6 タルト?
翌朝、目が覚めたレイとクレイシはさっそく鈴彦に謝りにいこうとアパートを出た。
起き抜けで付けたテレビの天気予報士は今年一番の冷え込み──最近毎日言っている気がする──と予報。とは言ってもまだ十一月、一月に比べれば秋風が強いくらいだろう、と舐めて一歩外に出た途端炬燵で暖められた体が冷気で塗り替えられたため、レイは急遽クレイシのジャケットを着ることになった。サイズの大きいファー付きのそれが肩からずれるのを、そういうファッションだという顔をしながら階段を下りアパートを出る。クレイシは、どう考えても下の厚手のワンピースと合っていないのにレイが着ると様になるのだからやはり人は顔なのだろうなと考えていた。
二人のアパートは街の中心からやや離れ、いくつか階段の登った小高い場所に建っている。
いくつか、というか登るときはそれなりに体力が要るくらいの段数だ。そのため、そのアパートは塗装が綺麗で年数も少ないにも関わらず家賃は平均よりも安く設定されていた。
ひゅるると耳元で鳴る風の音を聞きながら狭い階段を三分ほど下りると車が一台やっと通れるような道に出て、暫く進むとまた階段が表れる。そこをレイは1段ずつ、クレイシは二段飛ばしで進むと途中に一本の楠とその影に隠れるように建つ小さな祠がある。
「こんにちわ」
レイが祠の神様が居る体で挨拶するので、クレイシも気分によっては軽く頭を下げた。今日は天気が晴れて寒さの中に暖かさを感じたのが心地よくなんとなく気分が良かったので会釈しておいた。
「お詫びの品、どうしますか」
階段を全て下りきり歩行者用通行路に出ると、クレイシが前を行くレイにそう声をかけた。
「んー……」
レイが立ち止まり悩ましげな声を上げるとその吐息で空気が白く靄がかる。すぐ霧散したそれを追うように、側まで近付いたクレイシが新しく息を吐き出した。
「鈴ちゃんてプリン以外に好きなものある?」
「あの人卵が使ってあるものならなんでも好きですよ。特に好きなのはオムライスとプリンと……あとはエッグタルトとかですかね」
「女子力高っ」
好きな食べものランキング一位がタコワサの女──二位以降は甘いものが続くが──が驚いたように笑う。「じゃあケーキ屋さんとかかぁ」と呟き、以降言葉を発することをしなくなる。ここからバーまでよ道のりにあり克つ一番美味しいスイーツ店を頭の中で探し始めたらしい。
また歩き始め、しばらく、フンフンというレイの鼻歌とコツコツというクレイシの足音だけが沈黙を埋める。
数分して、歩行者用通行路が古いトンネルに差し掛かる。両壁の上部に規則的に並べられた橙の照明がたまに通過する車と二人を一定の感覚で照らした。
「クレイシってさ」
ふとレイが、首だけで振り返りそう声をかける。
それに反応しクレイシが顔を上げたとき、彼女の表情はちょうど照明の影になる角度によって、薄暗く塗られ不明瞭になってしまっていた。
一台の車が二人の直ぐ横を通る。耳障りなエンジン音が風のように通り過ぎ、ヘッドライトが一瞬だけレイのうねる黒髪を照らした。
「鈴ちゃんと昔付き合ってたの?」
女子高生が恋バナでもするような、軽い、冗談混じりの声色だった。
なのに、光とも闇ともつかない仄暗い影に遮られた表情は酷く恐ろしげに微笑んでいるような気がした。
レイが今、どんな顔をして、どんな気持ちで、そんなことを訊いているのか。クレイシにはそれがわからない。別に、やましいことなど何もないのに。
──こんな質問、またレイの気紛れだ。私が鈴彦の好物に詳しいから少し気になってなんとなく問うてみただけ。そうに決まってる。
──わかってる。
クレイシは凍りついて感動を失った心の中でそう言い聞かせる。
しかし。
どうしても、レイの顔が見えない。
歩いている内にとっくに照明の角度は変わった。なのに彼女がどんな顔をしているのかわからない。
なにを考えているのかわからない。──壊れたピアノの鍵盤を押したときのような耳鳴りが響く。
「……答えたくなかったら別にいんだよ?」
乾いて動かなくなった舌が震え始めた頃、レイがくすりと笑ってそう言う。
