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十一月十八日、水曜日。
朝のニュースでは東京の天気は一日中曇りだと言っていたが、月光はビル群に遮られ今の時間帯では宵闇のせいで雲があるのかないのかはいまいちよく分からない。
そんな東京の北にある美菜崎区もまた、本当に雲っていて一面真っ黒なのかただ単に星が居ないだけなのかよくわからいに空をしていた。そんな空の元、とある住宅街にとある小さなアパートのワンルームから煙草の匂いとテレビから流れる声が漏れる。
今日に続き明日も肌寒い日が続くでしょう──。ニュースキャスターのハキハキとした声を聞きながら、クレイシは先日買った炬燵にどっぷりと浸かっていた。口には煙草をくわえ、炬燵の上にはビールとビーフジャーキーが散らばっている。
なにをするでもなくぼんやりと正面のテレビに視線を向けると番組は五分間のニュースからバラエティ番組へ移り、最近流行りの芸人──確かブルドッグWithAだったか──と食レポでもお馴染みのアナウンサーとその他もろもろが番組のコールをした。
あのアナウンサーまた健康的になったなぁ、とはたから聞けば皮肉にもなる感想を持ったところで、玄関の扉が乱暴に開かれる音がした。それから鳥が暴れるような音で靴を脱ぐ気配があり、それが足早にこちらに向かう。
同居人だろう。
クレイシは視線をブルドッグWithAに向けたまま、聞き耳を立てる。それにしても少し変だ、慌てた様子でどうしたのか。普段から落ち着きはないが、あの玄関の開け方はいただけない。ドアノブが壊れたら修理を呼ぶのが面倒になる。すうと煙草の煙を口に入れてから、小言を言おうかとゆるりと足音の主に「おかえりなさい」と言いつつ視線を向けると、
「──うわ」
小言の変わりに、驚きの声が漏れる。肺に入れ忘れた煙が口の端から空中へ逃げ濃く視界をぼかす。普段ならば手で煙を散らすところだがしかし、今はそれどころではない。炬燵の側まで立った同居人──レイはクレイシに向かって花が咲いたような笑みを浮かべ、
「ただいまクレイシ! あいつのおちんちん握り潰してきてやったよ!」
と、鼻血を垂らしながらガッツポーズをした。
くわえた煙草がぽとりと机に落ちる。慌ててそれをくわえ直し、クレイシはレイにティッシュ箱を投げ付けた。
鼻血を垂らして帰ってきた同居人の名前はレイ。
神様が贔屓に贔屓を重ねて作ったような儚く涼しげな美貌を持つ女性。が、中身は面倒になるとすぐに手が出る上普段の姿も騒がしく幼稚である。現在ミディアムほどの長さの髪をのばすかいっそベリーショートにしてしまうか悩んでいる。好んでいる煙草はキャスターで、吸うなと言われれば直ぐに止められると本人は言う。
クレイシが彼女について知っているのはこれくらいのことだ。
「あいつって誰です。誰のイチモツを掴んだんです」
質問しながらとりあえずレイを炬燵に入れ、その小さくも筋の通った鼻に乱暴にティッシュを詰めながら問う。レイがティッシュで顎についていた血を拭いながら鼻声で答える。
「イチモツってほど立派じゃなかったかな……大きめのウインナーぐらい……」
「サイズの話をしてるんじゃないんですけど……」
そういうことじゃない、と主張するしかめっ面のクレイシに向かって、鼻にティッシュを詰めたままレイはえふえふと笑った。
こんな間抜けな姿でもその美しさは損なわれないのだから美醜を分配する神様は酷いものだ、とクレイシは他人事のように思った。実際、顔の良さを偏差値化して偏差値六十以上にいる彼女には他人事であった。
「ほら、前に私が掴まえたカモがいたじゃない。えーっと、バッグとネックレスの……」
「ああ……確か五十万の」
「クレイシって今までの人値段でしか覚えてないでしょ? まあいいや、そうその五十万のやつ。今日鈴ちゃんにプリンあげにいったらバッタリ会っちゃって。行きつけのバーで誘うものじゃないね」
「もう目が合った瞬間に殴られてびっくりしたー」。のんきに笑うレイに「鈴彦に迷惑がかかるから止めなさい」と嗜めるクレイシ。
「……思ったのですけど」
「ん?」
「あの日、どうして男を誘ったんですか? 貴方ならこうなるかもしれないと予想できたでましたよね。前も言いましたけど、そもそもあの日は私の番だったでしょう」
男を誘い、金品を巻き上げる。
クレイシとレイはそうして不定期に大金だったりはした金だったりを稼いでいるが、金が無くなってくると『前はレイだったから今日はクレイシ』という順番意識は一応働く。明確にそう決めたわけではないが、今までは暗黙のルールのようにそうしてきたのだ。
だというのに、レイのこの行動。
