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甘味処(スイーツ)男子

作者: のり

 四月。季節は既に春といえど、吹き抜ける風は冬の名残の冷たさを孕んでいる。

 はらはらと舞い落ちては地面に薄紅の絨毯を作り上げるのは、雪片にも似た桜の花弁。

「…綺麗だ…」

 吐息のような声に頷くと、少女は目の前の光景に見惚れる。一面に咲く桜の花は筆舌に尽くし難い程美しく、心を奪われてしまう。

 少女は隣に立つ青年を見上げた。その視線はてっきり花景色に注がれているものと思ったが、何故か少女のそれと絡み合う。

「…君が、綺麗だと言ったんだ」

 囁く声。それは甘い痺れにも似た感覚となって少女を包んだ。少女は躊躇いがちに男らしい大きな、けれど温かい手にそっと触れる。

 ざ、っと桜の花弁が突風に煽られ巻き上げられた。視界いっぱいに薄紅の花弁が降り注ぐ中、ゆっくりと二人の唇が重なる。

 ――少女の唇は、仄かに桜餅の味がした。


「ねえ、見て下さいませ青葉(あおば)様。…ほら」

 女学校の学友である花乃(はなの)が青葉の小袖を引いた。花乃の示す先には背の高い青年がいた。春景色の中、陸軍士官学校の制服を纏い背筋のすっと伸びた立ち姿は自然と人目を引く。

「あら? あの方は…」

 青葉は呟いて記憶を探る。それは女学校の帰り道、迎えの人力車を断り花乃と「甘味処 天銘庵」の暖簾をくぐろうとした矢先の事だ。

「そうですわ、やっぱりあの方ですわ!」

 うきうきとした声で花乃が頬を上気させる。青葉は思い出した。視線の先の青年は、花乃と訪れる店々で最近よく見掛ける人物だった。

 青葉と花乃は一年前、華族女学校に入学早々、お互い三度の食事より甘い物好きと判明して以来の親友だ。何かにつけ二人で街に出ては、おいしいと評判の店を巡っている。

「うふふ、あの方も凛々しいお姿の割に甘い物に目が無いとお見受け致しましたわ!」

 花乃がくすくすと小さな笑い声を上げる。青葉が再び青年に目を向けた時、店から女給が顔を出し「間もなく限定二十食『あいすくりんあんみつ』が終了となりまーす!」と大声で客を引いた。通りを歩く女性達の視線が集中する。慌てて花乃が青葉の手を引いた。

「いけない! 売り切れてしまいますわ!」

 今日の目的はあいすくりんあんみつだ。それを食べ逃しては意味が無い。二人は急いで店内へ入るとあいすくりんあんみつを頼んだ。

「それにしても素敵な方でしたわね」

 運ばれて来たあいすくりんあんみつを幸せそうに口に運びながら花乃が言う。実業家として成功した竹芝(たけしば)男爵家令嬢の花乃は、可憐な容貌に反し、なかなか活発な性格の少女だ。

「え、ええ。注目を浴びていたものね」

 大名家の分家筋であり、子爵の爵位を持つ坂之上(さかのうえ)家の令嬢である青葉は、花乃のストレートな物言いに僅かに戸惑いながらも頷いた。この一年で随分慣れたとはいえ、花乃の天真爛漫な言動には時々困る事もある。

「思わずわたくし、あの逞しい胸にそっと抱き寄せられる所を想像してしまいましてよ」

 青葉は危うく飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。その様子に「あらあら青葉様。お茶くらい落ち着いてお飲みにならないと」とからかいを含んだ猫撫声で花乃が笑う。

