気づけるのなら
絶対行く事の出来ない隔たりの直ぐ向うへ思いを巡らせたことは無いだろうか?
自らの器が朽ち白骨となり、粉となり私を知る事の無い者の踏締める平面の一部になる。気づけない程の速度で自分の自分たるモノが居なくなり、結局は何も無くなる。紅茶に入れた角砂糖が底に到達する事無く拡散して飽和するように静かに柔らかく居なくなれれば良い。しかし、こんな小さな現実逃避すら明日には覚えていない。何故なら私は、病気だからだ。ベッドの中に入り、目を閉じると、同じ日の同じ朝にタイムスリップしている。記憶は新しい記憶から忘れていく。その色のついた一繋がりの帯が、近く、大きく、見える方からさらさらと零れて行く、記憶と呼べるのかも解らなくなった砂粒たちは、下の暗闇へと落ちていく、手を伸ばして掴み取ろうとしても掴め無い。記憶は私が今ここに在る為の証明だ、きっとその全てが何もかもの行き着くヨドミの中に沈めば私その者もそこに墜ち底の無い海底を撫でるだけの沈殿になるだろう。
しかし、他の同じ病気の人間と違うことが私にはある。それは気がつくのだ。何度も同じ日に取り残されて居る事に、それは目覚めた瞬間の時であったり、一日にする瞬きの最後の一回の時もある。必ず毎日気づいているのかは定かでは無いが、今日は昼の十二時程にふと、気がついた、時計が鳴ったのだ、午前を終えたと、時計が言っているのを聞いて、突然に気がついた。
『そうか、私はこの場所に居ることになるまでの幾ばくかの年月を持ってい無い』
そこから考える・・・自分の状態を・・・何故こうなったか?ここはどこか?そして、その答えをたずさえて二時に来客がある。女性だ、彼女は私の娘だと言う。彼女の話だと、私の名前は田淵芳次郎だと言う。そして今年で八十七歳、彼女の名前は田中久恵
『何故名前が違うんだろうか?』
私の妻は、田淵早苗という女性らしい。久恵は、年配の女性の写真を見せてくれた、早苗だ。私は、なぜ早苗の写真を私は持っていないのか久恵に尋ねた。
久恵は一瞬顔を曇らせ、早苗の写真を以前この部屋に置いていたと答えた。しかし今は無い。久恵は自分の子供の話をしてお茶を濁そうとした。私が写真を探し辺りをきょろきょろすると話すのを諦め、今度は寂しそうに下を向き、投げて割ってしまったのと言った。私は腹が立った、あろうことか?娘が母の写真を父の前で投げ割ったなんて、私は久恵に怒鳴りつけた、
『何故だ?どうしてそんなことをしたんだ?』
久恵は首が折れそうな程顔を俯かせ肩を強張らせて、お父さんが割ったのよ。そう口から床に落とした。
「そうか」
私は呆気に取られてそれしか言えなかった。
開け放たれた二つ開きの窓から潮風がサーサーと色の無い波のように部屋の中に打ち寄せる、白いレースのカーテンが寄せては返しを繰り返している。私は何度この女性の顔を俯かせたのだろうか?私の忘れている同じ今日の内の何回この女性を悲しませたのだろうか?忘れたその日の数分だけの重いやるせなさが、今の今日の私に負ぶさる。目頭が急に締め付けられ、細い涙が私の眼から輪郭線を辿って這う。窓の外は青く澄み渡って空と海とが見える、何十海里も向こうに大きな雲が浮いている。日差しがその光の当たる所だけを鮮やかな色に反射させる。私はその景色の中には二度と出て行けないのだと思う。それならいっそう、涙と一緒に目の玉も落ちてしまえばこんな悲しみを感じなくて済むのに。
久恵は顔を起こし、また、旦那の事や子の事、色々な出来事の話をし始める。
私はそれに耳を傾け、少しの時間を過ごした。
・・・
突然に私を呼ぶ声がする。
「おい田淵」
小林か?
