7.5 鈴彦と健成
美菜崎区、バー『T』。
クレイシとレイが帰った後のその店で、鈴彦は灰皿の下に置かれた一万円札を手に取りそれを眺めていた。
「……」
レイが男から奪い取った金。
あるいは、クレイシが男から騙し取った金。
けれどそれを知らなければ、
鈴彦はきっと「雑だなぁ、後でお釣りを返さなきゃ」としか思わなかっただろう。
「鈴彦?」
無機質な顔をした福沢諭吉を見下ろしていると、背後から声がかかる。振り向くと、階段から今しがた降りてきたらしい健成がずれた眼鏡を直しながら立っていた。「二人、帰ったのか」。静かになったボックス席を見てそう続ける。
「ああ……そうみたい」
「夜の準備もう始めとくか?」
「……うん」
「あ、あとあのテレビちょっと壊れてるみたいだぞ。急に音が大きくなったりして……鈴彦?」
一階の天井付近に設置されたテレビに視線を向けながら話す健成が、どうにも相手の反応が薄いのを感じたのかもう一度名前を呼ぶ。
一万円を握りしめるその男の後ろ姿に感情は無く、常の気さくで話しやすい店主としての鈴彦とは些かかけ離れていた。眉を寄せた健成が鈴彦に一歩二歩と近付くと、「……い……つ……」と小さく絞り出すような声が聞こえた。
「鈴彦」
「……軽蔑……なんて、してない」
「軽蔑……?」
「して、ないんだ……! 僕は、してない……でも……」
今風にセットされた髪の隙間から、男の悔しそうに歪められた目が覗く。いつも緩やかに弧を描いてる口は歯を磨り潰すように噛み締められていて、痛々しかった。
健成は、それにさらに声をかけることはなく、
ただ一言「上を手伝ってくる」と言い残して階段を上がった。
「あ、健成さん」
二階に上がる手前で、バイターの少年と鉢合わせた。「百円玉切れそうなの言ってくれました?」と問う彼に、
「忙しそうだったから止めておいた。レジの中に一本はあったからそれで補っといてくれ」
「えー? 忙しそうって……あ、僕が言いましょうか?」
「いや……」
健成の脳裏に鈴彦──それと、レイとクレイシの姿が思い浮かぶ。
片や傷んだ金髪と目の下に隈をこしらえた女、
片や誰もが羨むような美貌と笑いながら首を吊りそうな危うさのある女、
その二人が毎週のように足を運ぶバーの店主。
「止めておけ。本当に忙しそうだったんだ」
「そうですか……」
誰にでも、過去がある。
それが笑って話せるものならいいけれど、
ちっとも笑えない話だったら──俺は彼に、どこまで踏み込んでいいのだろう。
あれ以上かける言葉の見付からず逃げるように二階にきた健成は、バイターに「予備のつりくらい準備しとけって言っておくから」と苦笑いして業務に戻った。
鈴彦に拾われたとき、もしもこの優しく器用な男が本当に困ったら、きっとそのときは助けになりたいと思ってきた。
けれど、それが──内面的な問題だったら、
どうすればいいのだろう。
───
健成は元々平凡な会社に勤める平社員だった。
来る日も来る日も業務に追われ睡眠時間が一日を平均して二時間しかなく、おかげで飼っていたハムスターは餌をやれず死に、本人も栄養失調と睡眠不足で何度か倒れたことを除けば平凡な会社員だ。
俗に言うブラック企業に勤めていた彼にとってそれは日常で、当時はなんの疑問も抱いていなかった。『皆同じくらい辛い思いをしてる』が彼の教訓だった。
ただ、彼には目標が無かった。
親の言う通り『そこそこの大学を出てそこそこの会社に入る』を目標としていた彼にとってそれ以上の目的も希望もなく、ただ毎日、なんの楽しみも持たず、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日意味のわからないパソコンという苦痛と向き合い続ける内、当然だが精神がイカれた。
健成はその日も、朝6時に仕事に行って気が遠くなる量の内容を一人でやって身に覚えのないミスで怒られたり明らかに上司の個人的な話を長々とされたり昼食は10分で終わらせて22時に会社を出て終わらない仕事を持ち帰って電車の終電に駆け込んで眠らないようにするため五駅分の時間席には座らず重い足引きずって家の最寄り駅で下りて、
しばらく歩く内ふと足が止まった。
晩御飯のことではなく、上司のミスを後日謝りにいくときの文章を考えていた彼の脳内を染めたのは、『ここで歩くのを止めれば明日会社にいかなくていいのでは』という思いだった。
これ以上歩かなければ、明日会社にいかなくていい。
家に着かなければ支度が出来ないし、
支度が出来ていなければ会社にいけない。そういうことではないのか、と。
根っから生真面目で頑固な彼は仮病など嘘をつくことに抵抗があった。しかし会社にいくことは苦痛で、仕事や上司のことを考えると頭がぐるぐると揺れるのだ。だから、物理的に、これ以上踏み出さなければと思い付いたのだ。
──この十字路のど真ん中で、止まっていれば。
そのときの彼の頭の中は桃色に染まりきり幸福感で一杯だった。実に四ヶ月ぶりの笑みが頬に浮かんだとき──クラクションと共に一人の男が飛び込んできて、健成を歩行者道路まで引き摺り戻した。
その男が、鈴彦だった。
後に聞くと、鈴彦は十字路の中心で微笑みながら立つ健成を目に入れたとき、酔っぱらいか薬物中毒者かと思ったらしい。