「…もうっ! 得意の恋愛妄想はよして!」

「だって妄想は恋愛の醍醐味ですもの」

 恋愛至上主義の花乃がしれっと言い返す。そんな花乃の口癖は「わたくしは生涯、自由恋愛に生きる女ですもの」だ。

 一方青葉は自由恋愛に憧れつつも、家の事を思えば花乃のようには振舞えないのだった。

「明後日は桃の節句ですもの、きっとお遣いにいらしているのよ」

 青葉はさり気なく話題を変えた。ふふっと花乃は愛らしい顔で笑う。

「菓子屋は女の集会所、ご苦労な事ですわ」

 青年が往来を歩く女達の注目を集めていた事を言っているのだ。

「見た目は男らしいのに実は甘い物好き。そういう意外性がある方がかえって女心をくすぐりますわ。けれど決まって見掛けるのは和の菓子処。西洋菓子は苦手なのでしょうか」

「餡子がお好きとか?」

「今度お見掛けしたらお声を掛けましょうか。丁度良いきっかけじゃありませんこと?」

 青葉はぎょっとして花乃を見た。

「うふふ、今時殿方からお声が掛かるのを待っている時代ではありませんわよ」

 魅惑的な笑みで片目をつむる花乃に、青葉は再び口直しのお茶でむせそうになる。花乃なら本気でやりかねない。青葉は目を白黒させながら曖昧な笑顔を返したのだった。


 それから二日後――

「車を停めて頂戴」

 青葉は築地にある和菓子屋「潮瀬」の前に居た。純和風な店構えの潮瀬で売られている桜餅は花乃一押しだ。青葉は桜餅といえば長命寺の「山本や」だと思っていたが、目新しい物好きの花乃は新しい店を開拓する事にも余念が無い。青葉は今日の桃の節句には、この潮瀬の桜餅を買い求める事に決めていた。

 店の前の道は菓子を求める客で混み合っており、人力車には少し離れた所で待つよう指示すると、青葉は店の暖簾をくぐろうとした。

「…失礼。君はこの潮瀬の客か」

 突然背後から声を掛けられ、振り返った青葉は思わず言葉を失う。

「俺は決して怪しい者ではない」

 凛とした眼差しで青葉を見るのは、件の和菓子屋で見掛ける青年であった。こんな偶然があるのだろうか、と青葉はどきどきしならがら青年に身体ごと向き直る。

「何かご用ですか?」

 湧き上がる好奇心と興奮を押さえつけながら子爵令嬢らしくしとやかに問う。間近で見る青年は本当に背が高く、陸軍士官学校の制服をスマートに着こなしていた。花乃ではないが、さぞや女性に人気があるだろう。凛とした涼やかな面、きりりとした口元、よく鍛えられた身体つき、どれをとっても目立つ事は間違いない。現に今も店の内外の女性客が、青年を熱い視線で見ていた。

「つかぬ事を聞くが、この店の桜餅の味を教えて欲しい」

「――はい?」

 青葉は間抜けな声をあげぽかんと青年を見上げる。冗談かと思ったが青年は真顔だった。

 何を言っているのだろう? 青葉は内心首を捻る。そんな事はわざわざ他人に聞かずとも自分で食べれば分かる話だ。青葉は怪訝な顔で青年を見た。しかしよく見るとその両耳が薄っすらと赤く染まっているのが目に入り、彼が多少の羞恥心を持って青葉にその質問をしているのだとわかった。

「…ええと。ご自分でお召し上がりには?」

 しごく当然の質問を返してみると、青年は少し困った風に視線を泳がせた。

「…それが出来れば、人様にこんな馬鹿げた質問などしないさ」

 小声で青年は制帽のつばをぐいっと下げた。

「何か理由がおありになるご様子ですが…」

「ああ…そうだな。…いや、すまない。先ずは名乗るのが先だったな」

 青年はあらたまった様子で言った。

「良ければその後時間を貰えると有り難い」

 僅かの逡巡の後、青葉は頷いた。

「ありがとう。…俺は佐武(さたけ)(りょう)(すけ)という」

 青年はそう名乗ると目元を緩めた。


 桜餅の包みを膝に乗せ、青葉は勧められるままに店先にある長椅子に腰掛けた。良祐が気を利かせ先に桜餅を買うよう配慮してくれたのだ。青葉があらためて名を名乗ると、良祐は少し驚いた顔をした。

「坂之上家といえば、坂之上子爵の」

「ええ、父をご存知なのですか?」

「いや、直接には」

 良祐が記憶を辿るように目を細める。

「俺の父は婿入りして佐武となったが元は(あり)()()の三男の生まれなんだ。その在伊江の家で一度子爵をお見掛けした。俺は佐武の人間なので挨拶は遠慮したがその節は失礼した」

 律儀に頭を下げられ、青葉は慌てた。

 在伊江家といえば公家の大臣家の家格であり、維新後には伯爵の爵位を賜った家柄だ。その在伊江家から婿を迎える事の出来る佐武家も、士族とはいえ元は高家の旗本の家柄だ。同じ武家出身であるが、大名家の分家である坂之上家よりも格は上なのだ。

