竜の王子の思わぬ受難
その後フィールはなるべく王女に関わるまいと努力したが、向こうの方から近寄ってくればそう無下にもできず、かなり手こずる羽目になった。
その姿にライバル心を刺激されたのか、他の貴婦人たちも負けじとフィールに体を寄せてきて、あそこまでモテるとそれはそれで面倒くさいものなんだなと、ナツィオは他人事ながらほんのちょっぴり王子に同情した。
まあ、ナツィオの目から見てもフィール王子はかなり格好いい。
顏だけ言えば、美形ぞろいのドマーノの五人の王子の中でも群を抜いており、更に視線を縫い留めるような色香もあった。
王族としての教育を十分に受けてきたため、猫を被る事にも長けており、口が悪かったりガサツであったりする部分は上手に隠せている。
まあ、番のミティアさまは、そうした王子の本性を十分に理解しておられるようだ。
その上で慕っておられるようだから大したものだとナツィオは思う。
いやでも、最初の頃は王子の事を敬遠していたなとナツィオは思い出した。
王子が近付くと天敵が来たかのようにさっと逃げるのに、どうしても王子が気になるらしく、時々後をついてきては柱の陰からこっそりと王子を窺っていた。
意地でも好きになりたくないといった感じでずっと距離をとっていたのに、王子が外遊に行くと知った途端、泣きそうな顔で「ラサルに行っちゃうの?」と王子に聞いてきた。
それからの変わりようはすごかった。
それまでのツンとした態度が嘘のように、時間さえあれば王子に纏いついてくるようになり、へちゃあっと王子にくっついて離れなくなった。
『障害があるほど恋は燃え上がる』という先人の言葉は正しかったと、しみじみと思い知ったナツィオである。
さて、そんな最愛の番を国許に残してきたフィールはと言えば、手を変え品を変えてどれほど露骨に誘惑されようと、ボンキュッボンの女性には見向きもしなかった。
王族としての節度を保ち、にこやかに応対しながらさりげなく押し付けられた胸から距離をとるという、紳士の鑑のような態度をとり続けている。
節度あるその姿が好ましいと王子の評判は更に上がり、こうして王子の初めての外遊は何の問題もなく終わりを迎える筈だった。
が、帰国を三日後に控えた日の夜、その事件は起こってしまった。
その日は国内外の貴族らを招いての大掛かりな夜会が執り行われ、フィールも勿論出席していた。
日付が変わろうとする頃にようやく夜会が終わり、堅苦しい衣装を部屋で緩めていれば、離宮付きの女官が氷水の入った水差しを運んできた。
ラサルには王族専用の氷室があると聞いた事がある。
酒を口にした日はどうしても喉が渇くため、わざわざ用意してくれたのだろう。
受け取った従者が別の杯で一口味見をし、「どうぞ」と新しいグラスに注いでくれたので、喉が渇いていたフィールはそのままごくごくと飲み干した。
そして飲み終わった後に、喉に残る水の味がいつもと異なっている事に気付いたのだ。
「フィール様?」
飲み終わった後、不自然に動きを止めたフィールに気付き、従者が不安そうに問いかけてくる。
フィールは、グラスに僅かに残る水の匂いをもう一度慎重に嗅ぎ、それからもう一度グラスを傾け、数滴ばかり残っていた水を舌の上で転がすように含んでみた。
フィールは竜の特性として、常人に比べて舌や鼻が敏感である。
王族であれば、体に害が出ない程度に薄めた毒や薬を体に試した事もあり、薬特有の微妙な味覚や匂いを嗅ぎ分ける事も可能だった。
どこかで飲んだ事のある味だ……とフィールは思った。
毒……ではおそらくない。
ラサルがドマーノの王子を毒殺すれば、即刻戦となるからだ。
そのような愚かな事を、あのラサル王がするとも思えなかった。
どの薬だ……?
