幼馴染の願望
性描写などはありませんが、あまり良い関係を築いていないのでR15です。
以前投稿した短編「イケメンの苦悩」に出てくる幼馴染のお話ですが、前作と随分毛色が違います。前作を未読でも問題なく読んで頂けます。
いつだって一番近くにいる男の子がいた。
よく笑って、すぐ怒って、簡単に泣いて、他人の一言で一喜一憂するような、単純な男の子だった。世話の掛かるその子の面倒を見るのは私の役目だと思っていたし、それがさして苦でもなかった。無駄に容姿の良い子だから、あんまり構い過ぎると他の女の子の反感を買う羽目になっただろうけれど、その辺りも上手く距離を取っていたつもりだ。
たぶん、中学一年生になった頃。その子を見ていて私は、けして自分が幸せにはなれない人間なのだと察した。
「由香里さ、最近何か変わった事あった?」
今いる部屋の住人である男は、ニタニタと意地の悪そうな顔で私に笑いかける。七畳ほどのワンルームで、大学進学に合わせて引っ越して来たらしい。一階にはコンビニが入っており、最寄駅からも徒歩十分掛からない程度で便利だと言っていた。
「何かって?」
「最近、輪を掛けて詰まらなさそうな顔をしてるから」
彼はダークブラウンのラグの上に座る私の隣に腰を下ろし、テーブルの上に珈琲の入った二つのマグカップを置いた。彼の手が私の頬に伸びて、顔に掛かった髪を払う。
「………藤林さん、煙草臭い。禁煙中じゃなかったの?」
「禁煙中、禁煙中。でもほら、急に止めると却って身体に悪そうだろ」
「そんな話聞いた事無いけど」
煙草の香りはあちこちに染みつくから嫌いだ。一緒にいるだけなのに、私にまで臭いが付く。
「どうしても口が寂しくなるんだよな」
そう言ってずるずると止められない藤林さんは、どうしようもない。本人は二十歳になってから吸い始めたと言い張っているが、今年二十歳になったばかりなのにその板についた喫煙っぷりは、十代の頃から始めたものだろう、と疑っている。彼は平然と嘘を吐ける人間だから。
「それで、何かあったの?」
何か、あったと言えばあった。けれど私は、それを藤林さんに言うつもりはない。言えば、きっと彼は私を馬鹿にして笑うだろうから。だから、私は別に、と短く答える。藤林さんはさして興味も無さそうにふうん、と呟いた。
「今日、いつまでいるの?」
「邪魔ならすぐ帰るけど」
「そうは言ってないじゃん。帰るなら送るし」
藤林さんは、私の彼氏ではない。その癖時々そんな風に、気紛れな優しさを向けられると非常にむず痒かった。
「今日は優しいね」
「俺はいつでも優しいよ」
おどけたように彼が笑う。私はその言葉を素直に受け取れるほどもう子どもでも無かったし、冷静に受け流せるほど大人にもなれない。
「………藤林さんはさ、私とやりたいの?」
「何?やらせてくれんの?」
嬉しそう、というよりは面白そうに笑った藤林さんの煙草臭い手が、私の手首を取る。そのままラグの上に押し倒された。彼のネックレスが私の喉元に向かって垂れ下がり、茶色に染められた髪が流れる。
「抵抗しないの?」
「………別にやってもいいけど、その後私は病院で診断書貰って法的に訴えるから。藤林さん、ロリコンの性犯罪者になれるよ」
「こっわ」
素早く跳ね起きて、藤林さんは押し倒していた私から距離を取る。震える身体を宥めるように、わざとらしく自分の両腕をさする彼を眺め、起き上がった。テーブルの上に置かれていた珈琲はすでに少しぬるくなっている。十一月末になって本格的な冬を迎え、気温も随分下がったから冷めるのも早いのだろう。
藤林さんの淹れてくれた珈琲を飲んで、冷めてしまった事を残念に思っていれば、由香里、と聞き慣れた彼の声で名前を呼ばれた。
私の手からマグカップを奪い取って、藤林さんの唇が私のそれに触れた。
「何してんの」
「キス?」
