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1 クレイシとレイ



 東京24区の北に位置する美菜崎区。北区と豊島区に挟まれ、美菜崎駅を中心に劇場や水族館、広い敷地を持つ公園などの施設からレストランやカフェ、バーなどの飲食店や洋服店靴屋着付け教室ネイルサロン服飾店本屋などなどが展開され、『なにか欲しいなら五万持って美菜崎へいけ』と言われるほどあらゆるものが豊富な都市。


 さて、夜になると冷え込んできた十一月始めの午後20時。そんな街の中心部──からはややずれたところに佇む静かなバー『T(ティー)』で、男が一人酒を飲んでいた。

 うっすら生えた髭と両耳に二つずつつけたピアス、グレーのシャツ。サイズは小さいが値の張るだろう鞄を椅子の背もたれに引っかけていた。特に特徴という特徴はなく、この街のこの時間帯にはよくいる、不良少年がそのまま大人に育ったらこうなるだろうといった印象の男だ。

 店の雰囲気に合った品のあるアンティーク風のカウンターに肘をつき、嫌なことでもあったのか眉間に皺を寄せ、ウォッカをグレープフルーツジュースで割ったソルティドッグをもう三杯は湯水のように呑んでいる。


 男が四杯目をバーテンダーに頼もうとしたとき、目の前にコトリとグラスが置かれた。

 

「……頼んでねぇけど」


 透き通った琥珀色のカクテル。グラスのフチにはスライスされたライムが飾ってあり、男はこのバーのメニューの中にモスコミュールがあったのを思い出した。

 確かに男はウォッカがベースになっているものならなんでも好きだが、これを頼んではいない。今日はすっきりとしたものより、もう少しだけ塩気の強いものを呑みたい気分だった。

 虫の居所が悪いときに余計な口を出すはめになり、つい荒くなった言葉にバーテンダーは柔和な表情で「あちらのお客様からです」と右に視線を配った。


 バーテンダーの視線の先には、一人の女がいた。


 ウェーブが作られたミディアム程の髪をゆらし、女は微笑む。そこらの芸能人や女優にも引けをとらないほどの美貌に、男は思わず言葉に詰まった。三席ほど離れていても長いことがわかる睫毛や筋の通った鼻。まだ若く二十代ほどだろうが、弧を描く唇だけが艶やかだった。何故今まで気付かなかったのかという程だ。が、女が指に挟んでいた煙草を灰皿に置いて「こんばんわ」と言いながらひらひらと手を振ったことで男は正気に戻る。遊び慣れているような外見に反し、声は想像よりも儚げな細いものだった。


 「なんだ」。男が間を空けて問う。

 「いや、随分と可愛らしいものを呑んでるなってね」。女は応えた。それは暗に女性が好むような酒ばかり呑んでいる、と男には聞こえた。


「何を呑もうが俺の勝手だろう」

「ああ、馬鹿にしてるつもりはないよ。でもずっとそればっかり呑んでたら飽きるじゃない? だからお節介。それにね」

  

 貴方格好いいから、お話しするきっかけになったら良いなってね。


 女がほんの少し声を潜めて語りかける。少女が恥じらいながら内緒話をするようなその仕草に男は「ほぉ」と喉の奥で笑った。有り体に言えば──気を良くしたのだ。

 男はモスコミュールを一口呑むと、グラスを手に持ち女の隣の席に立った。


「俺に興味あんの?」

「なければ話しかけないよ」


 女がそう答えたことで、男の中で彼女と一緒に呑むことが決定した。男は、女の隣に腰を下ろす。グラスの中の氷がカラコロと鳴った。


 どこだかの時代の有名な誰それが歌うジャズが静かに流れる中、二人は気ままに言葉を交わした。


 女は聞き上手であった。

 愚痴や自慢の多い男の話を嫌な顔一つせずうんうんと相槌を打ち続け、かと言ってなにも言わないというわけではない。適当なタイミングで質問をしたり、興味深そうに身を乗り出したりとくるくると表情を変える。男のグラスの中身が無くなるタイミングを見て自分のグラスも開けたりと、男が注文しやすいようにする気配りも欠かさなかった。

