54 共鳴のレチタティーヴォ - 15
1861年
とある少年の、とある記憶。
玲華と暁人は登場しないのでご注意を。
ある時、少年は目を覚ました。
否、眠っていたのか、目を閉じていただけなのか。今自分は目を開けているのか、閉じているのか。前はどっちか、後ろはどっちか、上はどこか、下はどこか。
周囲に揺蕩う深淵は、何も見せてはくれなくて。
「…………っぁ」
何も口にしていない体からは、微かな音しか紡がれない。
ぺたぺたと、見えない世界を手探りに動いてみる。背中には壁の感触。足元には床の感触。
────前は、こっち。足元が床で、頭が上。背中に壁があるから、このまま横に移動して、壁に肩がつくまで、動いてみる。
蟹のように横に移動してみた。
背中は壁につけたまま、お尻を引き摺った。その回数、2回。
ヒタリと、冷たい壁の感触がある。
左手で触れると、規則的な石の感触がした。
────石を積み上げているのかな。
立ち膝の状態になって、壁伝いに前に移動する。1歩、2歩と進んで、5歩目。ゴツンと、膝頭と額が壁にぶつかった。
「……っ!」
痛みに顔を顰めたけれど、確かめなければ。
ここは一体どこなのか。どのくらい広いのか。部屋の一辺は、自分の足で5歩分。じゃあ、横は?
ゆっくりと方向転換して、また進む。
今度は顔をあげて、恐る恐る、膝から動いた。
その数、6歩。怖々歩いたから、1歩の歩幅は小さかった。
もう一辺は?──6歩。
最後の一辺は?──5歩。
1歩の歩幅はまちまちだから、ほとんど真四角の部屋だと分かった。
それに、一辺のどれかに細長い、丸い棒が何本かあるのがわかった。
硬くて、冷たくて、触れるとざらりとした。力を込めて握るとカタ、と音がした。
棒の太さは、少年の手で掴めるくらい。近寄ると、鼻につく嫌な匂いがした。
────ここはどこだろう。今、何時なんだろう。
周囲は真っ暗。何も見えない。光が一切入らないから、目も全く慣れない。
体に触れてみる。
上半身に纏っているのは、薄い布を適当に服にしました、というような粗末なもの。下半身も同じだった。
靴も履いてはいるけれど、靴底は薄く、ボロボロで先ほどから何度も脱げそうになった。
────いま、なんじなん、だ、ろう。
意識が途切れかけ、グラリと体が揺らぐ。強かに頭を打ちつけたのに、意識は浮上しなかった。
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ある時、少年は体にめり込む硬いものと激しい痛みを感じて意識を浮上させた。
「…………ぉら!呑気に寝てねぇで立て!!」
「…………っあ!」
鳩尾に入った誰かの足に、身を抱え込むように蹲った。途端に髪を力一杯掴まれ、体が浮く。
自分は目を開けていないのか?視界は真っ暗だ。なのに怒鳴りつけてくる声の主は、的確に少年を痛めつけてくる。
浮いた体が風を感じると、感じた方向とは反対方向に投げられ、石の壁に全身が激突した。脳が揺れ、ぐらりと世界が途切れた。
「おい!商品を傷つけすぎるなよバカ!」
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何日、経った?
何時間、経った?
何分、経った?
何秒、たった?
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少年の輝きは消えなかった。
────おれ、は、負けない。
負けるもんかという闘志で、どれだけ傷つけられても耐え続けていた。
────帰る、んだ、母さん、と父さんの、元へ。
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どれだけか、少年には無限に感じられるような時間が過ぎて。
────まけ、ない。ぜったいまけない。まけちゃだめなんだ。
闘志は衰えなかった。
以前輝きを放つ少年に、男たちは今まで以上の力を振るった。
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男たちは少年を⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎と呼んで管理した。
────ちからにはくっしない。ぼくは⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎じゃない。ぼくは、ぼくのなまえは……
暗闇しかない世界には、少年の知らない景色があるようで。少年には見えない世界で、男たちは動いているようだった。
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毎日のように、少年は⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎と呼ばれて動かされた。動かされ続けた。
立て。
頭を掴まれて、殴り、蹴られる。
歩け。
どうにか立ち上がった体を後ろから蹴り付けられながら、どうにかして歩いた。
どこかに立たされると、そこからしばらくは動いてはいけなくなる。動くと、硬い何かで体を叩かれ続けるからやめた。
少年には聞き取れない言葉がひしめき、誰かに引かれてまた歩く。
ガタゴトと音が続くと、少しして、周りで悲鳴が上がる。そこではじっとしている。ここで動くと、たくさん怪我をするからだ。
しばらくすると、声がかけられる。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、来い。行くぞ。歩け」
少年は従って歩く。
その言葉が、自分であると疑わなくなった。
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どれだけか、時間が経って。
少年は、世界が揺れる感覚を味わっていた。
あるいは、自分の周囲が、世界が、何かが壊れる気配。
────あ、ああ、あああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
割れる。裂ける。砕ける。
帰りたい気持ちはどこかで捨ててしまった。
だって、母さんも父さんも迎えに来てくれない。
負けないという言葉は、いつからか考えなくなっていた。
だって、ここじゃ勝つとか負けるとか、そういう理屈が通じない。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎、来い」
体に痛みが疾って、強かに頭をぶつけた。
────あ、れ。
もう何日も、自分の心の中で、自分の名前を反芻していない。
────お、れは。
な、まえ。
────おれの、なまえ、は。
ピシリと、ガラスにヒビが入るような、そんな音が。
────なん、だっ、け。
少年の頭の中に、無情に響いた。
次回更新は10/24、12:00です!