「キスなら捕まらないとでも思ってるの?」
「思ってるけど」
藤林さんは軽く笑う。
「だって由香里、キスは好きでしょ」
そして私達は、もう一度キスをした。
藤林さんは私の通う高校の卒業生だった。一年生の時の文化祭に遊びに来ていて、友達の紹介で挨拶だけした。第一印象は女性慣れした軽そうな人。さして興味はなく、その存在すらすぐに忘れてしまっていた。
その後、再会したのは二年生の夏休みだった。夏休み中は塾の夏期講習に通っていた。夏期講習は朝からなので、塾が終わるのも普段より少し早い。ファーストフードで胃袋を満たし、まだ帰りたくないな、なんて駅前で甘えた事を考えながらぼうとしていたら、声を掛けられたのだ。
『暇なら俺とどっか行こうよ』
ナンパのつもりだったらしい。藤林さんも私が学祭のときに挨拶だけした人間だと気付いていなくて、向かい合ってようやくお互い同時に思い出した。
藤林さんは見た目に相応しく、中身も軽い人だった。まあいいや、と言って私の手を引き、カラオケに連れて行かれた。彼は時々私に歌えと言ってマイクを押し付けたものの、ほとんど一人で二時間も歌っていた。何がしたいのか全く分からなかったが、奢りだったのでまあ良いかと、特に抵抗もしなかった。
そろそろ補導される時間になって、潮時かと考えた私が帰ると言っても藤林さんは引きとめなかった。駅まで送ってくれて、親切なのか勝手なのかよく分からない人だと思った。
連絡先を教えてよ、と彼に言われて素直に従って連絡先を交換し、私のアドレス帳に藤林さんの名前が新しく増えた。
女子高生のアドレスゲットー、と言って喜ぶ彼を胡散臭いと思いながら眺めていれば、油断した所で突然キスをされた。
『変な男に付いて言っちゃダメじゃないか』
自分自身がその『変な男』でありながら、彼はまるで子どもを諭すように言った。しかし、浮かべるその表情は性格の悪そうな笑顔で。
結局私はもう一度キスをされて、どうでも良いか、と殴ろうと腕に込めていた力を緩めた。
それ以来私は、頻繁に藤林さんに会ってはキスをして、気付けば彼の部屋に遊びに行くのもそう珍しい事じゃなくなってしまっていた。止めるべきかもしれない、と思うもののずるずるとそんな関係を続けている。
「それ誰?」
エアコンの温度を低めに設定しているのか、藤林さんのワンルームはいつも少し肌寒くて、借りた薄手の毛布に包まっていた。彼は私からそれを剥ぎ取って後ろに回り、膝の間に私を座らせて二人纏めて毛布で包んでしまう。楽なので藤林さんにもたれかかると、彼は私のスマートフォンの画面を覗き込んでそう呟いた。
「幼馴染」
「え、ウケる。くっそイケメンじゃん。そいつ生きた人間?CGじゃなくて?」
「普通の高校生だから」
彼は肩を震わせて笑い声を漏らす。その気持ちも正直分からないでも無かった。幼馴染である相馬正太郎は冗談みたいに綺麗な顔をしていた。美術品みたいな、作りものめいた完璧な見た目。その中身はけして外見に比例しないけれど。
「俺こいつ街で見掛けたら記念撮影するわ。マジウケる」
笑い続ける藤林さんを無視して、私はスマートフォンを操作する。私のスマートフォンには商売用に正太郎の写メが大量に保存されていた。正太郎専用フォルダまで用意しているほどだ。それをさっさと消去する。
「あれ、消すの?」
「もう必要ないから。幼馴染のファンクラブへ販売用に撮ってたけど、最近こいつに彼女が出来てファンクラブも崩壊し掛かってるから、もう止める」
元々ファンクラブから身の安全を買う為に始めた商売だ。ファンクラブが崩壊した今、正太郎の写メを残し続けられるほど私のスマートフォンの容量は余っていない。
「ファンクラブ!え、そいつ由香里と同じ学校の制服着てるし、ただの高校生だよな?普通の高校生にそんなんあんの?」
