外伝 ある日の痴話げんか
いずれ、ファジョーリ王子の話も書いてみたくて、それに繋がる話になっています。
さて、番のフィールや王妃様達に可愛がられ、すくすくと成長しているミティアだが、いずれ王子妃となる身であれば、お勉強の方もどっさりと用意されていた。教養やらマナーやらダンスの練習やらである。
そして今、ミティアの目の前に広げられているのは大きな地図だった。ここドマーノ国は大陸から南に突き出たリウオーネ半島の南東に位置する国なのだが、明日までに周辺国々の名前と位置関係、主要都市と簡単な特徴を覚えておくようにと宿題を出されていたからだ。
「リウオーネ半島って、足の形に似ているから部位で覚えればいいんだよね」
地図とにらめっこしながら、ミティアは一人ぶつぶつと呟いている。
つまり、むこうずね、ふくらはぎ、足首、踵、足の甲、足先の六つに分けて覚えれば良く、ついでに言えば、むこうずねを上と下、ふくらはぎを上、中、下の三つに分ければ、半島にある九つの国はすべて言い表せるのだ。
「ええと、『踵』がドマーノで、ラサルは『足首』、エクワードは『足の甲』……、うん。ここまでは簡単」
フィールがラサルに一か月も行った時、大泣きしたミティアだから、ラサルの名前は嫌な国として今もしっかりとミティアの脳裏に刻まれている。で、その西のエクワードはミティアの出身国だ。
それからドマーノから順に都市名や特産品などを暗記していったが、そのうちにミティアはふと思いついて、暖炉のすぐ傍にあるキャビネットのところに歩いて行った。
引き出しの中にはフィールから送られた手紙やプレゼントが入っていて、それを見ながら勉強した方が、より頭に入りやすいと思ったのだ。
例えば手前の箱に入っているのは、バイガルンの七宝焼きという技法を使って作られたブローチだ。
そしてその隣の箱はエクワード特産のガラス工芸、ピンク色の小さな箱に入っているのは髪留めである。有名なラヴァスの金細工でできていて、同じくラヴァス産の上質な紅玉が嵌め込まれていた。
その中の一つ、繊細にカットされた美しいガラス製のペーパーウエイトを手に取りながら、ミティアはエクワードのお勉強を始めた。
エクワード産のガラス工芸は、半島一の技術と透明度を持つ。ラサルの切子も有名だが、繊細さとデザイン性を考えれば、エクワードの方が有名だ。
「エクワードは元々はラサルの属国だったんだよね。百年ちょっと前にはラサルと一緒にドマーノに攻め込んできて、それが八年戦争。で、今年がちょうど終戦から百年目……」
そのせいで、フィールは和平条約締結百年周年記念とやらで一か月もラサルに滞在する事になったのだ。
ラサル、許すまじ……!
百年前にラサルが起こした戦争のせいで、ミティアは大迷惑である。
開戦当時、エクワードは『足の甲』から『土踏まず』までを領土としていた。
つまりドマーノは陸地部分をラサルとエクワードの両国に囲まれていた訳で、三倍以上の兵力差がある相手からいきなり奇襲で攻め込まれ、ドマーノは国が亡びる寸前まで追い詰められたと聞いている。
「八年戦争でラサルとエクワードからそれぞれ領地を分捕って、今は『足先』のゼグラと地続き……と」
因みに、半島の最西にあるゼグラは別名、魔導王国とも呼ばれている。今でも僅かながら魔導が使える人間がいると教わった。
ドマーノは勿論、竜の国だ。火の国と称される事もある。とにかく火山が多い国なのだ。
「火山と竜って似合うよね」
にまにまとそんな風に呟いていれば、「何と竜が似合うって?」と後ろから声がかけられた。
慌てて後ろを振り向くと、続きの間の扉からフィールが顔を覗かせていた。
先ほどまで鍛錬をしていたのか額にはうっすらと汗が滲んでいて、そこがまた大人の色気に溢れている。
ミティアは椅子を倒す勢いで立ち上がり、フィールの胸に飛び込んでいった。
「おい、汗臭くないか?」
愛おしそうに抱き上げてはくれたものの、すぐにそう言ってフィールが体を離そうとするので、ミティアは必死で首にしがみついた。
