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朝起きて着替えをしたら、まずはとなりの部屋をのぞく。
「……なにしに来たんだっけ」
六畳の殺風景な部屋だ。部屋のまんなかに布団がひとくみ敷いてあるが、そこにはだれも寝ていない。ぼくのおぼえているかぎり、ここにだれかが寝ていたことはない。そのはずだ。
「寝ぼけたかな」
部屋の壁には、女物のブレザー一式がかけてあった。四月からぼくが通う中学校の制服だ。うちには女の子などいないのに、なぜこんなものがあるのかわからない。
ぼくはしばらく首をひねっていたが、やがてわれに返った。今日は卒業式なのだ。ぼんやりしていて遅刻でもしたら、かっこうがつかないことこのうえない。
気分を切り換えて一階に下りると、ママが朝食の支度をしていた。
「おはよう、ママ」
「おはよう、ユイちゃん」
毎朝のことだけれど、ぼくはしぶい顔になる。
「ちゃんづけはやめてくれっていつも言ってるだろ」
「あら、いいじゃない。ユイちゃんはわが家のかわいい一人むす……こですもの」
ぼくはふと疑問をおぼえた。
「一人息子だったっけ」
「あら。一人娘のほうがよかった?」
しまった、ヤブヘビ。ぼくはあわてて首をぶんぶんと振る。
「いえ、一人息子でお願いします」
「そうね。もうユイちゃんにも彼女がいるんだものね。ちゃんづけは似合わないかもしれないわね」
「えっ?」
聞き捨てならなかった。ぼくに何がいるって? だが、それを問いただすより早く玄関のチャイムが鳴り、ママはさらなる爆弾発言をくりだした。
「あら、うわさをすれば影ね。蓮美ちゃんが迎えに来ちゃったわよ。はやくごはん食べちゃいなさい」
「おはようございます、お母さん。おはよう、ユイくん」
「おはよう、蓮美ちゃん」
そいつはチャイムを鳴らしたあと、勝手に家に上がり、食堂にまで入ってきて、したしげに朝のあいさつをした。ママはにこやかにあいさつを返しているが、ぼくはそれどころではない。歳はぼくと同じぐらいだろうが、どこの神話から抜け出てきたのかと思うほどの美少女なのだ。悲しいことに、ぼくはこれまでの人生でこんな美人とお近づきになったことはないし、ましてや彼女だなんてあるはずがないのである。もしかしてドッキリカメラというやつか。
「ユイちゃん、蓮美ちゃんにあいさつは? なにをきょろきょろしているの」
「いや、どこにカメラを隠してあるのかと思って」
「なにを言っているの、この子は。まだ寝ぼけてるのかしら」
ママはその女に向かって笑いかけた。
「蓮美ちゃんは、朝ごはんは?」
「もう食べてきました。あ、お手伝いします」
「あら、わるいわね。それじゃ、そのお皿はこんでちょうだい」
かくして蓮美とかいう女の手でぼくの前に目玉焼きの皿が運ばれてきた。見れば見るほど美少女で、ぼくはわれ知らずかしこまってすわりなおしてしまう。自分の家だというのにものすごいよそゆきの気分になってきた。
皿に乗っているのが一流レストランのシェフの作品ではないことが申し訳なく思えるような優雅な動作で、その女はテーブルに皿を置き、そのときぼくの耳もとでささやいた。
「ユイくん、あとで部屋におじゃまさせてね」
「ほえっ?」
変な声をあげてしまうぼく。こんなうつくしい娘さんが男の部屋をたずねるなど、たずねるなど……と妄想を暴走させてかたまっていると、そいつはもうひとこと付け加えた。
「わたしが何者かっていう話はそのときに」
ぼくはおもわず振り返り、ぼくの耳もとに口を寄せていたその顔を見据えてしまう。ただでさえ可憐な顔が、至近距離でほほえんでいるものだから、目がつぶれるかとおもった。ママのおもしろがっている声が聞こえた。
「あらあら、朝っぱらから見つめ合っちゃって。お母さん妬けちゃうわ」
ぼくはあわてて朝食に向きなおり、大急ぎでトーストと目玉焼きを詰め込んだ。味などわかりはしなかった。
ぼくが朝食を食べ終えて部屋に戻ると、そいつはほんとうについてきた。
「今日は卒業式だものね。ユイくんもおめかししなきゃね」
見れば、この女も落ち着いた紺色の、よくわからないが高級そうな生地でできた上着とスカートを身につけている。ちょっとフォーマルでシックな感じで、ぼくと同じ年頃の女の子が着るには荷が重いようなしろものだが、ごく自然に着こなしていた。
