竜の番のお留守番
さて、大好きなフィールがそうした女難に遭っているとは夢にも知らないミティアは、ドマーノでひたすらフィールの帰りを待ち侘びていた。
フィールをラサルに送った日、目を泣き腫らして、ひくっひくっと痙攣のようにしゃくりあげながら王城に戻ってきたミティアを、王妃さまは優しく抱きしめてくれた。
王妃さまの胸は温かくて、ミティアが四つの時に死んだ母を思い出させた。
ミティアの父は行商人で、隊商を組んでいろいろな国を渡り歩いていた。
国を跨いで旅をする隊商は危険と隣り合わせで、だからミティアは母と共に、母の兄が営んでいる大きな商家に身を寄せていた。
母が生きている頃は、何不自由なく普通の生活をしていた。
けれど母が病にかかり、やがて死んでしまうと、ミティアは何と言うか伯父たちにとってちょっと困った存在になった。
離れで暮らしていたミティアは伯父が引き取ってくれ、伯父家族と母屋で暮らすようになったが、血を分けた伯父は姪を溺愛するタイプではなく、伯母、つまり伯父の妻の方もミティアとの距離を掴みかねていた。
勿論、つらく当たられたとかそういう訳ではない。けれど、家族の中でミティアはどこか異分子で、なんかしっくりこない存在だと言うしかなく、ミティアはずっと愛情に飢えていた。
そんなある日、父が一年ぶりにミティアの所へ帰ってきた。
行商先に届けられていた手紙で妻の死を知らされた父親は、母を亡くした娘に山のような土産を買い、旅程を早めてエクワードに寄ってくれたのである。
が、そんな父親に幼い娘は無情だった。
完全に父親の顔を忘れていた娘は、店先に顔を出した父親に、「おじさん、この店に用なの?」と無邪気に話しかけ、おじさん呼ばわりされた父親はショックで腰を抜かした。
それから伯父夫婦と父親は、母親を失ったミティアをどうするか、長い時間をかけて話し合った。
ある程度の養育費をまとめ払いしてこのまま商家に置かせてもらうか、一緒に旅に連れて行くか……。
一緒に連れて行くのは危険だと伯父は父親を止めたが、一人娘におじさん呼ばわりをされた父親はどうしてもミティアを連れて行きたいと言い張り、最終的にどちらがいいかミティアに任される事になった。
そしてミティアは父親と行く道を選んだ。
結果だけを言えば、その旅は僅か一ヶ月で幕を閉じる事となった。
エクワードの各地を回り、隣国のドマーノで山越えをしていた時、不幸にも山賊の急襲を受けてしまったからだ。
その後の日々は過酷すぎてミティアは余り覚えていないのだが、父について行った事をミティアは全く後悔していない。
顔も覚えていなかった父といっぱいおしゃべりをして、楽しい思い出をたくさんもらえた。
そして最後の瞬間まで父の愛情に包まれた事を、ミティアは一生忘れる事はないだろう。
さて、父が頼れと言った商家の名前をミティアが覚えていたため、その身元はすぐにわかった。
何故隣国エクワードの生まれであるミティアが竜の番だったのだろうと王家の者は不思議がっていたが、その謎も解けた。
父親がドマーノの人間であったのだ。
ミティアの父に身寄りはなく、積んでいた荷が財産の全てであったようだ。
ペスカトーレの山中で襲われたらしいと知った王家はすぐに捜索の手を出したが、すでにかなり時が経過しており、めぼしい荷や馬などはすべて持ち逃げされていた。
襲われた場所も確定できないため、遺体の見つけようもない。
ミティアが身を寄せていたという伯父についても隣国の商家であるという事しかわかっておらず、こちらも特定が難しかった。
こうして僅か五つで天涯孤独の身となってしまったミティアだが、番であるフィールにその存在を見つけられ、保護された今では、愛情に飢えてひっそりと涙を拭う必要はなくなった。
が、その番が隣国ラサルに行ってしまい、その晩ミティアは泣きすぎて放心状態になるほど泣き続けた。