 一方で男は特に話し上手でも聞き上手でもなかった。

 女がよく来るのかと聞けば初めてだと短く答え、仕事帰りなのかと問えば休日だとそっけない。しかし酒が入っていることもあり男の口数は増え、煙草を吸える場所を探してここに辿り着いたことや、仕事のこと、そして先程まで彼女と一緒に休日を過ごしていたことを話すようになった。

 男は酒に流されるまま、昼間半年程の付き合いになる彼女に「貴方の話は貴方のことばかり」と振られたことまで口にした。


「へぇ、そう。私は好きな人のことは沢山知りたいから、沢山話してくれたらそれは嬉しいけどなぁ」


 男は、元彼女の言う「自分の話ばかり」というのは先程から男が話している自慢話のことを指しているのだろうとわかっていた。

 上司にガツンと言ってやっただの部下のフォローを欠かさないだの派遣の女性が仕事中チラチラ熱い視線を送ってきて困っているだの、そういう誰が聞いてもうんざりする話だ。自分でもわかっている。が、別に自分の話が退屈なら勝手に離れていけばいいと思っていた。男が望む自分の相手とは従順で素直な女だ。そうでないならばこちらから願い下げ──と思っていたのだが、昼間こちらから切り離す前に相手から別れられ、それで苛ついてる。

 男はそんな性格であった。

 しかしこの目の前の女は不思議なことに──敢えてなのか──男の機嫌を取るような言い方をする。それも、嫌味やわざとらしさを出さない程度に、必死に見えるほど。


 女はそこで、男から視線を反らず。気まずそうなその仕草に男は訝しげに眉を寄せた。


「……その、仕事は何をしてるの?」


 やや間を置いて呟くように訊かれたその内容にそう言えば──と男は思う。

 『好きな人のことは沢山知りたいから、沢山話してくれたらそれは嬉しい』。先程からこの女は質問が多くて、やたらと自分のことを知りたがった。薄々あまり自分のことは話さない女だと思っていたが、もしやと男は自分の口角が上がるのを感じた。その男の表情に、女はくすぐったそうに「ふふ」と照れたようにはにかむ。化粧のしていない透き通るような頬はそのままだが、波打つ髪から覗く耳は染め物のように赤かった。

 ──自分が好みの人間には沢山質問するというようなのとを言った手前でまた質問をすることに恥じらいを覚えたのだろう。それはもはや、『私は貴方が好きです』と主張するようなことだから。


「……ただの会社勤めだよ」

「なんの会社?」

「クリエイティブ系だ」

「へぇ、Webデザイナーとか?」 

 

 尚も『知りたがる』女に、男は「おい」と会話を止める。


「俺はまどろっこしいことは(きれ)ぇだ」


 男の言葉に女は一瞬呆けたように目を開いた後──若いこともあり随分と幼く見えるリアクションだった──健康的に膨らんだ唇で弧を描く。それを男の耳元に寄せて、囁いた。


「ほんと? 実は私、こういうのは苦手で。……できたらリードしてくれると嬉しいのだけれど」


 『内緒話』を終えた女は男から体を離す。赤くなった顔を誤魔化すようにグラスを口元に近付けた上玉を目の前に誘いを断るほど、男は健全な性格をしていなかった。


 男はグラスに残った液体を飲み干すと、女の肩を抱いてバーを出た。



───



 数十分後、男はバーから離れた区内某所のホテルでシャワーを浴びていた。

 ホテルといっても、部屋のベットサイドに設置されているローションボトルやゴムを売っているガチャガチャのようなものを見ればただのホテルでないことは一目瞭然だった。照明も桃色で装飾もやや派手、男はこのような騒がしいデザインの部屋はあまり好みでは無かったが、バーから連れ出した女がここがいいと部屋を選ぶときに言ったためここに決めた。多少のわがままならば許すくらいには、女のことを気に入っていたのだ。


 ついでに言うなら男に致す前シャワーを浴びる習慣はない。

 女を部屋に連れ込み、ベッドに押し倒しさあいざ、というところで「できたらシャワーを浴びてほしい」と控えめに言われたためこうしてシャンプーで頭を洗いボディソープで体を洗い歯まで磨いている。しかし、この安っぽいフルーツの臭いが充満する浴室の向こうのベッドで、あのとんでもない美女が待っていると思えば面倒なシャワーも苦では無かった。