フィールは瞳を閉じ、自分の記憶を必死に手繰った。
匂いはなく、どこか甘ったるいような微かな苦みが最後に尾を引いてくる。この薬は確か……。
「嘘、だろう……?」
思い当った薬の名前にフィールは大きく顔を顰め、くそっと天を仰いだ。
その効用を知れば、何故自分がこれを飲まされたかという事も自ずとわかってしまう。
「すぐにナツィオと護衛を呼べ!」
ナツィオらが駆けつけた時、フィールは従者に命じて新しい水を持って来させたところだった。
口の中でその味をゆっくりと確かめた後、一気にグラスを開け、叩きつけるようにグラスをテーブルに戻す。
その目が完全に据わっていた。
「どうなさったんです?」
問いかけるナツィオに、フィールは忌々しそうに吐き捨てた。
「離宮の女官に薬を盛られた。水差しに混入されていたんだ」
ナツィオは息を呑んだ。
「飲まれたんですか!?」
空になった水差しを顎で指され、ナツィオは唇を噛む。
毒見をした従者は、申し訳なさに身を縮めた。
「申し訳ありません。一口飲んで大丈夫でしたので、そのまま差し上げたのですが」
ナツィオは自身を落ち着けるように大きく息を吐き、フィールの様子を確認するようにその体に目を走らせた。
「一体何の薬を……」
「アンルルカだ」
「へ……?」
何とも言えない沈黙が場を支配し、ナツィオや護衛らはどこか気まずそうな顔で互いを見つめ合った。よりによってそれかよ……という生ぬるい空気が広がっていく。
「えっと、アンルルカの効果が表れるのは……」
「およそ四半刻後だ」
「あー……、そうでしたね」
アンルルカ……。貴族たちの間では結構有名な媚薬である。
市井には、『男のみなぎる活力!』だとか、『これでお悩み解消、貴方も夜の帝王に!』だとか言う非常に怪しげな薬も出回っているが、アンルルカに関して言えば、その効能は王室の侍医の折り紙付きだ。
アンルルカを使って、さる王国の王が六十五で跡取り王子をもうけた事は、今も記憶に新しい。
「他国の王子にわざわざアンルルカを盛るんだ。
単なる悪ふざけではないだろう」
忌々しそうに呟くフィールにナツィオは頷いた。
「寝所に誰かが忍んで来る可能性が高いですね。
こうした離宮には必ず隠し通路がある筈ですし、それを知る者ならば簡単にこちらに入ってこられます」
となれば、犯人は胸を押しつけてきた例の王女で間違いはない。
王族以外が、離宮の隠し通路を知る訳がないからだ。
あれからナツィオはマルセラ王女についての情報を集めたが、欲しがるもの全てを父王から与えられ、かなりわがままな性格に育っているようだった。
豊満な肢体を武器に迫っても思うように王子が靡いてこず、帰国も迫ってきたため、焦って行動に出たのだろう。
「お前の部屋を渡せ。私はしばらくそちらに籠る」
「わかりました」
「私の不在中に私の寝所に忍び込んでくる者がいれば、必ず捕獲しろ。
どれほど高位の相手であっても構わん。私が全責任をとる」
「……捕まえた者をどう致しますか?」
「そうだな……」
フィールは思案するように床に視線を落とした。
「単なる賊なら、離宮の警備隊長に引き渡せ。
犯人が例の王女なら、王太子派に直接連絡をとった方がいいだろう。
今日挨拶したセレス卿は、今日は近衛隊の詰め所にいると話していた。
なるべく周囲には知られないよう、繋ぎをとってくれ」
「セレス卿ですか……。それはいいかもしれませんね」
セレス卿は王太子妃の兄で、王太子が腹心と頼む貴族の一人でもある。
マルセラ王女の母であるラナイア側妃は、王の長年の寵愛をいい事にだんだんと政治に口を挟み始めていた。
王の正妃を母に持つ王太子はそんな側妃を持て余しており、いずれぶつかるだろうというのが大方の見方だった。
王太子派はラナイア側妃の力を削ぎたいと考えており、この一件が本当にマルセラ王女がしでかした事ならばこれ以上ない機会となる。
異母妹を下手に庇う事なく、厳しい処断も下してくれる事だろう。
「薬が切れるのは一刻半から二刻だ。それまではお前が何とかしろ。
薬が抜け次第、合流するから」
「わかりました」
