めた。針を動かす手つきは、年齢を感じさせないほど器用だ。編みかけの小さな風車の飾りは、店に吊るすためのものだった。
「もしかしたら、これが最後の風車になるかもしれないわね」と千代は呟いた。
窓の外では、秋の風が木々を揺らしている。千代の庭にある柿の木も、その風に身を任せていた。実はまだ青いが、これから少しずつ色づいていくだろう。
「柿が赤くなる頃には、もう決断しなくちゃいけないのかもしれないわね」
千代はふと、手を止めた。本当にこの店を閉めてもいいのだろうか。六十年以上続けてきた駄菓子屋の灯を、自分の代で消してしまっていいのだろうか。
迷いながらも、千代の手は再び動き始めた。針と糸が織りなす風車は、千代の人生と同じように、少しずつ形を変えていく。完成した時、それはどんな姿になるのだろうか。
「誠、あなたならどうする?」と千代は再び遺影に問いかけた。「この店を守り続けるべき? それとも、もう潮時なの?」
静かな夜の中、答えはなかった。ただ、遠くから聞こえる風の音だけが、千代の問いかけに応えるかのように、古い家の窓を揺らしていた。