そう言って藤林さんはまた笑った。残念ながら誰が始めたのか、気付いたときには現実にそんな冗談としか思えないものが出来あがっていた。
「でもさ、ファンクラブとかあるなら彼女作って大丈夫なの?芸能人とか見てるとそうは思えないけど」
「幼馴染曰く『俺の彼女最強』だって。物理的に」
「物理的って。何、その彼女は腕力で戦ってんの」
藤林さんは笑っているが、どうも実際に例の彼女は腕力で戦うと宣言しているらしい。見た目は普通の女の子だ。大人しくて真面目そうな印象の、可愛い女の子。いかにも正太郎が好きそうな子だと思った。
後ろから抱き締めるみたいに毛布ごと腕を回す藤林さんが、笑いを収めると私の頬へ自身の頬を寄せて来る。何だと思って振り返れば、相変わらず唐突にキスをされた。
「好きだったの?」
「何が?」
「その幼馴染のこと」
あまりにもリアリティの無いその言葉に、一瞬意味を理解出来なくて固まる。じわじわとその言葉の意味を理解すると、途端に鼻で笑いたくなった。
「まさか」
正太郎は確かに顔はいいかもしれないが、恋をするにはお互いの事をよく知り過ぎていた。幼稚園、小学校、中学校、果ては高校まで同じ所に通い、毎日のように顔を合わせ、単純で向う見ずな正太郎の世話をよく焼いた。精々友人や弟のようにしか思えない。
単純明快で少しばかり卑屈な性格、よく見ておかないと危なっかしくて仕方なかった。もっとも、その卑屈さは彼女と関わることで随分改善されたようにも思う。
「どうしてそんな事を思うの」
私の問い掛けに、藤林さんはまた笑う。最早見慣れた、あのニタニタとした意地が悪そうな顔で。まるで全て見透かしているようで、少しばかり腹が立った。
藤林さんは私の耳元に自身の唇を寄せ、触れるか触れないか曖昧な所で小さく囁いた。
「悲しそうだと思って」
からかうように彼が笑う。重ねられた唇に目を閉じて、私は完全に反論の機会を逸した。
相馬正太郎との付き合いは、十二年になる。幼稚園から始まって、そこから何だかんだとずっと一緒に育ってきた。母親同士の仲が良い事もあって、何かと一緒に遊ばされたものだ。
正太郎は好奇心旺盛で向う見ずな性格をしていたが、その割に小心者だった。だから、あまり活発では無かった私を置いて行くような事も出来ず、大人しく同じ場所で遊んでいた。喧嘩をする回数もけして少なくはなかったと思うけれど、喧嘩の空気に堪えられない正太郎がすぐに謝り、仲直りも早かった。
「由香里、由香里。女の子って何をもらったら喜ぶんだ?」
久しぶりに相馬家を訪れれば、恥じらいを含んだ顔で正太郎がそんな事を聞いて来る。貴様は初心な乙女か、と問い詰めたくなった。
彼女からすれば他の女が彼氏の家に入り浸るのは良い気がしないだろう、と最近はあまり立ち寄らないようにしていたのだが、今日はおばさんに用があって訪ね、勧められるままに夕飯をご馳走になった。
「彼女にクリスマスプレゼント?自分で考えなよ。他の女が選らんだもの貰って喜ぶ女がいる訳ない」
「そういうもんか?」
いまいちピンと来ていない様子の正太郎に溜息が出る。正太郎には過去三人の彼女がいたが、そのいずれも彼のファンからの嫌がらせによって自ら身を引き、どの子も一、二ヶ月で別れてしまっていた。男女の機微など何も学ぶ機会がなかったのだろう。
「じゃあ、せめて由香里が貰って嬉しかったものを参考に教えてくれ。彼氏に何かしら貰った事あるだろ?」
「だから彼氏じゃないって……」
以前、正太郎に藤林さんに家まで送って貰っている姿を見られた。運が悪い事に、その日はあの気紛れな藤林さんが手を繋いで来た日で、正太郎は完全にあの人を私の彼氏だと勘違いしていた。
「勘弁してよ。私を当てにすんな」
そう言えば、正太郎はぶつぶつと文句を言いながらも私に聞く事は諦めたようだ。