 ──しかし。と、ふと男は思う。

 バーの薄暗いオレンジの照明や夜空の元では気が付かなかったが、ホテルの入り口の白い電気の下では、女は随分と若く見えた。

 身長は女性と言うくくりの中では高い方であろうし煙草や酒を嗜んでいる時点で成人は過ぎているだろうが、輪郭はやや丸く、笑った顔も美しさの中に子供のような愛嬌がある印象だった。

 大人と子供の丁度中間地点に立っているような、少し歪で、艶やかさと愛らしさが入り乱れるような雰囲気を纏う不思議な魅力がある。


 一瞬、もし未成年に手を出していたらと歯ブラシを忙しなく動かしていた手が止まる。しかし直後に手はまた奥歯を掃除し始めた。そんなわけないかという思いと、そうだったとしてもこのまま別れることなど出来ないという考えが混ざった結果の行動だった。


 さて、身を清め歯まで磨き、最終的に大事な部分の毛も備え付けの剃刀で整えた。男にとってここまで己の体をケアをすることは実に三ヶ月ぶりであった。心までも洗われたような気分で、さあ今度こそと浴室を出て洗面所で体を拭き、女のいる部屋に戻った──が。


「──?」


 男は思わず素直に頭に疑問符を浮かた。ベットの上に女がいない。トイレか、と部屋の扉の横に位置するそれを見てみたが電気はついていない。試しにノックしても反応はなく、ドアノブに手をかければ抵抗なく開いた。当然中には誰もいない。


 男はもう一度ベットルームに戻り、見回す。


 女が椅子にかけた上着がなくなっている。持っていた鞄も。

 怖じ気ついて帰ったのか、等と思ったとき──男はもう一つ無くなっているものに気付く。

 

「は? 俺の鞄……」


 ない。ないのだ。

 サイドテーブルに置いたブランド物のショルダーバッグが、どこにもない。バッグもそうだがその中の財布にはかなりの金額が入っている上、免許証からキャッシュカードまでそこに挟んである。それから今日元彼女から返品(・・)された一ヶ月前プレゼントしたネックレス。しめてあのバッグの価値は五十万はくだらない。


 まさかと、ここにきてようやく男の背に冷や汗が浮かんだ。

 

「おいおいおい……!!」


 ベットの布団を勢い良く捲る、ない。テーブルの下に落ちて、ない。浴室に持っていって、ない。ない。ない。ない。

 時間にして数分。さして広くもないこの部屋の隅まで探して、男は苦々しい結論に至る。


「くそっ──やられた!」


 苛立ちに任せてテーブルに置いてある備え付けのグラスを壁に投げつけ、男はようやく、女の正体に気付いた。



───



 同時刻。


「あと、120番」

「はい」


 アルバイト(・・・・・)からの帰り道、ミディアムの髪の女──レイはのんきにコンビニに立ち寄っていた。

 買ったものはバナナオレとハーゲンダッツのいちご、生ハム、メロン風味の缶ビール二本とクレアアサヒ三本、レトルトカレーの辛口を二人分、それから今しがた店員に頼んでレジ後ろの棚から取ってもらったメビウスの10㎎。カレーは今夜の夕食だ。はたから見れば甘いものとひょっぱいものと辛いものが混ざっており随分と好みの幅が広いことを思わせるチョイスだったが、店員は特に気にせず会計を済ませた。


 店員の「ありあったー」というやる気のない声と共にコンビニから出たレイは鼻歌混じりにやや大きめのビニールを前後に振りながら歩く。肩にかけた少し大きめの鞄はややきつそうに膨らんでいた。


「五十万か、思ったより儲かったなぁ。新しい靴買ってー、そろそろ上着も欲しいし、あっ煙草代は取っておかないと。それから……」


 三つ指を折り、四つ目に差し掛かったところで、レイの顔にふわりと少女のような笑みが浮かぶ。


──クレイシになにかプレゼントしないと。


 彼女は鼻歌を歌いながら、夜の街の明かりから遠ざかっていった。



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