「何でこんなとこで寝てんだよ」
僕は何も答えない。空は淡い蜜柑色でトンボがその色の中を飛んでいる、蝉時雨がうるさい。僕は田んぼのあぜ道の真ん中で手を頭に組んで寝転がっている。
「小林っ・・・」
私がそう口に出すと、久恵は声に出さないが口が えっ と開いた。その後口を閉じ、私の肩にそっと手を乗せた。そうかこの様な事は前にもあったのか。しかし懐かしい小林は私の小学の時の同級生だ。まるであの頃に戻ったみたいに鮮明だった。
あの後どうしたんだったかな?・・・
思い出せない、いくら私の頭の中の物置を探しても小林と会った後の事が仕舞われていない、空白だ、いや空白さえない。そこらここらで丸や三角や六角形の図形がポッカリと立体を失い、真新しい床がソコに何か在ったと言う痕跡だけを置いて何も無い・・・。
又、私は途方も無い虚しさに目元が緩む。しかし希望がある事に気づけた。その突然の事は私にとって希望以外の何者でも無い、真っ昼間に幽霊にでも挨拶された様だ、とても丁寧に。明日もこの様な事は起きるだろうか?明日の私も同じように希望を見出せるだろうか?
久恵は私に極めてぬるい桃をむいていった。
私は桃と一緒にこの部屋にとり残された。桃を頬張りながら、小林のことを考える、小林の思い出が置いてあったのは四角の床の跡だろうか?それとも六角形のものだろうか?桃を噛む歯がたまに止まり右の上へ黒目を向ける。
何時間考えただろうか?もう窓は閉められカーテンの間から夜が見える。少し考え過ぎていささか疲れた、私は体を倒し、瞼を閉じて心の中で言う、明日も私として目を覚ませるだろうか?
するりと暗い袋の中に入るような感覚に落ちていく・・・・・・。
雨の音が聞こえる。それも酷い土砂降りだ・・・
私は目を覚ました。この雨は何十年も降り続いている様な気がした、青い空が見たいと思った、この雨が降り止むまで私は目を覚まし続け晴天の空をこの目の内に納めたら死んでもいいそう思った。
扉が開き誰かが入ってきた、女性だ。見た目の年齢は五十代前半位だろうか、彼女は私のベッドの傍らに置いてある椅子に腰掛けた。そして話始める。話によると彼女は田淵久恵。私の娘で毎日ここに来ているらしい。私の事について話し始めた。彼女の話は俄かに信じがたい、そんな記憶は無い・・・そうか・・・私はもしかすると記憶を忘れていく病気か何かなのか?昨日の私はそれに気づけたのだろうか?。まあいい、私は気づけた、私は私について久恵に色々と聞いた。私には他にも子供が二人いて、その子たちは、みな今では結婚をしてそれぞれの場所で暮しているらしい、私は苦労の覚えの無いことが勝手に成就したようで嬉しくなってしまった。軽くほころばせた顔を小刻みにうなずかせ久恵に「そうか」と息の混じった小さな声で一言だけいった。久恵は「そうなの」と私にはにかみ黄色い息をついた。久恵の話は途切れることなくつづき、私は久恵が入れてくれたお茶をすすりながらあいずちを打ち話を聞いた。
たった一日だけでは物足りないこの女性の嬉しそうに話す顔を記憶にとどめていられたら、どんなに素晴らしいことだろうか、昨日の私もこの女性の笑顔を見ることが出来たのだろう、とてもうらやましい。
眩しい太陽を背にして少女が私を覗き込む。
「芳次郎君?、大丈夫?」
私はうなずく、そのうちにその少女の手が伸びてくる。
私は手をとり起こしてもらう。
なんだか顔や体が痛い。
「悠太君達、最低ね」
私はその場を去ろうと歩く。
「芳次郎君ありがとう、助けてくれて」
立ち止まり、振り向く。
「昌子ちゃん、おれ・・・」
私は久恵よ、私の隣で座る昌子がそう言う。いや久恵だ。
「昌子って誰なの?」久恵は執拗に私に尋ねてくる、その語尾を微かに伸ばして、笑顔のまま。しかし私にはその声は届かない。その後を私はちゃんと言えたのだろうか?いくら思い出そうとしても、その欠片すら出てこない、忘れたくない思い出を忘れている事さえも忘れている。なんて虚しい、なんて切ないのだろうか。肩を震わせ体ごと大きなため息をした。