「あの、それで佐武様は…」

「良祐で構わない」

 さらりと名前で呼ぶよう促され、青葉は戸惑う。初対面の異性を下の名前で呼ぶ事に青葉は慣れていなかった。

「よ、よろしいのですか、良祐様とお呼びしても…」

 ただ名前を口にするだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろうか。

「その方が俺としては気が楽なんだ」

 涼やかな笑顔でそう言われては、青葉が拒否するのもおかしな話だ。青葉はこくりと頷き、妙に火照る頬を持て余しながら言った。

「で、では私の事も青葉と呼んで下さい」

「わかった。…では青葉殿」

 早速良祐が名を呼ぶ。自分で提案しておきながら全く心の準備をしていなかった青葉は、一気に顔に血が昇って恥ずかしさの余り卒倒しそうになる。しかしそこは武家の娘、日頃から叩き込まれた平常心で何とか乗り切る。

「な、なんで、しょうか?」

 若干言葉に動揺が出てしまったが、良祐には気付かれなかったようだ。

「先程の件だが…」

 真顔で顔を覗き込まれ、青葉は焦った。

「あのっ、さっきは言いそびれてしまったのですが、私は潮瀬の桜餅を今日初めて買ったんです。だから味は…まだ……」

 申し訳なくて声が尻すぼみになっていく。

(何て役立たずなの、私!)

 青葉は自分が情けなかった。最初にそう断っていれば良祐もこんな手間取らずに済んだのだと思うと、申し訳なかった。

「…いや、済まない俺の早とちりだ。気が焦る余り相手の都合を考える事をおろそかにした。青葉殿は気にしないでくれ」

 深い溜息を吐き良祐が呟く。え、と青葉は驚いた。謝るべきは要領の悪い自分なのに。

「い、いえ、先にお伝えしなかった私が悪いんです。――でも今、この桜餅を私が頂けば良祐様に味をお伝えする事はできます」

 気付けばそんな提案を自分からしていた。

「…今、ここでか?」

「ええ、今 ここで…」

 良祐は軽く目を見開いて青葉を見た。何となくばつが悪かった。ここまで食い下がるのは見苦しかっただろうか。けれど今自分が桜餅を食べれば問題は解決するのだ。多少の恥はかき捨てと、青葉は良祐を見た。

「それで君が困った事にならないのなら…」

 戸惑う良祐に頷いてみせると、包みから一つ桜餅を手に取る。塩漬けにされた桜の葉で巻かれた薄紅色の生地の中には、艶やかなこし餡が覗いている。何気に良祐を見るとふっと優しげに目元が緩み、青葉はこのまま天へ舞い上がってしまいそうな心地になった。

「い、いただきます」

 食べている所を見られるのが何となく恥ずかしかった。けれど味を伝える為には照れている場合ではない。青葉は良祐の視線を意識の外へと追いやり桜餅を味わう事に集中した。

「…餡は甘過ぎず、桜の葉の塩気が絶妙ですね。生地もしっとりとして美味しいです」

 最後の一口を嚥下して、青葉は感想を述べた。確かに花乃お勧めの一品だけある。

「しっとり、か。もちもちとは違うのか?」

 妙に具体的に良祐が尋ねる。

「もちもち、とは違いますね。名前は餅ですが、本物の餅のように粘りけは無いです」

 青葉は包みを差し出し「召し上がりますか」と問う。しかし良祐は首を左右に振った。

「せっかくだが、俺は甘い物は苦手なんだ」

「ええっ!?」

 青葉は思わずのけぞった。まさかそんな言葉を聞くとは思わなかったのだ。

「ええと…、良祐様は甘い物が苦手なんですか? 私はてっきり和菓子屋の前で何度かお見掛けしたので、甘党の方かと――」

 あ、と思った時には遅かった。

「…そうか、見られていたんだな。男のクセに菓子屋など回って、と悪友達にも笑われている。気にする事は無い」

 心持ち頬を染め良祐がそっぽを向く。はあ、と返事に困り、青葉は間抜けな応えを返した。

「我ながら東京中、は大袈裟だが、有名処は勿論小さな店や口直しに菓子を出す料理屋に茶店、あちこちよく回ったもんだ」

 甘い物が苦手なのに何故和菓子屋を回るのだろうか、青葉がそう思ったのを察したのか、

「話せは多少長くなる。…いいのか、車を待たせているんだろう?」

と、良祐の視線が店の側を人待ち顔できょろきょろしている人力車の人足を示した。青葉はすっかり車を待たせていた事を失念していたが、人足は主の戻りが遅いのを心配して、店の前まで様子を見に来たようだった。「ああ、いけない!」と青葉は慌てて良祐に断りを入れ、人足の男に駆け寄った。

