涙に溺れる少年(2)
「で、君はあいつの息子だっていうのか?」
男の手にはあの新聞記事が、あの日の父と同じく握りしめられている。僕は彼に冷めた目を向けながらも、胸を張って肯定した。
「そうです」
男の顔が、受け入れがたい、という困惑の表情をしたのは一瞬のことで、彼はすぐに冷静さを取り戻す。その彼の胸のなかで、いまだ、ふうー、ふうー、と荒い息を立てている彼女とは大違いの反応である。
さすが父に、冷血漢、と言わしめた人物だ。
先ほど彼から差し出されたココアをもう一口飲んで、僕は今一度、彼らに向かって告げてやった。
「僕は、あなたたちがかつて親友だった男の息子です。父は半年前に死にました。末期がんでした。父が死ぬ数日前に、あなたたちの話を父から聞きました。父はその新聞記事のことも知っていました。ふたりのことをとても懐かしがっていたし、たぶん会いたがっていました。でも、父はもういませんから、代わりに僕があなたたちに会いに行こうと思いました。父が最後にあなたたちに伝えたかったことです」
いつのまにかふたりの注目を一身に集めていた。女は本当に息を止めてしまったみたいに静かで、僕の声にじっと聴きいっている。男は真剣な眼差しで、僕の目から視線を逸らさないでいる。
そして僕はそれは淡々と簡潔に、父の言葉の最後を代弁した。
「俺のこと、忘れてくれてたらいいなぁ、です」
するとふたりの目は、同時にかっと見開かれた。けれど、ふたりのその驚きの種類はそれぞれすこし違っていた。女のほうは悲しさが前面に押し出されていたのに対し、男のほうはどこか呆れをつよく主張していたのだ。
この表情の違いで、ふたりが父のことをどのように捉えていたのか、僕にはわかったような気がした。
「落ち着いたか?」
男の言葉は僕の話をいったん区切って、彼女に向けられる。彼女はちいさく頷き返し、彼の抱擁から独立する。
なんだかんだいっても、まだ夫婦なんじゃん。
つい冷ややかな目で彼らを見てしまう。
僕は残り少なくなったココアを、いっきに喉に流しこんだ。
「君のお母さんは、どんな」
男の声が控えめにそう尋ねてきた。彼の目がまっすぐにこちらを見てくるので、その問いに嫌でも答えざるを得ない。
「母親は、ろくでもない女です。僕を産んでからもたくさんの男たちと関係を持って、僕のことは年中、家にほったらかし。幸い、あの女の家が金持ちだったので、僕は家政婦さんに育てられて、幼少時代を過ごしました。でもその家政婦さんも、僕が小学生にあがったくらいから、あの女から振り込まれる生活費を横領しだして、いなくなりました。それからの僕は、ずっとひとりです。──父さんがきてくれるまで」
「ということは、あいつは君が生まれたことを最初は知らなかったのか? 何故? 君の母親とあいつはどうしてそんな関係に?」
今までずっと冷静を保っていたはずの彼が、ひどく動揺しているのが見てとれた。彼女のほうも、信じられないという眼差しで、僕を見ている。
ふたりは本当に、何も知らないんだな。
何年も何年も。父さんがふたりの前からいなくなってから、何ひとつ知ることはなかったんだな。
僕のなかでふたたび煮えたち始める、怒り。それはどんどんおおきく膨らみ、彼らと対峙してから最高潮に達しようかとしていた。
「あなたたちは何ひとつ、父さんが消えた理由を探せなかったのか! こんな新聞記事を見たって、自ら姿を消した人間がやすやすと連絡するわけないじゃないか! 父さんはあんたたちに見つけだしてほしかったんだよ! それなのに、あんたたちは、あっさり父さんの捜索を打ち切って! あんなに──、ひとりで──。どうして父さんが死ななきゃならなかったんだ──!」
気づくと僕はぶちまけてしまっていた。女は自分を責めるように泣いていた。男は放心状態だった。それでも僕はかまわず続けた。