それを見て久恵は私の背中を摩ってくれた何十回か私を慰めてから久恵は帰っていった。雨はいまだに音を立て降りやむ気配すらない。私はこの大きな虚しさと取り残され二人でしばらく時間を過ごした。諦めがついたころ、私は眠ることにした。そして私は心の中で呟く、この悲しみが終わるのはいつなのだろう?明日目を覚ました時?久恵の笑顔を見た時?それとも?・・・
私はスーツを着て行った、スーツで町を歩くのなんかは初めてのことだ、通り過ぎる人間がみな見ているようで恥ずかしい。綺麗な白いユリが花屋に売っている。買っていこう。待合わせまではまだ少しある、先に行って待っていられるかな?・・・女性が僕に手を振っている。大振りにではなく、胸元で手の平が揺れている。早苗さんだ。
日が翳り始め町の明かりと夕日のオレンジが同じぐらいの色になった頃、僕らは二人きりで歩いた、雑踏を抜け、僕ら二人以外誰も知らない目的地へ足を向ける。僕が君に告げようとしている言葉が誰の耳にも聞こえない遥か遠くに向かって僕らは歩みを進める。だって、誰にも聞かせたくないから。これは君だけの言葉なんだ。だから他の何者でもないたった一人の女性にだけ聞こえてほしい。星が光り始めた頃僕らは砂と波の音とだけ残った海辺で立ち止まった。ここに来るまで僕は一言も口を開かなかったね。馴れ合いで型崩れした言葉にしたくなかったんだ。たった一度しか言わない事だから。
砂浜で君は「座ろうよ」と僕に言った。
僕はとても緊張してたんだ、返事が無いのは許してくれ。まだ地平線の中心がほのかに光っていて、一番大きな星がそこにあるようだ。僕はそれを見つめ何度も心の中で唱える。君をこの先一生制約し続ける言葉を。静寂が僕らの周りを流れ暗闇の中たった二人きりになった。君は落ち着いていたね。僕の右の肩に顔を乗せ気持ちよさそうにまるで寝ている猫のように息をしている。僕は言う事にした。「早苗、僕はこの世界の誰よりも君を愛しているよ、これからもずっと一緒に居てくれないか」在り来たりで当たり障りの無い言葉だったかもしれない。しかし、本当のことだから仕方ない。君はピクリともしないで一言、『はい』と柔らかい声を返してくれた。その後も帰るまで静寂が僕らの間にはあったね。でも微笑が止まらなかった二人とも。きっと言葉など幸せにはあまり必要ないんだろう。なあ早苗・・・・・
窓からの光が目を射す、朝か・・・目を開け起きようとするが体が言うことを利かない。
「早苗、早苗」
私は妻を呼ぶ。扉からは早苗が来て、ベッドから半分落ちた体を早苗は又ベッドに戻してくれた。
「だめですよ、おじいちゃん」
「お前は何を言っているんだ、早苗?」
「私は伊藤ですよ」
「お前は何を言っているんだ、いつから伊藤とやらの嫁になったんだ?」
っそうか・・・私はきづいた。
もうすでに幸せはここには無いのだ。きづかねば良かったこんなこと。大切な約束を忘れて昨日を過ごしたのか?明日を過ごすのか?耐えられない。意識せずとも歯を食いしばる。私の涙袋から絶えることなく涙が流れ顎の真ん中で滴る。体中の骨が小刻みに震えだし何だかとても寒い気がする。どうしろと?この先どう生きろというのだ?思うものも無く・・・。
すると、笑顔の女性が部屋に入ってきた。その顔は早苗に似ていた。しかし早苗では無いことは解っていた。とても優しく美しい・・・私はきづいた。幸せだったのだと。私たちは記憶には残っていなくとも彼女を見れば解る。早苗と私の面影が残った彼女がその証明なのだ。その笑顔を見ればきづいただろう昨日の私も、そして、きっと、きづくのだろうこの先の私も、ここまでの道のりは幸せであったのだと。