4
犬は人間の言語を喋らないというのがこの世界の常識だ。
私もその常識というものに則って、外出するときには言葉を発するという行為を極力差し控えるようにしている。
もし私とダグラスが会話をしている現場を他人に目撃されようものなら不時着したUFOから降りてきた地球外生命体よろしくろくでもない目に合わされることを重々に周知していた。
そして今日はとりわけ口を開く気にはなれなかった。ダグラスの豚の腸詰のような指から繰り出される不器用によって、首輪の絞めつけが必要以上に強力になってしまい息をするのにもひと苦労な状態だった。道々、何とかこの忌々しい喉への圧迫感を緩めようと試みたが無駄だった。いっそ首を吊らせて欲しい。
だが私とは対照的にその依頼人はその口を大いに活用する人物だった。
連れてこられたのはバスを乗り継いで三十分ほど移動したブルバーダ地区にある比較的新しい造りのアパートばかりが建ち並んだ通りだった。
待ち合わせ場所である、その一角の小さなコーヒーショップにやってくると、数少ないオープンテラスのテーブルについていた女を見つけてダグラスが声をかけた。
その女は色白で、ダグラス以上によく太っており、チョコレートのかかったドーナツをほお張っている最中だった。こちらに気づくと口のなかのものをそのままにして椅子から立ち上がった。それから食べかすをぼろぼろ吹き零しながら両腕を大きく開いた。
「まあまあダグよくきてくださいましたわ」
「ど、どうもミセス」
対応に困ったらしいダグラスは動きを止めて逡巡していたが、意を決すると彼女の抱擁を受け入れた。長々と抱きしめられる。
彼女はいい加減離れる様子もないらしく、ダグラスはそれをできるだけ紳士的にけれど力強くひっぺがした。
首輪さえなかったら、大笑いできる光景なのにと私は非常に残念に思った。
彼女は再びテーブルに着くなり、店内にいるウェイターを大声で呼び追加注文をし、やってきたバスケットに山盛りになったドーナツを次から次に蛙のように横に広がった口のなかへほうり込み始め、同時進行で身の回りで起きている誰と誰が不倫中で、別居中で、くだらないゴシップについて盛んに語りだした。
ここにくる途中までにダグラスから聞いていた彼女の経歴によれば二ヵ月前に交通事故で夫が他界し、軽度の鬱病を患ったことから例の集団治療講座に通い始めたのだそうだが、目の前の彼女はどう見ても活気と食欲に溢れており、もしかしたら過食症と躁病の誤診なのでと疑いたくなるほどだった。
私は椅子の上で俯せになり寝たふりをしながらおとなしく彼女の話に耳を傾けていたがいつまでたっても内容が身の回りの噂話から全く離れようとしないので苛々し始めていた。
勿論、息苦しさのせいでたいぶ気が短くなってもいたがそれにしても長々と喋る女であった。
ダグラスは勢いに押されて「はあ」とか「まあ」といったやる気のない相槌を打っているだけで一向に仕事の話を切り出す様子が見られない。
いい加減、痺れを切らした私は強硬手段に出ることにした。
テーブルに前足をつくと「ウォウ」と一声咆えてから、怒り任せにバスケットへと頭突きを食らわせてやった。それでなかに入っていたドーナツが勢いよくテーブルや地面へと散らばった。
「ヒューゴなんてことするんだ!」
ダグラスが立ち上がり叫び声を上げたが知ったことではない。
私は無視して目の前に飛んできたオールドファッションをひと齧りした。口の中に広がってきたのはしつこい油の味で、お世辞にも美味しいとはいえなかった。
「あらあら駄目じゃない。やんちゃさんなのねえ。お腹が空いたのかしら?」
「すいません。こいつには困ったもので」
慌ててダグラスがドーナツをバスケットに回収しながら謝る。
「気持ちはわかりますわ。私もマキャベリちゃんには手を焼いているんですよ」
「犬を飼ってらっしゃるんですか?」
「いいえ猫。雑種の黒猫。今日依頼したいのは他でもなくその件なの」
釣りは思っていたよりもうまくいったようだ。
やってきたウェイターにバスケットを下げさせるとベルトーチカはようやく仕事の話をし始めた。
「飼っているといっても今はもういないの」
「失踪ですか?」
「ええ可愛がっていた主人が亡くなった直後から」
「なるほど。その猫を探しだせばいいんですね?」
「お願いできるかしら」
成程、今回のいつものようにありきたりな迷い猫の捜索らしい。
「お安い御用ですよ。何か臭いがはっきりわかるものがあればね」
ダグラスに言われて、ベルトーチカはショルダーバックの中から腕時計の革紐のようなものを取り出した。
「お預かりします。これは首輪ですか」
ダグラスは受け取りと、それを私の鼻先に押しつけてくる。ひと嗅ぎしてから顔を逸らし、もう十分だという仕草をしてやる。私には本当にそれだけで十分だった。
「あの子がいなくなる直前にあの人の書斎で見つけたものなんです」
ダグラスは眉をひそめた。
「誰かの手で外されたということですか?」
「いいえ自分で外したんですわ」
「これを? すごく器用な猫ちゃんですな」
ダグラスが驚嘆の声をあげた。
確かにその通りだ。
先ほど嗅いだ首輪は、バックル部分が|尾錠止めといわれるタイプのものだが、これは輪を一旦締めつけ、針のような留め具を穴から出さなくては、外れないような構造になっている。
人間の幼児のなかには、これと同じ仕組みでできたベルトの構造が理解できず、親が手を貸さなければ外すことができずズボンを濡らしてしまう者もいる。まあIQを持つ私であればできなくもない芸当だが、ただの猫が意図して外せるとはとても思えない。
「恐ろしく器用で賢い子なの」
ベルト―チカが頷く。
「それではそのマキャベリを探してくればよろしいわけですね」
「ええ。でも他にもお願いしたいことがございます」
「何でしょう?」
ベルトーチカはそれこそが本当に依頼したいことであるというように、神妙な顔でこう言った。
「殺して欲しいの。どんな方法でも構わないからあの猫を」