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涙に溺れる少年(1)

 真っ暗な部屋のなかで、少年は声を押し殺して泣いていた。

 どうにも変えられない現実に嫌というほど消耗し、孤独と喪失感に延々と殴り続けられる。最愛の人が逝ってしまったこの世で今後を生き抜く勇気など、どうして湧いてこようか。

 少年は涙が枯れ果てても、目の前の真っ暗な闇が晴れてくれることはないのだと絶望した。

 悲観して悲観した先に何が待つのか。答えはわかりきっている。

 このどうしようもない現実を、あなたのいない現実を、ただ生きていかなければならないこと。リタイヤも許されず、この孤独と喪失感と苦痛とを背負って生ききらなければならないこと。生きろ、という残酷さ。

 この暗い部屋のなかでひとりきり、ずっとあなたのことを思い出してうずくまっていられたら。

 鼻水を啜りながら少年はまた、うぅ、とちいさく嗚咽を漏らす。

 そうして気づけば、彼の新しい一日が素知らぬ顔でやってくるのだ。



 もうすぐ春を迎えようかという頃、大好きだった父が静かに息を引き取った。

 病室の窓から見えるしだれ梅が、とても儚く立派に揺れていたのを覚えている。もうすぐ桜も見れるね、と笑っていた矢先のことだった。

 気さくで、子どものように屈託の無い顔で笑うのが印象的な人だった。そして誰よりもお人好しな人だった。

 だからダメだったんだと思う。父はきっと、もっと生きれたはずだ。あんな女に捕まらなければ。父の大好きだった人たちと、ずっと楽しく過ごせたはずなのに。

 病床についた父から真実を聞かされたのは、父が亡くなるほんの数日前のこと。

 学校帰り、いつものように父の病室へ向かうと、父がひどく熱心な様子で、ある紙切れに視線を注いでいた。

 普段は折りたたまれているようで、その紙切れにはいくつもの筋がつき、くたくたになっている。傍から見ればただのゴミだと判断されかねないような古びた紙を、父は真剣な眼差しで見つめているのだ。もう身体も満足に動かせないくせに、父のベッドは少し起こされ、それを胸の上で大事そうに抱えていた。

 近くに寄ってみると、それは数年前の新聞記事の切れ端のようだった。見出しが、「いなくなった貴方へ」となっている。

「父さん、それは?」

 顔をあげた父が穏やかに目を細めて笑い、口を開いた。

 これ、俺のことなんだよ。

 少しおかしそうに、でも慈しむみたいに優しい声。

「父さん、失踪でもしてたの?」

 冗談だろうと思ってからかい交りに言ってやったら、気づいたらそうなってたんだよなぁ、と苦笑を返される。その時の父の顔がなんとも言えず寂しそうでやるせない顔をしていて、こっちのほうがなんだか胸につまってしまった。

 どうしてるかなぁ、あいつら。

 ここじゃないどこかへ意識を飛ばしている父の姿に、無性に切なさを覚える。父はたぶん昔を懐かしんでるんだ。

 しばらくして父がぽつりぽつりと昔話を始めてくれた。僕の知らない父の過去。何度訊いてもなかなか話してくれなかった、僕の父さんになる前の父のこと。

 父がなぜあんな女を選んで一緒になってしまったのか、ずっと不思議でしかたなかった。父があんな女と一緒にならなければ自分はこの世に存在しなかったはずだけど、それでも父があの女を選んでしまったことが今まで本当に信じられなかった。

 だけど、父の過去を知って、ようやく納得できたことがある。

 父さんはあの女を自ら選んだわけじゃない。あの女に選ばされたんだ。

 父が言葉を落とすたびに、僕の心がひとつ、またひとつ、と死んでいくのがわかった。けれど、たったひとつ変わらなかった感情がある。

 母親であるあの女を、僕はきっと一生許さない。父をこんな目に遭わせたあの女。父さんの代わりに僕がずっと憎んでやる。

 この時、眠りについた優しい父の横顔に、僕はひそかに、彼も望んでいないだろう残酷な決意をした。



 父の学生時代には、仲の良かったふたりの友人がいたそうだ。ひとりは幼馴染の女性。もうひとりはいずれその女性と付き合うことになる男性だ。そのふたりが生涯で一番の親友だったと、父はあの日誇らしげに語ってくれた。

 そのふたりと、今、僕は父のかわりに対峙している。

 このふたりの所在に辿り着くまで、意外と時間はかからなかった。父はふたりと撮った写真を一枚だけ残していたから容貌はそれで把握できたし、例の新聞記事が載った新聞社に問い合わせて、当時の連絡先も教えてもらった。結局その連絡先では情報が古かったせいでふたりに辿りつくことは叶わず、僕はしぶしぶ母親のツテを利用することにした。父のためなら、嫌悪しているあの女に土下座したってかまわない。久しぶりの親子の会話が、息子の土下座だったことにあの女がすこし動揺していたのは面白かったけど。

 そうして父の親友の所在を、その道のプロに探してもらうことになったのだが、数日もすればふたりの所在は容易に明らかになった。

 父の話では夫婦となっていたふたりだが、現在は籍こそ抜いていないものの、長年の別居状態にあるという。それは父が失踪して数年を経たあと、その状態になったらしかった。彼らの間に子はない。ただ、今でもときどき女のほうが男の家に出入りはしているようで、完全に縁がきれた状態というわけでもないらしい。

