3
まず というのが何なのか説明するね。
人が眠っているとき、その人のたましいはこの現実の世界をはなれて別の世界を訪れる。現実とはちがう世界だから、そこでは現実の世界のきまりは通用しない。どんなことだって起こる。その世界のことを の世界と呼び、そこで見聞きするものごとを と呼んでいるの。
ユイくんは、なにかつらいこととかむしゃくしゃすることがあったとき、一晩寝たら気分が落ち着いたっていう経験はない? あれはね、眠っているあいだに の世界にそういうつらいことやむしゃくしゃしたことを捨てているからなんだよ。人間はずっとむかしからそうやって現実と の世界を行ったり来たりしながら暮らしてきたの。でも、それももうおしまい。
現実の世界から捨てられるものがあまりに多すぎて、 の世界が沈みはじめたんだ。 の世界はどんどん遠ざかっていて、いまではもうだれも の世界に行くことはできない。
それだけじゃない。いままでこちらの世界のいたるところにあった についてのものごとは、みんな の世界に引きずられて、いっしょに沈んでいってしまった。それどころか、ただ という字が名前のなかにはいっているだけのものまでもこちらの世界から消えてしまった。
たとえばこの世界には、 窓疎石も 野久作も竹久 二も徳川 声も 路いとしも 枕獏も平野歩 もいない。
カムトゥルーや黒 も結成されていない。
ウィリアム・シェークスピアは『真夏の夜の 』を書かなかった。曹雪芹は『紅楼 』を書かなかった。スティーブン・フォスターは『 路より』を作曲しなかった。ガブリエル・フォーレは『 のあとに』を作曲しなかった。夏目漱石は『 十夜』を書かなかった。シオドア・スタージョンは『 みる宝石』を書かなかった。キング牧師は『アイ・ハブ・ア・ 』スピーチを行わなかった。フィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の を見るか?』を書かなかった。井上陽水は『 の中へ』を作詞作曲しなかった。相川七瀬は『 見る少女じゃいられない』を歌わなかった。宮部みゆきは『 バスター』を書かなかった。
『小倉百人一首』は、十八番の「すみのゑの岸による波よるさへや のかよひぢ人目よくらむ」と六十七番の「春の夜の ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそをしけれ」が欠番になっている。
『源氏物語』は『 浮橋』が欠巻になっている。
劇場版の『ドラえもん』のうち『のび太と 幻三剣士』は製作されていない。
任天堂の『ゼルダの伝説』シリーズも『 をみる島』と『 幻の砂時計』が製作されていない。
NHKは『 であいましょう』を放送しなかった。
すかいらーくは 庵を出店しなかった。
セガは キャストを開発しなかった。
邯鄲の の故事も南柯の の故事も伝えられていない。
法隆寺に 殿はない。
ジャンボ宝くじは一度も発売されていない。
『ほしの 』や『 ぴりか』などという品種の米は作られていない。
いろは歌は存在しない。「あさき みしゑひもせず」というフレーズが入っているから。
旧約聖書の『ダニエル記』は分量が半減している。なぜなら 占いのエピソードが存在しないから。
古典落語の『天狗裁き』は存在しない。なぜなら オチの話だから。
『東方Project』は製作されていない。なぜなら主人公の名前に という字が入っているから。
そして、 ちゃんもこの世界のどこにもいない。
* * *
「誰がいないって?」
ぼくはおもわず口をはさんでいた。蓮美は静かな表情でぼくを見つめ返してきた。それは無表情ではない。いろいろな感情がせめぎあって、顔がどの感情も表さない地点でつりあってしまっているのだ。その証拠に、声はかすかにふるえていた。
「関口 。ユイくんの双子の妹。そしてわたしのいちばんの親友」
そんなはずはない。ぼくは一人っ子で、兄弟姉妹がいたためしはない。それなのに、ぼくはなぜか蓮美の言っていることがほんとうなのだと感じていた。まちがいなくぼくにはそのなんとかという名前の妹がいる。絶対にそんなものはいたことがない。だが確かにいるのだ。
「ユイくんは知っているはず。あなたのお母さんの家系には、代々不思議な力をもった女の子が生まれるってことを。 ちゃんにもその力があった。ふつうの人は眠っているあいだだけしか の世界に来られないけれど、 ちゃんはその力のおかげで赤ちゃんのころからずっと の世界ですごしていた。おぼえていないだろうけれど、ユイくんは毎晩 のなかに ちゃんに会いに来てくれていたんだよ。でも、二つの世界は徐々に離れていった。そして ちゃんはそれをとどめようとした。 ちゃんの力は、ずっと の世界にいられるというもの。その力を世界全体に及ぼせば、現実の世界と の世界がいつまでもいっしょに在ることができるようになるはずなの。でも……」
蓮美の言葉はほとんど泣きさけぶようだった。
「でも、 ちゃんの力をもってしても不足だった! 二つの世界はもうまもなくすっかり離ればなれになってしまう。そして二度とまじわることはないでしょう。そうなる前にと、 ちゃんは最後の手を打った。ほんのわずかな時間だけだけれど、 の世界にいられる力を逆転させて、だれかを の世界からこちらの世界に送り込むことにしたの。こちらの世界の協力者に、 ちゃんと力を合わせて二つの世界をつなぎとめてくれるよう頼むために。わたしがこちらの世界に来ることになったのは、そういうわけ」
とらえどころのない話だったけれど、蓮美の真剣さに打たれて、ぼくは申し出ずにはいられなかった。
「ぼくも何か手伝えないかな? その協力者っていうのは、どこの誰なんだ? 力を貸してもらえるようにいっしょに頼みに行ってやるよ」
蓮美の笑顔のまばゆさは目もくらむばかりだった。
「ありがとう。あのね、ユイくん、その協力者はあなたなの」
「えっ?」
どういうことなのか聞き返そうとしたとき、一階からママの声がした。
「ユイちゃん、着替えまだ終わらないの? そろそろ出かけたほうがいいわよ」
「いけない、すっかり話し込んじゃった。話のつづきはまたあとでね。とりあえずこれとこれを着て」
ぼくはあわてて、蓮美の渡してくる服を言われるままに着込んだ。
学校までの道のりは、ママと蓮美と三人だった。ママと蓮美は和気藹々とおしゃべりしながら歩いていたが、ぼくはさきほどの蓮美の話で頭のなかがいっぱいで、そんなのんきな気分ではいられなかった。
「それじゃ、わたしはここで。蓮美ちゃん、ユイちゃんのことよろしくね」
「はい。お母さんもお仕事がんばってください」
学校の門のまえで、ママはぼくたちと別れて仕事に向かい、蓮美とぼくは学校に入った。いったい蓮美は学校に何の用があるのかと思って聞いてみると「わたしもこの学校の六年生で、ユイくんと同じクラスだもの」などという。まさかそんなはずはないとぼくは思ったのだが、いったいどういうからくりになっているのか、通りがかった友人連中も「今日も二人で登校かヒューヒュー」「卒業式も同伴出勤か。熱いねお二人さん」などというからかい文句を投げかけてくるのだった。
「あの、蓮美さん。学校のなかでは別行動しませんか」
あまりに居心地がわるいので、校舎に入ってすぐのところでぼくはそう切り出した。そして蓮美の顔色をうかがった。
「いや、いまのなし。取り消し」
蓮美が口をひらくまえに、ぼくはあわてて提案をひっこめた。あんな顔を見せられては、ほかにどんなことが言えようか。
さいわい蓮美はそのおもてに再びほほえみをともし、ぼくはほっと胸をなでおろした。