第二部『誘い』
「少し……小さい、かな? やっぱり菊池くんの服、借りようかしら–––」
「ダメです! 直哉さんの服は貸せません!」
「どうして?」
「どうしてもです」
話し合い、基、林檎の独断により、女子中学生の体操服を借りることになった城ヶ崎。
多少、ボディラインの強調は激しくなりそうだが、俺の服を貸すよりはマシだ。
例えば、美穂が知らない男の服を着ていたら、俺は嫌な気分になる。だとしたら、その逆もまた然り。俺は愛上美穂の彼氏を名乗る以上、その辺を主に気をつけなければいけない。
情けないことに……それに気づけたのは、林檎の説教のおかげだった。
「師匠はもうちょっと、女心ってのを分かった方がいいかもしれないっすね」
「そう言うお前は分かるのか、為吉?」
「……も、もちのろんですよ! 何と言っても、俺には十個違いの姉が三人もいますから」
「あぁ、なるほどな。でも女の体には慣れてないみたいだが?」
「そりゃ、姉貴の二万倍は……ってか、あんな美人にはいやでも反応しますよ。別にやましい気持ちがなくったって。男なら、誰でもそうでしょう?」
「いや、俺はそこまででは……」
四人用の食卓に料理を並べ終え、女子たちの帰還を待っている俺と為吉。
今夜の献立は、とある理由があって、冷蔵庫のあり合わせで作った豆乳鍋だ。
ちなみに親御さんの帰りが夜遅い弟子たちは、こうして毎日、晩御飯を食べて帰るので、稽古がある日でも、ない日でも取り敢えず我が家にいる。
俺は保護者をしているつもりだが、どちらかと言えば、面倒を見てもらうことの方が多い。料理も林檎が主導で行っている。
(やっぱ、母さんを頼り過ぎてたんだよな。俺も、親父も……)
剣道以外、全くもって何もできない自分が情けない。
年下の二人は、普段は口に出さないけど、頼りない俺に不満を抱えている。
剣道では片腕の親父に敵わず、保護者として母さんの足元にも及ばず、まさに、一人の人間としては下の下と呼ぶにふさわしい。
「はぁ。にしても遅いっすね、あの二人。俺、もう腹ペコペコっすよ」
「…………」
「ん? どうかしたっすか? 暗い顔して」
「いや、なんでもないよ。飯の前に、ちょっと親父の様子見てくる」
「了解っす。二人、来たら伝えときますね」
「ありがとな」
為吉の背中をぽん、と叩き、席を立った俺。
縁側に続く長廊下を進み、真っ暗な道場を抜けて、左側の襖を開ける。そこは竹刀や防具類が竹作りの棚に並んでいる、倉庫部分だ。
感情の殆どを失い、廃人と化した親父はそこで竹刀を振っていることが多い。しかし、その読みは外れた。
「……ちょっと、振っとくか」
収穫なしで帰ることに、妙な嫌気を覚えた俺は竹刀を手に取る。
何か嫌なことがあった時、俺は小さい頃からこうして剣道に没頭するようにしていた。
「–––ッ!」
上から下へ。
十四年間、磨き続けてきたこの動作は、蠢く邪念を断ち切ってくれる。
『あの女の人は、絶対に関わっちゃダメな人です。直哉さんは、美穂ちゃんを悲しませたいんですか?』
『…………』
「–––ッ!」
『私たちの師匠なら、もう少し考えて行動してください。別に美穂ちゃんに言ったりするつもりはないですけど……なんか、直哉さんらしくないです!』
『…………』
「–––ッ!」
『私もお母さん死んじゃいましたから、気持ちは分からなくもないです。でも、最近の直哉さんは、上の空で何も考えてないように–––』
『……林檎。もう、分かってる……からさ」
「–––ッ!」
『……言い過ぎました。八つ当たりでした、ごめんなさい』
『いや、全部、俺が悪いから』