 現在のふたりの写真も入手したが、年齢のわりに若々しいふたりが写っていた。同じ年齢なのに、父の最期の姿とは天と地ほどの差だ。父も若い頃は、それなりに人々の目に留まる容姿を持っていたのに、病気のせいもあって、随分と老けこんでしまっていた。それでも僕にとっては、この世で一番かっこいい存在だったわけだけど。

 そんな父と反対に、年相応より若々しく、容姿もずいぶん整った父の親友たち。女のほうはすこし影のある雰囲気を感じられたが、そこがミステリアスで大人な女性だと、高校生の僕ですら見惚れてしまうほどだった。男のほうも逞しくて、人の良さが前面にでていた父とは違って、理性的で、どこか冷たい印象もするけれど、この人に頼りたいと思わせる雰囲気があるひとだと、直感的に感じた。

 このふたりが、父と交流のあった人たち──。

 そして、父の所在を見つけ出せずに、今も親友だった父のことなど忘れて、のうのうと生きている人たち──。

 ふたりのことを考えると、むくむくと彼らにたいする苛立ちが募っていき、ふたりを親友だとうれしそうに語った父を不憫に思った。

 どうしてこの人たちは、父を探し出してくれなかったんだ──!

 気づくとまた涙がとめどなく溢れてくる。

 僕は簡単にあなたたちを見つけられたのに。父はずっと、あなたたちに見つけてほしかったのに。

 今日もあの夜が来る。父の葬儀が終わって、ひとりになった家で、静まり返った自分の部屋。もとからこの家に父がいたことなどなかったのに、それでも僕のなかで、父は現実に存在していた。だから、こんなにおおきな家で、あの女に与えられた場所で、たった一人でも生きていられた。だけれどそれも、もうできない。あなたはもうこの世のどこにもいないから。

 毎夜毎夜、呪いのように一人で生きていることをただ恨む。父さんを連れていったこの世界を恨む。だって、どうすればいい。独りになってしまった僕は、どうして生きていけばいいの。あなたがいなければ、今の僕は無かったも同然なのに。あなたがいたから、こんなところでも生きていられたのに。もっと強かな人間にならなくちゃ。あなたが手を差し伸べてくれたことを忘れないために。あなたが最後に望んだ願い、僕が必ず叶えてみせる。

 無理やり目を瞑って、自身に何度も言い聞かせた。あのふたりに会わなければ。会って、父のことを伝えなければ。そうしないといつまでもここから抜け出せない。父さんのところへ行こうにも行けない。あのふたり。父さんの親友たち。彼らと会うために。

 そうやって今日を終わらせる。ふたりの所在が明らかになってからは、ずいぶんと眠りにつくのが早くなった。

 僕の決意が明日を連れてくる。そうしていれば、父さんにも会いに行ける気がした。



 最初にたずねたのは、父の幼馴染でもあった女性のほうだ。彼女は、父とは小学生の頃からの付き合いで、その交友は社会人になって、父が自ら姿を消すまで続けられた。父の彼女にたいする評価は、きょうだいのような悪友だそうだ。

 なぜか長年付き合いがつづいた。たぶん馬が合ったんだろうな。

 父はその関係性を不思議に思いながらも、その女性との繋がりを大切に思っているようだった。

 一緒にいると、安心したんだよなぁ。実の家族より家族みたいだったな。

 そう言って、照れくさそうに微笑んだ父。父にそんな風に思われるこの人を、僕は心底羨ましく思った。

 その人の現住居であるマンションの前で、僕は彼女が来るのを待っていた。そしてようやく、一人の女性がマンションの入り口の前で立ち止まった。買い物から帰ってきたのだろう、手にはスーパーの袋が提げられている。写真でみた時はとても若々しくみえたけれど、実際は年相応で、父と同じ歳なことにすんなり納得できた。それでも綺麗なひとに変わりはないけれど。

 その人がオートロックを解除して自動ドアの内側へ入り込む前に、僕は決意して声をかけた。

 女性は最初、不審そうに僕を見ていたけれど、僕が父のことを口にすると、彼女の整った顔はたちまち驚愕の表情へと姿をかえた。そして、居ても立っても居られないように、僕の腕を荒々しくつかむと、どこへ向かうのやら、僕は彼女に導かれるままに走ることを余儀なくされた。前を走る彼女は必至の形相をしていて、うかつに声を挟もうものなら、この場で始末されかねないオーラを漂わせている。その彼女の迫力が、これ以上僕から言葉をかけられるのを、全身で拒絶していた。

 五分ほど訳もわからず走らされて着いた場所は、僕も想定していないところだった。そこはもう一人の父の親友が、現在住居としているマンションだったのである。

 いずれ男の方にも会うつもりをしていたから、手間が省けたのだと思いたいところだが、彼女の今の様子では、この後まともなやり取りができるのか疑わしい。

 事実、あれから彼女は一言も僕と口をきかず、男の部屋の前で男と顔を合わせたかと思えば、すぐに力尽きたように倒れてしまった。男はひどく驚いて、その後僕のことに気づいたようだ。そして彼はみじかく逡巡したあと、僕も部屋のなかへ招き入れるのだった。



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