「父さんが僕のところに現れたのは、家政婦がトンズラしてしばらく経った頃だった。僕の口座に生活費が振り込まれているといっても、僕には銀行でお金をおろす方法がわからなかったから、家政婦が出ていく前に買いだめしていた食糧でしばらく生活していた。母親に電話をかけたって、いつも繋がらない。学校から連絡してもらって、ようやくあの女は連絡を寄越してきた。もうすぐしたら、パパがそっちに行くからって。その時に僕にも父親がいることを思い出した。今までそんな存在がいることを気にかけたこともなかった。でも、あの女の恋人なんてろくな男じゃないだろうと思ってたから、期待はしなかった」
不気味なほどの静けさのなかで、僕の声だけがおおきく響いて鳴っている。
ふたりのことを遠ざけるように、僕は過去の父さんに会いに行く。
父さんと僕の出会い。
「そのうち家にある食べものも底をついて、学校の給食でなんとか食いつなぐ日がつづいた。でも、夏休みに入ったから、それもできない。水だけは止められなかったから、腹が減ると大量に水を飲んで空腹をごまかした。だけどさすがに耐えられなくなって、僕は泣く泣くあの母親に電話をかけた。どうせ繋がらないだろうと思いながらも、珍しくあの女は3コール目に電話に出た。鼻にかかったような、もしもし、が、僕だとわかった途端、そっけなくなる。そんなことで傷つくことは、とうの昔に諦めていた。僕はきいた。お父さんいつ来るの? そしたら、やだ、忘れてた、って悪びれる様子もなく言い放った。その時に、僕はもうこのまま死ぬんだな、って思った。別に死んだって良かった。こんな女から産まれてしまった、僕の運が悪かったんだ。それで、全てがどうでも良くなった。むしろここで一人で死んだら、あの女にひと泡吹かせてやれるだろうとすら思ったよ」
僕はまるで自分が舞台に立つ役者にでもなった気持ちでいた。このふたりの観客にむけて、僕は再び口を開く。クライマックスはもうすぐだ。
「あの女との電話から二日が経って、僕はずっと部屋で寝ていた。このまま早く意識を失ってしまえばいい。そう願って、ただ時間が過ぎるのを待った。そんな時、滅多に使われないインターホンが、僕の眠りを遮るように鳴った。だけど、僕はそれに出られなかった。あの女かもしれない、と一瞬でも思ってしまったのが悔しくて意地をはってしまったのと、そもそも僕の身体には、僕を動かす力なんてこの時にはもう残ってなかったんだ。今玄関のドアを開ければ、助かるかもしれない。そう思ったけど、どうしても身体に力ははいらなかった。僕はまた眠りについた。それでその後に気づいたら、僕は病院のベッドの上だった。僕の腕にはふとい針が刺さっていて、身体からは石鹸の香りがした。何がどうなってこうなったのか、全くわからなかった。目覚めてどうすればいいのか悩んでいたら、医者でも看護師でもない、知らない男の人が、突然僕の病室に入ってきた。僕が起きていることに気づくとその人は、まるで自分のことを心配してくれていたみたいに、深くため息をついて、良かった、と笑ってくれた。それからその人が、遅くなってごめんな。と言ってくれた。僕はたまらなくなって、急に涙が出てきて、わんわん泣いた。涙が枯れ果てるまで、泣いて泣いて、泣いた。あんなに泣けたのは、もしかしたら赤ん坊の時以来かもしれない。そんな記憶は何ひとつ覚えてないけど。泣きじゃくる僕を、父さんはずっと側で見ててくれた。何も言わず、何も聞かず、ただ側でずっと、僕が泣き止むまで。──それが僕と父さんの出会いです」
怖いくらいの静寂が、僕らの周りにただよっていた。
ふたりはもはや口をなくしたように、黙りこむ。
「この日から、僕には父さんが全てでした。父さんが僕の父親だと知ったとき、産まれてから今までの僕の不幸は、父さんに会うために与えられた試練だったんだと思った」
父さんと出会うためなら、僕はどんなひどい仕打ちにだって耐えられる。父さんと過ごした十余年が、僕をそんなふうに思わせてくれた。父さんを連れてきてくれたあの女にも、それだけは感謝したいくらいだ。
「あの女と父さんがどうして出会ったのか、それは知らない。あの女のいうことは全部でまかせだから。父さんはあの女に騙されたんだ。それだけは確かだよ」
父さんが面倒をみてくれるようになっていつだったか、どのツラをさげて現れることができたのか、あの女が僕の元を訪ねてきたことがある。
あんた、キケンな状態だったんだって?
