7 昼の酒
クレイシが店内に入ると、カウンターのところで鈴彦と健成とレイが集まってなにやら歓声を上げていた。夜と違い明るい照明の中、二階へ続く階段を通り過ぎ、ドライフラワーの飾られたレジを横目に、アンチックなテーブルたちに手を添えながらその間を縫う。
辿り着いたレイの背中からカウンターに覗き込むと、そこには色とりどりの小さなタルトたちがぎゅうぎゅうに箱に入っていた。
「わ、」
思わずクレイシの声からも小さく感嘆が漏れる。
瑞々しい林檎ののったもの、熟れた苺、タルトから溢れんばかりに贅沢に使われたブルーベリー、オレンジ、抹茶、チーズ、かぼちゃ、タルト生地が花の形を模したものやパイのように焼かれたものもある。どれも二個ずつあり、その内片方にはたっぷりと生クリームが。
成人男性の手のひらサイズほどのそのタルトたちが入っているのは、先程レイが店で受け取っていた赤と白の包装がされた箱だ。
「ふははは……これが『林檎婦人』の隠しコマンド! 『試作のやつください』だ! ふはは! ふっははは!」
レイがわざとらしく声高々に笑う。腰に手を当て仁王立ちし、さらに顔をイナバウアーのごとく反らす。
「はっはっはっ、ッッ!? えふっ! えほっ、」
そのせいだろう、しばらく続くかと思われたその笑い声は彼女が気管に唾液を詰まらせ噎せたことで案外すぐ終わりを迎えた。
その相方の揺れる背中を何気無く擦ってやりつつ、クレイシは自分が食べるなら林檎だなと思う。しかしこれは今回自分達の分ではない。
「お詫びの品です」
そういってカウンターに置かれたそれを、向こう側にいる鈴彦に指先分寄せる。
「……」
それに対する鈴彦は、
まず喉をひくりと動かし、
すんと立ち上るフルーツの香りを嗅ぎ、
次に──怒ってるアピールであろう──組んだ腕を解きかけ、
いやいやいや、と首を横に振った。
卵を使ってなくても甘いものが好物の男だ。目の前に滅多に食べられない、むしろこれっきりかもしれない大人向け製菓メーカー『林檎婦人』の試作製品が置いてあるのに、それにすぐ手を出さないところに理性の強さを感じる。
これを食べることは即ちレイの行いを許すこと、と考えているのだろう。
別にクレイシとレイは自分たちのことを見逃せという気持ちでこれを持ってきたわけではないが、食べてもらわないとせっかく買ったこれらが台無しになってしまう。
──まあ、食べないなら食べないで自分達で戴くつもりなんですけどね。
それはともかく一先ずは受け取ってもらう努力をするのが日本人と言うもの。
「……ダーツ版をね」
レイが説得という名の悪魔の囁きを開始する。
「壊しちゃったかもしれないから、それのお詫びにと思ったんだけど……そっか、そうだよね、あんな高価そうなものにいつでも買えるようなタルトだなんて……」
クレイシは、いやあのダーツ版は確か三千円で買ったと聞きましたけどと目の前のタルトと比較する。
『林檎婦人』のタルトはだいたいこのサイズなら一つ三百円。入っているものを全部合わせれば二千円半ばぐらいで、そこに『もう店に出るかわからない』『チョコレート店で研究されたタルト』という付加価値が付けられたら、鈴彦の中では三千円など裕に越すだろう。
鈴彦は、
ぐぬぬと唸り、
うぬぬと唇を噛み締め、
ぬぬぬと伸ばしそうになる自分の手を押さえつけている。
それを見てレイは相手を気遣ったように小さく隠れるように溜め息を吐き、眉を悲痛そうに寄せ、クレイシが鈴彦側に押しやった箱を少し引き戻した。
「ううん、いいんだよ。とにかくお店で騒ぎを起こしてごめんね。このエッグタルトは…………捨てるしかないかなぁ……」
嘘つけ普通に持って帰って食べる気でしょう、と思いつつもクレイシも「そうですね、私もあまり甘いものは食べれませんし」と残念そうに同意したところで、
「わーっ!? 馬鹿! 食べる食べる!! 食べるよ!!」
と、鈴彦がカウンターを乗り出す。
そのとき、クレイシにはしっかり見えた。
それは明るい照明が作り出す影の悪戯──もしくは真実。
悲痛そうに目を伏せていたはずのレイの口角は、『かかったな』とでも言うかのように歪み、引き上がっていた──。