クレイシはその言葉に我に返ったように瞬きを一つして、彼女の顔に視線を縫い付ける。
別にレイは怒ってなどいない。冬間近で赤くなった鼻先と頬が目立つくらいで、機嫌が良さそうに肩に引っ掛かるクレイシのジャケットに頬をすり寄せていた。薄く開いた艶やかな唇から吐き出された吐息が、オレンジの光を取り込んで混ざる。ただその吐息すら、クレイシには彼女の呆れたとでも言いたげな溜め息に見えた。
「……貴方と、会う前に……何度か世話になっていただけで」
男女の付き合いは無いという意味を込めて辛うじて返したその返事を、レイは「そう」と素っ気なく受け取った。
鼻歌とヒールの音が再び響く。夕陽の美しさとは似ても似つかぬ人工的なくすんだオレンジが、時折心臓の鼓動のようにまばたきをした。
やがて、白い光が見える。
日が沈む直前のように造られた薄暗いトンネルの終わりに、クレイシは安心したように息をついた。
と、レイが出口が見えた途端駆け出す。そうして光の元へ出て、両手を広げてくるりと踊るようにクレイシの方を振り返った。
「クレイシー!」
よく通る声がトンネルに鳴りはためく。
無邪気なそれに、クレイシはもう恐ろしさを感じない。ただ、前を向かなければ危ないだろうと思うだけだった。
「美菜崎高校の近くにさ、『林檎婦人』あるじゃん! あそこたしか今期間限定でエッグタルト出してるよ! 走ろう! 売り切れちゃう!」
その場でぴょんぴょんと跳ねクレイシを急かすレイ。サイズの違うジャケットが重たそうで、うねった黒髪はそれ以外の色には染まらず、彼女に合わせて振り乱れている。
「…………すぐ行きますから、転ぶ前に落ち着きなさい」
その、いつも通りのレイの姿に答えるようにクレイシもいつもの調子で返した。
───
レイの言う『林檎婦人』は、名前の通りと言うべきか若年層よりもどちらかと言えば大人向けなほろ苦さなどをテーマに作られた日本を代表する製菓メーカーだ。
ケーキ店、和菓子店、チョコレート店と3つの事業を展開し、その道を目指す者ならば誰でも一度はそこを通ってくる。むしろ幼い頃親が買ってきたものを一口食べてそこを目指してきたという者も多い。
休日になれば『林檎婦人』は三種のいずれの店も混み合い、母の日や父の日、クリスマス、それからバレンタインデーなんかはそれこそ戦争になる。その殺伐とした様子をニュースで取り上げられることも毎年恒例のことであり、どこだかのなんたら評論家は冗談混じりに「そろそろ怪我人が出る」と言ったらしいが、視聴者は揃って思った。「いや、腕ぐらい折った人はいるだろ」と。
しかしそんな製菓店だが、平日の昼間ならば辛うじて並ばずとも商品が買える。
理由は言うまでもなく、普通の人なら学校やら会社やらでケーキも和菓子もチョコレートも買っている時間などないからだ。
というわけで、学校も会社も行っていない二人は平日の昼間、製菓店『林檎婦人』に向かっている。
なんでもある美菜崎にはケーキ店も和菓子店もチョコレート店もあるが、二人のアパートから鈴彦のバーの間までにあるものはチョコレート店のものだ。最近は一口サイズのチョコレート以外のものにも着手し始めたらしく、3日ほど前に期間限定でチョコレートエッグタルトを出していた。二人の目当てのものはそのタルトだった。
「エッグタルトって。それチョコじゃないじゃないですか」
先日炬燵を買いにいったときとは真逆に、レイにぐいぐいと手を引っ張られながらクレイシがそう溜め息を吐く。
「野暮なこと言わないでよー。美味しいお店が新しく美味しいもの作る。それでいいじゃん」
「別に悪いとは……」
「ほら、好きな小説の作者さんがさ、今までずっとファンタジー書いてたのに突然サスペンス出したら驚きはするけどむしろ気になって読みたくなるでしょ?」
「……それは少しわかります」
「そういうことさ」
得意気に顔を綻ばすレイ。例えが上手くいったことを心の中で自画自賛しているのだろうな、とクレイシは思った。
話している内に二人は店に到着する。