派手な化粧で若作りした顔が、さほど興味もないように告げた。不愉快な話を僕はずっと無視していた。あの言葉を言われるまでは。
あの人が来てくれて良かったでしょ? まさか本当に引き取るなんてね。キトクなひと。
怒りと悲しみのふたつが、稲妻に打たれたみたいに同時に駆け巡っていった。あの時の感情は、たぶん一生忘れることはないだろう。僕のなかに渦巻くあの女の嫌悪感が、最大限に高まった瞬間だった。
「じゃあ、君とあいつは、まさか本当の親子じゃ」
「父さんがきてくれなかったら、僕はあの時とっくに死んでたんだ! 父さんはそんな僕をみて(放っておけなくて!) 父さんは!
……父さんはそんな僕の、父親になってくれたんだ!!」
父さん──! 父さん──!
瞬間、あの幸せだった日々が、走馬灯のように駆け抜けていく。僕の目の前に、父さんの顔が鮮明に蘇る。
初めて手をつないだ帰り道。僕の小さな手を、父さんの大きな手が、優しく握ってくれる。とても温かかった。心が温かくなることを初めて知った。
一緒に向かい合って夕食を食べた。ようやく料理の味がおいしいということに気づいた。
交わされる何気ない言葉。朝起きたら、おはようと言ってくれる。眠る前の、おやすみなさい。
学校はどうだ? テストできたか? よく頑張ったな。と頭をなでてくれる。
風邪をひけば、一日中看病もしてくれる。
寝つけないときは、父さんのふとんにもぐって、すっかり安心して眠れた日。
そんな些細な日常。僕の一番幸せだった日々。
「がんだということがわかって、それでも父さんはいつも変わらず明るかった。家にいた時と、病室でいた時と、僕の前では何も変わらなかった。僕はこのまま父さんは何年も生きのびるんじゃないかって、そんな風に思ったくらいだ。でも、ついにその日はやってきた」
ふたりの息を呑む音が聞こえてきそうだった。僕は涙が溢れそうになるのを、必死にこらえていた。思わず声がうわずることのないように、最新の注意を払った。
「その日もいつもと変わらない今日が来るんだと思っていました。父さんの容態はたしかに悪くなっていたけど、それでも最近はずいぶん落ち着いていたんです。父さんがあなたたちのことで長話できるくらい」
あの日、学校にかかってきた一本の電話。僕の最も恐れていた報せが、呆気なくもたらされた瞬間。
「学校で知らされて、僕は訳もわからないまま、急いで病院へ向かいました。見慣れた病室にはいると、父さんがいつものように横になっていました。とても安らかな顔で、眠っていたんです」
信じたくなかった。決して。父さんはただ眠っているだけだと、そう思っていたかった。
「僕のたったひとりの父さんは、最期のときも、ひとりで──」
こらえきれなかった涙が一筋、僕の頬を伝っていく。あの時に感じた思いがまた、身体の底から突き上げてくる。
父さん──。父さん──。
あなたの顔が今でも目蓋の裏に、こんなにも焼きついている。独りになってしまった僕にただ笑いかけるだけのあなたが、今はこんなにも憎い。息を止めても決して止まらないこの心臓も憎い。生きろ生きろと脈打つ全身に、誰かトドメを刺してくれ──!
何度そう思ったことだろう。
父さんを連れていくなら、僕も連れていって──!