「全然汗臭くない。フィールの匂い、ミティア大好きだもの」
一日中この香りに包まれていたいと思うくらい、ミティアはフィールの匂いが好きだった。
夜もずっと傍にいたいと思うのに、最近はどうしてかそれが許されていない。
フィールが寝不足になるからというのがその理由らしいが、ミティアは納得していなかった。
だって、ミティアの寝相はそれほど悪くない。
そもそも番は毎晩一緒にいるものだとレイア妃もおっしゃっていたのに、何故ミティアには許されないのだろう。
フィールの側近のナツィオからは、主が犯罪者になっても困りますし……と説明されたが、どんな犯罪? と聞いても、曖昧な笑みを浮かべて教えてもらえなかった。
問い詰めようと近付いたら、今度はあからさまに距離を取られた。
「竜の執着を甘く見ないで下さい」
それ以上傍に近寄ったら殺されますと逃走態勢に入られたため、ミティアはそれ以上聞くのを断念した。
「そう言えば、ミティア、一昨日叔母様たちに誉められたの。ミティアが来て母様がよく笑うようになったんですって」
叔母様たちとのお茶の時間にそう言われた事を思い出し、そんな風にミティアが伝えると、「そうなのか?」とフィールは首を捻った。
実を言えば、フィールは声変わりをした辺りから母とは余り喋っていない。
王家の男は早々に独り立ちするものだと兄たちからずっと言われていたし、実際、長兄以外の兄たちは今もほとんど母とは接点がないと思う。
大体、いい年をした男が母親と仲良くするなんて気恥ずかしい。
病気とかになれば勿論心配するが、幸か不幸かあの母は非常にタフな女性だった。
風邪一つ引いた事がなく、寝込んだのは子どもを生んだ時くらいだと聞いている。
義理の弟妃らを束ね、嫁の王子妃たちもしっかりと支えて王国の中心にでーんと構えている。
臣下からの信頼も厚く、あの王妃様に任せておけば安心と誰もが口を揃えて言うほどだ。
だから母に関しては、フィールは全く心配した事がない。
フィールは四人の兄たちに好き勝手なあだ名をつけているが、実はフィールにも二つ名がある。公に知られているのは、『ドマーノの強者』というものだ。
何故こんな名前をつけられたかと言うと、ちょっとしたやんちゃをして危うく死にかけたからだ。
元々、フィールは兄たちに比べれば比較的おとなしい子だった。
フィールのすぐ上の兄、サルルはとにかくやんちゃが激しくて、何と言うか生傷が絶えなかった。転んですぱーんと額を切ったりだとか、木から落ちて足を折っただとか、武勇伝には事欠かない。
それに比べればフィールは育てやすい子だと思われていて、だから皆、フィールなら大丈夫だと油断していたのだ。
まさかフィールがチビ竜になって王宮の屋根に降り立ち、気が向いて人間に変化した挙句、うっかり足を滑らせて地面に落下するなんて誰も思いもつかなかった。
あの時の事は、フィールも断片的に覚えている。
つるっと足が滑り、気が付けばぐんぐん地面が迫っていて、ヤバい、死ぬっと思った後の記憶がフィールにはない。
結果的にフィールは助かった。助かったが、三日三晩生死の縁を彷徨った。
チビ竜たちの怪我には慣れっこになっていた王妃様だが、全身のあちこちを骨折し、血だらけになって運ばれてきた土気色の末っ子を見て、そのままへなへなと床に崩れ落ちた。
肝の据わった王妃様が初めて人前で見せた弱さだった。
ご覚悟をつけて下さいと侍医に宣告されたが、王妃様は諦めなかった。
その日から枕辺に座り込み、一睡もせずに息子の看病し続けて、結果的にフィールはあの世から舞い戻ってきた。
目覚めた時の事は今も鮮明に覚えている。
ふわりと意識が浮上してぼやんと目を開けたら、鬼のような形相が目の前にあって恐怖で一気に目が覚めた。
最初は母だとはわからなかった。余りにも様子が変わっていたからだ。
フィールの知る母はいつもきれいだったのに、当時は目は血走っていて頬はこけ(三日三晩寝ていなかったらしい)、髪も振り乱れていて(容姿を気にかける余裕がなかったらしい)、うぎゃあ! とフィールは心の中で悲鳴を上げた。
