5
家に帰るみちみち、ぼくはなにかが足りないような気がしてならなかった。ほかの連中は親といっしょにそれぞれの家へ帰って行った。だがうちの親は卒業式に来ていない。だからぼくは一人で帰るのが当然なのだ。そのはずだ。それなのに、ぼくの横をだれかが歩いていないことが不自然に感じられてならない。
その気持ちは、家のそばまで来たときにますます強くなった。うちのとなりの空地を目にした瞬間、なにか大切なものをなくしてしまったとでもいうような、痛みにも似たさびしさを感じたのだ。まるで朝にはちゃんと家が立っていた土地が一日にして更地になってしまったのを見たかのような気持ちだった。もちろんそんなはずはない。うちのとなりはむかしからずっと空地だったのだから。
ぼくはふらふらと自分の家に入った。ママはおらず、家の中はぼく一人きりだ。自分の部屋に荷物を置くと、ぼくはふすまをひらいてとなりの部屋に帰宅を告げる。
「ただいま……」
そして立ち尽くした。そこは無人の六畳間。なぜか部屋のまんなかに布団が敷いてあったり、壁に中学校の女子の制服がかけてあったりするが、住む者はいないはずの部屋である。
「なにをやってるんだ、ぼくは……」
だが、部屋を出てふすまを閉めようとして、ぼくはふと、その女子の制服に目をとめてしまった。だれかがなにか言っていたような記憶が、ちらりと頭のすみをかすめる。たしか、ぼくが自分のことを女の子だと思うことができればどうとか……。いつ、どこで、だれからそんな話を聞いたのかまるで思い出せないが、なにか大切なことだったような気がする。
気がつけば、ぼくは部屋の中に足を踏み入れていた。うわーなにをしようとしてるんだぼくは、よせばかやめろ、と心のなかでは盛大に悲鳴をあげながら、ぼくはまるでためらいのない動きでその制服に手をのばす。
五分後。
おそるおそるのぞきこんだ姿見のなかにいたのは、幸か不幸か絶世の美少女というわけではなかった。とはいえ、男か女かどっちだと聞かれれば、どうきびしく判定してみても女と言わざるをえない。はっきり言って不愉快だった。初めてはいたスカートなるものの心もとなさときたらなかったし、ブラウスとやらのボタンのつけかたが左右逆であるというささいなことすら気絶しそうに気持ちわるい。ぼくはむしゃくしゃにまかせて吐きすてる。
「こんなことをしてどうなるっていうんだ。もうやめるぞ。勝手に服かりてわるかったな、ユメ」
そしてぼくは、ブレザーを脱ごうとしていた手をとめた。息もとめた。ぼくはいまなんて言った?
だが考え込んでいるひまはなかった。ぼくの手を突然だれかがつかんで、下のほうにぐいと引っぱったのだ。たたらを踏んで踏みとどまり、そのだれかの手をつかみ返してとっさに引き上げようとしたぼくは、それが部屋のまんなかに敷かれたふとんの中から出ていることに気づく。なんだ、だれかと思ったらユメじゃないか。
「重いよ、ユメ!」
「失礼ね! いいからしっかり引っぱってよ、ユイ!」
むこうはふとんの中から叫び返し、ますます強く引っぱる。どう考えても女の子ひとりぶんの目方をはるかに超えた重さだ。ぼくは腰を落とし、やけっぱちぎみに「オーエス!」などと叫んで力のかぎり引いた。釣り合いがくずれた。勢いあまって後ろにころがったぼくの上に、ふとんからずるりと出てきたユメがこれまた勢いあまってのしかかる。ひじが腹にもろに入り、目の前が暗くなった。
どうにかまともに息ができるようになるまでどれぐらいかかっただろうか。ことによると二、三分はそのまま倒れていたかもしれない。
やがてユメがぼくの上から降りて、床にすわる。ぼくも起き上がって、顔を見合わせた。ぼくは言う。
「おはよう、ユメ」
ユメは答える。
「おはよう、ユイ」
パジャマ姿のユメは、すわったまま長々と背伸びをした。
「あー、よく寝た。ちょっと寝すぎたかな」
「十二年はちょっとじゃないだろ」
どっこいしょと立ち上がって、ユメはタンスをあける。ぼくはその背中に声をかけた。
「腹へってるんじゃないか? なにか食べる?」
「ううん、それより少し外を歩きたいな。いっしょに行かない?」
「いいよ。下で待ってる」
着替えをはじめたユメを置いて、ぼくは玄関に下りて行った。胸を満たすしみじみとした喜びのおかげか、あたりのものがみな色あざやかに目にうつった。なんだか世界がすっかり変わってしまったみたいだ、と思いながら靴をはいてドアをあける。そして息をのんだ。家の前の通りに一頭の大きな黒い馬がいたのだ。平凡な住宅地をぽっくぽっくと歩いてゆくそれを口をぽかんとあけて見送っていると、階段をおりてきたユメが笑い出した。
「あはは、やっぱりか」