それほどまでに酷い風貌と笑い方をしていたのだと、今ならわかる。よれたスーツと薄汚れた靴、セットもなにもない荒れた髪。絶対に関わらない方がいいタイプの人間だった健成をそれでも鈴彦が助けたのを何故かと訊けば、「拾う側の気持ちを知りたかった」と彼は答えた。どういう意味か──そこまでは問えなかった。
健成にとって鈴彦は命の恩人だ。その後労働基準法を引っ提げて会社に乗り込んだ鈴彦は、そのまま無理矢理会社を辞めさせ、自分の店で働くよう言った。家族でも友人でも知人でも、ましてや顔見知りでもないのに、そこまでする理由を問えば「拾う側の気持ちを知りたかった」。そんな含みのある言葉、本来誰だって追及したくなる。けれど健成には出来なかったのだ。彼が自分からそれ以上話さないならば藪蛇だと考えたからだ。──所詮、健成と鈴彦は他人だった。
しかし、その言葉の意味を後日ほんのすこし理解する。
レイとクレイシの存在だ。
ある夜のシフトで、鈴彦はレイを見かけた。バーカウンターに座った彼女は薄暗い照明の下でも──薄暗い照明の下だからこそ──美しく、大人と子供の中間地点にあるような独特の色があった。彼女に引かれる視線に逆らわずにいると、いくつか離れた席にいる男性に酒を出すように注文された。細い声に、悪魔さえ惑わされるだろう笑顔。そうして実に鮮やかな手口で男に自分を持ち帰らせた彼女に、鈴彦はどことなく親近感を覚えていた。
当初その親近感はなんなのかは解らなかったが、それもすぐに納得いく理由が見付かった。翌日にやってきたレイとその連れのクレイシを見かけたときに、窓から入る柔らかい陽の光の元で、健成は彼女が自分と同類だったと知る。甘いシロップとアッパー系の麻薬を混ぜたような幸福感──死の縁、鮮やかに世界を彩ったあの桃色に染まった瞳。レイのあの微笑みは、健成があの十字路の交差点で浮かべたものとそっくりだったのだ。
──明日にでも死にそうだ。
そう思いながら、やはり口には出さなかった。
恐らく、耳に入ってきた会話から考えるに、
レイがクレイシに拾われた側で、
クレイシはレイを拾った側なのだろう。
そして鈴彦は、二人が出会う前からのクレイシの知り合い。
並々ならぬ事情、なのかもしれない。
そこまでいかなくとも、なにかしらはあったのだろう。
鈴彦とクレイシとレイ、三人の間に流れる空気は、ただの友人としての付き合いだけでなく、お互いを監視するようなひりつく雰囲気が漂っていた。
三人の関係を探るつもりはない。知り合ってほんの少しで、それはきっと不躾だ。
そう、『きっと』。
では自分はいつ三人のことを知るのだろう。
今が『顔見知り』として、では『知り合い』や『友達』はいつからなのだろう。深い部分に触れて良いのはいつからだろう。そもそも、誰かが触れて良いものなのか。
そんな思春期の青年のような思考が最近の健成の脳内を泳いでいる。
常に従う側の人間だった健成。
親に、兄弟に、教師に、先輩に、上司に従ってきた。
勉強をしろと言われれば勉強し、黙れと言われれば黙り、部活を辞めろと言われれば辞め、笑うなと言われれば笑わず、そして死ねと言われれば死ぬ。
いつからそうなったのかなど、自覚のない本人にはわからない。──しかし根底にあるのは、人間は自分に都合の悪い人間は捨てるから、極力そうならないようにしてきただけだった。だから人との関係の作り方など彼は考える必要なかったのだ。自分はただ、相手の言葉全てにイエスと言えば良かったのだから。
そんな受け身過ぎた彼の性質は一度社会から離れたところで、人生を変えるような救いの手に捕まったところで、そう変わりはしない。変わったものと言えば、従うべき自分を評価する相手だ。今現在健成にとって上の立場の人間は──鈴彦だ。
鈴彦に拾われたとき、助けられたとき。
彼の優男と評される顔に、後悔のような失意のようなものが浮かんでいたことを健成は知っている。
日頃上司や得意先の機嫌を伺ってきたせいだろう。人のマイナス方向の感情にだけは敏感で、そして感じ取ったそれはいつも正確だった。
そのとき思った──ああ、この男は、本当は俺を助けたくなかったのだろうと。助けたことをきっと後悔しているのだと。
助けてくれたことに報いたい気持ちは本当だ。純粋にそう思う心は健成にある。けれども一番は、助けた自分の価値を、『くだらないことしたな』なんて終わらせたくない意地のようなものがあった。あの日あの十字路での後悔と失意を帳消しにするようなことが出来れば──きっと、自分は点をつけてもらえる。百点は相手のお気に入り、八十点なら安心、七十点は丁度良く、六十点はギリギリで、それ以下は捨てられる。だから鈴彦には自分を六十点以上に評価してほしい。もう後がないのだ。──もし鈴彦にすら見放されたら、自分は完全に0点になるだろう。
そのために必要なのはきっとあの二人との確執──のようなもの──を取り除くことだ。
けれど、健成にはその方法がわからない。
ろくに人間と関わってこなかった、ただ従うだけだった機械以下の男には、人の心に渦巻く複雑な心情など、読み取れやしなかった。
───
増えてきたのと今回短かったので、登場人物を整理してきます。
クレイシ……格安アパートに住む女。金髪の方。
レイ……格安アパートに住む女。黒髪の方。
橘鈴彦……バー『T』の店長。
海老名健成……バー『ティー』の店員。