直に母親だと気付いたが、今度はわっと声を上げて泣き出されて、フィールは再びビビりまくった。
ちょっとやそっとでは動じる事のない母親が泣くなんて、国が亡びる前兆かと思った。
そしてこの時フィールは、兄たちから別の二つ名をもらった。『やる時はやる男』である。あの母上を泣かすなんてすげえ! という意味合いがある。
心臓に毛が生えていると言われるくらい肝っ玉が据わった王妃様を人前で泣かせたのは、後にも先にもこのフィールだけだった。
まあ、腹を痛めた我が子に目の前で死なれかけられたら母親としては取り乱すのは当然だが、この話はいつの間にか城下にまで広がって、フィールはあの王妃様を泣かせたドマーノの強者! と呼ばれるようになっていた。
余談ではあるが、フィールが目覚めた翌々日に、王妃様は自分の頭に一本の白髪を見つけてギャアとか言っていたらしい。どうやら生まれて初めての白髪であったようだ。
あれ以来、王妃様は敏感に白髪チェックをしているようが、今のところ二本目は生えていない。
何よりではあるが、王妃様は元々薄い金髪である。だから白髪になってもそれほど目立たないんじゃないの? とフィールは思ったが、賢明に言葉には出さなかった。
さて、ラサルから帰って以来、バイガルン、エクワード、ラヴァス……と様々な国に外遊に出されるようになったフィールだが、ラヴァス行きを命じられた辺りからさすがにこれはおかしいのではと思い始めた。
頭の半分を番が占めているフィールだが、馬鹿ではない。これには何らかの思惑が働いている筈だとようやく気が付いた。
となれば考え当たるのは、母しかいなかった。
ちっちゃくて柔らかくていい香りがして、その余りの可憐さに叫びながらそこら中を走りたくなる(フィール視点)ミティアを母も可愛がりたくて、だから自分が度々外遊に行かされるのではないか。
そう思いついたフィールは、ある日長兄にそのまま尋ねてみた。
すると兄からは、そんな事を聞いて意味があるのかと問い返された。
フィールはちょっと考えた。
もし母上が父王にそうねだったとしても、その願いが明らかに間違ったものであれば父王が許す筈がない。
父はちょっぴり、すっとこどっこいなところはあるが、ここぞという時の判断は間違えないのである。
フィールにとって外遊が有益だと考えればこそ、父はそれを許した。
そして王がそう決断した時点で、それはすでに王命である。
私情で王命に逆らおうとは思わないし、そうなると確かに考えるだけムダだった。
それに母はミティアを可愛がっていた。
何代か前の王妃には、息子の嫁をいびりまくった王妃がいたようだが(番が見つかったのがフィールと同じく成人間際で、どうやら可愛がっていた自分の姪を王子妃に迎えようとしていたらしい)、母上はそんな事はしない。
幼いミティアには、番であるフィールの愛情の他にも母親の愛情が必要だとわかっていたから、フィールは我慢する事にした。
それにエクワードに行く時、長兄のブラウに釘を刺された。意に染まぬ外遊であったとしても、国の金で行っている事を忘れるなと。
幼いミティアがお前を恋しがって泣くのは構わないが、お前は成人した王族だ。この先もミティアを守りたいなら、王族としてどう振舞い、何を得て帰ってくるかが重要になる。
兄にそう諭されて、フィールも目が覚めた。
竜にしては頭脳派のこの兄に、フィールは頭が上がらない。何だかんだ言って体育会系縦社会の竜たちは、目上の人間(竜?)の言葉に従順だった。
「で、何が竜と似合うんだ?」
改めてフィールにそう聞かれ、「竜と火山」とミティアは嬉しそうにそう答えた。
「火口とか溶岩とかって竜と似合うよね。フィールも良く遊びに行くの?」
「……? いや、別に遊びには行かないが」
「そうなの?」
ミティアはこてんと首を傾げ、「そう言えば、ずっと聞いてみたかったんだけど……」とフィールの顔を見上げた。
「フィールはいつになったら口から火を噴くの?」
口から火を噴く?