「ごめんなさい、もう少し帰るのが遅くなりそうだから、先に帰っていて頂戴」

 人足の男がちらちらと良祐に視線を向けながら頷くのを躊躇う。青葉は華族の令嬢だ。大事な主を街なかで見知らぬ男と二人きりにして帰る訳にはいかないようだ。どうしようかと青葉が頭を悩ませていると、背後に気配を感じ、振り向くと良祐が立っていた。

「随分引き止めてしまったようで申し訳ない。俺は佐武良祐という。ご令嬢は責任を持って後程屋敷までお送りするので、坂之上子爵と夫人にそう伝えてもらえるだろうか?」

 良祐の礼儀正しさに人足も恐縮し、わかりやした、と空の人力車を引いて屋敷へ戻る後姿を青葉は夢のような心地で見送った。これではまるで花乃の妄想そのままだ。青葉は思わず自分の頬をつねったのだった。


「それでどうなさいましたの?」

 爛々と輝く花乃の瞳に気圧されながら、青葉は微かに頬を染めた。

「べ、別に花乃さんが思うような事は何もないわ。――ただ」

 「ただ?」とにじり寄る花乃から視線を逸らすと、青葉は蚊の鳴くような声で呟いた。

「…もし良祐様の探している桜餅が見つかったら、ご連絡を差し上げます、と…」

「まあ! それでは是が非でもその桜餅を探し出さなくてはなりませんわね、青葉様!」

 両手をがしっと握られ、青葉はたじろぐ。

「青葉様ったら、まさに運命ですわ!」

 一人盛り上がる花乃を尻目に、青葉は昨日の良祐の話を思い返した。

 今年七十五になる良祐の父方の祖母菊枝(きくえ)は、年のせいか最近は食事も取らず寝込む事が多かった。良祐はそんな祖母に元気になって欲しくて、以前聞いた事のある祖母の思い出の桜餅を探していたのだ。しかしそれはどこの店の物なのか分からず、良祐の桜餅探しは難航状態だという。

(健気だわ、ご自身は甘い物が苦手なのに)

 気の毒と思いながらもつい青葉の頬は緩んでしまう。良祐も初めのうちは桜餅の味を確かめる為に自ら食していたが、十を数える頃には桜餅を見るのも苦痛になり、苦肉の策として店の客に声を掛ける事にしたのだという。

「わたしくも潮瀬へ行けばよかったわ。士族の殿方との運命の恋、ああ残念ですこと!」

 妄想全開の花乃に、クラスの女生徒達から訝しげな視線が向けられる。青葉はその冷たい視線に黙って耐えた。


 三月も残すは十日足らず。潮瀬で良祐に声を掛けられてから二週間余りが経っていた。固かった桜の蕾もほころび始め、春の訪れに胸が躍る季節がやって来た。

 青葉はとある茶店の前に居た。昨日花乃から「浅草にちょっと変わった桜餅がございますの。佐武様をお誘いしてみては?」と提案され、ついついその気になって良祐へ言伝を持たせたのが昨日の夕方。

 あれから青葉は花乃の強引な後押しも手伝い何度か良祐と文を交わしたり、時には放課後に二人で出掛ける事もあった。勿論名目は例の桜餅探しである。花乃は「色気がございませんこと」と呆れたが青葉は構わなかった。

