6話 落ち着きのサナトリウム (神楽)
とある事情により、サナトリウムで生活をしている中学1年生、西園寺 神楽。
今までとは違う、のんびりとした生活に満足していたとある日のことである。
6話 落ち着きのサナトリウム (神楽)
① 世界の広がり
開けた窓から入ってきた5月の涼しい風が、私の髪を丁寧にサラサラと流していく。窓の外の爽快に晴れ渡った青空を見上げて、新鮮な空気を体に取り込む。
こんなにのんびりとした気持ちで生きていることを幸せだと感じる。結果に拘り続けて精神が不安定な状況にあった日々を、まるで何かの悪夢のように、現実には無かったように錯覚してしまう。
「いつまでもここにいたいです……」
気持ちの良い夢に浸り続けていたい気持ちがあるように、酷な現実から遠く離れた此処にいつまでも居たい。それが、私が切に願い続けることである。
「神楽さん、昼食を用意致しました。」
「ありがとうございます」
全開にしていた療養部屋のドアから、看護婦の沙川さんが昼食を運んで来てくれる。お盆から何まで全てに清潔感があり、食事は栄養バランスの取れたむメニューである。
お母様が素晴らしいサナトリウムに入れてくれたおかげで、快適に生活を送れている。サナトリウムを漢字表現に変換するならば、療養所という言葉が正しいだろうか。
読書の知識のみで考える私には分からない。世俗との関係を断ち、世間一般常識すらも理解できていない自分が情けなく思える。
そんな私だが、あと1週間もすれば此処から退院することになっている。普通ならば「おめでたい」と祝うらしいが、私にはおめでたいとは感じない。そう、夢から覚めなければいけないから。
「沙川さん、私はもう少し此処に居たいです。」
誰にも言えない自分の本心を、沙川さんにそっと伝える。聞いた沙川さんは、予想通りの反応をして私のことを見る。
「神楽さん、そろそろあなたは退院出来るのですよ?それに、あなたのような人がこのような狭い世界に閉じ籠もるのはもったいないです。」
「いいえ、此処は私にとっては無限大に広がる大きな世界です。」
当たり前のことだが、沙川さんと私とでは、それぞれのモノに対する価値観が違う。例えば、私は何処までも広がる青空を見せる晴天を好むが、沙川さんは静かで落ち着いた雨天を好むように。こんな事は誰とでもあり得ることだが、此処に来て以来は沙川さん以外の人とは会っていないから、例を挙げるにしても沙川さん以外に思い浮かばない。
「神楽さんは、どうしてそのように考えなさるのですか?」
落ち着いた態度で私の意見を否定する素振りを見せずに、沙川さんは優しく私に問いかける。
「此処は、己の限界を知ってしまう『外の世界』とは違うのです。限界を知る、それ即ち、己の達することのできる領域を知ることになります。そうして、その領域のラインを境目に己の世界の広さは決まってしまうのです。それ以上には広がってくれないのです。」
ここまで言い終わり一旦、沙川さんの様子を伺う。静かに私の意見を聞いてくれていることを確認して、さらに話を続ける。
「此処では、そうしたことがありません。己の限界を突きつけられることなく、日々を過ごすことができる。つまり、此処では可能性が無限大に広がっているんです。現実を知らされることなく書物を読むことで、新たな思想・世界に対して無限大の想像ができるんです。……これは、私の個人的な意見なので世間一般では違うかもしれません。」
私が話し終わるのを確認した沙川さんは、珍しく難しそうなをして目を瞑った。「そうですかね……。」とボソッと呟くと、窓際に立って外を眺めた。
沙川さんの1つに結んだ髪が、彼女の肩の辺りで静かに揺れている。白の看護服に外の太陽の光が反射して、沙川さんが眩しく見える。
「私もまだ30年間しか生きていません。世間のことは私にも分からないのです。ただ、此処に勤務していると何となく分かるんですよ、『外の世界』の本当の広さってのが。」
普段なら、私の意見に対峙するような意見を述べることの少ない沙川さんが、珍しく私の意見と反対のことを呟いた。それは、今までとは違うトーンに私には聞こえた。
「皆様、このサナトリウムに来る理由は様々です。精神面だったり、体調の方だったりと。ですが、退院後に御礼を言いに来てくださる時に皆様はこう言うんです。『外の世界には自分の知らない世界が待っていた。前とは違う新しい世界があった。』と。」
サーっと流れていく心地の良い風が、私を優しく撫でてくれる。それを感じたと同時に、沙川さんが私と目を合わせる。
