プロローグ──後悔
五日ぶりに聞くあなたの声は、とても新鮮なものでした。
まるで初対面の人と会話をした時のようなよそよそしさで、お互いに気持ちのわるい思いをしたのではないですか。
私があなたに対してつい猫をかぶったような声を出してしまったのも、この時が初めてでした。だけどそれは、このよそよそしさに私が心底戸惑っていたからです。
あなたと出会ってからこんな思いをしたのは、本当に初めてのことだったから。
今思えばこんな気持ちになることも、これが最初で最後だったのでしょうね。
私はずっと、あなたを一番気心の知れた友人だと思っていました。
私は女だけれど、男のあなたとも対等な友情を育んできたつもりでした。そして、その関係は驚くほどうまくいっていたと今でも自負しています。男女間の友情は成立しないなんてよくいうけれど、私たちの間ではそれが成り立っていたんです。私もまさかこんなに長い付き合いになるなんて思ってもみませんでしたが。
小学一年生のとき、席がとなりにならなかったら。同じ中学に進み、三年間同じクラスにならなかったら。高校生になって、まさか私の初めてできた恋人があなたの友達でなかったら。大学でまた、あなたと同じ学部に進学していなかったら。
そのどれかひとつでも欠けていたら、私たちの関係はここまで強固なものにはならなかったでしょう。私たちは何度も思いもよらない形の再開を果たし、そしてそのたびに切っても切れないこの腐れ縁のような関係をふたりで笑いあってきたのです。思い出すと本当に偶然の連続で、すこし怖いくらい。
私たちの間に恋愛感情が生まれることはなかったのかと問われれば、それは間違いなくなかっただろう、と私は断言することができます。
私にとってあなたは、心許せるただひとりの異性の友人だった。
私にその思いがあるかぎり、この関係を私から壊すことは考えられません。私たちは、なんなら互いに同性の友人のそれよりうまくいっていたのですから。
あなたといるとき、私はいつも居心地がよく、普段家族にしかみせない素の自分をも、あなたの前では容易にさらけだすことができました。私はあなたに会うたび、あなたという人に出会えたことを、いつも感謝していたんです。その時だけ、私は熱心な宗教家にでもなったかのようでした。
あなたと過ごせた時間は、私の大切な宝物です。あなたのほうはどうでしたか。それを確かめられないことがまた、悔やまれます。
あなたが珍しく私に着信をくれたのは、あなたなりの優しさだったんでしょうか。
あの日、私はあなたからの一度目の着信に出ることができなかった。二度目も叶わず、あなたは留守番電話にメッセージを残しておいてくれましたね。私がそれに気づいたのは、あなたからの最後の着信があって、半日が過ぎた頃でした。
その日、お昼すぎに電話をくれたあなたは、どんな想いであの言葉を残してくれたのでしょう。私は何故、着信に気づいた時すぐに折り返さず、明日の朝でいいと思って無視してしまったのか。
思えば私はいつもあなたに甘えていたんでしょうね。だから、あのとき私は留守電の内容を放置してしまったんだと思います。あのとき、私がきちんとあなたからの着信に出ていたら──。
何かが変わったんだろうかという思いは、考えないようにしていても、私のなかから永遠に消えてはくれないのだと思います。私は死ぬまでこの悔いを引きずって、生きていくのだと思います。
あなたが留守電に残してくれた最後の言葉。今では一言一句間違うことなく、暗唱できるようになってしまいました。
『今晩メシでもどう? 聞いてほしいことがあるんだけど。うん。……あ、俺とふたりきりじゃ旦那に文句いわれるか?』
あなたからの着信があること自体珍しいのに、それに相談にのってほしいだなんて、何十年のあなたとの付き合いのなかで初めていわれた言葉です。それを朝になって聞いた私はまず驚き、そしてひどく戸惑いました。私の旦那への配慮にしても、あなたは私の旦那に会ったことも、私とふたりきりで食事を共にしたこともある仲じゃないかと。それなのにどうして、あなたは今さら私の旦那を気遣う必要があるのか。
このとき、私はなにもわかりませんでした。だけれど言い知れぬ不安感が、私の足元から喉元にかけてをそろそろと這い上がってきていたのです。
私はその不安を蹴散らすように、急いであなたに電話をしました。ワンコールの後、あなたは意外にもすぐに電話をとってくれましたね。私は間髪容れずに連絡を返さなかったことを詫びました。あなたは、いいよいいよ、気にしてない、と笑ってくれていましたが、私はそれからのあなたの声の違和感に、余計に不安が募っていきました。