どこにもいない神に向かって、懇願し、憤る毎日。父さんを失った日から、僕の心は父さんと出会う前の僕に戻ろうとしていた。だけど、父さんに救われたこの命。簡単に捨てることもできない。ただ生きていくしかない。その現実だけを突きつけられる。心を無くそうとも、僕にはこの人生を生ききらなければならない理由がある。
「ごめ、なさい──」
女の弱々しい声がそう言った。女は僕の目を見ながら、今にもしゃくり声をあげて崩れそうになる自身をどうにか保って、その言葉をまたくり返した。
「ごめんなさい──」
女の目から静かに涙があふれている。目元の化粧が滲んで、お世辞にも綺麗だとは言いがたい顔に変わっている。そんな有様になっているのに、彼女は涙をいっさい拭おうとはしない。鼻水も垂れ流したままだ。
その光景に、僕は思わずびっくりした。大人の、それも女性が、こんな風に恥ずかしさを微塵もみせずに泣くなんて。そういえば父さんが、この女の人は泣き方が豪快だから人前では泣くなと注意したことがある、と言っていたっけ。
そんなことを思い出しながら、彼女の三度目の「ごめんなさい」を耳にする。その声は震えて、彼女の限界もそろそろ近いのではと思われた。
男はいつしか、彼女の肩に手を回している。父さんの最期を語ったときも黙って聞いていただけで、表情もたいして変わることのなかったこの男は、今何を思っているのだろうか。よく観察しても、僕にそれがわかるはずがなかった。
ふいに男の口が、僕に向かって言葉を投げた。
「あいつの墓は、あるのか?」
苛立ちが現れたが、僕はすこし迷ったのち、男に紙とペンを要求した。そして用意されたメモ帳に、その場所を書いてやった。
「ありがとう」と男が言う。
「君が教えに来てくれて、ようやくあいつに会いにいける」
僕にとっては嬉しくともなんともないその言葉に、反吐が出る思いだった。だけど、それも父さんのためだ。
「別にあなたに感謝される覚えはありません。父さんもそれは望んでいたと思うから」
「君はあいつが本当に大事だったんだな。俺たちはあいつの苦労をなにひとつ知りもせず、あいつが消えたことに怒りすら覚えて、この十年近く過ごしてきた。俺はそれでもあいつがいつかまたひょっこり帰ってくるんじゃないかって夢見て、ろくに探しもせず、結果、君が来た。後悔してるよ。怖かったんだよ、あいつの気持ちを知るのが。あいつが消えた理由が本当に思いつかなくて、俺も、彼女も、あいつの親友だったことに自信をなくして。こっちだけが、そう思いこんでただけじゃないかって怯えて。あいつはそんなやつじゃないのに。いつだって俺たちのことを考えてくれていたのに」
男が苦しげに吐露した言葉は、僕には何も響かなかった。そんなことを知ってか知らずか、男はまた性懲りもなく礼を言う。
「ありがとう。今まで君があいつの側にいてくれて、本当に良かった」
虫がいいとはこのことか。僕はあんたたちから礼を言われる筋合いはない。そう言ってやったら、このふたりはもっと傷ついてくれるだろうか。
無意味だとわかっていても、誰かにこの怒りをぶつけずにはいられない。
父さん。僕はあなたが本当にだいすきだったんだ。この人たちが思うより、はるかにずっと。
気づくと僕は声をあげて泣いていた。あの女の人に負けないくらい、みっともないほどの大声をあげて泣き叫んだ。
あの日からもうどれほど泣いただろう。それでも涙は枯渇することなく、泉のごとく湧きでてくる。この泉に際限などない。僕は一生泣きつづけるのだ。その身が裂かれるときまで。
ふと、肩にのせられた重みで、僕の意識がそちらを向く。男のごつごつとした手があった。
そんな慰めなどいらない、とその時突っぱねられたらよかったのに、不覚にもその手が、父さんと同じ温かさをもっていることに気づいて、拒絶することが憚られる。
当たり前だ。この手も、父さんを知っている。
そう思った瞬間、僕は彼の手に飛びついていた。今度はその手にすがって、泣きくずれた。その手は僕の背中を優しく撫でかえす。そうしていると、まるで父さんに抱きしめられているみたいだと思えた。
現実に、父さんが今、確かにここに、いるのだと。
その手のぬくもりはしばらくの間、僕のそばから離れなかった。僕はすっかり安心して、気の済むまで泣いた。
その涙が落ち着いたあと、普段より心がスッキリしたと思えたのは、父さんがいなくなって初めてのことだった。