思わぬ質問にフィールは固まった。
そんな質問をされたのは生まれて初めてである。しかも噴くの? ではなくて、いつになったら? だ。
ミティアの頭の中で、自分は一体どんな生き物だと思われているのだろう。
「火は噴かない」
噴けるかそんなものと、フィールは心の中で続けた。
「え……。じゃあ、雨は降らせるんだよね?」
「……雨を降らせた事はないな」
「溶岩のお風呂に入って遊ぶとかは?」
「…………普通に死ぬだろ?」
一方のミティアはそれを聞いて、むむっと眉間に大きな皺を寄せた。どうやらフィールの答えが不満だったらしい。
「じゃあ、フィールは何ができるの?」
何ができるのって聞かれても、できる事は限られている。
「竜になれる」
まあ、それだけだ。
「ふーん」
可愛くて堪らない番につまらなそうに口を尖らされ、フィールは落ち着きなく視線を彷徨わせた。自分が溶岩のお風呂に浸かれない事が、途轍もなく悪い事のように思えてくる。
「……ミティアは一体、私に何をして欲しいんだ?」
なので一応そう聞いてみた。
「お伽噺の中の竜はね、気に食わない人間を一呑みにしちゃうんだって。逃げようとする旅人の首を咥えて崖下に放ったり、お空を飛びながらごおっと大きく火を噴いて、そこら中を火の海にしたりするの。そういう生き物なんだって、ご本に書いてあったけど」
「……それって只の乱暴者じゃないのか?」
そう返せば、ミティアはうーんと考え込んだ。
「それもそうだよね。そう言えば竜はすごく格好いいのに、何でお伽噺の中では乱暴者だったんだろう。変だなぁ」
ミティアは盛んに不思議がっていたが、フィールにはその理由について心当たりがあった。
ミティアが生まれ育ったエクワードは、百年前の戦争でドマーノに散々煮え湯を飲まされた国だ。鬱憤を込めて、そういう悪意ある寓話を作っていたとしてもおかしくない。
ミティアはしばらく首を捻っていたが、ややあって再び質問してきた。
「で、竜になって何をするの?」
「……空を飛べる」
「他には?」
目をキラキラと輝かせて聞かれて、フィールは怯んだ。竜にできる事なんて他にあっただろうか。
「他に、ねえ……」
フィールは腕を組んで考え込み、ああそうだと顔を上げた。
「ちゃんとミティアを見つけた」
「私?」
「そう。たった一人の番を見つけ出した。
竜でなければできない事だ。出会って一目でミティアに心を囚われた。ミティアだってそうだろう?」
「うん」
フィールの言葉にミティアは嬉しそうに頷いた。
「竜と番の絆は特別なんだ。竜は魔力を持っていて、魔力を無意識に自分の番に流し込んでいる」
「そうなの? でもミティア、どこも変わってないよ? フィールみたく、竜にだってなれないし」
「でもミティアは、竜の血を引く王族と普通の人間の違いが何となくわかるんじゃないか?」
「あ……」
言われてミティアは初めてその事に気が付いた。
「そう言えば、フィールのお父さん達に会った時、みんな竜だってすぐにわかったの。それでね。フィール、怒らないでね。他の竜は何だか苦手だって思ったの」
「それでいいんだ」
フィールは小さく苦笑した。
その感情を呼び覚ますのが、番に対する竜の執着なのだとフィールはアナス叔父から教わっていた。
まだ成体になっていない幼い竜はともかく、生殖能力を備えた他の雄竜を大事な番の傍に近付けまいと、竜は無意識に自分の番に魔力を展開させているのだ。
だから竜の番となった者は、伴侶の父親や兄弟を無意識に苦手とする。
叔父の番であるレイア妃もそうだ。フィールが幼竜の時は普通に接してくれていたが、今では傍に近寄る事もしない。叔父の魔力がそうさせているのだろう。
「竜は番を失う事に耐えられない。だから番の心が自分から離れないよう、無意識に魔力を使うんだ。
あの日も私がミティアを見つけ、魔力でミティアの心をひきつけた。……そういうのは嫌か?」
ミティアは変な顔をした。
「別にいいよ。だってミティア、フィールの事が好きだもの。フィールが、ミティア以外の人を好きになったら悲しくて寂しくて泣いちゃうけど、そうじゃないんなら全然大丈夫!」
そう言ってフィールの頬にちゅっと可愛い口づけしてくるから、フィールの理性は瞬く間に崩壊寸前になった。
まだ小っちゃなミティアにあんな事やこんな事をしたいと考えそうになる自分を必死に抑え、フィールは慌てて、昨日教わったばかりの魔法学の原理を頭の中でおさらいした。
クソ面白くもない文章を頭の中でひたすら繰り返していたら、邪な熱も体から消え、取り敢えずほっとしたフィールである。
それにしてもミティアは何でこんなに可愛いんだろう。
ようやく平静を取り戻したフィールは、改めて腕の中のミティアを見つめた。
