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未練を抱く男

 自分がこんなにも他人に執着できる人間だなんて、思いもしなかった。

 お前の行方がわからなくなってもう十数年経つのに、俺は性懲りもなくお前のことを諦めきれずにいる。

 お前のほうがよっぽど人間らしかったのに、今じゃ俺のほうがあの頃バカにしていたお前のようになってるよ。

 なぁ、勝手にどこいったんだよ。俺たちを残して。



 古びた新聞紙の切れ端をテーブルの上に置くと、男は数分前に淹れたコーヒーに手を伸ばした。

 コーヒーはもう冷めていたが、今の男にはこれくらいのぬるさが身体によく染みわたってちょうどいい。

 男は、ほう、と一息ついた。しかし、それでも彼の視線はすぐに紙切れへ戻されてしまうのだ。

 文面の内容は、かつて男の妻が書いたもので、突如姿を消した親友の所在を呼びかけたものだった。

 親友が消えてからめっきり元気のなくなった妻に、男が新聞への投稿を薦めてみたのだ。所詮気休めにと書かせたものにすぎなかったが、彼女はこの記事を書いたことでいくらか心の平穏を取り戻したようだった。やつれた表情が日に日に良くなり、彼女の顔に笑顔も戻るようになった。そして、ただ奥歯を噛みしめつづけた数年を経た後、彼女は親友の捜索を完全に打ち切ったようだ。彼女なりに前を向こうとした結果だろう。

 しかし、男は回復した妻を嬉しく思いつつも、親友への未練をあっさりと克服できてしまった彼女にいくらか恨めしさを覚えていた。こんなに簡単に忘れてしまえるものなのか。

 そして、男は気づく。親友の捜索をやめてしまった妻を、いつしか愛せなくなっていることに。

 男とその妻とは高校生のときに出会って以来の仲だった。

 そして妻の親友は、男の親友でもあった。

 その親友を通して、男は妻と知り合ったわけではなかったが、妻からよく聞かされていた親友が自分の親友であると知ったとき、男はたいへん動揺したものだ。そして、少し嫉妬してしまったのも事実だった。

 恋人だった妻に対してではなく、親友だと思っていた彼に対して。

 この事実を知った日から、男は妻とその親友とに複雑な想いを抱えていくことになる。

 彼らの親友が消息をたち、数年を経たふたりの関係はほとほと冷えきったものだったが、どちらかが別れを告げるという兆しは皆無だった。今さら離婚の手続きをするほうが面倒だし、もしお互いに誰か恋人を作りたいと願えば、ふたりの間でそれは自由にしようと決めていた。無理に一緒に住む必要もないのでふたりは別居を決意したが、時々妻が男にご飯を作りに来ることもある。子どもはいないので、ふたりは付き合った当初のような、ちょうど良い距離を保った夫婦関係を築き始めていた。

 彼らの親友がいなくなって、実に十年という月日が経過しようとしていたある日。

 その頃にはふたりはもう親友の話題をタブーとし、お互いに回顧することもなくなっていた。妻のほうはすっかり親友との記憶を過去に追いやっていたようだし、男も親友の所在を気にかけてはいたものの、彼がこのまま姿を現さないだろうことはわかっていたのでなるべく考えないように努めていた。

 ふたりの関係は破綻の一歩手前で、かろうじてまだ繋がれた状態を保持していた。

 ところが、ふたりの元にある客人が訪れたことで、彼らの関係はすっかり終わりを迎えることとなる。

 その運命の日。

 年の瀬も押し詰まり、男はかるく家の掃除をしておこうと朝から忙しくしていた。

 水回りとリビングのテーブルの上。書斎に放置されたままの書類の整理。ソファーに出しっぱなしにしていた洗濯物は全てクローゼットにしまい、ひと仕事終えた男はブレイクタイムのコーヒーを淹れ、ソファーの上に腰を落ち着かせていた。

 しかし男はせっかく淹れたコーヒーをすぐには飲もうとしなかった。彼はなにやら別のことに意識を飛ばしてしまっているようである。

 なにやら男の手元には、ある古びた新聞紙の切れ端が握られていた。にわかに黄色くやけた色あいをしていて、汚らしい感じがする。そんなゴミとしかいいようのない紙切れに、男は目を奪われているのである。

 今や男の目は、その紙切れの文字をもの凄いスピードで追い、同時に過去をも遡っていることだろう。その紙切れに書かれている内容こそ、かつて妻が呼びかけた親友の所在を訴えたものだからだ。

 最後の一文を読み終えて男は、日頃封印できていた親友への想いが溢れだし、止まらなくなっていった。

 どうして、どうして──!

