プロローグ マ神が生まれた日
井関祐太35歳。
何ていうこともないエリート人生。
国内文系の頂点である東大法学部を卒業し、今まで数多くの法曹を生み出してきた名門中大ローを修了。その後、司法試験予備校業界シェアNo.1に君臨し続ける伊藤塾において数多くの講座・答練を担当し、遂には「予備試験ルートの開拓者」の二つ名をも恣にしている。
渋谷校での午前の教材作成作業を終えて向かった先は校舎から歩いて1分もかからない場所にある『ハノイのホイさん』だ。
この店は伊藤塾長がハノイ法科大学で講演したことをきっかけに、東南アジアからの留学生や難民の方の経済的自立を支援するため、伊藤塾を運営している株式会社法学館が始めたベトナム料理「フォー」の店である。
受験指導のみならずこのような社会貢献活動も行なっているところが伊藤塾が他塾と一線を画していることの証左であろう。
「イラッシャイマセー」
店内に入るとやや外国語訛りした元気な挨拶が響いてくる。
席に着き、店員が水を持ってくるや否や注文をした。
注文を終えるとすぐさま基本書を広げて次回のゼミで扱う問題の論点についての検討を始めた。
伊藤塾きっての人気講師は1分1秒も無駄にすることができないのだ。
シュバババババババッ!!シュバッ!シュババッ!!
問題提起・論点・定義等それぞれの内容に応じた色のマーカーで基本書をくまなくマーキングしていく。
無味乾燥だった本が鮮やかな彩りを手に入れ、歓喜の声を上げているようだ。
人が嬉しい時に顔に笑いジワを浮かべるのと同様に本もまた沢山マーキングされるとシワを作る。私が本を読み終える頃には全てのページが笑顔になるのだ。
そのあまりにも鮮やかな手腕に店内の客の多くはすっかり目を丸めてこちらに見入ってしまっている。
私のあまりにも早すぎるマーキングはしばしば周囲の耳目を集めてしまう、これからは人前ではもっと力を「セーブ」する必要がありそうだと思っていたところに注文の品が届く。
「オマタセシマシタ、ブタヒキニクとレモングラスのフォーです、ゴユックリドウゾー」
この店で食事を取るときは大抵この品を注文している。
アッサリしたスープにモチモチの麺、そしてレモングラスの爽やかな香りが絶妙にマッチしているのだ。
そして待望の品を目の前にして私はまた別のマーカーを二本取り出した。
これはあまり多くの人に知られていないのだが、マーカーはマーキングの他にも箸としても使うことができるのだ。
衛生面への気配りが求められる昨今の情勢下において、私にとって何よりも信じられるのはMy箸ならぬMyマーカーだった。
「いただきマーク」
丁寧に挨拶をして麺を口の中へと運び始める。
パクチーの強い匂いに食欲を刺激され思わずマーキングの時と変わらないスピードでかき込んでしまう。
それから5分も経たない内に器からはスープ以外無くなっていた。
しかしご馳走さマークにはまだ早い。
この塩気の強いスープを飲み干すまでが一連の流れだ。
器を両の手で持ち上げ口の前まで持っていく。
そして徐々に傾けていき、ゴクゴクとスープを喉へと流し込む。
ゴキュッ
そんな音は鳴っていないのだが、喉に強烈な違和感と痛みを感じる。
フォーは確かに麺は太めであるが、喉に詰まったこれはそれとは比べ物にならないくらい太い、そして何より感触的に硬い。
「ガハッゴホッ、ガッッ……!!」
必死に喉を抑えるものの異物は取れそうにない。
尋常じゃない咳き込み方を怪訝に思ったのか周囲の客や店員が集まってくる。
「オキャクサマドウシマシタカ?ダイジョーブデスカ!?」
大丈夫じゃないと答えようにも声が出せない。
「ガハッゲホホッ、アェグッ!」
息ができず段々と視界と意識がぼやけていく。
客達が何やら大騒ぎをしているようだが何を言っているのかも分からなかった。
「おい誰か救急車を呼べっ!」
「一体どうしたんだ!?」
「何やらおかしなことしてるもんで見てたんだが、この人自分のマーカーを飲み込んじまってたみたいだ!」
「は?マーカーを?どうしたらそんなことになるんだ!」
「俺にだってわからねえよ!」
「オキャクサマ、マーカーをハキダシテクダサイ!」
まだマークし終えていない本、まだ使っていないマーカー、様々なものが浮かび上がっては消えていく。
これが走馬灯というものだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら私の意識は闇へと溶け込んだ。