「きっと、私の言葉だとうまく伝わりませんね。『外の世界』には、神楽さんにとって新しい世界が広がっていると思います。神楽さんが自分の身で、その言葉の真偽を、『外の世界』の本当の広がりを確かめてください。」
命令形ではなく、決して強く言われたわけではない。やんわりと言われただけなのに、その言葉に対して「は、はい……」と返すことしかできない。
私の反応を見た沙川さんは、静かに微笑んで「失礼しました、神楽さん。では、ごゆっくりと。」と言い、部屋からゆっくりと去っていった。
「『外の世界』の本当の広さ……ですか……。」
外を見れば何かが分かると思い、さっきまで沙川さんの居た場所に立ってみるが、私の目に映るのは普段と変わらない景色だけだった。
② 此処にきた理由
「神楽お姉ちゃん、これ見て!」
ヒメが満面の笑みを浮かべ、私の所までA4サイズのポスターを持ってきた。
ヒメは、私の2つ下の歳の女子小学生である。彼女は身体が弱くて、元気に小学校へと登校できないらしい。それで、此処で療養をしながら生活をしている。
「来週ね、アイドルが来てくれるんだって!上林香織ちゃんと妹の琴音ちゃん!」
「アイドル……?」
上林香織という名前は、今は世間から離れている私でも聞いたことがある名前だ。沙川さんが大ファンで、その方の話をなされることは少ないことではない。
『Cosmicrown』というアイドルグループのリーダーであり、日本のトップアイドルの座に君臨する。
無名だった『アイドル部』という部活の存在を全国に発信して、男女問わず人気の部活にまで発展させた『アイドル部の伝説』なんだとか。
「来週、一緒に観にいこう!」
目をキラキラと輝かせたヒメがこちらを見ているけれど、私は「うん」という返事はできなかった。
「……ごめんなさい、もう私は行きません……」
ヒメは私の返答に、残念そうな表情を見せる。誘ったのに断られたのなら、誰しもそうなるであろう。
本当はヒメの気持ちを分かってあげられているのに、今回の話だけはどうしても譲れなかった。
「そ、そうなんだ……。観に行きたくなったら一緒に行こうね。」
トボトボと部屋を出て行った寂しそうなヒメの後ろ姿を見て、「別の断り方があったのに……」と後悔することしかできない。
アイドルの輝いている姿を、観に行きたくはなかった。その方々のことを羨むだけになってしまい、同じ世界線に居るのに、何もしていない自分の事を、惨めで虚しい人物だと痛感するだけと分かっていたから。
※ ※ ※ ※ ※ ※
私が此処に来た原因が音楽であった。詳しく言うならば、ピアノという楽器によるものだった。
私の家は、代々続く音楽一家である。時は江戸時代まで遡っていく程、この西園寺家は音楽一筋なのだ。
当然の如く、私のお母様もお父様も音楽家である。お母様はピアニスト、お父様は作曲家として世界中で活躍している。
私には音楽以外にしたいことは山程あったけれど、親の敷いたレールを進んでいく上で、そのようなものは1つも無かった。それにより、私は嫌でも音楽の道を進まざるを得なかった。
そんな私は幼稚園生になると同時に、お母様からの勧めでピアノを始めた。
優しいお母様は結果に拘らず褒めてくれるが、厳しいお父様は私に対して結果しか求めていなかった。いくら努力をしようとも、優勝できなければ長い説教を始める。
今になって考えれば、その説教は全て無意味だったのだけれど、当時の私からすると「重要なありがたいお言葉」であった。
そう思わせられるくらい、私は無意識のうちに洗脳を受けていた。
才能の無い私に鞭打ってピアノを教え込んだのが、逆効果だったのだろう。私のピアノの成績は急激に落ちていった。
それにより私は、結果とお父様からの圧迫により精神を崩壊させてしまい、このサナトリウムに入ることになった。
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自分の不甲斐なさに、大きな溜息しかつけない。私がもっと優秀な人材であれば、お父様の機嫌を損ねさせることも、結果により精神状態が不安になることもなかった。
「私は音楽には向いていなかったのですね……。」
外の景色を眺めても、そこには普段と変わらない風景がある。いつも同じ景色しか見ていない。
違う景色を見るとどのように思うのか、そう考えながら、夏の近付きを知らせる風に当たっていた。
遅れてすみません、神楽 の話は次回も続きます。
これからもギャルズメロディーをよろしくお願いします