R.I.P. ※
ノアの過去話。
身も蓋もない暗い過去なので、苦手な方は読まないでください。
最初と最後に主人公が出ています。
「はい、マイナス五点」
冬から春に変わる午後のひととき。それまで冷たい風が我が物顔で吹いていたが、本日は珍しく温かな日差しに負けてピタリと止んだ。
それを機に、外に出たくて仕方なかった双子の一人が庭の中を走り回って、もう一人が眩しそうに目を細めながら本を片手にベンチへと腰を下ろした。
彼らにとって、本日は束の間の休日。だからといって、別に特別に何かをするでもなく、ただ彼らにとって当たり前だった日常を味わう事に貴重さを見いだしていた。
そんな双子に従事するのは、一人の侍女と一人の従僕。しかし、まだどちらも若く、従僕に限ってはお茶を用意する手つきすら危うい。
そこで、それを見ていた双子の片割れ、イエリオスが組んだ足の上に肘を突きながら告げた言葉が「はい、マイナス五点」だった。
穏やかな彼にしては珍しく、やや冷めた目付きですらある。
それに眉尻を上げたのは、ポットを持っていた従僕で、空に浮かぶ雲よりも真っ白な髪をかき上げてジロリと睨み牙をむいた。
「ああ?っんだって、このクソガ…………キさまのおっしゃるとおりデス、スイマセン!」
――のはいいが、彼を監督する立場にある侍女の一睨みによって威勢は尻すぼみしていった。色素が薄い為に透き通るような肌は青く染まり、彼が如何に彼女を恐れているのかがうかがい知れる。そんな二人を交互に見ながら、彼らの雇い主の子息であるイエリオスはため息をはき出した。
「これからが思いやられるね。今までサラに従事してきた人たちは、ここまで扱いづらくなかったと思うんだけど」
イエリオス専属の侍女のサラは、四年前からこの屋敷で勤めているが、全てにおいて完璧で失敗を犯した事がないと言えるぐらいに有能だった。だからなのか、彼女の後にやってきた新人は皆、彼女が面倒をみてきた。その中でも、一番手こずっているのがこのアルビノの男、ノアだ。
彼は、元々闇仕事に手を染めて生きてきたのだが、たまたま出会ったイエリオスの双子の妹アルミネラの手腕に惚れてしまったのがきっかけだった。何が彼の琴線にふれたのか分からない。
だが、アルミネラが出した無理難題をいとも簡単に成し遂げて、今に至る。つまり、まだ従者としての経験が浅い彼は、こうして基礎を教えこまれる毎日が続いているのであった。
「つうか、いつまでおま、じゃなくて坊ちゃんの世話をしなくちゃならねぇんだよ」
「不満かな?悪いけど、僕だってそこは一緒だからね」
しかも、彼女の犬になると決めたはずが、どういうわけかさせられているのは彼女の兄の世話ばかり。それに、ノアが彼を嫌っているように、相手もノアを毛嫌いしている。
どちらかというと、既に破綻している関係なのだが、仕事とは次の仕事に繋がるものだという事は、暗い世界で生きてきた彼にとって何より分かっている事なので仕方なく従事しているのだ。
――それに。
「……」
「え、や。サ、サラ?そっ、それは仕舞おう?ねっ?僕はそこまで怒ってないから!っていうか、それって、いつぞや出した何の肉か分からないのを捌くものだよね!?」
「見た目からしてヤバイ代物だろうが!お、落ち着け!」
「……」
「お、おおおお俺が悪かった!!じゃない!えっと、なんだ!えーっと、わっ、わたくしが悪うございました!の、で、ひとまずその道具を下ろして頂けないでしょうかって、助けろ!ク、坊ちゃん!」
「分かってるってば!お、落ち着いて、サラ。僕は、えーっと……あ、喉が渇いちゃった!だから、サラの淹れたお茶が飲みたいなぁ、……なんて」
「……」
他ならぬ師事する侍女は、ただ者ではないらしく、彼が少しでもイエリオスを馬鹿にしようものなら、一切の予告なく問答無用で切り捨てられそう(物理)になるのだから油断ならない。
そんな中々スリリングな日常を過ごしている彼だが、その過去は暗くコールタールよりもどろりとしている。
彼が、初めて人を殺したのは十にも満たない歳だった。
太陽に近い場所という意味を持つタオ国は、褐色の肌に黒髪で生まれるのが当たり前とされていた。だが、名も知らぬ母に産み落とされた彼は先天性の遺伝子疾患、つまりアルビノで、縁起が悪いという理由だけで孤児院へと預けられた。
それだけなら、まだ救いはあったかもしれない。
ここで無情にも更に彼に悲劇が起こったのだ。
それは、彼が五歳の頃の事だった。孤児院へ人攫いが押し入り、彼は運悪く人攫いによって捕まって闇市で売られてしまったのである。その頃のタオ国は、一つの時代が終わりを迎え王位継承権を巡る争いが起こっていたのもあって、治安は悪く犯罪が常に横行している状態だった。
何が何だか分からない日々は続いた。
ただ、初めは酷く飢えて苦しかったのは覚えている。
それでも、何とか必死で命に縋り、ただ言われた通りの事をこなしていれば、それで何とか生きながらえるという事だけは理解出来た。当初、集められた仲間が徐々に減っていくのを間近で味わいながら。
しかし、ある日彼に転機が訪れた。
それは、タオでも名のある豪族の下へと売られたのだ。一体、どうして?次は、どんな仕打ちを受けるのだろうか?