ベルの音と共に扉を開けると、店員の落ち着いた「いらっしゃいませ」という声とショーケースに並べられた小さな宝石のようなチョコレートたちに迎えられた。流れるローテンポな海外の音楽と飾られた王冠を模したシャンデリアに敷居の高さを感じるが、若い店員の明るく気さくそうな笑みがそれを打ち消して、誰でも気軽にショーケースを覗けるような雰囲気を作っている。
室内は──食べ物を扱っていることもあって──暑すぎず寒すぎず、正に快適な温度だった。綺麗に磨かれた床を踏み、二人はショーケースの前に並ぶ。期間限定だというエッグタルトは『期間限定!』というポップと一緒に五段階のサイズに分けられてケースの中に飾られ、まだ数はあるようだった。平日の昼間。客も二人以外は二、三人しかいない。まだほとんど誰も買いに来ていなかったのだろう。
しかし、目当てのものが直ぐ見付かったにも関わらずレイはケースから目を離さない。
「……チョコも買ってこうかなぁ」
──出た。
クレイシは恐らくここに一時間は留まるだろうことを覚悟する。
容姿端麗で服のセンスも良く頭も悪くないこの同居人兼恋人に文句をつけるとしたら、この悪癖──寄り道癖だ。
なにをするにもどこにいくにも間に何やら挟まないと気がすまないのだ、この女は。
この前は夕食を食べに行く途中で靴を見たいと言い出し三十分は時間を取られた。
そんなことを思い出しながら、クレイシは大きな瞳を輝かせてチョコレートを食い入るように見詰めるレイに、
「今日は鈴彦にお詫びの品を買いに来てるんですからね」
と確認させておく。
「わ、わかってるとも!」
あからさまに一瞬忘れていたという顔での返しに、わざとらしく溜め息を吐く。
「……まぁ、タルトだけというのもなんですし、いくつか買っていったらどうですか」
「……! そうだね! うん! それがいい!」
クレイシのアドバイスに再びショーケースに顔を向けるレイ。心なしか舌舐めずりをした気がした──気がしただけだと思うが、顔は「ケースの中のもの全部ください」と言い出しそうなものだった。
流石にそんなことは言わないと思うが、だとすると選ぶのに時間がかかる。長丁場になるな、とクレイシはこの店の近くのコンビニ前で煙草を吸おうと踵を返した。
「──ん?」
振り返ったその先に、見覚えのある男の顔があった。
クレイシと同い年くらいの背格好に、真面目そうな顔、なんのお洒落でもなくただただ機能的な眼鏡。そして、バー『T』の制服。男は壁に張られた試食会のポスターの文字を目で追っている。
名前を思い出そうと食い入るような視線に、相手もそれに気付いたらしい。ポスターから視線を外し、クレイシを視界に入れた。
そのとき、彼女の脳内に一週間前の記憶が薄らぼんやりと蘇る。
「ええと……海老蔵さん……?」
「それは歌舞伎役者の方だな……」
苦笑と共に以前と違い敬語抜きで話した言葉を訂正しようとしたらしく、男──海老名健成が慌てて「です」を付けようとして、それをクレイシが「別にいいですよ、今店の外ですし」とぶっきらぼうに言う。
「あれ? エビさん? こんにちわ」
二人の会話を耳に入れたらしいレイが振り返って健成にひらひらと手を振る。
「こんにちわ。買い物か?」
健成がそれにひらひらと手を振り返す。
「やぁほら、昨日鈴ちゃんのお店で騒ぎ起こしちゃったからお詫びにと……」
「……もしかしてタルトか?」
「え?」
レイが「何で知ってるの」と驚いたように唇を尖らせる。
「いや、知ってると言うか……俺は鈴彦に買ってきてくれと頼まれて」
「それは偶然……いや、間が悪いといいますか……」
「なんだったかな……『いずれこのお店でもタルトを出せたらと思うんだ。そのための研究として世界的に有名な製菓メーカーの新発売しかも期間限定のタルトを食べて味を盗む、名案じゃない?』とかなんとか」
「あ、それはただ食べたかっただけですね」
自分の欲望のために店員に仕事内容以外のことをさせるとは鈴彦も悪いやつ、とクレイシは心の中で卵好きの友人に軽く悪態をつく。
どうやら先回りされていたらしい。
いや、あの卵料理に目がない男が今日までこのチョコレート店を訪れなかったことの方が珍しいのだ。いつもなら有名店が──例えほんの少しでも──卵を使うと朝一番に向かうのが常だ。恐らく店が忙しかったか、珍しく忘れてしまったかだろう。