「待たせたかな」

 そう言って現れたのは見慣れた士官学校の制服姿ではなく、羽織に着流しという普段着の良祐だった。制服姿しか見た事がなかった青葉は馬鹿みたいに良祐を見上げた。

「青葉殿?」

 名前を呼ばれようやく目の前の青年と良祐が一致し、慌てて青葉はお辞儀をした。

「こ、こんにちは。すみません、制服姿じゃなかったので、気付きませんでした」

 言い訳のように口にしながら、実は良祐の普段着姿に見惚れた事を必死に誤魔化す。

「ああ、今日は創立記念日で士官学校も休みだったんだ。たまの骨休みという所だ」

 普段着のせいなのか、どことなく口調もいつもより砕けて聞こえる。青葉は学校帰りなので、いつものように小袖に海老茶袴姿だ。

「お休みなのにご迷惑だったのでは?」

「いや、休みとはいえ特に予定も無かったし、悪友達と休日にまでつるむ気にならないさ」

 男同士とはそんなものなのか、と青葉は小首を傾げた。

「それよりもこうして君と桜餅を探しに出掛ける方がよっぽど有意義だ」

 青葉の体温が一気に上昇した。勿論良祐に他意は無いのだろうが、その言葉は十分に青葉を舞い上がらせるに足りた。

(ううっ、花乃さん、ありがとう!)

 心の中で花乃に手を合わせる青葉だった。

 早速二人は表の縁台に腰掛け、青葉は桜餅と茶を、良祐は薄茶を注文する。夫婦で営んでいるらしい茶屋はそこそこ流行っているようだ。狭い店内も客で埋まっていた。

「お待ちどう様」

 あら、と青葉は皿を目の高さに持ち上げた。

「どうした青葉殿?」

「あの、この桜餅、餡が。…見て下さい、普通桜餅は小豆のこし餡なんですけど…」

「うん? 確かに何だか餡が白いな」

 桜の葉の塩漬けと薄紅色の生地で筒状にくるまれた白い餡を、青葉と良祐は覗き込む。同じ方向から覗いたせいで、気付けば顔を寄せ合うような格好になっていた。

「…!」

 その距離の近さに思わず青葉が息を飲む。自分の顔のすぐ側に良祐の端正でいて涼やかな顔があった。どきどきとしながら見惚れていると、不意に良祐がこちらを向いた。

「…済まない。これでは食べられないな」

 不公平だ、と青葉は思った。自分一人が良祐の言動に一喜一憂している。憎らしい程何の動揺も見せない良祐の横顔から目を逸らし「いただきます」と楊枝で一口食べると、口の中に微かな味噌の風味が広がった。

「…味噌餡? 桜餅なのに珍しいですね」

「――味噌餡、とは?」

「白こし餡に味噌が入ってるんです」

 へえ、と良祐が感心したような声を漏らす。

「これなら珍しいので思い出に残っても…」

「いや、小豆の粒餡だと祖母は言っていた」

「小豆の粒餡…そう、ですか。お誘いしたのに無駄足を踏ませてしまいました」

 しゅんとして青葉が皿を置く。

「そんな事は無い。俺一人では手に入る情報も限られてくるし、第一また店の客におかしな質問をして、訝しがられるのも嫌だしな」

 真顔の良祐に吹き出しかける。青葉が居なければまだ客に声を掛けるつもりだったのか。

「…笑い事じゃないさ。この一件で俺は甘い物恐怖症になりそうだ」

「そ、それは災難でした…ぷっ」

「――いや、我慢しているつもりだろうが、思いっきり吹き出してるぞ、青葉殿」

 むくれた顔で良祐に指摘され、青葉は笑った。良祐もつられて白い歯をこぼして笑う。

「一緒に居てくれるのが青葉殿でよかった」

 良祐の言葉が青葉の胸に甘い衝撃を与えた。そんな事を言われては誤解してしまいそうになる。自分が良祐にとって特別な人間なのではないかと。けれど青葉はそんな甘い期待を心の奥底へ押しやる。良祐が自分を選ぶ筈など無い。いや万一そうだとしても、自分は…

(自由恋愛なんて……苦しいだけだわ…)

「ええっ、これが桜餅!?」

 物思いに青葉が笑顔を曇らせた時、すぐ隣の縁台から素っ頓狂な声がして青葉と良祐の意識がそちらへ向いた。見ると中年の夫婦が運ばれてきた桜餅をしげしげと見ながら店の女将と何やら揉めている。何事かと二人も顔を見合わせ、夫婦と女将の会話に耳を傾けた。