アナス叔父がよく、「自分の世界はレイアだけでいい」などと言っていたが、今はその気持ちがものすごくよく理解できる。
どこかに人目につかぬところにミティアを閉じ込めて、一日中ミティアを愛でていたい。竜の本能が満たされて、どれほどの至福を味わえるだろうか。
でもまあ、思うだけで実際にはしない。そんな事をやらかして、番に嫌われるのが怖いからだ。
……竜とは大層ヘタレな生き物だった。
「番を見つけた竜は、番だけに執着する。私には一生ミティアだけだ」
誇らしげにそう言えば、ミティアは本当? という風にフィールを見上げた。
「でも、ミティアまだ小っちゃいし、フィールの傍にはきれいな女の人がいっぱいいるでしょ。フィールはものすごく格好いいから、ミティアは心配なの」
「どんな女性がいても関係ない。私の全てはミティアのものだ」
もし番に先立たれたら、その竜は生きていけない。実際、番が病死した後、その竜は何も食べられなくなってほどなく死んでいる。どの竜も例外なくそうだ。
だから最近は、ミティアが幼いのも悪くないと思えるようになった。
ミティアの方が年上だったら、フィールはいつか先立たれる事を心配しないといけないけれど、ここまで年の差があったら、ミティアはフィールよりは長生きしてくれるだろう。
その結論に満足したフィールは上機嫌のまま、つい余計な事まで言ってしまった。
「私にはミティア一人だけど、ミティアは私がいなくなっても大丈夫だ。
竜が死んだら、番を縛り付けていた魔力も消える。竜と人間の見分けもつかなくなって、他の雄竜が近付いても平気になるんだ。新しい恋もきっとできる(まあ、考えたくもないけど)」
竜の王族らにとってはごく一般的な初歩の知識で、深く考えもせずにそう披露したフィールだが、言われたミティアにとっては衝撃的だった。
ちょっと呆気にとられたようにフィールの顔を見上げていたが、そのうち大きな目に涙が盛り上がり、ぼろぼろと涙を零し始めた。
「え、え、ミティア……?」
「フィールのバカァ! ミティアだって……! ミティアだってフィール一人きりだもん!」
ミティアは小さな拳を握り締めてそう叫んだ。
今になって慌てているフィールがとっても悔しい。フィールは本気でそんな事を思っていたのだ。
確かにフィールの言う通り、最初に魔力で心を引きつけたのはフィールかもしれない。けれどその後、ミティアはちゃんとフィールに恋をしたのだ。
フィールの優しさ、フィールの温もり、嗅ぎ慣れた匂いや穏やかな声音。そのすべてに恋をして、だからミティアは誰に恥じる事なく、こうやってフィールの傍にいる。
竜の魔力が消えたって、二人で重ねてきた優しい思い出が消える訳ではないし、惜しみなく与えられた真っ直ぐな愛情はミティアだけの大切な宝物だ。
ここまでミティアの心を捉えておいて、死んだら新しい恋ができるなどと気軽に言うなんてひどい。
フィールが死んじゃうって考えただけでミティアの心は悲鳴を上げるのに、何でもない事のように笑ってそんな事を言ったフィールが憎らしくて、ミティアはぽかぽかと小さな拳でフィールの胸を叩いた。
「フィールの馬鹿ぁ! 死ぬだなんて、そんな悲しい事言っちゃ嫌! ミティアを置いてどっかに行っちゃったら、ミティアはもう、どうやって笑っていいかわからないよぉ……」
うっわーんとミティアは大声を上げて泣き始め、フィールは慌てて可愛いミティアを宥め始めた。
とはいえ、どんなに謝っても一度口にした言葉は取り消せない。
魂の片翼とも言える番の死を突き付けられて幼いミティアはパニックを起こし、荒れ狂う感情を制御できずに泣き続けた。
結局、ミティアはどう宥められても泣き止まず、最終的にタヌキのように目を泣き腫らしたから、ミティアが参加する予定だった午後からのお茶会は見事に中止となった。
この日はミティアに他国の王族との繋がりを持たせようと、王弟妃が場をもうけたものだった。それをすっぽかしたのだから、フィールは母妃らから大いに怒られた。
ついでにフィール自身も公務をドタキャンする羽目になったため、父王からもお叱りを受ける事となった。
ものすごくしおらしく親二人に謝罪したフィールだったが、実を言えばここまで番に愛されていると実感したフィールは幸せの絶頂にあった。
思う存分二人きりの時間を取る事ができて内心ほくほくであり、アナス叔父だけがそれに気付いて、自分も可愛いレイアを泣かせて胸に縋りつかせてみたいと密かな野望を温め始めた。
いや、全くもって困った竜どもである。
ある平和な昼下がりのお話だった。
お読み下さってありがとうございました。
別の作品になるのですが、「仮初め寵妃のプライド」をコミカライズしていただく事になりました。詳細につきましては、活動報告にて報告させていただきます。