「た、ただし! その……次からは絶対僕の店では誘わないこと! いいね!」
鈴彦が箱に抱きついたまませかせかと言う。その目はちらちらと箱の中身を確認し、喉仏は大きくごくりと動く。
「そう、よかった!」
レイが顔を上げる。
三日月を描く唇が片方の頬を歪に持ち上げ、アシンメトリーな表情を作っている。白雪姫じみた美人のする顔ではない。
あまりにも凶悪さを滲ませるそれに、さすがに鈴彦も彼女の意図に気付いたらしい。しかし今訂正したら我が子を守るように抱えた宝石箱はまた取り上げられるかもしれない。それに職業柄かその優男風の顔立ちからかやや女に甘いところのある男だ。彼はもう一唸りしてから、困ったように眉を上げて「僕はココア生地のやつ食べるからね」と言った。
それは言外に、この場にいる全員で食べることを示している。
「ちょっろ……」
ことの成り行きを見守っていた歌舞伎役者っぽい名前の男が、呆れたようにそう呟いた。
数分後。
ボックス席に移動した四人。
クレイシは林檎のタルトを。
レイは苺と一緒に生クリームののったものを。
健成はチーズタルトを。
そして鈴彦はチョコレートエッグタルトとココア生地に苺ソースがかけられたものを、各々目の前に置いていた。
飲み物はクレイシが甘口のスパークリングワイン、レイがココア、鈴彦と健成は仕事中ということで二人とも紅茶──アッサムをミルクティーに、ダージリンをストレートで──を用意した。それから磨かれた小振りのフォークを皿に立て掛ける。
実に優雅、と四人が頷き合う。
ここでSNSにあげるために写真を撮るという無粋なことをする者はいない。せっかくの紅茶が冷めるのは戴けないことだと四人全員が認識しているからだ。それにアルバイターが頑張っているからといって鈴彦と健成にもそこまで時間があるわけではない。
故に、『食す』以外の楽しみ方など不用。というか、人間の三大欲求の一つを満たすのに他の欲求を満たす必要などあるだろうか。いやない。
というわけで。
「いただきます!」
レイが手を合わせたのをきっかけに、全員ほぼ同じタイミングでフォークを手に取る。
クレイシは目の前に置かれたそのタルトを見て、思わずほぅと溜め息をついた。
艶出しに使われた杏ジャムが照明を反射してなんと愛らしく輝いていることか。まずは大口に──ではなく、勿体無い精神からフォークの先端に乗るくらいしか掬わない。僅かに抵抗しながらも沈む銀の食器と簡単には崩れやしない林檎のタルトの相性は、きっとどこかの誰かが絵にしただろう美しさがあった。ぽとりと落ちないようにと、乗った一口サイズのそれをやや慎重に口まで運び、舌に移す。
「──!」
──おいしい。
『林檎婦人』からここまで運ぶのに、いくらか時間が経ってしまって、もしかしたら質が落ちてしまっていたかもしれないとクレイシは思っていた。
しかし今、その考えを改める。
サクサクとした生地。控えめだが確かにある林檎特有のサッパリとした甘さ。鼻から抜けるピーナッツの風味。口当たりが軽く、いくつでも食べれてしまうような感じがする。
この感動を誰かと分かちたいと、クレイシはほぼ無意識の内にパッと横を向く。そこには同じようなことを考えていたのか、こちらを向くレイの顔があった。
二人は頷き合い、
お互いのタルトを一口ずつ交換した。
レイの苺と生クリームのタルトは、とにかく苺の存在感が強かった。林檎のタルトの方と比べるとさっぱりというより甘味がかなり強く、しばらく口に残る。おお苺。あなたは苺。故に苺。そんな感じだ。しかし生クリームの方はふわふわと軽やかで嫌な後残りもなく、それが苺とのバランスを取っている。
ここで一度、クレイシはワインに口を付けた。泡が弾ける度、さっぱりとした爽やかな林檎の風味が鼻腔を擽る。鈴彦に林檎のタルトに合うようなものをと頼んだため、林檎の風味のものだったのだろう。
平日の昼間。
何度も言うが、平日の昼間である。
学生は学校へ、社会人は会社へいって働いている。
そんなときに日本を代表する製菓メーカーから買ってきた絶品タルトを用意して、お供に発泡酒を開けてしまう背徳感。
そして昼間から飲む酒の美味さ。