悩ましそうに眉を寄せているが、見ている限り本当に困り果てた様子はない。それどことか、どこか楽しそうですらあった。
「幸せそうだね」
「え!そう見える?」
うっぜえ、と思ったが口には出さなかった。おそらく、顔にも出さない事に成功できただろう。その証拠に、正太郎は何の文句も口にしない。もっとも、幸せすぎて幼馴染の機微など些事でしかないだけかもしれないが。
「人を好きになるって、こんなに幸せな事だったのかって、毎日のように実感してる」
頬を赤らめて、はにかむように笑う。よく見慣れた幼馴染の、見た事も無い幸せそうな表情だった。全身で喜びと彼女への愛情を示そうとしているような、そういう素直な顔。
私はそんな正太郎の顔を見て、酷く納得した。そう、そういえば彼はこういう人間だった。ずっと以前から私は、それを感じ取っていた。正太郎には、そういう顔が似合う。正太郎にはそういう、幸福が似合う。
私にも人並みの情があるので、正太郎の事は幸せであればいいと思う。しかし、昔からそう頭で言い聞かせても消えてくれない考えがあった。
―――――――妬ましい。
そんな自分を悟られたくもなくて、マフラーを巻いて荷物を持ち、さっさと相馬家を後にした。
藤林さんは週の半分を居酒屋でアルバイトしている。その更に半分は二十二時から始まるらしく、彼のバイトの日も私の塾が無い日は二十一時半までは藤林さんの部屋に居座っていた。
「今更俺が言うのもなんだけどさ、家帰んなくて大丈夫?」
「………迷惑なら来ないけど」
「すぐそういう事言うよね」
迷惑とは言ってないじゃん、と藤林さんが笑いながらキスをする。最近、キスをしてもあまり煙草の臭いを感じなくなっていた。禁煙を頑張っているのかもしれない。
彼が気にしているのは私の親だろうか。幸いな事に、私の両親は共働きで忙しく、たまに帰ってきても喧嘩に夢中で私の存在に気を配る余裕はない。いない事に気付いても、相馬家に行っていると思い込んでくれている事だろう。
テレビをつけて、藤林さんはさして面白くも無いバラエティ番組を見て笑う。隣でその横顔を眺めても、その笑顔が本物か偽物かなんてよく分からない。彼はいつもヘラヘラと笑っているから判断のしようがなかった。
正直に言って、藤林さんのそばは居心地が良かった。こちらの事は何も詮索せず、適当に甘やかしてただキスをして、時々抱き締められるだけ。
彼が私に向けるのは全て戯れだった。高校生をからかって遊びたいだけかもしれない。これだけ家に入り浸って、キスをして、その癖本気で押し倒しては来ないあたり、巧妙に危ない橋を避けているようにも思えた。けれどそのからかいが、私にとって随分都合がよかった。
だからこそもう、止めた方が良い事も分かっている。
「帰る」
「もう帰んの?」
「うん。もう来ないから」
テレビを観ながら話していた藤林さんが、ゆっくりとこちらを振り返る。笑うでもなく、静かな不思議そうな顔で口を開いた。
「何で?さっきのまだ気にしてんの?」
なんて事無いように藤林さんが言う。夏からこんな関係を始め、もう世間は十二月を迎えている。それだけの期間を一緒に過ごしても、藤林さんが何を考えているのかさっぱり分からなかった。正太郎の事は、どんなくだらない事でも分かるのに。
「だって、変でしょ?付き合っても無いのにキスなんかして」
「今更でしょ」
「笑わないで」
藤林さんが馬鹿にするように笑う。そんな態度に、不思議と腹は立たなかった。彼の手が私の腕を掴む。覗き込んでくる目が笑っているのか睨んでいるのかよく分からなくて、怯えるように心臓が跳ねた。
「由香里はさ、そういうところ憶病でずるいよね。怖くて話もせずに逃げるんだ」
「………逃げてないし」
苦し紛れにそう反論すれば、藤林さんはあっさりと手を離す。裏がありそうないつもの笑顔で私を突き放した。