クレイシ程ではないがそこそこ面倒臭がりで自分の欲望に素直な彼女が、理由もなくあんな危険な真似をするのは不自然であった。
「さあ、気紛れ?」
クレイシの疑問に首をかたむけ茶化すように返すレイ。波打つ黒髪が今は点々と血が付着し赤く腫れている頬を撫でた。
その仕草をじっと睨むと、しばらく間があってから彼女は苦笑いを溢して肩をすくめた。
「本当だよ。別に大した理由はない」
「理由があるんですね?」
「……んん……」
クレイシは一度立ち上がり、棚からタオルを取り出す。
こびりついた血を拭おうと思ったのと、レイが面と向かっていると素直に口を開かない性格を知ってわざと視界から外れたのだ。
「んー……いやね、その日の昼間にさぁ、泣いてる人がいて」
クレイシの予想通り、レイはモゴモゴしつつも話し出した。
「女性ですか?」
「うん」
台所の水道でタオルを濡らす。冬に近付いてきたせいで水に触れると肌の温度がすぐ下がるのがわかった。温水にすることも出来るが時間が必要だし、なによりこれくらいの罰は必要だろうとたっぷり水分を含ませ水滴が滴らないくらいの最低限しか絞らず炬燵に戻る。
「で、その人がォアッ!? つめたっ!?」
「我慢しなさい」
奇声を上げクレイシの手から逃れようとする顔をその後頭部を掴んで逃げないようにしながら擦ると、乾きかけの血痕が水分を吸って徐々に取れ始めた。そうして綺麗になっていく鼻付近をよくよく見ると青痣と擦り傷が表れたものだから、クレイシは慌てて拭う力を弱める。
どうやら、そこそこ手酷くやられたらしい。
くわえていたまだ長さのある煙草を灰皿に押し付けて火を消す。
「……痛みますか」
「ん? いや、全然。どっちかっていうと前にクレイシとやった女性看守と囚人with手錠プレイの方が痛かっ」
「わかりました、話を戻しましょう」
図らずも好きな芸人と似たニュアンスで名付けられた一週間前の苦い思い出──ほぼ黒歴史に等しい──をレイが意気揚々と語り出す気配がしたため、クレイシはその細い声を遮り痣の状態を確認した。冷やせばちゃんと治るだろう、とこの部屋にある湿布の数を頭の中でひーふーみーと数えつつ「泣いてる人がなんですって?」とレイの言葉を促した。
「うん、公園を歩いてたらねぇ、西野カナエのごとく泣いてて。夜じゃないよ? 昼間だよ? どうしたのーって聞いたら彼氏と別れたとかなんとか……」
「はぁ、まあよくある話ですね」
「そうなんだけどねー……ちょっと酷いんだよ」
レイが濃褐色の瞳を伏せると、長い睫毛がそれに影を作った。
「妊娠してたんだって」
「……」
「でも、そう言ったら『仕事で忙しい』とか『今、子供が欲しいなんて一言も言ってない』とか……仕舞いには本当に俺の子供かみたいなこと言われたらしくて。それでつい怒鳴って勢いで別れちゃったんだって」
それもまた、よくある話だ。クレイシは口には出さずにそう思う。
しかし同時に、世の中にどれだけ溢れたありふれた話でも、ありふれた不幸でも、だからと言ってその女性の苦しみが無くなる訳ではないことを理解していた。
喧嘩したということは、女性の方は産むことを望んでいるのだろう。だがその男はどうやら子供を不要だと思っていた。別れて産むことを選択しても女手一つでは金銭面が不安であるし、別れずに産んだところで男が産まれた子供を愛すのかは微妙なところだ。
「……ゴムはつけて、」
「無かったみたい。いやほらね、最近新しいメンへラも沢山いるからさ。ゴムに穴開けたとかだったらどうしよって一応聞いたんだけど、その女の人曰く赤ちゃん出来たら責任取って結婚するって言ってもらってたんだって」
「はぁ……そしたら?」
「でも出来た途端『あんな冗談真に受けるなよ』だって」
「うわぁ……」
自分たちのやっている金の稼ぎ方もそこそこクズだが、その男も中々だ。思わず口をひきつらせながら話を聞く。
「別に、善い人を気取ろうってわけじゃないよ。クズなのは私も同じだし。けどさー、昼間そんな話を聞いた後に夜バッタリその男と会ったらさぁ、運命感じるっていうか。あと普通にムカついて」
ふとレイが眉間に皺を寄せ、自分の口の中に指を突っ込み何かを探る。そうして再び指を出したとき、その小さな親指と人差し指には欠けた歯らしきものが挟まれていた。クレイシはそれを苦い顔で見詰める。
「……気紛れだよ」
「真偽だけでも確かめようと思っただけだったんだ」と叱られる子供のような表情を滲ませた顔で眉を寄せられ、それを向けられたクレイシは溜め息を吐く。
──それで痛い目に合わせたはいいけどまた運命が悪戯して邂逅してしまったと。なるほど。
「馬鹿ですか」
「私、クレイシの人を貶すときにそうやって疑問符付けないところ好きだよ」