しかしここで健成にタルトを買われてしまうとクレイシとレイはまた一から詫びの品を考え直さなければならない。
他にこのチョコレート店以外で道中に買うとしたら、もういくつかあるスイーツ店で普通のタルトを買うか、本屋で彼好みの本を買うかだ。しかし本は先に買っていたら台無しだし、他のスイーツ店では一番高いものでもここのタルトには間違いなく劣るだろう。
どうするか。クレイシは眉を寄せ顎に人指し指の第一関節を当てる。
「──クレイシ、決まった!」
いっそ少し道を戻ってでもなにか探そうかと考えていると、レイがその思考を切るように声を上げる。
「タルトは彼が買ってしまいますよ?」
「くっくっく……ノープロブレム! 甘いものがあまり得意じゃないクレイシは知らないでしょう……このお店の隠しコマンドを……!」
「上上下下左右左右BAですか?」
「懐かしいな」
「鈴彦が好きなんですよね、あのゲーム」
クレイシと健成が脱線した話をそのまま続けるのをスルーして、レイが店員に何やら耳打ちすると、店員が笑って「かしこまりました」と返し、店の裏に入る。
しばらくして、店員が6号のホールケーキ用の包装を手に戻ってきた。赤と白を中心にしたオーソドックスなデザインに包まれ、中身はわからない。それがレイに手渡される。
「何にしたんですか?」
「ないしょ!」
首をひねるクレイシ。
まあ鈴彦の店に着けばわかるだろうとそれ以上は訊かなかった。同じように不思議そうな顔をした健成にタルトを買うことを促すと、彼は店員に一番大きなサイズのチョコレートエッグタルトを注文した。
そんなこんなで、「ありがとうございました」という声と共に三人そろって寒い空の元に出る。迎えるのは中々に強い風と鈴彦の店までの若干長い道のり。レイと鈴彦の持ち物からこれからパーティーでもしにいくかような格好になってしまった。
「それじゃあ、いくか」
健成の一言で一同は歩き出す。
しばらく、とりとめも中身もない適当な話で各々寒さを紛らした。駅前のスターボックスのバイトが可愛いだの、遊園地の事故は客が原因だったらしいだの、メビウスの絵柄がなんとも綺麗なものに変わっただの、そういう話だ。そうして進むこと十分、暖められていた鼻先が再び痛みと共に赤く色付く頃、健成がそういえばといった感じで切り出した。
「どうして金を集めているんだ?」
「うん?」
「月に何百万だったか? 鈴彦から聞いた」
「あぁ」
レイが相槌を打つ中──やっぱり口の軽い奴、とクレイシは思わず眉を寄せた。
健成が言っているのはレイとクレイシが度々行っている例のアルバイトのことだ。金銭の絡む賭け事に盗難、身売り。そこそこ法に触れていることであるし、勿論気軽に人に言うことではない。昔馴染みだからと口を滑らせたのが悪かった、とクレイシは口元まで歪めきる。
「まさか、タルトを買うためにじゃないだろ?」
「うーん」
機嫌が悪そうに黙り込んだ相方に代わり、レイが答えようと言葉を探す。
「いや、タルトを買うためかな」
先に否定されたことをさらに否定する返事に、今度は健成がひくりと眉を寄せた。言葉を挟まず続く話を大人しく待つ彼に、レイは手に提げた袋に入ったものを一瞥する。
「タルト買いたい、靴買いたい、マニキュア買いたい、煙草買いたい、クレイシになんかプレゼントしたい、鈴ちゃんとこのバーいきたい……そう思ったときに『お金がない』って理由で出来ないのが面倒だったから」
「ほら、この世の大半のものはお金で買えるでしょ?」と悪戯っぽく笑うレイに、健成はしばし視線を上に向けてから頷いた。
「なるほど」
どうやら納得したらしい。
「だから別に貯金とかしてるわけじゃないよ。ただ単に、沢山お金稼ぐなら、その方法が手っ取り早かったってだけで」
「危なくないか? 昨日のパンチ結構モロに入ってたろ」
「あの男の人は例外だよー」
レイが湿布の貼られた頬を指先で掻いた。
