透明人間
とある雨の日のことだった。
先月、高校生になった青葉渡は自分の身に起きた不可思議な現象と向き合っていた。
いつものように目を覚まし、起きて制服に着替えようとクローゼットを開けようとした。
そこであることに気づく、右手がない。
右手首から先が完全に消えてしまっていた。
(なんだこれ。どうなってる……)
痛みは無かった。見えないながらもグーパーと握って開いてを繰り返すが何の違和感もない。
左手で右手を触ると見えないながらもそこに右手は確かにあった。右手で物を持ち上げることもできる。
手首の断面は……筋や骨、血管が露出しておりあまり気分のいいものではなかった。
右手が見えなくなった。
そう結論付けるも原因など全く分からない。妙な薬も飲んだわけでも、謎の怪人組織で改造手術を受けた覚えもない。
昨日寝る前まではしっかりと見えていたし、ただいつものように寝て起きた、それだけだった。
ゆえに直す方法も分からない。
親に相談するべきだろうか。
朝食を作っているであろう母、リビングのテーブルで新聞を読んでいるであろう父のことを考える。
青葉家はごくごくありふれた普通の家庭だった。
サラリーマンの父と最近パートを始めた元専業主婦の母、渡自身も成績は悪くなく運動もそれなりにはできる、どこにでもいる高校生だろう。
大事にはしたくない。
そう思った。
少なくとも渡は体が見えなくなる病気など知らなかったし、病院に行ってどうにかなるようなものとも思えなかった。
とりあえずは様子を見よう。
自分の頭がおかしくなったとは考えたくなかったが、もしかしたら気のせいで回りの人には普通に見える可能性もなくはない。
少ししたら見えるようになる可能性だってある。
そうと決まればどうやって右手を隠すか。
真っ先に思いついたのは手袋だが流石に季節的に不自然だ。となると……。
ーーー
「渡、右手どうかしたのか?」
「さっきちょっと突き指しちゃってさ。大したことないよ」
朝食を食べながら渡の右手の包帯に気づいた父親に話す。
今の右手は中指を伸ばすように割り箸を入れた状態で包帯でぐるぐる巻きにしてあった。
もちろん割り箸は必要ないのだが突き指という設定上それっぽくしておいた方がいいだろう。
幸いにも渡は左利きだった。
「学校にも慣れて気が緩むのも分かるけど怪我には気をつけなきゃダメよ」
「分かってるって。
……ところでさ、父さんと母さんって透明人間って知ってる?」
「どうした急に。そりゃ名前ぐらいは聞いたことあるが」
「私もそんな感じね」
「いや、この間見た透明人間の映画が面白くて。
……まぁなんとなく聞いてみただけだから気にしなくていいよ」
それとなく両親に聞いてみるものの反応は薄かった。
どうやら渡の両親がこの現象について何か知っているということはなさそうだった。
ーーー
部活は早退して学校から帰宅し、渡は自室で右手の包帯を外す。
相変わらずそこに右手はなかった。
しかし現在両親は家にいない。
父も母もそれぞれまだ仕事の最中だろう。
これはチャンスだ。
色々とこれがどういう現象なのか実験することにした。
まず水道で水をかけてみると元の右手の形に水が流れ落ちる。
しかし特に見えるようになる気配はない。
次に針で親指の先を指してみると痛みを感じ、血も出てきた。空中に赤い水滴が出現するのは何かの実験でも見ている気分にさせた。
他にも色々と試していくうちに興味深い実験結果を幾つか見つけた。
まず、右手ではスマートフォンを操作できない。
普通に物にさわれる以上、スマホも操作できると思っていたが違うようだ。
確かスマホは皮膚の静電気を利用してどうのこうの、というのをどこかで聞いたことがある。
単純に考えればこの右手は静電気を持っていない、ということになるのだろうか。
そこでふと改めて左手で右手を触ってみる。
温度が分からなかった。
試しに右手を冷水でよく冷やしてから触っても同じだった。
当然だが右手の感覚はあるため冷たいという感覚はあるが左手でそれを感じることはできない。
最初に触れた時はそこまで注意していなかったため気づかなかったのだろう。
これが何を意味するのか考えるが、今ひとつ掴めない。
とはいえ今の問題はどうやってこれを元に戻すのかだ。