「あ、ユイくん中学校の制服ができたんだ。着たところを見てみたいなあ」
「あ、あのさ、きみ」
「ん?」
人のうちのタンスをわがもの顔で物色しているその女に、ぼくはきびしい声をかけた……つもりだったが、実際にはいかにも腰がくだけていた。相手がふりむいてほほえみかけてくると、ぼくの勢いはますます失速した。
「えーと、それで、あなたはどなたなのでしょうか」
相手はタンスをあさるのをやめ、ぼくをまっすぐに見て答えた。
「わたしは佐久蓮美。おとなりに住んでいます」
ぼくは納得できなかった。
「いや、でも、佐久さん」
「だめ」
「え?」
「名前で呼んで。でないとキスしちゃうから」
言うが早いかほんのり頬をそめて顔を近づけてきやがった。ぼくはあわててのけぞりつつ大声を出した。
「わあ、待った。名前で呼ばせていただきます蓮美さん」
さいわい蓮美はおとなしく引き下がった。ぼくは仕切り直しをこころみる。
「となりに住んでるっていうけど、うちのとなりは空地だよ。家なんかない」
蓮美は軽い笑い声をもらすと、ぼくの手をとり、窓辺にいざなった。
「見てごらん。ね?」
それどころではなかった。たとえば去年の運動会でフォークダンスをやったときに男子と女子が手をつなぐ場面があって、そのときは一人のこらずドキドキだったのだが、蓮美にふれられるのはあんなのとは全然ちがっていた。いますぐつかまれた手をふりほどいて逃げ出したいという気持ちをどうにかこらえ、ぼくは嵐の海にうかぶ小舟のような足どりで窓にとりついた。蓮美はぼくの手をつかんだまま窓をあけ、身を乗り出した。
「ほら、あっちのほう」
あっちのほうとやらには蓮美の横顔があり、その向こうのものなんか目に入るわけがないと思ったが、いざそちらを向いてみるとぼくは一瞬蓮美のことを忘れてしまった。空地だったはずのその場所に、しゃれたレンガ造りの洋館が建っていたのだ。家も庭も手入れがゆきとどき、壁にはツタが這っていたりして、建売住宅街には似つかわしくない風情である。だが、くりかえすが、そこは空地だったはずなのだ。すくなくともきのうまでは。
「ええと、あれだ。秀吉の一夜城?」
ぼくのまぬけな感想に、蓮美はぷっと吹き出した。そしてにわかにまじめな表情になってうなずく。
「うん、それに近いかも」
「ウソだろ? 自分で言い出しておいて何だけど、あの壁のツタのぐあいとか、どう見ても新築じゃないぞ」
「うん。だって新築じゃないから」
混乱するぼくをまっすぐに見つめて、蓮美は言った。
「あの家は、わたしが の世界で住んでいた家を、ユイくんちのとなりの空地にそのまま持ってきたものなの」
「なんの世界だって?」
そのとき起こったことを説明するのは非常にむずかしい。
蓮美はごくふつうに話をしていたのに、どういうわけかその中の単語ひとつぶんだけがぼくには聞き取れなかった。声がかすれたとか、滑舌がわるかったとかではない。まわりからなにかの雑音が入ったわけでもない。音はちゃんとぼくの耳にとどいていた。それなのに、その音を頭のなかで言葉になおすことがぼくにはどうしてもできなかった。
「 の世界。よく聞いて。 よ」
蓮美はとてもていねいにくりかえしてくれたが、やっぱり聞き取れなかった。蓮美は攻め方を変えた。
「ユイくん、水をあたためると何になる?」
「湯」
「種をまくと出てくるのは?」
「芽」
「いまの二つをつづけて言ってみて」
「湯。芽」
「もっとはやくつづけて」
「……」
そこでぼくは言葉につまってしまった。ひとつひとつを言うことはできるのに、ふたつ続けて言うことがどうしてもできなかったのだ。ぼくはしばし口をぱくぱくさせたすえに、思わず声を荒らげた。
「なんなんだよ。なんで言葉が出ないんだよ!」
蓮美の顔からはいつのまにかほほえみが消えていた。かわりにそこにあるのははげしい決意。自分のなすべきことをなそうとする覚悟がありありとあらわれていた。
蓮美は口をひらく。
「まず というのが何なのか説明するね……」
2018年4月29日、「ほえっ!?」を「ほえっ?」に変更。詳しくは同日の活動報告をご参照ください。