──最高である。
「んふふ」
クレイシが天井を仰ぎこの瞬間を噛み締めていると、横から幸せそうな含み笑いが届く。横目に見ると、にやけたレイの顔が目に入った。
「口に合いましたか?」
「うん! 林檎もいいね、すっきりしてる。こっちは生地がパイ生地なんだね」
「ええ。お酒に合います」
「ほんと? 私甘いものとお酒ってあんまりやんないかも」
「白ワインとかなら合うものも多いですよ。今度鈴彦に頼んだらどうですか。ねぇ、鈴彦」
「わかったわかった、今度またね。クリスマスとか」
クリスマス──ならばケーキか、とクレイシが真っ白なクリームに包まれたスポンジケーキを思い浮かべる。
「ふふ」
レイは、そうやってまた少し笑みを溢す。
その後は四人でくだらない話をして盛り上がった。
駅前のスターボックスでもうすぐ新作が出るだの、遊園地で事故のあった観覧車が暫く乗れないらしいだの、最近メビウスの10㎎では物足りなくなってきただの、そういう話だ。小さなタルト。煙草の話題が終わる頃にはタルトは各々の胃に納められ、最後にクレイシがスパークリングワインをくっと飲み干す。
「ごちそうさまです」
終わりの言葉はクレイシだった。
「はい、お粗末様」
それを受けタルト二つをぺろりと平らげた鈴彦が皿や食器を片付け始める。生地の一欠片も残っていない綺麗な皿たちに、どこか嬉しそうな満足気な顔をしている。
「最近さぁ、僕のお店でも若い子がよく来るんだけどね」
鈴彦が皿を重ねながら言う。それに「はい」と相槌を打ちながら、クレイシは彼の手に乗り切らなそうな自分のグラスやレイのカップを持つ。それにレイが「あざー」と適当に礼をする。
「なんだっけ……インスタグラマ? に、乗せたくて写真を撮るだけ撮って残す人とか結構いてね」
「ああ……最近流行りの」
「別に、お金はちゃんと払ってもらってるし、楽しみ方は色々あるからいいと思うんだけどさ。ちょっとね」
バーカウンターの向こうの、さらにその奥の裏手に移動しながら、クレイシは鈴彦の背中が苦笑いしたように見えた。実際、そんな表情だったのだろうと思う。
裏手の台所に着く。鈴彦は流しに皿を置き、曇り一つなく綺麗に磨かれた蛇口から水を出す。それを皿が受け止める。
「だから僕、君たちとこうやって何か食べるの好きだよ」
クレイシの手からカップたちを受け取りながら、鈴彦はそう笑った。
「……残したら貴方、凄く怒るじゃないですか」
「まぁほぼオキャクサマじゃないからね! 特に君とはもう長い付き合いになるし」
カップに水が満ちていく。底にわずかに残っていたココアの残滓が混ざり、やがて消えていく。縁からはみ出した水たちは溺れるような音を立てて排水溝に吸い込まれていった。
ボックス席から、レイの笑い声が聞こえる。
「でも」
クレイシは、グラスを鈴彦に手渡した。それもまた水が注がれ満ちていく。
「──貴方は私たちを軽蔑もしてるでしょう」
疑問符の付いていない、
確信しているような、
産まれたときから心得ているような声色で。
クレイシはなんでもない日常会話の一部の如く言った。
「……」
ゆっくりと、ゆっくりとグラスに水が注がれる。半ばを過ぎた辺りで、鈴彦が視線をグラスからクレイシに移した。
「うん」
鈴彦もまた、
確信しているような、
産まれたときから承知しているような表情で、
日常会話の一部の如く頷いた。
グラスから水が溢れ、排水溝に吸い込まれる。
蛇口を捻って出すのを止めた後、排水溝からゴボリと息絶えたような音がした。
「……戻ろうか。海老名君はそんなにお喋りじゃないからレイちゃんと二人きりだと疲れてしまうよ」
鈴彦がやや早口でそう踵を返した。後ろに立つクレイシと擦れ違い、狭い台所故にほんの少し肩が触れた。
「そうですね」
クレイシも同じように踵を返す。
日本人の男性にしては高い背丈と厚みのある体型。その背中が一瞬震えたように見えた。
ボックス席に戻ると鈴彦が予想した通り、レイが機嫌の良さそうな顔で健成にマシンガントークをぶつけていた。既に蜂の巣、といったような健成は呆れたように「その話さっきもしなかったか?」と返していた。
「レイ」