「――こんなん桜餅違うやろ」

「そんな事言われてもこれは桜餅ですけど」

「ちゃうちゃう! これは長命寺や。桜餅いうたらもっともちもちとした…」

 独特の方言は上方のものだ。しかし青葉と良祐をはっとさせたのは上方の方言ではなく、その会話の内容であった。

「「もちもち!!」」

 顔を見合わせ二人同時に叫んでいた。

「…な、何やねんあんたら?」

 中年夫婦が二人の声に驚いてこちらを見る。

「今の話、もう少し詳しく伺いたい!」

「是非是非、お聞かせ願いますわ!」

 青葉と良祐の二人掛りで詰め寄られ、中年夫婦は赤い敷布の掛けられた茶店の縁台で、たじろぐように二人を見上げたのだった。


 スッと障子が開いた。青葉が在伊江家の離れにある客間に通されてしばらくしての事だ。障子を開けて顔を覗かせたのは良祐だった。「おばあ様のご様子はどうでしたか?」

「その事で祖母が君に会いたいと言うんだ」

「…私に、ですか?」

 予想外の事に、祖母の部屋へ案内に立つ良祐の背中を追いながら青葉は緊張を覚えた。

「初めまして、坂之上青葉と申します」

 ひっそりとした八畳の和室で、祖母である菊枝を前に青葉が手をつく。その枕元には半分程になった桜餅があり、青葉の緊張が少しだけ解けた。菊枝は桜餅を食べたのだ。

「こんな見苦しい部屋へごめんなさいね」

 布団に上体を起こした格好で菊枝は言った。

「あの桜餅は青葉さんがご用意して下さったのですってね」

「良祐様が差配して下さったので、私は店から運んで来ただけです」

「いや、彼女が居てくれなければ、俺はとてもこの桜餅に辿り着けなかった」

 良祐の言葉に恐縮する青葉を、菊枝は微笑ましい様子で見ていた。

「ほほ、良祐さんが女性を連れて来る日が訪れるなんて、長生きはするものね」

 良祐が気まずげにごほん、と咳払いをした。

「実はあの桜餅はね、わたくしの思い出の菓子なの。この子の祖父、在伊江圭祐(けいすけ)と結婚前に桜を見に行った時の、素敵な思い出――」

 菊江の目が昔を懐かしむように細くなる。良祐が「茶を頼んでこよう」とそっと青葉に目配せすると、部屋から出て行く。

「在伊江とわたくしは十も歳が離れていてね。

亡くなった先の奥様との間には子供も居て。…親が勧める縁談だったから、最初はどうして自分がこんな子持ちのやもめ男の後妻になんか、とそりゃ思いましたよ」

 まるで少女のように思い出話をする菊枝に、青葉はじっと耳を傾けた。

「けれど何度か会ううちに在伊江の人となりに惹かれて。とうとう桜の花の季節に自分から嫁にして欲しいとせがんだのよ」

 そう言って菊枝はくすくすと笑った。皺の刻まれたその顔を、青葉は美しいと思った。姿かたちだけではない、心の中から溢れ出す輝きが菊枝を美しく見せているのだ。

「その時この桜餅を、三日夜の餅になぞらえて二人で食べたの。少女趣味でしょう?」

「いいえ、素敵な思い出ですね」

「…そうね、若かったもの。世界の全てが輝いていましたよ」

 そう言って菊枝は、ほうと溜息をついた。

「――今日は本当にありがとう。あなたにお会いできて、わたくしは嬉しかったわ」

 久し振りの来客に菊枝は少し疲れようだ。

「私もお話を伺えて、楽しかったです」

 深々と頭を下げ、青葉は部屋を後にした。


「祖母の思い出話は退屈じゃなかったか?」

 再び客間へ戻ると良祐が青葉に笑い掛けた。

「いいえ…おばあ様、お元気になられるといいですね」

 青葉の言葉に、ああ、と良祐は頷いた。

「あの桜餅を食べて祖母は急に気力を取り戻したみたいだ。これも青葉殿のお陰だ」

「そんな、私は何も――」

 青葉と良祐が思い出の桜餅を探し出せたのは本当に偶然だった。二日前、茶店で上方から上京したという夫婦に出会わなければ、今もまだ無駄な時間を過ごしていただろう。

「でもまさか、関西と関東で桜餅が違うお菓子を指しているとは思いませんでした」

「そうだな。祖父母は元々京都の人間だから、いくら東京中を探し回っても無駄な筈だ」

 夫婦によれば、関西では道明寺粉を蒸した餅のような生地で粒餡を包み、桜の葉の塩漬けを巻いた物を桜餅と呼ぶのだという。