「–––ッ!」
『直哉さ–––』
『あの子の着替え、頼んでもいいか、林檎?』
『……はい。わかりました』
「–––ッ……誰、だ?」
最後の一振りをしようとすると、背後の誰かに竹刀を止められた。
目元に浮かんだなにかを拭い、師匠としての振る舞いを心がけるために、堂々と振り返る。
「わ・た・し。こんな所で何してるの、菊池くん? ご飯、冷めちゃうよ?」
「城ヶ……。ちょっと、親父の様子を見に来てただけだよ」
「それはあの坊主くんに聞いた。でも今、素振りしてたでしょ? どうして?」
「練習」
「嘘。バレバレね」
「…………」
ふふ、と不気味に笑った城ヶ崎。
倉庫の奥の方に進み、何をするかと思えば竹刀を一本手に取る。
すると、まるでフェンシングのレイピアのような持ち方で、その剣先を俺へと突きつけて来た。
「まぁ、いいけど。そんなことよりさ、私のことは、冷夏って呼んで。城ヶ崎って呼ぶの、嫌なんでしょ?」
「……は? いきなり何を–––」
「メーンっ!」
「あぶなっ……! お前、幾ら素人でも竹刀の威力くらい知ってるだろ⁉︎」
咄嗟にガードできたからいいものの、力加減無視で振られた一撃をモロにくらえば、全治数時間の打ち身になっていても、おかしくはなかった。
声を荒げた俺をみて、しかし城ヶ崎は、クスクス、と小さく笑うのみ。
「『素人』じゃなくて、『冷夏』でしょ? 今すぐに呼んでくれないと、もう一回、ヤルけど?」
「ふざけるのもいい加減にしろ! 竹刀を遊び道具にすることは、菊池流の者として見過ごせ–––」
「メーンっ!」
次の見切れた一撃は躱し、間合いを詰めた俺は竹刀を奪う。
だがこの狂人は、それも計算通りだと言わんばかりに、
「『冷夏』って、たった二文字でしょ?」
「断る」
「呼ぶまで言い続ける、って言ったら?」
「なら帰れ」
「言わなかったら?」
「帰れ」
「……じゃあ–––」
「帰ってくれ」
「…………」
元より、城ヶ崎の表情からは、大した感情は感じられなかった。
だが今、この瞬間の城ヶ崎冷夏は、これまで見た誰よりも暗い瞳の色をしている。
無感情のその先。この女から醸し出されているのは、まさに虚無。
一見不気味なのにも関わらず、恐怖も気持ち悪さも、なに一つ俺に感じさせない。
「城ヶ–––」
「ねぇ、菊池くん。少し、手を触ってもいいかしら?」
「……い、いや。悪いけど、無理–––」
「そう言わずに、ね?」
笑顔を作っているのに、それは作り笑いとは程遠い代物。
俺は自分の手が、城ヶ崎の柔らかい胸部に当てられるまで、捕まえられたと言う事実に気づけなかった。
「おま……なにを–––」
「既成事実。今、作ってもいいけど……どうしたい?」
「そんなの断るに決まって–––」
「残念。でももう、遅いよ」
カプっ。
左腕の手首を吸われ、内出血が起こる。
しばらく消えない、証拠をつけられたのだとようやく気づいた俺は、慌てて手を引き戻す。
「城ヶ崎冷夏……お前は、なにがしたいんだ?」
「初めてはフルネーム……か。ふふ。奪い甲斐がありそうね」
「は? 奪う?」
「あらあら、菊池くんは知らないのかしら–––」
軽やかな足取りで、俺の背後へと回った城ヶ崎。
凹凸のある体の全てを背中に押し付けるかのように、しかし、優しい力で抱きしめてくる。
「私が、『ハイエナ』って呼ばれてること」
「聞いたことはある、けども……」
謎めいた雰囲気のせいか、完全にペースを飲まれ、ただただ立ち尽くす俺。
背伸びした城ヶ崎は、俺の耳元に熱い吐息をかけ、
「だから……さ–––」
誘う。
「菊池直哉くん。私と浮気、してみたくない?」