そんな風に訳が分からず行った先で待っていたのは、豪族の一人娘の遊び相手という仕事だった。
それまで、冷たいスープに固いパン、それしか口に入れた事がなかったのにそのお屋敷で出された食事は温かくちゃんと味がしたものだった。しかも、アルビノという厭うべき特殊な存在であるはずなのに、誰もが優しく彼を受け入れてくれたのだ。彼は、驚いた。それから、たくさんの初めてを体験していった。
率先して、彼に心を与えたのは他でもなくその一人娘で。誰からも愛されて育った彼女は、当然、自身の愛を彼にも分け隔てなく与えたのだ。
似たような年齢だったのもあって、彼は直ぐに心を開いた。
それからは、まるで夢のような日々が続いた。
彼女の手を取って屋敷の中で冒険をしたり、怒らせると恐いと評判の庭師の庭でかくれんぼうをしてみたり。毎日が、楽しかった。彼女の傍に居れば、強くなれた。彼女さえ傍に居てくれたらそれで良かった。
しかし、それは長くは続かなかったのだ。
ある日、彼に珍しく客人が訪れた。
それは、忘れもしないあの日の出来事。現れたのは、彼を奴隷市場で買った人物だったのだ。
彼は、直ぐに悟ってしまった――己が、どうしてこの屋敷へと売られたのかを。
そして、それは現実のものとなった。
月の明かりすらない暗闇で、赤い飛沫と共に数多の悲鳴がこだまする。彼らをここへ入れたのは、彼。そして、このどうしようもない惨劇を引き起こしてしまったのも彼だった。
(きっと、今頃は――)
閉じきった窓からは、星一つ見えずひたすら闇が広がるばかりで。ぼんやりと外を眺めていた彼の傍らには、無垢な少女が静かに眠りについていた。
だが、このままだといずれこの騒音で彼女は目を覚ます事だろう。彼は、虚ろげな赤い瞳で彼女を見下ろし、そのあどけない顔に口元を綻ばせる。
言うなれば、それは恋だった。
生まれてから今までずっと疎まれ続けた彼を、初めて受け入れてくれた彼女は何よりも大切な存在となっていたのだ。
なのに、彼はそんな彼女の家族を殺める引き金を引いたのだ。自分のしでかしてしまった行いには、必ず報いを受けなければならない。それは、彼が最初に教えられた命令だった。
彼が移動した事で、ベッドがギシリと音を鳴らす。
そこで、僅かに少女が目を覚まし――
「……ん、誰?だ、……れなっ、」
驚愕で見開かれた瞳に彼が映る。
しかし、幸いにもその瞬間、彼女は何が起こったのか分からないまま息絶えた。――永劫に。
上手く一瞬で殺せた事に満足を覚える自分がいるのを、彼は気が付いていたが気付かぬふりをした。
「……」
力を失った彼女は、まるで見下ろす彼を見ているかのようだった。
それは、いつもの目覚めの時みたく、彼が好きだった灰色に染まった瞳で彼を見ていた。
だが、もう彼女は目を覚ます事はない。
永遠に。
その柔らかな声を聞く事は永遠に訪れない。
彼にとって、彼女は世界の全てだった。
もし、ここで彼らの慈悲で生かされたとしても、目が見えない彼女が辿る道は壮絶なものになるだろうという事は分かっていたのだ。
「……だからって、これが免罪符になるなんて思ってねぇよ」
いまだ、彼を映す瞳にぽつりと呟く。
もう、決して答えなど返ってくるはずはないというのに。
ただ、彼は今この時を覆っているのが闇で良かったと心の底から感謝した。彼女は、目が見えなかった分、彼が何かヘマをして落ち込むと直ぐに気が付いていたからだ。彼女がいうのは、明かりの中で、そこだけ暗くなるのだとか。
だから、もし彼女がまだ生きていて、月が照らせば、きっと首を傾げて、どうしたの?と柔らかい微笑みを浮かべて訊ねてきたことだろう。
そんな彼女が、好きだった。愛おしかった。
――けれども、彼女はもう二度と笑う事など出来やしない。
「ノア!私もお茶!冷たいやつ」
はっと彼が我に戻ったのは、この屋敷の息子とその従者との一悶着あってしばらくした後のこと。
気が付けば、ふと何気なく思い出した初恋の少女とは全く違う笑みを浮かべる少女が目の前に立っていた。
「ねえ、聞いてる?」
キラキラと輝く蒼い瞳を彼に向けて。
「アル、冷たいのは体にあまりよくないよ」
そこへ、案の定彼にとっての目下天敵がせっかくのリクエストにケチを付けてきた。
「ええ!?だって、走りすぎて暑いんだもの!」
「だからといって、冷たいのは」
「任せてくれ!お前が望むものを用意してやる」
だから、彼は敢えてそれを受け入れる。嫌いな少年が嫌がる事を。
そして、何より彼が忠誠を示す彼女の一番の望みを叶えるべく。
「……っ、君ねぇ!」
「ああ?なんか文句あんのかよ、クソガキ」
決して、あの日の少女を忘れる事などない。
それでも、彼にとってはこれもまた日常の一つなのだ。
R.I.P.とは、ラテン語で「安らかに憩わんことを」 Requiescat in paceの略だそうです。
墓石によく掘られているのだとか。