 考えるとその言葉に、頭のなかが埋め尽くされていく。

 男が今も親友に問いたいのは、その問いだけだ。

 黙って消えた理由。男が知りたいのは、ただそれだけだった。

 男はそこでようやくコーヒーを飲んだ。淹れたてだったコーヒーはすっかり冷めてぬるくなっていたが、先ほどから感じていた緊張感はほんの少し緩和されたようだ。一時、逡巡して、男は一気にそれを流し込む。飲み干してからも男の視線の先には、あの紙切れがちらついて離れなかった。

 厄介なものを見つけてしまった。俺はまだまだ、彼を諦めてなんかいなかった。妻はすっかり過去に囚われずに生きられるようになったのに、俺はどうだ? 一度でも思い出すと、悔しさでどうにかなりそうになる。お前に信頼されていなかったことをまざまざと突きつけられて、吐き気がする。

 男が親友に対して真っ先にくる感情は悔しさだったが、このごろは次第に苛立ちも台頭するようになってきていた。

 もう一口が欲しくなり、空のカップにコーヒーを注ぎ、喉を潤す。今度は苦味だけが口いっぱいに広がった。

 いっそ死んでいるとわかっていたら、こんなに苦しまなかったのに。

 そんな思いが男の胸にすとんと落ちた。それと同時に男はあることを思い出した。

 男と親友は学生の頃、よく死について議論することがあった。

 いつ、どういうシチュエーションで自分は死にたいか。

 親友はよくこのことを語った。

 俺、できれば自分の好きなやつより先に死んでおきたいんだ。そのためなら長生きなんてできなくていい。近しい人がどんどん先に逝っちまって、自分が最後に残されるほうが耐えらんないからさ。だから絶対、お前より先に俺は死んでおきたいよ。もし俺が先に死ねたとしてさ、その時は俺が死んだことを誰にも知られずにしていられたら、さらにいいよなぁ。生きてるのか死んでるのかもわからない、誰かの記憶の中だけで生き続けているか、いっそ誰からの記憶からも俺の存在なんて消えてしまっていいくらい。生きてる人にいつまでも覚えていてほしいなんて、そんなことは思えない。でも、それで、俺だけは覚えてるんだ。俺が好きになったやつらのことを。え、死んだ後に覚えてなんていられないって? そうかもな。でも俺は覚えてるよ。俺だけは忘れずにいるから、やっぱりみんなの記憶からは俺は消えていてほしいな。

 ふと、そう言って笑みを湛えた親友の顔がまざまざと思い出されたのだ。男がどす黒い思考に陥ろうかとした、その寸前だった。

 こんなにも親友の声をクリアに再生されたのは何年ぶりだろう。何十年も前の、まだ若かった学生時代の、親友の声。何年も忘れ去られていた、男の記憶だった。

 男は大変なことを忘れていた。よく親友からきかされていたことだったのに。

 しかし、彼の回顧は次の瞬間たちまち断絶される。稲妻のように鋭いチャイム音が部屋に落とされたからだ。彼はよろよろと立ち上がり、インターホンの画面を見た。妻だった。

 しばらくして、部屋の呼び鈴がもう一度鳴る。男は玄関に赴き、妻と対面した。買い物袋を手に提げ、「今日は鍋にしようと思って」と告げる彼女は、どうしてかあの時と同じ表情をしていた。

 彼女が親友と最後の会話を交わしたあの日。親友とやり取りした後、やけに曇った顔をして彼との会話を打ち明けてきた、あの日の彼女。繋がらない電話に、次第に顔の筋肉がぎこちなくなり、泣きたいのか笑いたいのか、自分で表情を満足に操れないでいた彼女。そして、ついに壊れて笑うことしかできなくなってしまった彼女。

 今、目の前にいる妻はいつ発狂してもおかしくないな、と男は感じた。あの日のように、また。

 男が彼女を慰める心づもりをしていると、ふいに妻の後ろで誰かの影が動くのがわかった。

 見知らぬ少年がいた。男は今度はその少年と対面した。会ったことも、全く記憶にない。妻の知り合いなのだろうか。

 少年は男の顔を見上げたまま、何も語らない。男は少年から目を離すと、妻に問いかけた。

「この子は君の連れか?」

 その時だった。

 あ、という小さな音を男が耳にしたかと思うと、眼前の妻はその場に膝から崩れ落ちた。妻の口からは、あははは、ははっ、と乾いた笑いが止まらなくなっている。男は慌てて妻を部屋の中に引き入れた。そして、一度逡巡した後、妻とともに現れたその少年にも同じように促す。無表情の少年は素直にそれに従った。

 妻を落ち着かせるために、男はまずコーヒーを彼女に飲ませた。背中をさすってやり、彼女の笑いがおさまるまで懸命に待ってやる。あの時もそうしたように。

 その間、未だ謎に包まれた少年は、ココアの入ったマグカップをずっと両手に持ち、静かにそれを啜っていた。

 なんとも気まずい、不思議な時間が流れていた。未だ笑いの止まぬ妻と、どこの誰かも知らぬ少年。この二人の間で、男はほとほと困り果てていた。

 しかし、男が妻の背中をさすっている間、彼の目は密かに少年を観察していた。この少年と妻とはどんな関係があるのか。まさか、いつしか妻に恋人ができて、この少年がその連れ子だとでもいうのだろうか。だけれど、そうであれば妻のこの動転ぶりはなんだ?

 ますます男には、この少年の存在が理解できないのである。男は少年から目をそらすと、次第に落ち着いてきた妻に意識を戻した。妻はふうふうと荒い息遣いをしたままだったが、この様子ならもうしばらくのうちに彼女の動揺は治まってくれるだろう。

 男はひとまず安堵し、自身にももう一度熱いコーヒーを注いで、喉を潤すことにした。そして、ふと少年を見ると、彼の目が熱心に何かを見つめていることに気づく。それは男が先ほどまで見返していた例の新聞記事だった。

 男はとっさにその記事を少年の目から遠ざけようとした。けれど、それも遅かったらしい。永遠に閉ざされたままかと思われた少年の口が、静かにそう呟いたのだ。

「それ、父の記事ですか」



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