実験は自室で母から夕飯に呼ばれるまで続いた。
ーーー
深夜、家族が寝静まった後も渡の実験は続いていた。
だが元に戻すヒントになるような結果は出てこない。
何日も突き指したままというのはいくらなんでも不自然だ。骨折を疑われて病院に連れて行かれたりしたらどうしようもない。
遅くともあと3日か4日、できれば今日明日中に元に戻す方法が知りたい。
明け方まで実験を続けたが結局この日は右手を元に戻すことはできなかった。
ーーー
それから3日、未だに渡の右手は見えないままだ。
両親にも疑われ始めている。
もちろん思ったより怪我の具合が悪いのではないか、という点でだが。
現状はまだ誰にもばれてはいない。
だがこのままではもう時間の問題だろう。
「はぁ……」
今は自室のベッドの上だ。仰向けに寝転がって見えない右手を見る。
もう思いつく限りのことは試した。しかしどうにもならない。
誰かに相談するべきだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
自分で一人でできることなど限られている。もしかしたらどこかの大きな病院で専門機器を使って調べれば元に戻す方法も分かるかもしれない。
明日の朝になったら両親に相談しよう。そう決めた。
一度決めてしまえば気分はいくらか楽になった。
そこでふと考える。どうせ相談するなら両親以外にも相談していいかもしれない。
友人達に相談するのは気が進まない。
仲の良い友達もいるが、こんな得体の知れないことを相談して気味悪がられるのは御免だった。
ネットに書き込むのはどうだろう。
嘘だと思われる可能性がほとんどだろうが、それならそれで構わない。
面白半分で知恵を貸してくれるだけでも渡には十分だ。
早速パソコンを起動し、いつも利用している匿名掲示板を開いた。
ジャンルとしては病気か若しくはオカルト関係になるのだろうが、なるべく多くの人の意見を聞きたい。
比較的人口の多い雑談掲示板にスレッドを立ててみる。
『右手が見えなくなったんだが』
そんなタイトルだった。
レスポンスをもらえることはできた。
だが当然のように釣り、いわゆる嘘や冗談だと思われながらスレッドは進んで行く。
渡もここ数日の実験の結果や自分の考えを落としてゆく。
嘘にしては妙にリアリティがあるためか、何人か食いついてくる人もいた。
画像を求められたりもしたが、一度ネットに落として広まってしまえば回収できないことぐらいは知っているためそれはしなかった。
なんだか予想以上にスレッドが伸びてしまった。
まとめブログにまとめられると面倒だな、とスレッドを更新しながら考えていると一つのレスが目にとまった。
『見ようとすれば見えるし、見えないようにすれば見えない。気分の問題だろ』
そうか気分の問題か。
不思議と納得した気持ちだった。
思えば今までの実験は右手は見えないものだと考えた上で試してきた。
見えるものだと思えば見えるかもしれない。きっとそうだろう。
渡は目を閉じて右手を顔に当てる。
相変わらず温度は分からなかった。
俺の右手は見える。
十回ほどそう頭の中で唱える。
目を開ける。
見えた。
間違いなく自分の右手だった。
なんだ簡単なことだったな。
見ようとすれば見える。当たり前じゃないか。
顔には笑みが浮かんでいた。
安心したためか眠気が襲ってきた。思えばここ数日ほとんど寝ていない。
ベッドに横になるとそのまま渡は眠りに落ちていった。
ーーー
母の夕飯に呼ぶ声で目が覚めた。
右手は見える。
パソコンを付けっ放しだったのを思い出し、スレッドを確認するが既にスレッドは落ちていた。
まぁ当たり前か。既に数時間は経っているし自分が突然消えれば話題も途切れるだろう。
恩人?とも言えるレス番号185に感謝しつつパソコンの電源を落とした。
ーーー
夕飯を食べ終え、自室に戻った渡は改めて右手を眺めていた。
人間の好奇心とは恐ろしい。
ついさっきまで元に戻す方法を探して半ば絶望していたのに今度はまた見えなくすることができるだろうかなどと考えている。
「気分の問題……か」
そんなことを呟く。
また見えなくなって今度は元に戻せなくなったらどうする。