「あっクレイシ!」
声をかけると、言葉の羅列を発射し続けていたレイの口がそれを止めクレイシの方を向く。「もう行くの?」という問いかけに「一服してから」とレイの隣の席に座り直す。
「僕らは仕事に戻ろうか」
クレイシがポケットをまさぐってライターを探していると、鈴彦は健成の肩に手を置きそう声をかけた。あからさまにホッとしたような顔の健成が、それに頷いてレイとクレイシに「じゃあ」と緩く手を振る。
そのまま二人は階段で二階へ上がっていった。
二人の姿が消える頃、シガレットに火が着いた。チリリとシガレットペーパーが焼ける音がして、中の刻が赤く色付く。
「じゃあ私も吸い溜めしようかな」
椅子に寄りかかりながら煙を吐き出すクレイシの様子に、レイもポケットから煙草を取り出し火を着ける。
白いパッケージ。バニラの臭いが特徴的なもの──ウィンストン・キャスター・ホワイトだったか。やたら長い名前を覚えていた自分に驚きつつ、クレイシは目の前で吐き出された煙が自分のものと混ざるのをぼんやりと見詰める。
そうして、数秒。
長い吐息を繰り返す中、先に口を開いたのはクレイシだった。
「この後どこに行きましょうか」
黒い髪がぱさりと上向き、その奥にあった瞳と目が合う。それが考えるように横に流れ、悩むように目蓋が閉じられた。
「うーん。一応謝れたし、このまま帰ってもいいんだけど……」
「退屈でしょう?」
「そうだね。…………本か何か買いたいな」
「わかりました」
相方の決定に異議を唱えることなく頷き、クレイシは目を閉じて椅子の背もたれに寄りかかる。それから喉を晒すように力を抜いて頭を背もたれに乗せた。
明るい照明が目蓋を通ってうっすら目に届き、いつだかに流行ったらしいジャズと煙草の甘苦い風味の情報だけが脳に響いた。
そろそろ灰が落ちてくる頃か、と体を起こそうとする。しかしそのとき、薄くだが光の届いていた眼球に影が落ちた。
「──?」
何事かと思ったが、考えるより早いかと目蓋を開いた。そこに、照明を遮ってクレイシの顔を覗き込むレイがいた。口には白いシガレットをくわえたままで、中途半端にのびた黒髪がクレイシの顎を撫でている。
それにクレイシは眉を寄せて疑問を表すと、レイがクレイシの唇に挟まっていたシガレットを奪い、もう片方の手で自分のシガレットも取る。お互い薄く唇を開いたまま、クレイシはさらに眉の間の縦シワを増やした。
自分の吸っていた煙草を吸いたくなったのだろうか。意図の掴めないレイの行動に「なんですか」と口を動かそうとしたとき、その口に柔いものが押し付けられる。
小さな唇。
自分のと違いかさつきがないそれからふぅとほんの少し煙が送り込まれる。
顔を上げたレイが作業のようにクレイシの口に再びメビウスのシガレットを突っ込み、自分の口にはキャスターのシガレットを戻した。大人をからかう子供のような顔が「甘い?」と問う。
「…………、いや、……思ったより苦いですね」
「ほんと?」
「ええ。キスシリーズくらい甘いと思ってました」
口内を回っていたバニラの香りが塗り潰される気がして、クレイシはレイが入れたメビウスのシガレットを指で取り出し灰皿に置く。その指先が震えているのに気付き、原因を辿るとなんと自分が簡単な女かと笑みが溢れる。とりあえずレイに見えないようにさりげなく左寄りの胸部に手を当てた。
結局三口ほどしか吸えなかったシガレットが灰皿の中で灰をただ量産し続けている。まだ吸えそうな気もするが、クレイシは歯を舌で舐めるとシガレットを灰皿に擦り付けて火を消した。それから財布から適当に一万円札を出して机に置き、なにかの拍子に飛んでいかないように灰皿を重りにする。
「いく?」
その様子を見ていたレイがそう首をかしげ、燃焼を早くしようと強く煙草を吸った。乱暴に酸素を取り込み余計な苦味が出たのだろう、しかめられたその顔に「待ちますよ」とクレイシが声をかける。
「いやいや」
しかしレイはまだ長さに余裕のあるそのシガレットを灰皿に押し付け、火を消した。
「昭乃御太郎の新作が出てるんだ。行こう!」
立ち上がりくるりと1回転するレイに引っ張られ、クレイシは彼女と共に店から出た。