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 物音がした。私は浅い眠りから目を覚まして、うっすらと目を開ける。

 靴音だ。

 この薄暗い事務所を出てすぐのところにある階段から響いてくる。そのよたよたとした不安定な歩調で誰なのかわかる。

 やれやれ奴が帰ってきてしまった。

 残念なことに安息の時間は終わってしまったらしい。

 私は前肢で上体を起こし背筋を伸ばし、それで意識がはっきりとしてくる。

 ビニール製のソファから降りてフローリングを歩くと、ドアの前に座った。

 

 暫くするとドアが乱暴に開かれて、予想通りの人物が現れる。

 紙袋を抱えた中性脂肪たっぷりの中年男。

 忌々しくも親愛なる我らが主人ことダグラス・ニコラオテスラである。


「おう?」


 彼はすぐ足元にいる私に気がつき、視線を落した。


「ヒューゴ、なにやってんだ?」

「やあおかえり」

「出迎えてくれるとは思ってもいなかったな」


 彼は毎日顔を合わせていなければ大声で咆えて助けを求めてしまいそうなくらい凶悪な面構えに不可解といった表情を浮かべた。


「勘違いするなダグラス。私は君に言ったんじゃない。その紙袋に言ったんだ」

 紙袋からはよく知っている美味しそうな匂いが漂ってきていた。


「相変わらず可愛くない奴だ」

 ダグラスは事情を察して、私から遠ざけるべくその紙袋を頭の上に掲げる。

「言っておくがこれは俺のものだ。おまえにはやらん」

「わかった、紙袋は好きにするといい。好きな雑誌を入れたり、膨らまして割ったりして堪能するといい。その代わり中身のほうは私にくれないか」

「断る。おまえには堪能し尽くしてボロボロになった紙袋をくれてやる」


 そう言うと彼は、私を避けてなかへと踏み込んでいく。

 フローリングをずかずかと渡り、書架のわきを抜けて、スチール製の事務机の正面へと回りこむ。

 机の上に並んでいる無数のウィスキーやスコッチなどの酒瓶を太い腕で無造作に押分けて、無理やり空けたスペースに紙袋を置いた。

 ダグラスがブラインドを開き、薄暗い部屋のなかに昼の光が差し込むと、ゴミが散乱して足の踏み場のない我らがD&H探偵事務所の実態が白日の下に去らされる。


「さて」

「食事にしよう」

 私は早速食事専用の受け皿を取りに向かった。

「待て待て待て」

「どうした?」

「ヒューゴ。言っておくがおまえの昼飯はグリーン・グリーン・ボーンだ」


 彼は、私がこの世で二番目に嫌いなものの名前を口にする。

 グリーン・グリーン・ボーン。

 その言葉を聞くだけで背筋が寒くなる。

 それは新発売の「安さと栄養のバランス」をセールスポイントにしたペット用加工調整食品。テレビでやっている商品宣伝に出演している同種のブルドックはあれを貪っていた

が、その顔は明らかにヘドロを食べているかのようにひどく歪んでいた(人間には表情の区別などつかないだろう)。あのCMを見ていると彼のプロ根性に私は涙してしまう。


「そんなものは猫の糞だ」

 私は吐き捨てるように言うと、ソファに上がって、クッションの下に埋もれている受け皿を咥える。

「文句言うなよ。今は収支が悪くてこれしか買えないんだ。そのうちカツオ・ジャーキーに格上げしてやるさ」


 ダグラスが「やれやれ」と言いながら床に置いたグリーン・グリーン・ボーンの緑色のパッケージに、私は咥えていた受け皿を振りかぶって一撃を食らわせる。


「カツオ・ジャーキーは鼠の糞だ」


 私の舌と胃袋はもう何日も前からまともなもので満たされていなかった。

 そして今、漂ってくる甘く香ばしい匂いに強く惹きつけられている。その匂いが何でありどこから漂ってくるのかちゃんとわかっている。例え重度の鼻炎になっていても嗅ぎ

分けられる自信があった。


「私は断固として紙袋のなかのヤキトリを要求する」

「駄目だ。こいつは俺の昼飯だ」ダグラスは机の紙袋を庇うように抱えた。

「半分でいいから寄越せ」

「卑しい犬め。一本だってやるもんか」 


 私が出したささやかな要求を飲もうともせずに。しっしっと短く太い足で蹴る真似をしてくる。

 果たして卑しいのはどちらだろうか。

 そもそもこの男は全くわかっていない。


「そんなことを言っていいのか?」

「あん?」

「まずその紙袋の中身を当ててみせよう」私は左の前肢で紙袋を指して言った。

「プラスチックのケースが四つだ。うち三つにはヤキトリ・イソジン亭のトリカワ二本、ハツ四本、タン四本、カシラ四本、レバー二本、さらにテバサキ二本入っている」

「くっ」


 ヤキトリの種類まで正確に当てられ、ダグラスは思わず顔を歪める。


「それ以外に雑誌が一冊と煙草が1カートン。雑誌はどうせ人間のメスの裸の載っているやつだろう」

「ふん、それがどうかした」ダグラスの表情に僅かに動揺が走ったのを見逃さない。

「それだけじゃない。安っぽい臭いのパルプ紙とは違う種類の紙もある。そいつの臭いには覚えがあるな。何故ならうちの契約書の用紙だからだ。そしてそれには嗅ぎ慣れない香水混じりの体臭とインクの臭いが付着している」


 つまりそれはこのD&H探偵事務所の契約書に誰かが触れたということ。依頼人(クライアント)になるためのサインをしたということに他ならない。

 ずばり指摘してやる。


「ダグラス、仕事の依頼があったんだろ? だったら私が必要になるのではないのか?」

「うう」


 ダグラスは呻きを漏らした。

 それから私と紙袋を交互に見つめるひたすら悩んだ挙句「……レバーをやる」。


「話にならんな」


 それから小一時間ほどの交渉を経て、私はレバー、タン、ハツ、カシラをそれぞれ二本づつとテバサキを一本せしめることに成功したのであった。

 ダグラスは渋い顔でぼやく。


「全く。ヤキトリ好きの犬なんて聞いたことねえぞ!」


 余計なお世話である。

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