「分かった。元気でね」
私はそれに答えず、顔を上げる事も出来ずに荷物を纏めて藤林さんの部屋を出た。マンションの中のエレベーターを使って地上におり、建物の外に出る。十二月の外は、まだ二十時半とはいえ、痛いほど冷え切っていた。住宅街を歩けば、道行く人は家に帰ろうとしているのか足早に歩く人ばかりで、散歩をしているような人は見掛けない。
そこで初めて私は藤林さんの家にマフラーを置いてきてしまった事に気付いたが、今は寒さなんてほとんど気にならなかった。
「ふっ……」
唇を噛む。噛んでも噛んでも堪えようがなくて、無我夢中で唇に歯を立てる。自分からもう行かないと言って置きながら、心のどこかでは引きとめてくれないかと期待していたのだ。これだから私は卑怯な馬鹿なのだ。
藤林さんのそばは、居心地が良かった。けれど、それが彼にとってはただの遊びなのかもしれないと思い続けながらそばにいられるほど、私は強くなれない。どういうつもりで家に上げるのか、なんて問い詰めて切り捨てられたらきっと堪えられない。
だから、藤林さんがこのあやふやな遊びに飽きる前に、離れていきたかった。私は捨てられたのではなくて、自分から離れたのだ。そうやって自分の中の自尊心と弱さを守る為に。
どうして私はこうなのだろう、と柄にもなく嘆きたい気分だった。私も、正太郎みたいに生きたかった。普通に出逢って、自然と好きになって、順当に告白をして、付き合って、手を繋いでキスをして。そんな風に、真っ当な恋愛をしたかった。
初めに中途半端に自分を安売りした私がいけないのだろう。ただ、私にだけ差し伸べられたあの手が、あまりにも魅力的だった。その癖、つまらないプライドだけは捨てられない。
「幸せになりたい」
そんな願望ごと、夜の闇に溶けてしまわないかと呟く。見上げた夜空は曇りなのか真っ暗で、とてもじゃないが私の我儘を聞き届けてくれそうな気配はない。
他人に飢えずに済む、幸せが欲しかった。当たり前に人を好きになって、当たり前に人に好きになって貰えるような、そういう当たり前でこれ以上なく難しい幸せが欲しかった。
けれど同時に、弱くて卑怯者の私がそんな幸福を手に入れられるはずがないとも思っている。私の手が届かない場所にあるからこそ、きっとそれを幸福と呼べるのだろう。
正太郎に初めての彼女が出来たのは、中学一年のときだった。彼のクラスメートの女の子だった。幸せそうに語る正太郎へ私が感じたのは、喜びでも祝福の感情でもなく、ただ羨望だった。彼は他人から愛されている。当たり前にそれを享受できる人間性を有し、真っ当な幸福に手を掛けていた。そんな彼を妬ましいとさえ思った。
正太郎は大事な幼馴染だった。姉弟みたいにずっと一緒に育ってきた。正太郎の事は何でもよく分かったし、正太郎も私の事をよく理解していた。
そんな正太郎の幸福さえ素直に喜ぶ事も出来ずに、私は嫉妬を抱いた。そのとき私は、けして自分が幸せにはなれない人間だと理解した。大事な人の幸せを願えない人間に、幸せになる資格なんてあるはずがない。
それでも、私だって幸せになりたかった。だけどいつだって、足掻き方さえ分からなかった。
終業式を迎えた。特に休日が被る事も無く、例年通り十二月二十四日が終業式となった。明日から冬休みが始まる事に加え、今日はクリスマスイヴだ。学校中が浮足立っている。
その中でも、顕著だったのは幼馴染の正太郎だった。登校時に後ろ姿を見付けたが、後ろ姿でも分かるほどそわそわしていた。彼女と過ごすクリスマスイヴも初めてなので、朝からはしゃいでいたのだろう。
そう言った中身を知ると、あの異常に整った容姿もさして魅力的に感じなくなるのだから不思議だ。
特に予定も無い私はゆっくりと荷物を纏め、帰り支度をする。部活もしていない私が次に登校するのは二週間後だ。忘れ物がないか念入りに確認し、マフラーを巻く。