ナツィオが頷くのを確認し、フィールはふと、項垂れたままでいる従者の方に目をやった。
薬に気付かなかった自分を責めているのか、その顔色は真っ青だ。
「テオ」
声を掛けると、従者は弾かれたように顔を上げた。
「お前は一口しか飲んでいないが、症状が出る可能性もある。早く薬を抜くには、水を多目に飲むのがいいだろう。
部屋に下がって休んでおけ。明日からはまた忙しくなるぞ」
フィールの言葉に従者は一瞬息を呑み、それから「ありがとうございます」と声を絞り出した。
毒見として役に立てず、主を危機に陥れた事を不問に付されたとわかったからだ。
傍にいたナツィオは、思わず小さな笑みを浮かべていた。
不測の事態に慌てず、冷静に指示を出していくだけでも大変なのに、下の者を気遣える余裕がまだ王子にはある。
王子の方は心配ないだろう。
「こちらは大丈夫ですので、取り敢えず部屋をお移り下さい」
ナツィオは落ち着いた声でフィールを促した。
「扉の外に薬師の心得がある護衛を待機させます。
お体に不調があれば、すぐにおっしゃって下さい」
「わかった」
フィールは部屋を出ようとして、小テーブルに置かれていたままの空の水差しにふと目を留めた。
抑えていた怒りが沸き上がったのか、天を仰いで一つ息を吐き、腹立ち紛れに拳で壁をどんと叩いた。
「ああくそっ!
枯れた爺に飲ませるような媚薬を、よりによってやりたい盛りの十七の男に盛るか!
あいつは悪魔か!」
……ごもっともだとナツィオは思った。
結論を言えば、それから一刻後、ごそごそとフィール王子の寝所にやって来たマルセラ王女をナツィオらは無事、捕獲した。
「無礼者!」だの「この国の王女に手をかけてただで済むと思っているの!」などと散々に暴れられたが、ナツィオらは容赦なくマルセラ王女を後ろ手に縛りあげた。
ドマーノの王族の寝所に侵入した不審者だ。どう扱おうが、文句を言われる筋合いはない。
報せを受けた王太子はすぐに動き、他国の王族を害しようとした罪で異母妹を兵に拘束させ、そのまま王宮の一室に軟禁した。
調べによると、やはり王女は媚薬で理性を失わせたところに色仕掛けで王子に迫り、既成事実を作るつもりであったようだ。
いくら薬のせいと言っても未婚の王女を抱いてしまえば、フィール王子には責任をとるしか道はない。
あのままでは、マルセラ王女を正妃として迎えなければならないところだった。
番の子どもは幼すぎてどうせ夜の相手もできないし、そもそもあんな平民は王子の傍らに立つにはふさわしくないというのが王女の言い分だが、好きでもない女を騙し討ちのような形で娶らされそうになったフィールは怒り心頭である。
王女を溺愛していた王にしてもさすがに庇い切れるものではなく、翌々日には王女はひっそりと城を出され、王都の外れにある城で静養させられる事になった。
いずれほとぼりが冷めた頃に、身分の低い辺境の貴族に降嫁させられる事になるだろう。
余りに外聞を憚る話であったため、この一件は公にされる事はなかった。
謝罪については、いずれラサル側がドマーノ王家に何らかの誠意を見せていくという事で話は落ち着き、それはまた、フィールが帰国してから両国の間でゆっくり話し合う事となる。
帰国を翌日に控え、フィールは国許から届いた最後の手紙に目を通していた。
自分がいない間にミティアは文字を教わり始めたらしく、ラサルに来て半月経った辺りから、可愛らしい文が届くようになったのだ。
最初の手紙は、たどたどしい字で、「フィールにあいたいです。ミティアより」と綴られていた。
嬉しさの余り、フィールは手紙を握り締めてしばらくベッドで悶える事となった。
その次の手紙は、「かあさまといっしょに、おかえりをおまちしています。ミティアより」だった。
どうやらミティアは、王妃をかあさまと呼び始めたようだ。
仲良く過ごしている様子が目に浮かび、何となく微笑ましくてフィールは笑ってしまった。
が、今度の手紙はどう理解したらいいのだろう。
「かあさまから、とてもきになるはなしをききました。ミティアより」
気になる話って一体何だ……?
非常に気になるフィールだった。