自分の中の自制心がそう呼びかけるが、どこかで大丈夫だろうと考える楽観的な自分もいた。
軍配が上がったのは楽観的な自分だった。
目を閉じて右手は見えないと頭の中で十回唱える。
目を開ける。
右手はなくなっていた。
ーーー
そこからは速かった。
右手に始まり、右腕、左腕、左足、右足。
そして1週間後、ついに首から下全てを見えなくすることができた。
そして最後、頭を見えなくすること。
おそらく可能だと渡は考えていた。
だが右手が見えなくなってから透明人間について調べていた一つある懸念があった。
『透明人間は盲目である』
眼球が透明であるがゆえに光を認識することができず、盲目となってしまうのだという。
考えてみれば妥当な話だろう。
そもそもだが、透明人間にはいくつかの種類がある。
最もオーソドックスなのは細胞の透過率を最大にするものだろう。だがこれには問題がいくつか存在する。
一つは盲目の問題。
もう一つは自分の細胞以外のものが体内にある場合、それは透明になるのかどうか、という問題である。
簡単に言ってしまえば自分の食べたものは胃や腸に滞留するため、自分が透明になった場合はそれらが空中に浮かんで見えるのではないか、ということだ。
だが渡は既に胴体全ての透明化に成功している。もちろん消化中のものも見えない。
ここから考えられるのは渡の透明化は透過率によるものではないという推論。
そして透明人間の種類としてもう一つ有名なものに光の回折を利用して透明になるというものがある。
つまり自分の後ろの背景を光を曲げて無理やり見せているというものなのだろう。
光学迷彩とかいうやつだろうか。
これならば体内のものがどうあれ透明化には関係ない。
しかしどちらの透明人間にしても盲目という問題は変わらない。
それにも関わらずこの妙な自信はどこから来るのか。
答えは至極簡単だった。
気分の問題。
見ようとすれば見える、見えないようにすれば見えない。これだけだ。
透明化を操れるようになり、文字通り天狗になっていたところもあるのだろう。
だが渡には自分ならできる、という自信が確かにあった。
そもそもこの透明化自体が論理的、科学的に説明できるものではない。
それならばこれ以上説明できないことが増えても何の疑問もない。
開き直りとも言えるが、渡は本気だった。
透明化しても存在が消えるわけではない。
仮に盲目になってしまっても元に戻ることは可能だろう。
物は試しだ。
やらなければ何も分からない。
「よし……」
気合を入れ、目を閉じる。
既に首から下は透明化済みだ。あとは頭を見えなくするだけ。
いつものように頭が見えなくなると念じて、目を開く。
視界は何の問題もなかった。
目を閉じた時そのままの自室が見える。
失敗か?と思ったが少し違う。
目を寄せれば見えるはずの自分の鼻が見えない。
渡は長髪というわけではないがいつもなら見える自分の髪の毛先も見えなかった。
頭の透明化には成功している。
だが空中に眼球が浮いているような状態では完璧な透明人間とはいえない。
渡は自分が真に透明人間となったのか確認するため、自室に置いてある姿見の前へ移動する。
今は学校の制服を着ている。体を見ると服だけが空中を移動しているように見える。
そして見た。
鏡には制服しか写っていない。眼球も見えない。
見ることのできない透明人間の姿を、渡は目に焼き付けた。
ーーー
それからはまた実験の日々が続いた。
静電気や温度に関しては以前の実験である程度分かっていたが、バイトで稼いだ金で実際に小型のサーモグラフィーを買って映るかどうか試してみた。
服装は透明化できないため、病気のトイレで全裸になって透明化した上でレントゲン室に潜入し、他人のレントゲンに自分が映るか試したりもした。
……今思えば随分と危ういことをやっているものである。
しかし、その結果として渡は完全な透明人間である、という結論だった。
透明化している渡は触れられない限りカメラ等の無機物を含めたありとあらゆるものに認識されない。
波長としては完全に認識されないということだろうか。
だが例外はあった。
触れば認識できる以上、土の上を歩けば足跡はつく。
雨の中で透明化しても雨には当たってしまう。
