あなたの中に私はどれだけ残っていますか?
「──彩音、お母さんはどこに行ったんだい?」
まただ。
心の中でそう思いながらも、母から受けたアドバイス通りに、私は優しく答える。
「お母さんは買い物に行ってるよ。」
「あら、そうなのねー。」
そう言って新聞に視線を落とす祖母の姿を見ながら、私は小さくため息をついた。
私の祖母は認知症だ。テレビで話題になっている時期があったが、それが自分の身内に起こるなんて思ってもみなかった。
初めの内は、そこまで気にならなかったんだ。何だ、認知症ってこんな程度のものなのか。って勝手に自分で理解していた。少し前に質問してきた事を、30分おきぐらいに質問してくる。その事に対して、「さっきも聞いたでしょ!?」と怒ってはいけない。母は言った。だから、出来るだけ優しく、初めて聞かれたような顔をして、毎回答えていたことを今も覚えている。
私は、祖母と一緒に暮らしている訳ではない。しかし、それなりに交流はあった。
今でも覚えているのが、一緒にままごとをした事だ。食べる真似が上手な祖母に、私は楽しくて何度も何度も、ままごとで作った料理を渡していた。祖母の優しい表情が、優しい声が、私を包み込んでくれていた。
また、祖母と一緒に家族で出掛けた時。私は、中学生になっていただろうか?
車を降りて歩く時に、「手を繋いであげて?」と母に頼まれ、祖母と手を繋いだ。隣を歩く祖母は、前に一緒に歩いた時より小さくて、細くて、握っている手もしわしわで……少し切なくなったのを覚えている。
自分が成長したんだな……ではなく、祖母も歳をとったな……と思っていた。
***
そんな祖母はある日、施設に入ることになった。
私たちが知らない内に、認知症が進んでいたらしい。
私と母は何ヵ月かに一度ごとに、祖母に会いに行った。
初めに会いに行った時、祖母は私たちに声をかけられて
「迷惑をかけて悪いね。」と言った。
その事を何度も何度も繰り返していた。
次に会いに行った時、祖母は私たちに向けて
「ごめんね。分からないのよ。」と言った。
私たちの事を忘れてしまったようだった。
その次の時、祖母は歩くことをやめていた。車イスに乗り、体もほっそりとしていた。
誰かも分からない私たちに声をかけられて、祖母は困惑していた。
またその次の時の事、祖母は言葉を発することをやめていた。まるで赤ちゃんに戻ってしまったかのように、「あー、あー。」「うー、うー。」と声をもらすばかりだった。
そんな時から、私は祖母に会うことが怖くなっていた。私の知っている祖母がそこにはもう存在しないからだ。昔の優しい笑顔も、声も、言葉も……全てが祖母から消えていた。
それでも母は、祖母に会うたびにたくさんの言葉をかけていた。帰る時がくるまで、ずっと手を繋いで、優しく微笑みを浮かべて……。まるで子供に話しかけるかのようだった。
母は、苦しくないのだろうか……?そんな母の様子を見ながら、私はいつもそう考えていた。
自分を育ててくれて、誰よりも愛してくれていた人に忘れられる……どれだけの絶望なのだろうか?
もし、自分の母親に「誰ですか?」といった困惑の表情を浮かべられたとしたら……そう考えるだけで怖くて怖くて仕方がなかった。
それでも母は笑い続ける。自分の事なんてもう分かってもいないのに……そんな祖母に向かって、優しい優しい笑顔を浮かべる。
祖母は、そんな私たちと会うたびに何故か涙を流していた。これは私の都合の良い解釈かもしれないが、きっと何かを感じ取っているのだろう。思い出せないもどかしさと戦っているのだろう。
そんな時、私も母を見習って笑顔を浮かべる。すると祖母も、私に笑いかけてくれる。その笑顔は、昔と同じで優しくて……私の目に涙が滲んだ。
何を怖がっていたのだろうか。祖母は、ここに存在しているじゃないか。確かに、私たちの事は思い出せないし、言葉もうまく話すことは出来ないけど、祖母はここにいる。それでいいじゃないか。
昔から変わらない、優しい祖母の笑顔が私にそう思わせてくれた。
母と同じように、手を握ってみる。
……温かい。
ほっそりとはしているが、とても温かい。
私の大好きなおばあちゃんだ……。
***
「──お母さん。」
「何?」
施設を出たところで、母に話しかける。
「おばあちゃん、今日も泣いてたね。」
「本当に昔から泣き虫だもんね。」
「お母さんもその泣き虫を受け継いだんでしょ。」
母の目から溢れる涙を見ながら、私はそう言う。
「じゃあ、そのお母さんの泣き虫を引き継いだのは彩音だね。」
「あははっ!……本当にそうだね。」
そう言って、二人して涙を拭った。
「また会いに来ようね。」
「そうね。」
頭上に広がる空は、とても青く澄み渡っていた──。