35 博愛のカバレッタ - 18
馬車に揺られながら、レイエンフィリアを抱いたキリルは陽が昇り始めた東の空を眺めていた。
多少顔色は良くなったが、レイエンフィリアはまだキリルの腕の中でぐったりと眠ったままだ。
レイエンフィリアのみを馬車に乗せて、キリルは自分の馬に乗ろうとしていたのだが、『はぁ?何言ってんだこの人』という表情を隠しもしないアラドに阻まれてしまった。彼が乗ってきた馬はアラドの馬に繋がれ、帰る手段を失ったキリルは、仕方なくレイエンフィリアを抱えたまま馬車に揺られることとなった。
早く起きて欲しいと思う反面、眠ったままでいて欲しいとも思う。こんな現実からは逃れていた方が幸せだ。
初めて、国を治めていく仲間であったはずの人を見捨て、嫌っていた人殺しを為すこととなった世界。
せめて夢の中でだけでも、現実から目を背けられるのなら。
────今だけ。今だけは。
眠る彼女の額に一つ、称賛の口付けを送るくらい、許して欲しい。
♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔∴∵∴♔
僅かな揺れに不快感を覚えて、レイエンフィリアはゆっくりと目を開けた。
真っ先に目に入ったのは、金の糸で装飾された服の襟。そして目の前で揺れる黒い髪。それを見た瞬間、一気に目が冴えた。
「!?……っ、きゃあ!?」
目の前にあるキリルの体を押して距離を取ろうとするが、不安定な体勢に驚き、バランスを崩した。
「なっ、……ちょ!?」
馬車の椅子から転げ落ちそうになったレイエンフィリアを、キリルがすんでのところで抱き寄せる。
「何やってるんですか貴女は……危ないでしょう」
「……ご、ごめんなさい。まさかこんな体勢で寝てたなんて思わなくて……」
冷静になって周囲を見れば、外出用にとレイエンフィリアに与えられている馬車の中だった。
窓の外は明るく、陽が昇ってから数時間は経過しているだろう。
「いま、何時くらい……?」
「……とりあえず降りてください、懐中時計を確認しますから」
「あ、ごめんなさい」
そう言ってレイエンフィリアは、ドレスの裾を捌きつつキリルから降りる。そのまま、キリルの真正面の席に腰掛けようとしたが、伸びてきたキリルの右手に左腕を掴まれた。
引き寄せられた瞬間に「へ?」と情けない声を上げてしまう。勢いのまま、レイエンフィリアはキリルが座っていた座席に座らされる。レイエンフィリアの腕を引くのと同時に立ち上がったキリルは、彼女と入れ替わるように席についた。
レイエンフィリアとキリルが向かい合うように座る、という構図になる。
「……キリル?」
「主人を下座に座らせる部下が、どこの世界にいると仰るんですか」
「……あぁ」
キリルが座る席は、ちょうど進行方向に背を向ける形となる。進行方向と同じ向きに座るのは身分の高い者、ということだ。
さっきまでキリルが上座であるはずの席に座っていたのは、その腕にレイエンフィリアを抱えていたからだった。
「殿下」
「……?」
「まもなく、9時になるところです」
「宿に着くまでは?」
「あと6時間ほどかかります」
「……そう」
レイエンフィリアは窓枠に肘をつき、外の景色をぼんやりと見た。
完璧に整備された城下町とは少し違い、この辺りは敷き詰められたタイル張りの街道もガス灯も、役割を果たしていればいい、という程度のものだ。あまり、質がいいとは言えない。
「クルースの代わりに、誰か、貴族を配置しなくっちゃね」
「宝石に関しては、貿易管理の専門一家でしたからね。ファウルス家は」
「貴族の選任はアイリお姉様の担当だから、お姉様が後任を決めるまでは、私が直接治めることになるでしょうね」
「アイリお姉様、と申しますと……アイゼンフィリア殿下ですか?」
「えぇ、お姉様の愛称よ。長兄のエイルワードはエイル兄様。長姉アイゼンフィリアはアイリお姉様。次姉メイレンフィリアはメイリお姉様。次兄のカイルワードはカイル兄様よ」
「では、殿下はどのように?」
「……私?」
レイエンフィリアはきょとんとした顔で聞き返した。まさか聞かれるとは思っていなかったからだ。
「私はレイア。エイル兄様や血の繋がらない弟たちには、そう呼ばれているわ」
「そうですか……失礼いたしました。出過ぎた質問でした」
「構わないわ、そのくらい……ねぇキリル」
「はい」
「貴方……所属は?私の部隊ではないのでしょう?アラドとベンクの教育係だった、と言っていたから、『吊るされた男』あたりかしら」
「えぇ。その通りです」
教育管理部隊『吊るされた男』は、国中の子供たちの教育をはじめ、各部隊に入隊する前の訓練兵や見習い兵の教育を担っている。
学校で席について学ぶ、というよりは、隊員一名に2、3人の見習い兵がつき、戦闘術や振る舞いなど、実践的なことを学ぶ。
アラドとベンクはこの時にキリルにつき、城のことや戦闘術を学んだのだろう。
「どんな見習い兵だったの?2人は」
「そう……ですね。物覚えのいい、よく言えば素直な、悪く言えば単純な感じの2人でした。教えたことはすぐ実践する分、行動が読みやすいというか。……ただ、自分は魔術方面が得意ではない分、ベンクにはあまりものを学ばせてやれなかったなと、思っています」
「使えないわけではないのね?」
「身体強化や物理強化ならできますが、殿下のように宝石に魔力を込めて、と言った細かな作業はできないですね。あくまで自分に使うのみです」
「ふぅん」
レイエンフィリアは楽しげに微笑んだ。ラ・ステッラの表情を見るのが楽しみになるかもしれない。
「ねぇ、もっと聞かせて。宿まで時間はあるのだし」
昇進欲も大してなく、義理とはいえラ・ステッラの息子とあれば、大臣たちも文句はないだろう。いや──言わせるわけがない。
楽しくなりそうだ、と、レイエンフィリアは笑みを深めた。