健成はそれ以降話題を動物園に新しくやってきたというカンガルーに移した。クレイシとレイの行いを咎めるでも無く、そういうことがいかに卑劣か説くこともなかった。
変な人だ、とクレイシは密かに思う。
鈴彦に自分たちがどうやって稼いでるのかバレたときは大層驚かれ、今すぐ止めろだの盗んだ金を返してこいだの言われたものだというのに。
鈴彦でなくとも、大抵の人間ならば普通は自分たちを非難するものではないのだろうか。
追求されないに越したことはないが、こうもあっさりしているとそれはそれで不気味──なんとも矛盾しているような思いだが、実際クレイシの腕には寒さのせいではない鳥肌が立ってしまっていた。
しかし、ここで何故責めないのかと訊くのもなんとも可笑しな話だ。
──面倒だし黙っておきましょう。そう結論付けて意識を思考の海から戻すと、健成とばっちり目が合っていた。どうやら無意識の内に渋い顔を向けてしまっていたらしい。
「どうかしたか」
「……いえ、別に」
「なんだ、気になるだろう」
思いの外健成が話題を追いかけてくるので、クレイシはもう一度だけ「いいや」と答える。
これでまた「なんだ」と返ってきたなら問おうと心の内に決める。
そうこうしているうちに鈴彦のバー『T』に到着した。丁度出ていく若い男女の客。昼間はカフェとして営業しているから、ランチを食べてきたのだろう。
それを見てレイが子供のように軽やかに駆け出す。包装されたものの中身を早く鈴彦に渡したいのだろう、とクレイシと健成はそれを見送った。
「……俺に害がないからだ」
残された二人の内、男の方が唐突にそう告げる。
クレイシは一瞬なんのことかわからず、顔をしかめて健成を見た。回りには自分たちの他誰もいない。間違いなく自分に向けられたものだろうとレイが駆け出す前の話題を思い出す。
「お前のその間抜け面からして、『何故俺がお前たとの行いに口を出さないのか』疑問に思ったのだろう?」
一言余計な言葉が入った気がするが、クレイシの心情を正確に当てたそれに取り敢えず言葉の続きを待つ。
建物と建物の隙間を縫う冷たい風が、長く伸ばしたクレイシの金髪をゆるく持ち上げた。
「別に、お前たちが男を誘って金を巻き上げようと、その金で飯を食って服を買おうと俺には関係ない。俺はお前に誘われてないし、誘いに乗ることもないと思うからな」
風が彼女の髪を再び肩や背に下ろす頃、健成は一度言葉を切る。そうしてポケットからシワが目立つ煙草の小箱──ラッキーストライク──を取り出すと、シガレットを一本、口の左端の方でくわえた。
「だから、なんて言うかな──お前たちに注意するような奴は、鈴彦みたいなお人好しか、『自分は頑張って苦労して稼いでいるのにお前はズルして大金稼ぎやがって』って思ってる奴だろうよ」
健成が言いながら煙草にライターで火を着けようとする。
しかし風が強いせいか、中々上手くいかないらしい。何度か着火装置を鳴らす音が続いて、彼はもぞもぞと体を捻ったりする。それを助けるようにクレイシは彼よりも風上の位置に立った。高い身長のせいか丁度位置が良かったのか、そうするとすぐにシガレットに着火した。
青とも紫とも白とも取れるような色をした煙が二人の赤くなった鼻先を擽る。
「盗まれた人が可哀想、ではなく?」
先程よりも近くなった距離で、クレイシがそう首をかしげた。
「は?」
「ですから、私たちに金を盗られた奴が可哀想とか、法律とか、……倫理? とか。そういう理由ではないんですか?」
考えながら紡がれたその疑問に、健成は一瞬、眼鏡の奥の目を大きく見開く。
「──随分子供のようなことを言うな。……人間、そんな他人本意なわけないだろう」
赤く火種の灯るシガレットの先から癖のある臭いが漂い、それがクレイシの目に染みた。少ししかめられたその顔を見てか、健成がバーに向かって再び歩き出しその場を離れる。
「まぁ……鈴彦が心配するから、あまり派手にはやらない方がいいとは言っておく」
徐々に遠ざかる背を、クレイシはしばらく見送る。それがやがて店の扉を明けバーの中に消えて、ようやく足を動かし始めた。
その胸には、「そういうものなのか」という釈然としないものが残っていた。