レイが喉の奥で笑いながら欠けた歯を指で弾きテレビの横のゴミ箱に捨てた。テレビの中では芸人がなにか面白いことを言ってスタジオが笑いに包まれている。音が大きいな、と先程までは気にならなかったことを感じクレイシはリモコンで音量を下げた。そうしてほんの少しだけ静けさが増した部屋で、
「……私がどうにかしましょうか」
と、クレイシが問う。
「うん?」
「その男」
レイの唇が怪訝そうに尖る。その拍子に、内側の粘膜に切り傷があることに気付いた。
「どうするの?」
「……どうにかするんです」
尖ったままの下唇を、先程欠けた歯をつまんだレイを真似するように、二本の指で挟み赤く腫れた切り傷を親指で撫でる。端正な顔が──唇の痛みか、もしくはクレイシの発言にか──ピクッと歪んだ。
その様子に、クレイシは唇から指を離して立ち上がる。
「んー……」
先日ケーキを買った際についてきた保冷剤がいくつかあったはず、と炬燵から離れ冷蔵庫に向かうと、背中に悩むような唸り声が届いた。
「自分の喧嘩に彼氏を呼び出して対抗するブスみたいな感じがするから遠慮するよ」
「なんですそれ?」
「『あっくぅ~ん、あいつ私のこと馬鹿にしたのぉ、やっつけてぇ~~』みたいな」
「ふ……、なるほど、彼氏がボクシングかじってるオラオラタイプの……」
上半身をくねくねさせて無駄に裏声で再現するレイの姿を鼻で笑いながら保冷剤を取り出し、それからタンスから引っ張り出した薄手のタオルも持って彼女の元へ戻る。
「そうそう、シルバーのピアスに雑な金髪のツーブロックで、遠目から見たら格好いい雰囲気だけどよく見ればそうでもない感じの男の彼女」
「よくいますよねぇ、昼間から夕方くらいの時間とか」
「肩ぶつかって、気弱そうな人なら舌打ちしてヤクザっぽかったらへこへこ謝る感じの」
「吸ってる煙草は?」
「「セブンスター」」
ふくく、とレイが傷のついた唇をほころばせる。そこにタオルを巻き付けた保冷剤を当てて、小さな手を取りそれを持たせる。
タオルも保冷剤もなくなりなんとなく手持ち無沙汰になった両手を、クレイシはレイの髪をすいてやることで間を埋めた。
彼女の柔らかく癖のついた黒髪が自分の指の間を絡まることなく行き来するのを、こんなに波打っているのにと少し不思議に思う。
「……あまり、危ないことはよしなさい」
「危なくないさ。実際逃げれた」
「鈴彦がどうにかしたんでしょう?」
図星だったのかレイは苦い笑みを張り付け気まずそうに目を反らした。
二人の間にしばし沈黙が流れ、テレビから流れるキャストの笑い声だけが小さな部屋を満たす。クレイシはその間、それ以上レイを責めることもなく彼女の髪をゆっくりとすかした。染めたこともないだろう、日本人でも珍しい綺麗な黒髪。確かメラニン色素のユーメラニンがなんちゃらだったか、と昔聞き齧ったことをぼんやり思い起こしていると、反れていたレイの濃褐色の瞳がこちらを向く。
「鈴ちゃんのお店のさ、ダーツ版……」
そう小さく呟かれた言葉に、クレイシは鈴彦のバーの壁に設置された大きめのダーツ版のことだと察する。少し前に、「古い店で埃を被っていたのを雰囲気に合うからと買った」と言う話を彼から聞いていた。
「ぶつけて床に落としちゃったから、謝りにいきたい」
「……出禁になってるかもしれませんよ」
「でもちゃんと謝らないと」
変に律儀なところを見せる彼女の伏せられた目が申し訳なさそうに揺れたように見え、クレイシは「わかりました、私も一緒にいきましょう」とわざとらしく溜め息を吐いた。
幼さの残る女の顔がいいの?と確かめるように上向く。先程まで人を小馬鹿にして皮肉気に笑っていたとは思えないしおらしい姿に、クレイシは笑みを溢した。
「まぁ、鈴彦は女に甘いですから、謝る機会くらいならくれますよ」
「そうかなぁ」
「そうですとも」
髪に通していた指を一度離し、レイの前髪をどけ露になった額に子供の戯れのように唇をつける。
「それで──その男、どんな奴ですか?」
「え?」
「ほら、私もよく鈴彦の店に行きますし。そこら辺でまだ貴方を探しているかもしれないでしょう? 私も顔を知っていればどこかにいたとき貴方に知らせられますし」
「あー、なるほど」
顎に指を当てて男の容姿を形容する言葉を探し始めたレイに、クレイシはひっそりと口角を上げた。
それからしばし唸るような間。そして「うん」とレイは当てていた人指し指を立て説明を始める。
「シルバーのピアスに雑な金髪のツーブロックで、遠目から見たら格好いい雰囲気だけどよく見ればそうでもない感じの男!」
その答えにクレイシは溜め息を吐き「だからそんな奴どこにでもいるんですけど……」とコメントした。