ユメはサンダルをつっかけて、立ちつくすぼくのそばを通り抜けた。そのいでたちはジーンズにセーターというざっくりしたもの。ユメがいつ目覚めても困らないようにとママが用意してあった服だ。
「あの馬はナイトメアだよ。夢の世界に住んでる馬」
「なんでそんなものがここにいるんだ」
「それはね、夢の世界と現実の世界がぶつかってひとつになっちゃったから。ほんとは二つの世界を結びつけなおすだけのつもりだったんだけど、ユイが引っぱるのが思ったより強くて勢いあまっちゃったみたい」
「ぼくのせいかよ」
だがそのときぼくは大切なことに思い当たった。夢の世界と現実の世界がいっしょになったということは、彼女もこの世界のどこかにちゃんと存在しているはずだ。急いで玄関を出て、となりの空地を見る。
「あった……!」
そう、となりの空地は空地ではなく、一軒の屋敷が立っていた。見おぼえのあるツタの這うレンガ壁。佐久家だ。
ぼくは走りだした。門を出て道を駆け抜け佐久家の門をくぐり呼び鈴を鳴らそうとして、そこで玄関のドアが中からひらく。出てきたのはもちろん蓮美だ。別れてからまだ一時間とたっていないのに、ひどくなつかしい。ぼくは胸にこみあげる熱いものをこらえつつ歩み寄り、蓮美はというとぼくをひと目みて、
「ぷっ……あはははははははははは!」
ものすごいいきおいで笑い出した。大笑いするあまり立っていられなくなり、壁ぎわにずるずるとうずくまってしまう。何が起こったのかわからず呆然としていると、ユメが追いついてきて、蓮美の背中をさすりながらぼくを指さして言った。
「まあ、出会いがしらにこんなもの見せられたらねえ」
ぼくは自分のかっこうを見下ろして、キャーッとさけんだ。ユメの制服を着たままだった。
「いつまでへこんでるのよ、ユイ」
肩をおとしてとぼとぼ歩くぼくに、先をゆくユメが振り返って声をかけた。ぼくは地の底にしずみそうな気分だ。なお、当然ながらあのあとすぐ自宅に飛んで帰ってまともな服装に着替えてある。
「あんなはずかしい姿で表を出歩いてしまった……。もうおムコに行けない……」
ぼくがそうこぼすと、ユメは無情なことを言った。
「だったらもういっそおヨメにいっちゃえば」
「だいじょうぶだよ、わたしがもらってあげるから」
ぼくのとなりから蓮美が口を出したが、いったいおムコとおヨメのどちらをもらうつもりなのだろう。怖いのであえて追及しないことにした。
世界のありさまはだいぶ変わってしまっているようだった。
歩いていくうちに一度、いきなり足元の地面の感覚がなくなって、そばにいたユメにしがみついてしまったことがあった。すぐになおったけれど、心臓はバクバク言っていた。どうしたのかとユメが聞くので説明したところ、こともなげに「ああ、落ちる夢を見たんだね」とのたもうた。
ほかにも往来で金縛りに遭って動けなくなっている人を介抱すること一度、突然蓮美が「ユイくんは見ちゃだめ!」と叫んでぼくに目隠しをすること三度。目隠しのほうではいったいどんな光景がひろがっていたのかわからないが、蓮美は顔を真っ赤にして「ユイくんにはまだ早いから」と弁解し、ユメは「あんまり過保護にするのもどうかと思うよ」などと言って肩をすくめていた。
ぼくたちのそばに一台の自動車が停まったのは、そんな珍道中の途上、学校の近くを通りかかったときだった。運転席から下りてきたのは、さっき別れたばかりのクラスの担任の教師である。
「おう、関口兄妹に佐久もいるのか。ちょうどよかった。さっき回収した卒業アルバムなんだが、よく確認してみたらなんともなかったから、いまみんなに配ってまわってたんだ。すまんな、不手際で」
担任はぼくたち三人にアルバムを一冊ずつ渡すと、車に乗って走り去った。ぼくたちは道ばたでさっそく開いて眺めてみた。
「やったあ、ユイくんとわたしのツーショットがあるよ」
「あたしや蓮美の写真も載ってるんだ。夢のなかで撮ったやつかな。それはそうと、ユイの将来の夢って結局なんだったの?」
言うが早いかページを繰りはじめるユメ。その瞬間ぼくは作文の内容を思い出した。ちょっとはずかしいのでユメからアルバムを奪って逃げようかと思ったが、そんなことをしたらよけいはずかしいという結論に達したので我慢する。ユメはめざすページにつくとだまって目をとおし、やがて顔をあげた。まばゆい笑顔だった。
「夢がかなったね」とユメは言った。
2015年12月1日の活動報告にて、本文中に用いた空白についての技術的な解説をしております。興味のあるかたはごらんください。下記にURLを掲載します。
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