あなたの聞き慣れたはずの声が、私のよく知るあなたの声と全くリンクしなかったからです。私は最初気のせいだと思っていました。だから、特に用などないのに、「昨日は何してたの?」「最近仕事はうまくいってる?」など、まるでこれから別れを切りだそうとする恋人に、その話をさせまいとべつの話題を必死になって振りつづける女のようになってしまいました。私自身、何故あのとき執拗にあなたとの会話を終わらせまいとしたのかわかりません。私の声も普段と全く変わって、客と対峙するセールスマンのようだったし、先にも言いましたが、あなたの前であんなに気持ちのわるい声を出したのも初めてなのです。でも、私が会話を引き延ばそうとするたびに、あなたの声はひどく乾いたものになっていきました。私とあなたの今までで、あんなにも気持ちの噛み合わなかった会話はなかったと思います。私はあなたとの間に明確な壁があることを、ひしひしと感じました。
やがて、「またご飯にいこう」と軽い約束をし、私たちは会話を終えました。けれど、先ほど感じた不安感がちっともなくなってくれないのです。一人でこの不安をどうにかするのが難しく、私は旦那にあなたとした会話のことを話しました。旦那は、気にすることないよ、と言ってくれましたが、私はそれからもこのモヤモヤを消すことができませんでした。だから、今晩あなたに会えないか、とまた連絡をいれたのです。今度はメールで。あなたと電話した、それから一時間後のことでした。
メールを送ったあと、またすぐに返信は来ました。けれど、それはあなたからのものではなく、エラーメールでした。そう、あなたのメールアドレスがエラーとなって返ってきたのです。意味がわかりませんでした。今まで何度もやり取りしてきたメールアドレスです。中学のときから今までで一度も変えられたことのない、あなたのメールアドレスです。それが今になってどうして──。
私の不安はもはや荒波のようになって、私の全身を何度もなぶりつけていました。私は急いであなたに電話をしました。先ほどまで繋がっていた、会話をしていた、あなたの電話番号にです。嫌な予感はずっとありましたが、私はその予感をずっと無視しつづけていました。とにかく出てほしい、それだけを願っていました。
数回のコール音をきいた後、やがて私の手から携帯電話がするりと滑り落ちてゆきました。その時、カツンと携帯電話の落ちた音が鳴ったのでしょうが、私の耳は無機質な音の羅列のほうを拾ったまま、くり返しそれを再生しつづけていました。
──おかけになった電話番号は現在使われておりません。……おかけになった電話番号は現在使われておりません。……おかけになった電話番号は、
頭が真っ白になったとき、人間は笑うことしかできなくなるのですね。
私はなにも笑いたくなどないのに、どうしてか笑いが止まらなくなりました。はは、あはは、と次から次へと笑いが込みあげてきてしかたないのです。
私のようすに気づいた旦那が、目をかすかに見開いて部屋にはいってきたのがわかりました。私は問いかけてくる旦那の言葉に何も返すことができず、そのうちに困り果てた旦那は、私の身体をぎゅっと抱き寄せ、私が落ち着くまで背中をさすってくれていました。旦那はその間一言も、私に話を聞くことをしませんでした。私は今度は旦那に甘え、自身の笑いがおさまるのを待ったのです。おかしくておかしくて仕方ないはずなのに、不思議なことに私の鼻からは鼻水が、目からは涙が溢れていました。感情がほとほと迷子でした。あんなことも生まれて初めてのことでした。
あなたの最後の留守電を聞くたびに、私はあの日の自分をひどく呪いたくなります。私はこんなにもあなたに支えられてきたのだということを、どうしようもなく痛感してしまいます。
あなたは今、どこにいるんでしょうか。もう私の前に現れないだろうことは、私もよくわかっています。だけど、私はあなたに会いたくてしかたないのです。寂しくて寂しくてたまりません。あなたの隣に肩を並べられないことが、悲しくて悔しくて。
あなたがあれから姿を消したのは、いったい何故ですか? 私にはわかりません。そんなこともわからない、あなたを知ったつもりでいた自分が心底恥ずかしい。
どうか戻ってきてほしい。あなたの顔がなにより見たいです。そして、あなたの話を聞いてやれなかった私をきつく叱りつけてください。今度はちゃんと、話を聞くから。