その傍にずっと付き添ってやり、抱きしめて慰め続けたのが王妃さまである。
ミティアはこの王妃さまに懐きに懐いた。
優しくてきれいで、いい匂いはするし、頭を撫でてくれる優しい手も大好き。
母さまと呼んでいいと言われたので、その日以来「母さま、母さま」と呼んでお膝の上で甘えるようになった。
一緒のお散歩は楽しいし、取り寄せてくれるお菓子はどれも絶品だ。
ついでに、母さまの飼っておられる子犬のタヌキ(タヌキ顔なのでそう名付けられたらしい。王妃さまは壊滅的に命名のセンスがなかった)もミティアのお気に入りである。
そうやって王妃さまとべったり過ごしていると、だんだん他の妃たちもミティアたちの所へやって来るようになった。
王弟妃のレイアさま、リレーネさま、ジョアンナさま。それから第一王子妃のエレーヌさまと第二王子妃のクリスティーヌさまである。
皆それぞれに美しく、そして個性的な方ばかりだ。
因みに第三王子と第四王子はまだ独身らしい。婚約者もおられないと聞いた。
王子妃たちは小さな女の子が珍しいらしく、みんなでミティアを構ってくる。
チビ竜(兄王子たちの子ども)たちとは同年代なので、本当は一緒に遊べればいいのだが、チビ竜たちは格上の竜の番であるミティアには決して近付こうとしない。
ミティアの向こう側に、番に執着する雄竜の存在を見てしまうようだ。
「まあ、近付かない方が身のためでしょうね」と、諦め顔でエレーヌ妃は笑う。
「ずっと以前に、あの子たち、わざとレイア妃にじゃれた事があるの。あの後、竜化したアナス殿下に怒りの咆哮をぶつけられて、見事にお漏らししていたわ」
「お漏らし……」
余程怖かったんだなとミティアは思った。子ども相手にそこまでやらかす竜がある意味すごい。
アナス殿下の番であるレイア妃は申し訳なさそうに苦笑した。
「あの時は本当に申し訳なかったわ。あれ以来、わたくしの姿を見ると、チビちゃんたちは毛を逆立てて怯えるのよね。
成竜ならともかく、子どもにまで威嚇しなくていいのに」
「番に対する竜の嫉妬って半端ないのよねえ」
傍で頷くのはジョアンナさまだ。
「できる事ならレイア妃を王宮の一室に閉じ込めて、誰にも姿を見せたくないって言ったそうよ。
さすがの夫もドン引きしていたわ。
まあ、直接それを本人に言ったら嫌われるってわかっているから、兄弟にこっそり愚痴るしかなかったんでしょうけど」
「監禁はアレですけど、そこまで執着されるっていうのは少し羨ましいですわ」
クリスティーヌ妃がそう言えば、リレーネ妃も隣で頷いた。
「アナス殿下なら絶対に浮気しないって断言できますものね。
ちょっと邪魔くさいけど、浮気をしない夫というのが一番だわ」
邪魔くさいの? と小さく首を傾げるミティアに気付かぬまま、「本当にそう思うわ」とジョアンナ妃も同意した。
「アナス殿下の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらい」
愛人を囲われた訳ではないが、リレーネ妃とジョアンナ妃には夫に浮気された苦い経験があったのである。
一方、フィールの兄王子妃たちは、まだされてはいないもののこの先の浮気がちょっと気にかかったのか、どこか浮かない顔で顔を見合わせた。
そして王妃さまは無言で笑みを深めながら、どす黒い怒りのオーラを全身に纏った。
何かあったんだろうかと非常に気になるミティアである。
「大体、出会いも素敵でしたよね。
一目会って互いに恋に落ちるなんて、まるで物語のよう。
なんて言われたんでしたっけ?」
茶目っ気たっぷりにエレーヌ妃がそう聞けば、レイア妃はころころと笑い出した。
「覚えていらっしゃるくせに!」
ミティアは不思議そうにレイア妃を見た。
「えっと、レイアさまはどんな出会いだったの?」
「そうねえ。