関東(こちら)で言う『道明寺』という菓子が、関西では桜餅と呼ばれているんですね。逆にこちらの桜餅が関西では『長命寺』と呼ばれる別の菓子だなんて、意外でした」

「祖母からすれば、俺は『長命寺』を桜餅だと押し付けていた間抜けな孫だった訳だ」

 良祐が笑った。

「それにしても君には大きな借りができた」

 優しい笑顔に青葉は心臓が跳ねた。

「この礼は、俺に出来る事なら何でもする」

「どんな事…でも?」

 誠実な瞳が真っ直ぐに青葉を見ていた。

(…でも、それは例え良祐様でも無理だわ)

 青葉の心の中には確かな望みがあったが、それは決して叶えられない望みだった。だから無理に笑顔を作って強がりを口にした。

「…お礼など、いりません」

「そんな訳にもいかない」

 良祐が少し困った顔をしたので、青葉は取り繕うように言った。

「…それでは街でお会いしましたら、これまで通りに友達として…接して頂けますか?」

 言いながら青葉は泣きそうになった。そんなのは本心ではない、友達など嫌だ、そう心は叫ぶ。いつの間にか良祐は青葉にとって特別な存在になっていた。なのに自分から友達を願うなど心が千切れてしまいそうだった。

「――悪いが青葉殿、それは……出来ない」

 良祐がいつもより低い声でぼそりと言った。青葉は頭の後ろを殴られたような心地がした。

「そ、そう…ですよね、私何を言ってるんだろう…、良祐様には迷惑、ですよね…?」

 良祐の口から聞かされた否定の言葉に、青葉は血の気を無くした顔で、それでも必死に笑顔を取り繕おうとする。けれどどうしても上手く笑えない。少しでも力を抜くと目から涙が零れ落ちそうで、青葉は慌てて立ち上がろうとした。これ以上ここに居ては駄目だ、きっと泣いてしまうから――

「――そうじゃない。俺が言いたいのは…」

 良祐が困ったような、それでいて緊張したような複雑な表情になる。今にも客間から逃げ出そうとしていた青葉は、涙で滲み始めた視界で良祐を見た。良祐は参ったな、と小さく呟くと頭を掻く。そしてやおら胡坐をかいていた脚を正し、真っ直ぐに青葉を向いた。

「――青葉殿」

 凛とした声で名を呼ばれ、青葉も反射的に背筋を伸ばして良祐と向き合う。

「俺は君とは友として接する事は出来ない」

 青葉は再び絶望を味わった。そんなに何度も言わずとも、良祐が自分を友人として扱いたくない気持ちは分かるのに。

(酷い人…だけど――好き。良祐様が好き)

 そういう生真面目で真っ直ぐな所も、愛しかった。潤んだ瞳で青葉は良祐を見た。

「俺はきっと、街で君の姿を探してしまうと思う。もう桜餅を探して菓子屋へ行く必要は無いのに、今度は青葉殿を探す為に、俺は東京中の菓子屋を回ってしまいそうだ」

 信じられなかった。その言葉の意味を理解した時、青葉は思わず両手で顔を覆っていた。

「りょ、良祐、様…!」

 温かい涙が次々と頬を伝い落ちる。

「…君には迷惑かもしれないが、俺はどうやら友達では満足できそうにないらしい」

 顔を覆っている青葉の手に良祐の大きな手がそっと重ねられた。その手に促されるように青葉は顔を上げ良祐を見る。

「――いいえ、良祐様、喜んで…!」

 嬉しい筈なのに涙は止まるどころか益々目からあふれ、青葉と良祐の手を濡らした。

「…ああそうだ。次からは和菓子屋だけでなく、西洋菓子屋にも注意を払う必要があるな。何せ青葉殿は、洋の東西を問わず甘い物が好きみたいだからな。これは多少骨が折れる」

 良祐はそう言うと優しく青葉の涙を拭った。

 そんな青葉と良祐の二人に、在伊江家当主の母である菊枝の勧めで婚約の話が持ち上がるのは、まだ先の話―――


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[良い点] まとまっていて読みやすく、話もかわいらしかったです! [気になる点] 風景描写があると季節も感じられてなおいいのでは
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