藤林さんの家に忘れたマフラーは早々に諦め、あの後すぐに新しく購入した。以前持っていたものは紺のチェック柄だったので、今度はモスグリーンのチェックにした。図らずもクリスマスを意識したような色である事に購入してから気付き、少し後悔している。
部活がある生徒以外はホームルームが終わってすぐに下校していった為、校内に人は少ない。下駄箱で上靴からローファーに履き替え、校門に向かう。
斜め下方を見ながら歩いていた私は、ふっと顔を上げて血の気が引いた。
夜に会う事がほとんどだったから、正午過ぎに会う彼に少しの違和感を覚える。けれどそんなものは些細なものだ。彼がここにいるという事実自体が大きな問題なのだから。
「あ、お疲れ。高校生って何で制服にマフラーだけで平然と外歩けんの?絶対寒過ぎだろ。意味分からないんだけど」
吸っていた煙草を携帯灰皿に押し付けて、藤林さんが笑う。禁煙中だと言っていたのにちょっとだけと言って吸ってしまうから、いつまでも止められないのだ。
見慣れたコートを着て、藤林さんが笑う。髪の色も笑い方も何も変わっていない。けれど、その首には何故か私の忘れて行ったマフラーが巻かれていた。
藤林さんはまるでいつもと変わらなかった。マイペースで、ニタニタと笑って、私の手を勝手に引いて歩いて行く。風に乗って届く香りがすっかり煙草の臭いになっていた。どうやら禁煙には完全に失敗したらしい。
「藤林さん、何がしたいの?」
「別にー。講義も無くて、バイトは夜だし。暇だから?」
「何で来たの?」
「うちに来ないとは言ってたけど、会わないとは言ってなかったじゃん」
それはただの屁理屈だと思う。私の意図するところなんて全て分かっていただろうに。
どこへ向かっているのかも教えられず、藤林さんに手を引かれる。駅の方面だが、どこか目的地はあるのだろうか。
「由香里はさー」
私の手を引いて、前を歩く藤林さんがこちらを振り返る事無く口を開く。
「何が不満だったの?俺は結構楽しかったけど」
「…………別に、不満だった訳じゃ」
「じゃあ、何が辛かったの?」
その問い掛けには答えられなった。自分の内面なんか晒して、良い事なんてある訳ない。そんな事は、十年も生きた頃には十分に理解していた。
「………俺は、ずっと好きだった人に捨てられた」
初めて聞く話に、驚いて息を飲んだ。藤林さんのように飄々と掴めない人が、そもそも片想いをして捨てられたという事がいまいち想像出来ない。藤林さんは語りながらも歩みは止めなかった。
「年上で、憧れてて、その人が吸ってたから煙草にまで興味持って、気紛れに付き合ってもらえたと思ったら三ヶ月で別の男に乗り替えられた。そんでやけっぱちになってるときに、まるでこの世の不幸を全部背負ってるみたいな顔をした女子高生を見付けた。腹立ったなー、自分だけが不幸とでも言いたげな顔がさ。からかってやりたかったし、もっと傷付けてやりたいと思った」
俺ほんとゲス、と藤林さんは自分で自分を貶めて笑い声を漏らす。
「それでキスしても嫌がんないし、その割にやらせてはくれないし?どうしたものかと思ってたら、いつの間にかよく家に来るようになってて。依存されてるのかなって思ってたけど、そのくらい必要とされるのは何か、居心地が良くて」
そこで初めて、藤林さんは足を止めた。私を振り返って、身長差の分高い位置から私を見下ろす。チェックのマフラーが似合っていない事は無いけれど、普段の彼らしくないな、と思った。
「一緒にいてよ。じゃないと俺が寂しいじゃん」
どんな顔をしたらいいか、分からなかった。嬉しくて泣きそうな、だけど怖くて。藤林さんの言葉はあまりに私に都合がよくて、その分未来が見えない。目の前の希望に縋りついたら、それに裏切られたときの絶望は計り知れない事を知っている。