家の前の畑でお手伝いをしてたら、空に浮かぶ小さな影がだんだんと近付いてきたの。
最初は鳥だと思ったわ。
でもそのうち、何だか胸が締め付けられるような感じになって、ぐんぐん影が近付いてきて、ようやく小っちゃな竜だってわかった訳。
小っちゃな竜はびゅーんと急降下してきて、飛んでいる姿を見せつけるように、くるっと弧を描くように空で旋回したの」
そのままきれいに着地を決められたら格好良かったのだが、あろう事かそのチビ竜は、レイアの家が代々大切にしてきた防風林にものすごい勢いで突っ込んだ。
バキバキバキッと木を数本なぎ倒し(後でそれを知ったレイアの父たちは、声にならない悲鳴を上げていた)、そのせいで大きくバランスを崩し、レイアの目の前でズッドーン、ゴロゴロと転がって、最後は腹を出した間抜けな格好でフィニッシュした。
山育ちのレイアは、セミが何かの拍子にひっくり返って起き上がれなくなった姿を何度か見た事があるが、その時のチビ竜は正にそんな感じだった。
腹を上にして転がった竜の姿にレイアは呆気に取られ、番に会った感動もどこかにふっ飛んだ。
どうやって元にひっくり返るつもりなんだろうと、興味津々に見ていたら、竜は次の瞬間には人化してさっと立ち上がった。
どうやら何もなかった事にするようだ。
「で、わたくしの前に立った訳なんだけど、そりゃあ王子さまだから衣装がものすごく煌びやかなの。
育ちもいいから、その雰囲気とかお顔とかが服に負けていないのよね。
何てきれいな男の子なんだろうってじっと見つめていたら、その子がゆっくりとわたくしに手を差し出してきてこう言ったの。
『私と結婚ちて下さい!』」
取り巻いていた女性陣がどっと笑った。
何とアナスは、番にプロポーズをする時、緊張の余り思いっきり噛んでしまったのである。
「とっても可愛らしかったわ」
レイア妃は当時の事を思い起こすようにうっとりと胸の前で両手を握り合わせた。
「あれ以上のプロポーズなんて考えられない!もう胸がキュンとしてしまって」
レイア妃は本気で感動していたが、アナスにとっては不本意極まりないプロポーズであっただろう。
きっとあの日の事は忘れて欲しいと思っている筈だが、当の妻は忘れないどころか、その黒歴史を嬉々として兄王子妃や甥妃にまで暴露している。
アナス殿下が知ったら穴を掘って落ち込みそうねと、王妃さまは心の中でため息をついた。
と、そんな王妃さまの袖を小さな手がつんつんと引っ張った。
「母さま……」
「あらミティア、どうかして?」
「私、フィールにまだプロポーズされてない……」
ミティアはむっと唇を尖らせた。
「何でしてくれないのかなあ。もしかして忘れてるのかな?」
「あー……、ミティアの出会いは特殊だったものね……」
番を見つけたフィール王子が問答無用で番を自室に連れ込んで性別確認をした話は、ここにいる女性陣すべてが知っている。
王妃さまは呆れ果て、他の妃たちは大爆笑をしていた。
因みにその時、エレーヌ妃は何て男らしいんだろうと正直な感想を持った。
この場合の男らしいというのは、雄々しく格好いいという意味ではなく、無神経とかガサツといった意味合いの特性を指す。
あれだけ整った容姿をしているのに、何て残念な中身をしているのだろう、思考回路とその後の行動がまさに男よね……とエレーヌ妃はつくづくフィール王子に感心した。
考え込んでいるミティアの頭を王妃さまが優しく抱き寄せた。
「あれはひどかったわよねえ。
会って一番の言葉が『メスか』はないわよね」
王妃さまの言葉に、ミティアは「うん」と頷いた。
正確には『くっさ』が一番最初の言葉だが、それを言うと心がゴリゴリと削られる気がするので、それについては話していない。
「その次が、『人を呼ぶ。パンツを穿け』だったの。
脱がしたのはフィールなのに!」
きらきらした王子さまの前で、もそもそとパンツを穿くあの恥ずかしさ……!