極め付けは音と匂いだった。
音は空気の振動である。
実際に空気に接触して発している以上は音を隠すのは無理なのだろう。
そして匂いもまた体から離れたからなのか透明化できない。
そもそも透明である音や匂いを透明化というのもおかしな話だったのかもしれないが、とにかく音と匂いは隠すことができなかった。
『まだ』逮捕されるような悪事を働いたことはないが、もし警察犬に追われればなす術はないだろう。
確かに全裸で往来を闊歩したり病院のレントゲン室には入り込んだがそれは悪事のうちには入らない、と渡は解釈していた。
そして今の目標は服装の透明化だ。
一々全裸になるのは面倒過ぎる。
それにいくら見られていないとはいえ他人の前を全裸で歩いて何も感じないほど渡は肝が座っていない。
しかしこれさえできれば本格的に透明人間として生きていくことも可能だろう。
まだ将来的にやりたいことがあるわけではなかったが、折角の特技しかも透明人間である。
極めてみたいと思うのは至極当たり前だった。
並行して完全に透明化した状態で動き回る訓練も続けた。
移動にはあまり問題はなかったが、手を使って物を掴むことに若干苦労した。自分の手が見えないことは思った以上に距離感や細かい作業の弊害となっていた。
こうして渡は着々と透明人間としての成長を遂げていた。
ーーー
そして月日が流れる。
渡の右手が消えてからおよそ1年半が経過していた。
半年が経過したあたりで身につけているものの透明化には成功していた。
それどころか今ではある程度なら離れた物を触れずに透明化することも可能になっていた。
ここまでくると透明人間にしては少々オーバースペックな気がしていたが、結局はやはり気分の問題なのだろうか。
現在は自分を中心に半径約3メートルの範囲の物の透明化に成功していた。
服装を透明化できるようになってからは色々とやりたい放題やっていた時期もあった。
女性の覗きなんてベタなことから、テレビ局の収録中にカメラの真ん前に立ってみたり、一般人は立ち入り禁止となっているようなありとあらゆる場所に足を踏み入れた。
だが楽しかったのは最初だけだった。
渡は『青葉渡という人物が透明人間である』という事実だけでなく『透明人間が存在する』という事実を隠すことを決心していた。
つまり渡個人を特定されない場合だとしても透明人間の存在を他人に知られてはならない。
仮に知られたとしても眉唾として片付けられるかもしれないが、もしも警察が動くように事態になってしまえば透明人間といえどもいつか捕まるのは予想できていた。
この鉄の掟を守る以上、他人に透明人間として関わることはできない。
結果として透明人間になったとしても渡個人で完結するものか、他人に影響するとしてもごく小さいようなことしかできなかったのである。
そして渡も高校3年生となり、進路を決める必要もあった。
透明人間としての能力を活かしたい。
そう考えるのは当然のことだったが透明人間であるとバレるわけにはいかない。
透明人間であることを隠しつつ、透明化の能力を役立てることのできる生き方。
空き巣というか盗みで生計を立てるのはまず思いついたがそもそも職業ではないし、継続的にやればいつかバレるだろう。
透明人間だとは思われないかもしれないが結局捕まってしまえば何の意味もない。
物でなくとも企業や国家の情報を盗むスパイのような活動も考えたが、渡の透明化は犬に弱い。
番犬がいればなす術が無いのである。
今の時代に警備に番犬をどれほど使うのかは知らなかったが、リスク的に考えてもあまり気乗りはしなかった。
いっそ渡自身で研究者になればバレずに透明化の研究ができるかもしれなかったが、個人でやる研究など高が知れている上に資金を提供してもらうためにどんな言い訳をするのか思いつかない。
マジシャンというのも考えたが渡はそこまで器用というわけではなかった上に、できるマジックも何か消すというだけでは芸が無い。
それにいくらマジックとはいえどこかで誰かにタネを話す場合もあるだろう。
不特定多数に透明化を見せるというのも不安だった。
悩んでいた渡だったがある時天啓が舞い降りた。
ーーー
透明人間がこっそり社会で生きていく。
そんなお話。