反射的に掴まれた腕を振り払おうとして、けれど藤林さんはその手を離してくれなかった。
「………っ私、勝手な人間なの。すぐ他人の事を羨んで妬むし」
「知ってるよ、そんなの。その癖自分からは動かないよね。そういうとこ卑怯だなって思う。すごい面倒くさい」
私の欠点を、何でもない事のように指摘する。それはあまりにも図星で、感情の高ぶりだけでなく羞恥心でも顔が熱くなる。分かっているなら期待を持たせるような事はしないでほしい。
「幸せになれない人間だし、幸せになんかしてあげられない」
思い浮かぶのは正太郎の顔だった。最近の彼はいつも幸せそうに笑う。それは大切な恋人と出会ったからで、彼女は共にいるだけで正太郎を幸せにしてあげられるのだ。それが人と人がかかわるときのあるべき姿だと思う。
「いいじゃん、別に。幸せになんかならなくて」
それなのに、藤林さんはあまりにも軽く私の不安を切り捨てる。
「俺と一緒に、二人で不幸になろうよ」
めちゃくちゃだと思った。私は不幸になんてなりたくない。幸せになれないと思いつつも、幸せになりたいという思いを捨て切れないから、こんなにも息苦しいのだ。
それなのに簡単にそんな事を言う。まるで全部全部見透かしたような顔で。
本当に悔しいと思う。藤林さんはいつものニタニタとした、意地の悪そうな顔をしている。この人は酷い人だ。不幸になろうなんて言うし、高校生にキスをして、私の欠点を平然と指摘する。その癖自分は何を考えているのか悟らせない顔ばかりして。
「だから由香里、俺と付き合って」
だけど、そう思っている癖に、二人でなら不幸になっても良いかな、なんて浅はかな考えで彼のキスを受け止める私は、きっとそれ以上にどうしようもない人間だった。
年末になっても、私は変わらず藤林さんの部屋に入り浸る。一人暮らしをしている藤林さんの実家は電車で二時間先にあるらしいが、年末年始も特に帰省する予定はないらしい。何故だろうと思えば、由香里が寂しがるじゃん、とからかうように笑われた。何だか腹が立ったので持っていた煙草を箱ごと没収すれば、半分以上残っていたのに、と残念そうに呟いて少し溜飲が下がった。
「俺達さ、付き合いだした訳じゃん?」
「それが?」
参考書を開いて勉強をしていれば、背中に藤林さんがへばり付いてくる。重くて邪魔だったが、温かかったので好きにさせておく。相変わらず藤林さんの部屋は少しばかり肌寒い。
「という事は、やらせてくれても良くない?」
ここで顔を赤く出来たり、何の事か分からなければ可愛い女の子を気取れたのかと思う。しかし、私は別に可愛い女の子ではないし、散々その手の話をしてきたので、藤林さんが何を言いたいのか分からないはずがない。
「青少年保護法に引っかかるんじゃない?」
「それいつも言うけどさあ、高校生と大学生で付き合ってる奴なんて腐るほどいるだろ?で、そいつらが全員清らかな関係築いてると思うか?断言してもいい。有り得ん」
それは私もそう思う。別に私はさして貞操観念が立派な方ではない。ただ、そんなあからさまに誘われて、それならしましょうか、と普通に答えられるほど経験を積んでいる訳でも無い。
もう少し頷きやすい誘い方をしてくれないものかと後ろを振り返れば、後ろにへばり付いていた藤林さんにキスをされた。突然キスをするのは、最早この人の癖なのかもしれない。
「まあいいや。じゃあ、その気になるまでキスしてみる?」
そう言って、見慣れた意地の悪そうな顔で藤林さんはもう一度キスをした。触れた唇からも髪からも、煙草の臭いがあまりしなくなっている。
私とキスをして煙草を吸う暇もないからかと、そんな甘ったるい理由を想像して、少しだけ声を上げて笑ってしまった。
読んで頂き、誠にありがとうございます。
拙いお話ですが、楽しんで頂ければ幸いです。