もう一生分の恥ずかしさを使い果たした気分だった。
当時は空腹で行き倒れかけていた筈なのに、あの瞬間だけは怒りの余りものすごく元気になった。
「男か女か聞いてくれれば、ちゃんと女の子だって言ったのに!
女の子のパンツ脱がすなんて、考えらんない!
みんなはそんな事ないでしょ!」
ミティアはその理不尽さを共有してもらおうと必死に周囲を見渡したが、女性たちの反応ははかばかしくなかった。
まさか………とミティアは頬に手を当てた。
現代風に言うなら、『ムンクの叫び』状態である。
「え。みんなパンツ脱がされた事あるの?」
女性陣は気まずそうに互いの目を目交わした。
夫婦であれば、夜の営みと言うものはどうしてもあるわけで、だが、ようやく六つになったばかりの子どもに正直な事は言いにくい。
「……竜ってみんな変態なの?」
ミティアはもう涙目だ。
「これは何というかとても複雑な問題なのよ……」
そう呟くクリスティーヌ妃に、「これ以上なく単純な問題と言えるけど」と、ぼそっと口を挟んだのはエレーヌ妃だった。
ミティアは二人の顔を見比べた。
「どっちが本当なの!?」
「そ、そうねえ」
さすがにエレーヌ妃も口ごもった。
どう言えばいいのだろう。この場合の正解がわからない。
「つまり竜は皆、変態ということよ」
横からきっぱりとそう言い切ったのは王妃さまだ。
六つの子どもに性教育をするより、夫、息子、夫の兄弟すべてを変態にした方が説明は遥かに楽である。
それに王妃さまには恨みがあった。
過去、王さまに浮気された事があったのである。
結婚する時は『私にとって女はお前一人だ。一生浮気なんかしない』と毎日毎日口説いてきて、とうとう自分の方が根負けして王妃になってあげたのに、あのバカ竜は、四番目を妊娠してた時、浮気しやがったのだ。
『あっそう』と王妃さまは思った。
子どもの名前を決める時、サルルにすると言ったのは王妃さまである。
四人も男の子をもうけた訳だし、もう二度と貴方の子どもは生まないわ。この子を最後にして、王妃も止めさせていただきます。王太子の母としてそれなりの地位を私に下さいますよね。勿論、一生生活に困らないよう、肥沃な土地もわたくしにお与え下さいませ。わたくしは気ままに貴族としての生活を楽しんで、今度こそ心から好きになった男の方と恋愛いたしますわ。貴方もどうぞご遠慮なく、ご自分の愛人を王妃にお迎えなさいませね。
泡を食ったのは王である。
ほんの遊びのつもりが王妃は本気だ。
サルルの名前はいつの間にか公表されていて、大貴族らを巻き込んでの離婚手続きにも入りはじめていた。
王はすぐに浮気相手と手を切り、ひたすら王妃に謝り続けた。
誘惑されちゃったからほいほいと手を出しちゃっただけで、王妃と別れる気なんて微塵もない。
恋焦がれてようやく手に入れた恋女房に捨てられては堪らんと、そりゃあもう必死だった。
おかげで何とか夫婦の危機を乗り越え、ついでにフィールも生まれていた。
「じゃあじゃあ、もしかしてフィールも、またミティアのパンツ脱がせる事あるの?」
「それは……」
ないとは言いきれない。
王妃さまは言葉を失い、否定されなかったミティアは大ショックを受けた。
「うそん」
王妃さまとしては、もう何をどう説明してやっていいのかわからない。
そもそも最初にパンツを脱がせたフィールが悪いと王妃さまは心に呟いた。